目黒競馬場の創設
こんにちは、ダルマー競馬場です。
いやー、この前ね、スポーツの秋ということで、スポーツイベント行ってきたんですよ。
いろいろな競技が体験できたりとかする公園とかで、よく大きな公園とかでやってるスポーツイベントなんですけども、
そこで体力測定みたいなのができて、久々に垂直跳びとか立ち幅跳びとかやったんですよ。
大人なんでね、そこはやっぱり怪我しない程度に、全力とかではやらないようにしようかなと思ってたんですけど、
まあやってるうちに全力になっちゃいますよねっていう。
でもすごいね、一回ちょっとスイッチ入っちゃったから、これは全部MAXの力で行こうということで、
まあ一個一個やってったんですよ。反復横跳びとか、あとね、懸垂もあったかな?懸垂もあったし、
あとは片足立ちとか、あと長座前屈とかやったりしてたんですよ。
で、最後に上体起こしだったんですよね。あの腹筋です、腹筋。
で、30秒間で何回できるかみたいな感じなんで、
普通の腹筋だったら回数重視なんで、スピードってあんま出さないじゃないですか。
そんなね、1、2、3ぐらいだと思うんですけど、30秒間で何回できるかなって、全力MAXですよね。
1、2、3、4、5みたいな感じで、やろうと思って、もうよしじゃあって気合い入れて、胸の前で手をクロスして、
膝曲げてね、計測する人に足持ってもらって、じゃあ行きますって言って、やり始めたんですよ。
オラーって言ってやり始めた2回目ぐらいで、胸と足がつるっていう。
胸と足みたいな感じだったんですよ、やってて。
腹筋やってるのにそこつるの?みたいな感じで、もう開始2回目ぐらいでそれつっちゃって、
もうそこからはあと28秒ぐらい、痛みとの戦いみたいな感じでしたよね。
いやーもうね、結局その平均、その年の平均記録みたいな。
30代だったらこのぐらい、40代だったらこのぐらいみたいなあるじゃないですか。
それの平均のちょい下ぐらいの記録しか出せなかったんですけど、
いやもうね、歳とったなーみたいな感じでね、
もうね、身をもって自分の老化をですね、体験してきましたというお話なんですけども、
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ということでね、いやもうね、肌身をもって体験できる、
まあいい機会だったなというふうに思いましたねというところで、
今日はですね、東京競馬場の話をしようかなというふうに思っております。
まあね、東京競馬場っていうかね、目黒競馬場ことが多いかなみたいな感じでございますということで、
競馬場の歴史シリーズ、東京競馬場かっこ目黒競馬場編でございます。
時は明治40年。
もうちょっとやめよう。
場所はですね、今の東京都目黒区下目黒っていうところなんですけども、
山手線の目黒駅と、あと不動馬駅。
これは三田線直結なんですけども、三田線直結目黒線だった。
で、あとは東急東横線の雄天寺とですね、この3つの駅のちょうど真ん中ぐらいにですね、
1周1マイル、約1600メートルの競馬場がドンとできたんですよ。
これが目黒競馬場。東京の競馬の始まりの一つっていう感じですよね。
この時代はまあね、やっぱね、いろいろなところで競馬って行われていたので、
東京の中でもいくつか競馬場っていうのはありました。
この目黒競馬場を作ったのが日本競馬会っていうところなんですけども、
これはですね、JRAの前身の日本競馬会とはまたちょっと別の団体で、
実際に運営をしていたのはですね、東京馬筆改良会社っていう株式会社です。
もともとね、東京にあった4つぐらいの競馬クラブが一個にガッチャンコして、
この日本競馬会っていうのができてるんですけども、
運営していたのはこの東京馬筆改良会社っていうところ。
表だっては公益団体なんですけども、裏では営利会社っていう競馬という公的な遊びを成立させるために、
裏と表の顔を持ってたみたいな感じのところが運営していたんですよね。
でもこれはね、時代柄というかしょうがないって言っちゃあれなんですけども、
いけないのかなと思うんですけど、今となってはね。
事前事業でやっぱり競馬もできないので、お金も理想も両方いるよねみたいな感じだったんですよ。
