で、向こうは満島に来て、そうして祝っていたけど、そうしたら、今日はおしゃれに行かないと言うから、こんなことを困るなんじゃないですかと。
で、私は行って、実はこうして終戦になったという放送は聞かないことはなかったけど、信じていないから、こういうわけで飛行機を3機取りに3人で行くようにしてある。だから、石岡の駅で降ろしてほしい。
そうしたら、「うん、わかった。」と言うわけで納得して。それで行って、石岡で止めてもらった。わざわざ電車4車、部隊が乗っておったけど。
そういうことで電話してトラックに来てもらって、それから飛行機を利用する。その日は土曜日だった。そしたら、なんと、町の彼女が面会に来た。
夜はどうなったかわからないけど、明るい日になって、整備員が、「地区から手の高い部屋にいらないの?」と言った。私と同年兵で、石岡の町から来た。
それが整備員がやってくれた。町の外れの方で、「よし、乗れ。」と言って、乗っけて行って、ぐるぐる回った。
そうしたら、「あの家だな。」と言われた。3階にあった。電車をいっぱい積んで、私の後ろに整備員が乗っていた。
みさおの方に帰ると、「一番機に乗るんじゃないか。」と言った。何も言わなかった。以前は一番機、二番機、三番機とあった。今は逆だ。
私はその前に、百里から松島の大舌氷海で爆弾が飛んで回ったりしていた。10時から11時くらいになったら、海水が動く。
そうしたら渦が巻いて霧が出る。霧が出たら雲になる。そういうのをずいぶん何回も体験しているから、そこに行ったら雲が出るかもわからない。
そうしたら、その時には私が一番機に行って、途中で交代するよ。今と違ってマイクじゃないから。そこまで行ったんだけど。上に上がって松島まで行ったら案の定雲が来る。
いや、これはいけないな。私は前に出て、雲があるから一番機に行くから出たら向こう側に出てきて、そのうちに雲の中に入ってしまった。
私はもうその当時は定期飛行を訓練をやっていたからね。だから、こうやって雲から出て、しばらくしたら見えない。相手の2機が。
あら、どうしたかな。大丈夫かな。後戻りしたかもわからないから、松島の飛行場の上まで後戻りして確認した。おらない。おかしいな。
で、また全速でしばらく飛んで、そしたら前にもおらない。何回もやっているわけにはいかないから、よし、帰ろう。帰りに今と違って以前はメーターだった。100メーター単位の高さだった。
ということで、私は100メーターでちゃんと海岸を飛んでいるのに、整備員が、「高度がゼロです、ゼロです。」って後ろから大きい声で言ったけどね、「大丈夫だ。ちゃんと見ながら飛んでいるから、そして最後だから。」と思って三沢に帰る。
で、三沢の上でも、もし前の飛行機が飛んで落ちていなければ大変だというわけで、私が勝手にやるわけにはいかない。2階に回って、「やっぱりおらないな。」ということで着陸した。
で、飛行場があったから、飛行場にこういうわけで2機おらないようになりました。で、帰ってきました。報告した。飛行場が。なんで自分だけ帰ってくるのか。自分だけって言ってもね、やむを得ません。
で、2機ダメになった。というのがどこか書いてある。
その2機は?
