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#28 / 巨匠なのに『わからない』と言えるかっこよさ
2026-07-10 12:19

#28 / 巨匠なのに『わからない』と言えるかっこよさ

建築学生だった17、8年前、菊竹清訓さんのレクチャーで聞いた一言。「わかった気にならないでください。僕だってまだわかってないんですから」。世界的な巨匠がなぜ「わからない」と言えたのか。三宅香帆さんの『考察する若者たち』を補助線に、わかった気になることの怖さと、「わかってない、だからわかろうとする」というスタンスについて話しました。

・菊竹清訓さんのレクチャーでの出来事
・「わからない」と言い切ることの凄さ
・考察文化と「わかった気になりたい」安心感
・わかった瞬間に扉が閉じ、成長が止まる
・正解がない時代の道しるべ
・「わからない」と言えて恥ずかしくない世の中へ

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サマリー

本番組では、建築家の菊竹清訓氏がレクチャー中に「僕だってまだわかってない」と語ったエピソードを軸に、「わかった気になること」の危険性と、「わからない」と認めることのかっこよさについて考察する。現代の考察文化やSNSでの比較が「わかった気になる」安心感を加速させる一方で、真の成長は「わからない」からこそ始まるというメッセージを伝える。

巨匠・菊竹清訓氏の「わからない」という言葉
こんにちは、マスコットです。
この番組、なまでけんちくは、建築を好きなまま生きていくためのヒントを探す番組です。
今日のテーマは、巨匠なのにわからないと言えるかっこよさについて話していきたいというふうに思います。
これはですね、17、8年前ぐらいに、僕が建築学生だった頃、建築家の方々っていうのはですね、よくレクチャーとかをされていて、それを聞きに行ったときの話です。
そのときは建築家の方、何名か確かいらっしゃったと思ったんですが、その中の一人として菊武清則さんという有名な、有名なというか巨匠ですね、建築家がいらっしゃいました。
スカイハウスという時代だったりとか、メタモリズムっていうような考え方とかをね、他の建築家の方と一緒に考えたりだとか、
本当に日本だけではなく海外とかの、世界中に見てもですね、有名な建築家の方ですね。建築学生とか絶対知ってるし、建築学生じゃなくて建築やってる人で、菊武さんの名前知らなかったらやばいというか、その人いないだろうというぐらい有名な建築家の方です。
で、現在はね、お亡くなりになられて、結構高齢だったとは思うんですけども、本当にそのお亡くなりになられる何年か前ですよね、数年前ぐらいのときのレクチャーで対談みたいなのをしてたときの話なんですが、
ある質疑応答になったときに、ある方というかどなたかわからないですが、質問をしていて、これってこういうことなんですよねみたいなことですかねとは聞いてないですけど、こういうことでしょうかみたいなことを聞いていて、そこに対して答えていた菊武さんの回答が、
わかった気にならないでください、僕だってまだわかってないんですよ、みたいなことを言ってたんですよね。これ聞いたときに痺れるというか、え?って思ったんですよね。まず、もうその時点でめちゃめちゃ巨匠なわけですよ。
世界的な建築家ですよね。その方が本当にすごいんですよ。菊武さんのところに出た建築家の方って本当に有名な方、特に伊藤豊さんとか他にも何名かいらっしゃいますけど、そういうような建築界の中に絶対いなきゃいけないみたいな人なのに、わかった気にならないでください。
まだ僕だってわかってないんですからっていうふうに言ってる、わからないということを言えるということのね、まずそこのかっこよさというよりも最初はもうなんか、え?わからないの?っていうことを思ったんですよね。
いやいや、あなたわからないって、あなたってちょっと失礼ですけど、菊武さんがわからないってありえなくないって。だってもう本当に90歳とか、多分80歳とかそんぐらいだと思うんですけど、巨匠の建築家の方がわからないの?っていう。