この目黒競馬場っていうのは土地が6万5千坪、そのうち8割がなんと借地だったんですよ。
しかもその借地の土地代、なんと相場の4倍以上っていうね。
なんでそんなんで借りたんだろうって感じですけど、
めちゃくちゃ高いけども、とりあえず競馬ってさ、すごい盛り上がって、お金らしい!みたいな感じになったんで、
とりまじゃあちょっと高いけども後でペイできるでしょみたいので、やってみようか!みたいので作ったらしいんですよね。
初開催はですね、同年明治40年の12月、第1回目のレースの勝ち馬の名前は白木久吾。
レースの距離はですね、4分の3マイルで賞金はなんと500円でございました。
競馬人気の低迷と回復
この500円っていうのはね、今の円の価値だと小さな家が一軒立つぐらいの額だったらしいですよね。
で、これがねめちゃくちゃ盛り上がったんですって。
スタンド2つあって3階建てでなんと玉座まであったらしいんですけど、これがもうびっしり埋まるぐらい。
ただ、それだけ人気を誇っていたのに急に人気が低迷するんですよ。
これ何でだと思うんです。
1908年に政府が馬券の発売を禁止したんですよ。
えー!みたいな。
明治40年って1907年なんですけども、その翌年に馬券の発売中止したんですよ。
年末に1回開催して、その翌年1908年の春の開催はもうめちゃくちゃ盛り上がったらしいんですけど、
その秋の開催から馬券の発売が禁止されちゃったんですよね。
なのでもうね、観客は馬券売ってない競馬なんてもうつまんないわと。
今みたいにね、馬作りに対してとか馬がとかじゃなくて、もっと人々に馬は身近だったから、そんなに特別なことでもなく、
やっぱりね、あんまりね、働かないで稼ぎたいじゃない?
人間の差がとしてというか。
まあやっぱりね、そうね、簡単に稼げそうだから競馬って面白そうだったのにダメじゃん!みたいな感じになって観客が一気に減っちゃうんですよ。
その馬券禁止となった秋の開催、もうね、最低だと数十人しか観客が来ないみたいな。
あれ?みたいな競馬って開催してます?みたいな感じで。
でなんかね、警官の方が多い日もあったらしいですよ。
なんですけども競馬はね、じゃあもうダメだねって言ってなくならないんですよね。
これすごいんですけど、これもね、もう時代柄なんですけども、
競馬がなくならなかった理由の一つとして、馬産奨励っていうのがありまして、
当時はですね、軍馬を含めて良い馬を作りましょうっていうのが国策だったんですよ。
なんでまあ、ギャンブル掛け言は禁止ですけど、馬は育てたいんですよね?みたいな。
なんでまあ、ほら、サラブレットってさ、良い馬同士を交配させていて、より早い馬を作っていくみたいなところがあるので、
競争をさせて能力を確かめるのが一番なんですよね。
なので、レースというか競争はさせたいんですよ。
なんですけど、ちょっと券ごめんなさい、ダメです。
という感じで、国の補助金で運営しながら続けていくんですけども、やっぱり利益が出ていかないで、運営はちょっとギリギリなところがあったらしいです。
そんな中、生まれたのが1914年の勝馬投票権というものなんですけども、今でも馬券の正式名称勝馬投票権って残ってますけど、名前がね。
どの馬に勝つかを投票してくださいっていうものだったんですよ。
で、払い戻しはギャンブルになっちゃう、賭け事になっちゃうんで現金じゃないですと。
商品券で払い戻しますと。デパートで使える商品券なんですけども、これ一刀入場券、入場券に投票券が2枚付いていて、それで投票してたらしいんですよね。
当然、一番勝ちそうな馬っていうのは投票が集まるんですよね。一番人気の馬ですよね、今でいうと。
なんですけども、払い戻し商品券なんで、一刀に集中して投票されちゃうって、万が一的中しちゃったりすると、
払い戻しやばい、商品券そんなないみたいな感じになっちゃうんで、的中するとさらにそこから抽選みたいなね。
せっかく当たったのになんだよみたいな感じになっちゃってたらしいです。
この時の名残から、今でも馬券の正式名称っていうのは勝馬投票券っていう風になってるらしいですよ。
で、こういう時ってね、何とか何とか抜け道を探していく、そんな時代なんですけども、1923年、ついに旧競馬法ができて、正式に現金での馬券が認められるんですよ。
