山田学長と敬和学園大学について
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敬和キャンパスレポ
この番組は、新発田市富塚にある
敬和学園大学の大学生が、大学に関わるイベントや人、
新発田のことなどをテーマにお届けします。
敬和キャンパスレポは、
敬和学園大学の提供でお送りします。
みなさん、こんばんは。
この番組は、敬和学園大学から大学のことや
新発田、新潟のことを伝える30分番組です。
今日の番組の進行は、国際文化学科3年の有本良野です。
どうぞよろしくお願いします。
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今日はですね、なんと大学内で久しぶりに対面で収録しているんですが、
私、今までずっとZoomを使ったりとか、
一人でしゃべるような収録をしていたので、
ちょっと久しぶりでドキドキしています。
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さて今日はですね、
敬和学園大学の山田光太学長にお話を伺います。
敬和学園大学は、今年開学30周年を迎えて、
その記念式典が10月に行われたのですが、
その時の式辞の中で山田学長がお話になった、
開港期の新潟についてのお話を伺おうかと思います。
山田先生、どうぞよろしくお願いします。
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はい、どうぞよろしくお願いいたします。
皆さん、こんばんは。いかがお過ごしでしょうか。
敬和学園大学、今年で30年目を迎えております。
この地域の皆さま方のご支援のおかげと、心から感謝を申し上げます。
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どうぞよろしくお願いします。
それではですね、まずはじめに山田先生のプロフィールを
大学のウェブページをもとにご紹介していきたいと思います。
山田先生は千葉大学、国際基督教大学大学院で学ばれた後、
イギリスのダラム大学進学部の博士課程を修了し、
博士号PHDを取得されています。
その後、敬和学園大学には1991年の開学に合わせて着任され、
以後30年にわたり教務部長、共生社会学科長、副学長などを歴任されてきました。
2015年より敬和学園大学長になられました。
ご専門はヨーロッパ思想学、とりわけヘブライズムと呼ばれるユダヤ・キリスト教文化と、
ヘレニズムと呼ばれるギリシア・ローマ文化の伝統と書かれています。
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少し難しかったのでそのまま読ませていただいたんですが、これで合っていますでしょうかね?
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はい、ホームページに書いてあるとおりでございますが、
もっと具体的に言うとですね、私自身がやっているのは、
新約聖書が中心に勉強しているということですね。
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なるほど、そうなんですね。
ダラム大学について
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ではでは、山田先生の留学先であるダラム大学について少しお話を伺いたいなと思います。
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ダラム大学はイングランド北部のダラム日本拠地のある大学で、
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イギリスで3番目に古い伝統校ということね、お話を伺いました。
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神の学、神学を専攻されていて、
研究中心の厳しい留学生活を送られたのかなと想像しているんですが、
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大学の雰囲気ですとか、街の様子を少しご紹介いただけますでしょうか?
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はい、わかりました。
ダラムというのは日本ではほとんど知られていない。
そもそも人口が3万人の大学町ですので、
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私も初めて知りました。
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ほとんどの人は知らないと思います。
ですがイギリスでは極めて有名なんですね。
一つは何で有名かというと、大変美しい大聖堂があるカテドラルタウンということでもよく知られています。
もう一つはですね、炭鉱夫の町と言いましょう。
周りに炭鉱夫があって、マイナースガラという炭鉱夫の人がですね、
日本で言うとメーデーのように、
炭鉱夫さんたちが集まってお祭りをするということでも、
イギリスの中ではよく知られている町ですね。
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先ほどの学校のですね、お写真を見させていただいて、
私すごいハリーポッターに出てきそうな学校の校舎だなと思ったんですが、
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なぜか食堂がハリーポッターのロケで使われている。
ユニバースティカレッジというのは、12世紀のノルマン時代のお城が、
そのまま大学の14のカレッジの中の一つになっています。
そこの食堂がハリーポッターの映画で使われています。
フォグオース魔術学校の食堂で出てくるところが、
ダラムのユニバースティカレッジの食堂なんですね。
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すごい神聖な学校で、景観美しいところで学ばれた。
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そのお城の反対側にカテドラルがあるんですが、
ここもハリーポッターの中で使われています。
よくよく見ないとわからないんですけども。
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では早速、開港期の新潟について話題を移しまして、