海や。
亡くなっちゃったってことですね。
うん。後からね、記録を残しとるけど。
その隊長がまた、何か知らないけど自衛隊が始まってから私が金谷に行った。
そしたら徳島に先に入ってたの。自衛隊もバラバラだったから。
で、私の時には自衛隊が始まって、今度は募集してるから。
薬師寺和夫という、戦時中の部隊の長がおって電話、連絡くれたから。で、行った。
核の子を案内したりなんかして、増加してくれた。試験があるから、一応準備しておかないといけない。
え、試験があるんですかね。終戦後に。
試験後に試験があるんですね。でもさっきの2機は、一応確認させていただきたいんですけど、
8月15日のところで3機取りに行くっていう、さっきの話で終戦のところで亡くなっちゃったってことですよね。
そうですよね。発表があって、取りに行った。
それもちろん、どんな形にせよ命を落とすっていうのは、もう当然言うまでもなく辛いことですけど、その戦争終わってから?ある意味。
終わってるよ。もう。
終わってるって言えば、終わってるタイミングで命をなくす。
これに書いてあるのは。
墜落って撃墜されてるわけじゃないわけですよね。事故ですよね。
もう戦争じゃないから。事故。そんなこと書いてあるよ。
そうですよね。
思い出の中に。
入ってるんですね。
いやー。
かわいそうな。あれが一番かわいそう。
そうですよね。
高橋っていうのと、それから成林がようこそ私の後ろに乗ってきたなって。本当に奇妙。
そうですね。さっきのね、因縁とも言ってらっしゃいましたし、運命とも言ってらっしゃいましたけど。
逆に言うと、生き残った方っていうのはその奇跡を全部あるから今あるわけですよね。
改めてなんですけど、今回お話伺う機会いただいて、今まで誰にも語らなかったというか。
もちろん息子さんだったり、ご紹介くださった方にお話されてたこともあると思うんですけど。
今まで一回も誰にも話してないことってありますか?息子さんにすら。戦争のことで。
戦争のこと。あまり必要ないことはしゃべらんじゃないですか。
言い方がいいかわかんないんですけど、まだまだ長生きされると思うんですけど、ご自身の中で。
あと5年。病院の先生が、あと5年頑張ってくださいよ。
ぜひ5年と言わず10年。
それは分からんけれども、5年は粘りたいなと。
まだまだ本当にお元気だと思うんですけど、僕からいろいろ伺っちゃいましたけど、ご自身でもいろいろまとめてくださってて。
これだけは今話したこと以外で、何か話したいとか伝えたいってことはございますか?
今となっては。
戦争を改めて振り返って、これだけはこうしとけばよかったなって後悔ありますか?
やりたいことをやらせてもらったからね。
もう一つ。
部隊は本当は奇跡な部隊作りを準備、進めておったんですよ。
奇跡な部隊。
米軍から飛行機を分けてもらった。
艦上爆撃の進んだやつ。
一つは機関銃は死体。
二つ目はレーダー。大きな。
それで即席しながら、ペアで出撃するような。
その部隊を作るということで。
薬師寺和夫という人が、先日から私一緒だったけど。
その人が来て、その飛行機をね。
今長男の誕生日に歩き始めたその家で。
ああ、生まれて。
そこの隊長さんが薬師寺和夫一男。
その人が島で部隊を作ってやろうとしてたわけ。
そうしたら、金山から厚木まで行って。
それも6機ずつ、10機もあるからね。
帰りに厚木から名古屋。
で、名古屋も民間ができてすぐだったから。
着陸前にパターンを回って着陸する。
それをどうも隊長さんが間違ったらしいんだよ。
そうしたら陸軍の部隊を出撃しとった人が、
ちょっと、こいつ。
それで半日かかって、揉めた。
帰ってみたけど、なしな。
で、キャンス。
戦後?
戦後よ。
ですよね。米軍から分けてもらった。
そうなの。でも、もっと大きな訓練をね。
地上から防火板撃の訓練とか、編隊の訓練とかやる計画はあったわ。
ああ、そうですよね。
だから、あれが一番惜しいことでした。
なるほどね。
米軍としては陸軍だから。
民間を邪魔したってことになったら、問題が大きいわけよ。
だから、そういうこともあったし。
戦時中の話にちょっと戻っちゃいますけど、
戦後の若い世代が、例えばNHKだったり、いろんな新聞を読んで、
戦争中はこうだったとか、いろんな特攻隊のことを一つとってもあるじゃないですか。
中村さんが戦後の報道を見てきて、戦時中の。
これ言われてることは明らかに違うんじゃないかな、みたいに思うことはありますか?