東京競馬場への移転
こっから一気に人気がバッとよみがえるというかね、復活していくわけなんですけども、収益ガーン上がってパドックが整備されたりとかして、
でも普通のね、平地の競争だけじゃなくても障害レースとかトロットレースもやろうぜみたいな感じになっていて、どんどんどんどん競馬が盛り上がっていくんですよ。
昔の目黒競馬場のコース図見たりすると、たすき掛けの障害のコースとかもあったりとかしますからね。
これwikipediaに載ってるんで一回見てみたほうがいいですね。
そしてそんな中、1932年ですよ。第一回東京優春大競争、日本ダービーが始まりを迎えるということでね。
この第一回日本ダービーはですね、スタンドも立ち身が出るほどの長満員で、もうねパンパンだったらしいんですよ。
最初の2回、第一回は若田が勝った日本ダービー、第二回は兜山なんですけど、この2回兜山が勝ったダービーまでは目黒で行われております。
ただね、この日本ダービー、東京優春大競争ですけども盛り上がりすぎちゃったんですよ。
いやーちょっとこんなに人来るならさー競馬場を広くしたいねーみたいな話になったらしいんですけども。
土地は借地ですし、周りは住宅地でびっしり囲われてたんですって。
いやちょっとこれは拡張の余地ないっすよみたいな感じになっちゃって。
どうしよっかーって言って、さらに目黒の町のね庁議会から、ちょっと町の発展の妨げになっちゃってるんで競馬もうやめてもらえませんかみたいな感じになっていて、
じゃあもうここはもう無理だなみたいな感じになっちゃったらしいんですよね。人気あるんだけど移転しなきゃいけないみたいな。
そんな矛盾を抱えながら移転を決断していくんですけども。
最初に候補に上がったのは世田谷とか玉川沿い近いですからね。移転しようかなみたいな風になってたらしいんですけども。
やっぱりねちょっと狭かったりとか地形が合わなかったりとかして、最終的に選ばれたのが府中なんですよ。
もう地形は平らだし、水はけもいいし、鉄道のアクセスも抜群だしみたいなので。
プラス府中の町がですね、ぜひうちで競馬をというので、ぜひ来てくださいって言って結構誘致に前向きだったらしいんですよね。
これをきっかけに1933年に目黒競馬場を閉場して府中にお引越し。
春の開催で目黒が終わって、秋の開催からは府中でしたね。
1933年の秋から府中で新しく東京競馬場として開催。
初めての開催は8日間で計10万人以上が集まったと言われております。
なんとですね、この府中の東京競馬場、戦前のピークは、
東京競馬場の歴史と発展
1940年春の開催で入場者数、これも8日間なんですけども、27万人が来たらしいです。
結構すごいですよこれ。8日間で27万人って、当時ですからね。めちゃくちゃすごいですよね。
この時からもうやっぱりね、府中イコール日本競馬の中心みたいな感じで、
一番人気あるところみたいな感じになってたんですよね。
まあでもやっぱりこの1940年代、始まってしまいますよ、戦争がというところでね。
戦争が始まると東京競馬場も止まって、馬は軍に徴用されて、スタンドは倉庫になってきます。
ただ戦争が終わって、初の開催は1946年。
翌1947年には阪神で行われていた優秀品馬が東京で開催されて、
ここから一気にですね、高度経済成長とともに、スタンドの増築が始まって、もう娯楽の象徴になっていくわけです。
1964年の東京オリンピックをきっかけに、中央道、高速道路ができたりとか、
あとは鉄道だったり、街の整備が進んでいきます。
そして1968年には、府中競馬正門前駅から屋根付きの歩道が完成して、
1978年にはですね、美穂トレーニングセンターへ東京競馬場の旧所がすべて移転を始めて、
1981年にジャパンカップが創設。
そして2000年代に入ってからは、スタンドを全面回収。
フジビュースタンドとメモリアルスタンドの2個のスタンドが完成して、
今の東京競馬場の完成形に近づいていくんですよ。
その美術館みたいな明るさ、天井の高さ、あとは風が抜けるコンコースとかはね、
子供も家族もみんなで楽しめる空間となって、今の東京競馬場になっていると。
ということでね、着地から始まったんですけども、
府中に移動して根を張って、今では日本が世界に誇る競馬場として、