トークを進めていきたいなと思います。
新潟の教育と宣教師たち
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イチノヘゼミの先輩たちが、
昨年度、仙郷市パームと新潟という映像作品を、
山田先生にインタビューをして作っています。
医師で宣教師のパームはスコットランドからやってきて、
新潟に大きな足跡を残しています。
敬和学園大学の体育館も別名パーム館と呼ばれているんですよね。
パームという人は開港から少し遅れていて、
正式に仙郷市の資格で新潟にやってくるのですが、
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今日はですね、その前に新潟に仙郷市としてではなく、
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教育者としてやってきたサミュエル・ブラウンと、
メアリー・キラーという2人の人物についてお話を伺いたいと思います。
2人ともですね、アメリカから改革派協会の仙郷市として派遣されています。
まず新潟の開港は、鎖国を解いて開港した5つの港のうちで、
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一番遅い1869年ということです。
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開港が遅れたのは、戊辰戦争と新潟港の春節、土木工事が問題だったと書かれていますが、
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少し解説していただけますでしょうか。
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実はですね、明治前まで江戸時代は全部鎖国をしていましたけれども、
その鎖国の最後の時にですね、条約がいくつか5つの国と結ばれて、
5つの港を開港するということになったんですけれども、
よく知られている函館だとか横浜だとか神戸とか長崎、
そして新潟が開港後行と言われているんですが、
新潟は先ほどお話がありました通りですね、
開港期の新潟の教育と宣教師たち
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北越を追う戊辰戦争と言ったでしょ、戊辰戦争がここで新潟でもあったということで、
遅れたということが一つ目です。
2番目は川の港ですから、どうしても上流から砂が流れてくるんですね。
それで他のところは、特に太平洋側は海が深いんですけれども、
川でだいたい深いところで3メートルぐらい、浅いところ1メートルぐらい、
それまでの北前船は入れたんですけれども、
特に鉄でできている船は3メートルぐらいのところに港に入れないということで、
港を深く掘る必要があったということで、
1869年、明治2年、1年ずれ遅れて開港したということになります。
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そういった歴史の背景があったんですね。
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その頃、日本はどちらかというと太平洋航路はなかったんですね。
表日本というのは、いわゆる裏日本と呼ばれているところ、
大昔から日本海が海であって、太平洋は人が通るところではなかった。
開港後の特に横浜と神戸が重要になってくるんですけれども、
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この2つの港が開港することによって、裏日本と表日本が逆転したということになるんですね。
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今までただの海だと扱われたものが、人とものが流れるようになったということですね。
そしてこの遅れた開港のタイミングで、
サミュエル・ブラウンとメアリー・キダーがやってきて、
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管立新潟英学校で英語を教えるようになったそうなんですね。
その英学校というのは、現在はもうないわけなんですが、
これは高校の英語学科のようなところだったのでしょうか。
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今、高校とか小学校とか中学校という制度もまだない。
学校制度が始まっていくのは明治5年ですので、
まだそういったものもなかったんですが、
お寺なんですが、お寺の中に、今でいうと古町の一つのお寺なんですけれども、
そこに英学校というのを英語を教えるよと。
それまではどちらかというと、オランダ語が主流だったんですが、
オランダ語じゃなくて英語だということになって、
みんな英語を学ぼうとしていたんですね。
ということがあって、そして英語の先生がぜひ必要ということで、
横浜からブラウンという人が呼ばれてきたということになりますね。
実はこのブラウンってなぜ呼ばれてきたかというと、
イギリス領事の奥さんがブラウンの娘さんだったんですね。
つまりお父さんを呼んだということで、ブラウンは来ることになったわけです。
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なるほど。この英語学校というのは年齢は特に関係なく。
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年齢は関係ないんです。
関係ないんです。
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じゃあもう小さい子からお年寄りまで。
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あまり小さい子はいないんですけども、
12、3歳くらいから高校生、大学生とかそういうような大人もいたという。
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なるほど。じゃあもう英語を学びたいから。
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英語を学びたい一心だけでみんなやってきたということです。
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なるほど。それもなかなか面白いですよね。