例えば特攻隊は、一応僕が調べた限りは、公式記録は志願制。
志願制だけど、実際はさっきほぼ強制というか命令だから、
志願だったら自分で手を挙げて特攻に行きたいっていう話じゃないですか。
つまり命令じゃなくて。
でも実際はほぼ強制の志願だったっていう、どっちかわからない。
いろんな報道があるわけですよね。
中村さんにさっき伺うと、実際はもう選択の余地はなかったって話あるじゃないですか。
それはそうね。
その特攻隊のことはさっき伺ったんですけど、それ以外のことでもいいんですけど、
実際この戦後のいろんな報道で、戦時中の様子を見てるときに、
その意味では中村さん、なぜ今回、もちろんご紹介者の方が、
お話、こうやって取材を受けたらっていう話があったのかもしれないですけど、
でも最後はご自身でいいよって選択されてるわけじゃないですか。
なぜ、やっぱりこうやって話してくださるっていうお気持ちになったんでしょうかね。
今までね、実は海上自衛隊のOB会の方も私はずっとやってきてたわけ。
年の暮れからあまり一人でバタバタしたらブタを入れたりしたら長男がおるのにいけないから。
皆さん心配しますよね。
だからね、OB会の方もだいぶ遠慮してる。
ああ、そうなんですね。
その中でこうやって、今、音声と映像を撮らせていただいてますけど、
これやっぱり本当に今後何十年何百年ってね、残る貴重なお話だと思うんですよ。
あったらいいよ。
残りますよ、本当に。
本当にもう、改めてですけど、やっぱり見てる方、聞いてる方、
僕今43歳ですけど、僕も子供を見ますし、これから生まれてくる、
まだ生まれてない人も見て聞くと思うんですけど、
やっぱりそういう人に対して、率直に中村さんが伝えたいこととか、
やっぱり戦争経験されて、100年生きてこられて、伝えたいこととかってありますか?
無理やりってことは全然ないんですけど、
僕がずっとやってきてる、今まで10年間で30人ぐらいの戦争体験者の方にお話伺ってるんですよ。
やっぱりね、特攻隊の方もいらっしゃいましたし、
普通に戦争は行ってないけど、
例えば普通に主婦をやられてて、戦争体験した方、いろんな方いるんですよ。
よくNHKの戦争のプロジェクトとか、そういうのだと、
やっぱり特攻隊行った方とか、原爆を受けた方とか、
そういう方の取材が多いんですけど、
今回はね、本当にありがたいことに、もちろん中村さんにお話が書いてあるんですけど、
僕がこのプロジェクトをずっと続けてる意味っていうのは、
やっぱり戦争のその時代を生きていた人の、
それは特攻隊行った中村さんのような方もいれば、そうじゃない方。
全てのその時代生きてた方の、その時何を思っていたかっていうのを、
歪めることなく僕は残したいんですね。
人によっては、僕実際こういう方いたんですけど、
僕のイメージだと、当時戦争を経験した方ってみんなもう、
毎日死の危険と隣り合わせだったんじゃないかって勝手に思ってたんですけど、
実際話を聞くと、例えばすごい裕福な方で、
お医者さんで疎開してて、
特に命の危険なかったっていう方もいたんですね。
その一方でもちろん、中村さん死と隣り合わせだったと思うんですけど、
今回インタビューさせていただいた中で、今中村さんとしても当然、
過去のこともですけど、今の日本を見ててとか、世界を見ててとか、
そんな大きなことじゃなくても、やっぱり思うこととか、
あと若い人とか、こういう感じで今、例えばいいんだろうかとか、
長く生きていらっしゃるので、先に生まれている文字通り先生なので、
何か僕たち世代、これからの世代が、より良く生きるためのアドバイスでもいいんですけど、
一言いただけるとありがたいなっていうところ、どんなことでも本当に構わないんですけど。
アドバイスっていうのは、
また謙虚な方だから。
何かそこまでは、人間の意気込みというのは、
やっぱり自分で、自分の希望は守るようにしなくちゃいかんということではないです。
それは個人としても国としても、自分たちでちゃんと。
そうなの。今は、自分って言ったら、自分が先に立てっていう意味になるかもわからんけど、
内容による気が。
難しいね。
そうですね。本当に永遠のテーマだと思うんですけど、
やっぱり今まさに去年からロシアとウクライナの戦争もあるじゃないですか。
やっぱりこの終戦、もうすぐ80年経ちますけど、
この10年僕もいろんな戦争体験者の方の話を聞いてて、
もちろん戦時中に比べたら平和になってるけど、
でもやっぱりまたちょっと世界がザワザワしてて、
ある方に言わせると、やっぱり戦前の時のちょっと空気に似てるみたいに言ってる方もいらっしゃるんですね。
いや、現にそうですよ。
そう思いますか?