その存在感を示し続けているということでね。
そんな東京競馬場で今週も競馬が開催がありますよというところで、
最近のレース
今週のJLAでございます。
今週からですね、秋の新潟開催がスタートいたしまして、
4回東京、3回京都、4回新潟の3場開催となっております。
土曜日に東京競馬場でG2富士ステークスが行われ、
日曜日には東京競馬場でJG2東京ハイジャンプ、
そして京都競馬場ではG1第30回週賀賞が行われます。
ということで、順に見ていきましょう。
まずは富士ステークスでございます。
今年で28回目を迎えますG2競争でございます。
1981年にジャパンカップに出走する招待場とその帯同場、
および地方競馬代表候補場が出走できる国際招待競争として創設。
当時はオープン競争でございました。
1998年にG3に昇格したタイミングで第1回となり、
2020年にG2へ昇格して現在に至るということで、
コースは東京競馬場、芝1600mですから、言わずもがなでございます。
上がりの早い馬を探す旅になってくるんですけども、
どのくらいのペースでどこからその足を出せるかっていうのをひたすら考えるんですよね。
差し追い込み一辺倒だったりすると前の足を残している馬に届かなかったりするので、
その辺のペース配分とかどうしていくんだろう、どの位置取りでいくんだろうっていうのを想像しながら馬券を組み立てていくみたいな感じだとは思います。
続きまして東京ハイジャンプでございます。
今年で27回目を迎えますJG2競争でございます。
1999年に創設された柔衝競争で2008年までは春の開催で行われておりましたが、
2009年から秋開催に移行し現在に至るということでございます。
東京競馬場の障害コースですから、いかに早く内場場に行って場所を取って応援するかみたいな感じですね。
私のお勧めは向こう上面に行くという事で、
どこでポジショニングするかみたいなのが非常に重要かなみたいな。
これもレースと一緒ですね。どこでポジショニングをしていくかっていう感じですね。
そして秋夏賞でございます。
今年で30回目を迎えますG1競争でございます。
秋夏賞の秋夏は、秋は大きな実り、花は名誉盛り、容姿が美しいという意味が込められているそうでございまして、
この秋夏賞ができるまではご存知、
エリザベス女王杯が品番3冠レースの最終戦だったんですけども、
エリザベス女王杯がコバの品番も最近増えてきたし、
ちょっとなんかG1を作りたいよね。
じゃあエリザベス女王杯をコバに開放しようか。
そうなると品番だけ、品番3冠最終戦がコバとの対決になっちゃうね。
それはかわいそうだねということで、
1996年に創設されて現在に至る。
そんな感じではないかもしれないですけどね。
現在に至るということでございます。
ひと昔前は、あれるG1代表格みたいなところありましたからね。
ただやっぱ最近はね、本命サイドでの決着することも結構ありつつも、
中穴の馬が2、3着に来るかなみたいなレースもあったりしますよね。
本当にカッチンウマの名前見たら誰しもが知ってるような馬ばっかだったりしますからね。
ここはしょうがないのかなというところでございます。
コースは京都競馬場の内回り、芝2000mでございます。
直線が短いので4コーナー前から仕掛けていかなきゃいけないんですよね。
なので小回りの競馬場でいい成績残してたりするといいんじゃねみたいなイメージちょっとあったりしますけどね。
イメージなんでね、そのぐらいですけども。
基本的にはこちらも上がりの速い馬を探す旅なのかなという感じですよね。
ただ直線短いんでね、後ろ過ぎるとちょっとどうなのみたいなところはあったりしますけどね。
というところで今週も皆様に、いや年齢がちょっとネックだなと思ってたんだけどね、衰えてないかなみたいな感じで思ってたんよ。
でも馬券に入れてみたらちゃんと買ってくれたんだよ。
もうね年齢なんて関係ない、本当に関係ないよ。
いやーこれはね馬だけじゃなくてね、自分も頑張ろうってね思えたねって言えるほどの快心の的中があることをお祈りして。
はい、ということで今回も最後までご拝聴いただきありがとうございます。また次回の競馬券分録でお会いしましょう。さよなら。