今と違ってその学校制度がなかったからこそできるような教育の一種だったんですね。
なるほど。
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さてこの後ですね、ブラウンとキダーの話、いろいろ展開していくのですが、
歌の話としては賛美歌も関係してくるんです。
今日はですね、その賛美歌にルーツを持ちつつ、現代ポップスとなっている曲をお届けします。
ホイットニーヒューストンでジーザスラブズミー。
ホイットニーヒューストンは1985年デビューのシンガーで、2012年に休止しています。
こちらの曲はホイットニー自身が主演した1992年の映画、ボディガードの中で歌われた曲で、
主われを愛すという歌です。
歌詞の中身を理解すれば賛美歌とわかるとは思いますが、曲調はポップスにアレンジされています。
主われを愛すは後半のお話にもつながりますので、そのあたりを少し注目して聴いていただければなと思います。
それではお聴きください。ホイットニーヒューストンでジーザスラブズミー。
さて今日の敬和キャンパスレポは、敬和学園大学の山田学長とともに150年前の開港期、明治初期の新潟とそこでの外国人専教師のお話を伺っています。
官立新潟英学校で英語を教えていたサミュエル・ブラウンさんとメアリー・キダーさんですが、
1870年にブラウンさんが生徒にキリスト教を説いたということで開港されて、結局2人とも新潟を離れることになってしまったそうです。
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これはキリスト教がこの時まだ近教だったからなのでしょうか。それとも、官立学校での聖教分離というか、宗教のことを教えたのがまずかったということなのでしょうか。山田先生教えてください。
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日本は明治6年の2月まで、江戸時代と同じようにキリスト教は禁教だったんですね。
そういう中で実はブラウン自身が教えようと思ったのではなくて、英語を学んでいた学生さんの方から聖書を教えてくださいということで、そして日曜日の礼拝に学生が来るようになったということなんですね。
それがやがて、それは1月頃から始まるんですけど、6月ぐらいにはどういう口だか分かりませんけど知られてしまって、そこで開港されていくということになっていくわけですね。
つげ口というか、こういうことをしているらしい。
新潟で最初の洋楽となったJesus Loves Me /主われを愛す
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先ほどのホイット・ヒューストンのジーザス・ラブ・スミというのは新潟で最初に子どもたちというか学生たちが教えられた歌でもあるんですね。
そしてこれが日本で最初の洋楽といったでしょうか、にもなるんですね。
メアリー・キダーという人は日本に来る前に実はアメリカの学校で子どもたちに教えていて、その当時アメリカで最も流行っていた曲がジーザス・ラブ・スミ・シュワレ・ワイスという曲だったんですね。
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同じように新潟に来ても子どもたちというか学生たちにこの歌を教えたということになってくるんですね。
歌と聖書が一緒になったものがアメリカでも流行っていて、それが日本でも同じように流行りました。
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今でも流行っている。誰でも知っている曲。アメリカでもそうですし、日本でもそうです。
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さて、ブラウンさんもキダーさんも新潟から去ってしまい、その後横浜にブラウン塾・キダー塾を作り、それが明治学院やフェリス女学院になっていくと調べたらありました。
そう言われると、いろんなキリスト教学校を作り損ねてしまった新潟は何だか損をしたようにも思えるのですが、
ブラウンさんとキダーさんが二人とも横浜に移ってから、どういったものが改善して学校ができるようになったのでしょうか。
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まずは明治6年にキリスト教が近況でなくなったことが大きな原因です。
キリスト教を自由に宣教できるようになった。あるいは聖書を教えたり、賛美歌を歌ったり、自由にできるようになったというのがあります。
同時にブラウン・キダーはそれまでは英語の先生だけだったのですが、本来の宣教師の活動ができた。
つまりブラウンは二つの面があるのですが、日本語に聖書を翻訳していく、文語訳聖書というのがあるのですが、
これが今でも日本で一番美しい聖書とされているのですが、その文語訳聖書を訳していく中心的な人物になっていくということです。
それと同時にブラウンのもう一つの面は、先ほどの音楽もありましたが、日本語に賛美歌集を初めて発行していくということになっていくわけです。
それと同時に日本全体がもっと英語を学ぶということについて、モチベーションが上がったということで、ちゃんとした学校が作れるようになっていったということが原因だと思います。
やっぱり近況じゃなくなったということが一番大きな。
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Kはキャンパスレポ。
キリスト教・音楽の影響
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さてその前にお話にも出てきたのですが、ブラウンさんであったりキダーさんであったりのエピソードの中で、
新潟で子どもたちに賛美歌を教えていたという話が出てきたり、あとは賛美歌の本を作ったというようなお話が出てきたのですが、
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最も歌われた歌として、ジーザスラブズミエスワレオアイシマス。
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先ほどのホイットニーヒューストンが歌った曲と同じ歌が紹介されています。
この時期、選挙のために賛美歌が教えられていたものが、後に小学校の教科になっていくらしいのですが、
そのように日本で教科として定着していったものには、他にどんなものがありますか。