わからないことなんてないって勝手に思っちゃってたんですよね。もちろん世の中にいっぱいあるけど、その関係の質問って確かその菊武さんに関する質問なんでもちろん。だから絶対答えられるだろうみたいな内容だったと思うんですよ。
それなのに、わかった気にならないでください。僕だってわからないんですからって言える、わかってないの?っていう驚きと、あとちょっと時間経ってから今考えると、わからないっていうふうに言えることのかっこよさってすごいなっていうふうに思ったんですよね。
これなかなか巨匠でその年になってわからないっていうのって、僕だったら、僕は巨匠じゃないからわかんないけど、同じ立場だったとしたらそんなこと言えるのかなと思って。
考察文化と「わかった気になる」安心感
それを言えているこのすごさとかかっこよさを感じてて、それで今に戻るんですけども、最近ハマった三宅嘉穂さんの考察する若者たちの本を読んでて思うのが、今の若者たちっていうか、若者たちだけじゃないと思うんですが、考察の動画見たりとかそういう考察文化。
考察文化っていうのは作者とか作った人がどういうふうに考えたかっていうのを、答えのようなものを導いて、報酬を得ることで、普通に感情、面白いとか楽しいとかっていう以上に報酬を得たいみたいな感覚が答えをね、作者が考える答えのようなものを知ることによってわかったという気になって、
その報酬を得れるっていうことをしている人が多いよねっていう話を三宅さんはされていて、僕も本当にその通りだなって、僕自身そうなのでねっていうのは思っていて。
僕が思うに、わかった気になりたいっていうのは、ある種この安心感があるからだと思うんですよね。僕はわからないんだっていう状態って不安だから、それこそ知らないというふうに言えるっていう言えない恥ずかしさがあるし、だからこそわかった気になりたいみたいな感覚があると思っていて、それは本当に今の時代より加速していると思うんですよね。
SNSでより他の人と比較することが簡単にできるようになって、自分だけがわかってないとかっていうこともよりわかってしまうから、そういうこととかいろんなことがわかってるんだ、僕は、私はっていうふうに思いたいっていう感覚がかなり強いなと思うんですよね。
その中で、今の最初の話の菊滝さんの、わかってないっていう、巨匠なのにわかってないって言えることのかっこよさってすごいあると思っていて、僕はなんかもっと世の中でわかってないっていうことを言えるかっこよさっていうのを、僕が言ってもしょうがないんですけど、そういう人が言っていたからこそ、そういう思想、わかってないって別にいいじゃんっていうふうなことをみんなが思えたらなんかもっといいよくなるんで。
じゃないかなと思っていて。
「わからない」と認めることの価値と成長
その、要は考察する若者たちって考察と批評っていうところで対比されていて、考察はその一つの答えみたいなものを導くために考えていくっていうことを考察、その本の中ではそういうふうに考察っていうふうに言っているんですけども、批評っていうのは別にそんな作者の答えとかっていうのは関係なくて、自分が思う、これってこういうことなんじゃないのかなという推論っていうかな、そういうところを考えていくことなんですよね。
で、これは多分YouTubeでね、見た時に三宅さんが話してた話ですけども、別に考察するということを批判しているわけではなくて、そういうものもあっていいけども、批評するっていうこともっていう人ももっといてもいいって、なぜならその方が多様性があるからと。
で、多様性はあった方がいいっていう話をされていて、僕もまさに本当に多様性があった方がいいと思うからっていうのもあるし、あと分かったっていうふうに思うことによってもうそれ以上は考えなくなってしまうっていうのもあるなというふうに思うんですよね。
分かったって瞬間に閉じちゃうんですよね、その門というか扉みたいなのが閉じちゃうから、そこで何かを得ようとするっていうことはもうそれ以降しないから、その瞬間に成長が止まってしまうみたいなこともあるなというふうに思うんですよね。
僕自身も本当にすぐに不安だし、多分不安だからだと思うんですけど、安心感を得たいから分かったっていうふうに思いたいっていうのがあって、それこそやっぱり今ってすごく選択肢が多いし、何が答えかわけわからんみたいなことだと思うんですよね。