ああ、思います。
それはどういうところから感じますか?
ロシアもそうだけども、中国でもね、
三一発のところまで手を出そうとしてるんですよ。
もうすでに、この前からの放送を見とるとね、
海をどんどん埋め立てたり、そして陸地を作って、
自分の土地を増やそうとしてるんですよ。地球を。
あれはもう間違いない。
あれはもう危険だと思ってるけど、
しかし日本は痩せるばっかりよ、土地も。
そうだけど、民間の人がね、日本の土地を売るんだもん。
それは日本は何とかしないと、どんどんどんどん痩せていくばっかり。
それがやっぱり、一人一人っていう意味でもそうだし、国としてもってことですよね。
そうなの。国がね。
国、ソウル大臣がもうちょっとしっかりしてもらわんと困るなあと思います。
なんか改めて、戦争体験も今日2時間以上お話を伺いましたけど、
もちろん戦争そのものはね、人が殺し合ったり亡くなることなんで決して良くないことですけど、
ただその戦争という、一応体験をされてきて、その後80年近く生きてこられた中で、
振り返って中村真鶴さん、一個人として、
戦争で得たものと失ったもの、一つずつ挙げるとしたら何でしょう?
得たものといったら、自分の国は自分が本気人として守れと言いたいよ。
やっぱりそこですか。
守れるように努力をしなくちゃ、みんなで協力。
日本でやっとギリギリ生活してるのが、これ以上痩せたら生きてこないよ、と思いますね。
中村さん個人として逆に、戦争で得たものって言うとちょっと言葉適切じゃないかもしれないですけど、
個人として体験でもいいですし、何か精神的なことでもいいんですけど、
戦争の体験で例えばこういう心を強くされたから、その後の80年はある意味全然楽だったって言うとあれですけど、
そういう何か、例えば精神を養ってもらった。
昔やっぱり戦争体験お話を伺った方が、戦後は同じくらいの方だったんですけど、
20歳ぐらいで終戦を迎えた方が、戦後の70年は余生だって言ってましたね。
20歳で終戦の時点で、その時点で自分の人生は、いい意味でもですけど、
あまりに密度が濃すぎて、その後色々70年あったけど、
その時に比べたら楽って言うとちょっと語弊がありますけど、やっぱり命は奪われないじゃないですか、基本的に。
だから余生だよっておっしゃってたんで、その方の言葉もすごくインパクトがあったんですけど、
中村さんはどうだったのかな。
一人一人考え方も違うね。
戦争の時のこの体験が今の何かに生きてるって、具体的に言ってあんまりわきづらいかもしれないですね。
おかげさんで私は、自分の意思が60%から70%生まれて生きてきたから、
まあ良かったなという方だもんね。
60%、70%って半分超えてるわけですよね。
その秘訣って何ですか。
他の人よりも苦労してないなということよ。
苦労してない。
と思われるやっぱりその謙虚さですかね。
どうだろうね。順調にいっておるということじゃないですか。
もうみんな対する指導的立場でやってきたからね。
改めて今年101歳、また11月に向かわれて、あと5年、そして僕からしても10年15年生きていただきたいんですけど、
やっぱり改めてその長生きの秘訣、これちょっと戦争の話と若干ずれますけど、
100年生きられるとは昔は思ってました?