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文部省が小学校の教科を作る時に、やっぱり5人の女性たちがアメリカに、
欧米県を施設団の中に津田梅子をはじめとする人がいたのですが、そのうちの1人は音楽を勉強して帰っていく。
音楽の教科書を作る時に、その女性が非常にアドバイザーのような形になって入ってくるということがあるのですが、
それから段々と賛美歌みたいなものをモデルにしながら、小学生化を作っていくプロセスがあったということです。
そして私たちがよく歌っている、ふるさとだとか春の丘だとか、大体学年で1年生は何を歌う、2年生は何を歌う、3年生は何を歌うということが大体決まっているので、
それは私たちの今、心のふるさとになっている歌を文部省から作ってきたということなのですが、
丘の定位置という、その当時は東京音楽学校という今の芸大の先生は、実は鳥取教会のオルガニストだったのですね。
そういったこともあって、文部省下の定位置の源もそうなんですけど、その途中でもキリスト教的な音楽的背景が入っているということですね。
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リズムがそういうふうに賛美歌と似ていたりとか。
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そうですね、そういったものでトレーニングを受けた人が作曲していますので、そういう影響があるということですね。
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私も知らず知らずにそういったものを学んでいたということなんですね。
なるほど。
新発田と白石家の関係
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では最後にですね、横浜に移ってフェリス女学院を作ったキダーさんのお話で、新発田の白石家の話が話題として出てくるそうなんですが、
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この白石家というのは市島家と並ぶ新発田あるいは新潟の王子主さんだったそうです。
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新発田の白石家の人たちは西洋文明にどうやら関心を持っていたそうで、またそういった影響も受けていたということなんですかね。
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お別れ遠足というのに歩いて新潟から来る。
途中までは船に乗ってきたと思うんですけども、今のような鉄道もありません時代ですが。
お別れ遠足にキダーの手紙を見てみますと、新発田にやってきて、そしてまるであたかもアブラハムの時代のような生活を見て驚いたというのが出てきます。
それが白石家ですね。
その当時10代目のご当主、白瀬成明という人がいました。
その人はちょうど30歳ぐらいで当主になったばかりなんですね。
そして9歳ぐらいの子供、和一郎というのがいました。
おそらく和一郎がキダー家から英語を習ったんだろうと。
それでお別れ遠足に新発田にやってきたんだろうということになってくると思うんです。
ここは推測です。証拠はありませんが。
この成明、和一郎役は極めて英語ばかりで開国に熱心で、
白石家は新潟にも文献がありました。
そこもそうですが、新潟でもこちらの新発田でも英語学校を作っているんですね。
英語学校というようなことだとか、西洋文明にものすごく理解があったということで、
和一郎はここの新発田の人は、多くの人は知っていますけれども、
いじみの果樹園を始めたというようなことですね。
それが今にも西楼だとか、この辺に桜舞だとか、桃だとか、いろいろなものを展開していますけれども、
和一郎のおかげって言ったらいいでしょうか。
ということで、今の新発田の周りにある新発田市とか西楼の果樹園もある。
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さてさて、ちょっと気になることもあってお話も尽きないんですが、そろそろ終了のお時間が来てしまいました。
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この後、横浜ではブラウンさんやキラーさんの学校が発展していく一方で、
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新潟でもキリスト教系の学校は残念ながらできなかったんですが、
パーム病院であったりイタリア圏とか、いろいろな形で西洋文明の受け入れは進んでいったのかなというふうに思います。
その辺のお話はまた次回伺いたいなと思います。山田先生、今日はどうもありがとうございました。
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山田先生 こちらこそどうもありがとうございました。
【音楽】
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けいわキャンパスレポ
開港期における新潟の教育と宣教師たち
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さてエンディングです。新潟開港とキリスト教というのは切り離せない話で、いろいろな歴史の先に私たちの学ぶ、
けいわ学園大学があるんだなぁということを改めて実感しました。そこはちょっと理解しているつもりだったのですが、
今回もちょっと細かい人名であったりとか、キリスト教系の新潟での歴史というところはちょっと私先行していない部分が多かったので、
なかなか改めて勉強になりますという歌手が多くて、お話を聞いていてもとても面白かったです。
ちょっといろいろよくわからないお話も正直たくさん出てきたのですが、でもとても新鮮にお話を伺うことができました。
こういってね、ちょっとまた新しいものが話題が出てきたりとか、新発田の地主さんもですね、このブラウンさんであったりキダーさんと関わりを持っていたということで、
もう少し整理をして、これも映像作品としてまとめてみるとか、わかりやすいように解説をしてみたら、知識であったり視野が広がるのかなというふうに思いました。
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さて今日のK-WAキャンパスレポはこれにて終了です。皆さん次回もお楽しみに。皆さんおやすみなさい。
K-WAキャンパスレポは、K-WA学園大学の提供でお送りしました。