自己啓発音とかもたくさん出ていて、こっちも正解だと言わればその真逆のことも正解だっていう人もいて、何が正解なのかわかんないよっていうふうな感じで選択肢が増えたと思うんですよ。
で、その中でやっぱり道しるべみたいものがないから、だから分かったっていう道しるべみたいなのが必要なのかなというふうに思っていて、不安だから。
だからみんな分かった気になりたいっていうふうに思うんだけど、本当は分かってないじゃないですか。僕も分かんないことの方が多いというか、分かってることなんてほぼないんですよね、分かってることなんて。
「わからない」から「わかろうとする」姿勢
だから分かってないよって。僕分かってないから、だから大事なのは分かってないよって言ってるだけじゃ僕も良くないとは思っていて。
分かってないよっていうところから、だから勉強したりとか本読んだりとかですね、動画でもいいですけど自分に合ったやり方で勉強していったりとかっていうことが必要。
だけどどれだけ勉強しても分かったとは多分ならないんですよ。で、そういう状態ってでも僕はいいじゃんって思うし、むしろ分かってないんですっていうふうに言えてることって、
僕はその、最初の例で言うと虚象なのに分かってないっていうのがあるから、それを言えるっていうことのかっこよさがあって、別に何者でもない僕みたいな人が分かってないんですって言っても決してかっこよくはないけれども、
だけど、でもなんか分かってないんですっていうのがいいじゃんっていうか、分かってるっていうふうに思い込んでる人よりも分かってないっていうふうに言えてる人の方が僕はかっこいいと思うんですよね。
だからそういう文化までいかないけど、そういう思想みたいな考え方がもっと世の中に広がったりとか、そこまでのことは僕はできるわけじゃないけれども、
でもなんかそう思うことって結構僕は大事だと思うんですよね。分かってない、だから分かろうとするっていうことですよね。やっぱりそこでこう分かったんだって言ったらもうそこでおしまいになっちゃうっていうのがあるし、
それがまさにこの考察というところまで行くかもしれないけれども、それもあってないと思いますよね正直ね、考察だって。作者は別にそんなことないですみたいなことがよく多いんで。
でもまあいいんですよね。あってるかあってないか分かんないけど、これが正解だろうって思う安心感を得たいだけだから、だから作者の考え方って実はどうでもいいというか何でもいいんですけどねきっと。
だからね、そんなことをね、昔の巨匠のね、原築家の菊竹さんのレクチャーでそういう話してたなということを思い出して、今のこの考察する若者たちという世の中の流れから考えたときに、
分かるという安心感があるけれども、でもそこにこう分かった気になるっていうことのこの怖さっていうか、良くない部分が僕はたくさんあると思うので、
僕自身は分からないよっていうスタンスだから探しに行ってるんですっていうので、活動今やってることもその一つだと思うというか一つなんで、そういうことが世の中に広がっていったりとか、
でも分かんないよって言えること?言えるような世の中に、世の中って大きいけど、分かんないよって言えて、それでそれが恥ずかしくないっていう風になれば僕はいいなと思うし、
なんかね、そういうことを思ったよっていう話ですね。
「わからない」と言えることの現代的意義
というか多分分かっている人なんてほぼいないんですよ。専門家だとしても分からないこともあるわけだし。
なのでね、そういうことを言えるっていう、まあ巨匠なのにそういうことを言えるっていうのはかっこいいし、そこからの学びっていうのは現代において結構あるんじゃないかなということで、
建築の話から今の現代に対してこういう風に思うし、そういうようなことを言える方が楽に生きれるんじゃないかなと思うので、
ぜひそういうことを、ぜひというかそういうことを僕は考えたので、何か意味が誰かにあったらいいなと思うんですけども、そういう話でした。
エンディング
最後まで聞いてくださりありがとうございました。失礼します。
12:19

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