久しぶりの配信と「適当人間」への転換
こんにちは、カズです。
久しぶりです。
前回の配信日が去年の12月20日ということで、約5ヶ月ぶりの配信になります。
なんかね、ちょっと気まぐれで、今日はなんとなく、たまには喋るかみたいな、適当なノリで今撮ってますね。
前回の最終回みたいな回で、ちょっと喋った通りですね。
今後は、僕、ねばならないとかね、こうしなければとかね、そういう魂が望む方向ではない、
こうあらねばならないみたいな理想の自分像になるためのモチベーションみたいな、そういうエネルギーを極力ゼロにしていくっていう、
そういうのを今自分でトライアルしてるというか、そういうのを自分に課してるので、
だから5ヶ月くらい配信が空いてしまったわけなんですけど、
でもその代わりに、本当にやりたいと思ったことしかやらないみたいな感じにしたいと思っているので、
すごい気まぐれにね、今日はそんな感じで、抵抗なくなんとなく撮ってみようかなっていう感じになったので、
前みたいに話していきたいなと思います。お付き合いいただければ幸いです。
今日の話は、適当人間のすすめみたいな、そういう話にしようと思っています。
タイトルはアポロンテキvsディオンニュソステキっていう風にしました。
適当人間のすすめっていう話で、どういうことかというとね、
「きっちりしすぎ」への違和感とその正体
僕が日頃感じている違和感の話からちょっと話を始めていきたいなと思います。
僕、前から感じている違和感なんですけど、きっちりしすぎているのが嫌いなんですよね。
きちきちすぎているのが嫌いっていうか、怖いっていうか苦手っていうかね、
なんとなくそんな風な感覚があったんですよ。
例えば、ちょっと具体例を出していきたいと思うんですけど、
例えば、完璧な立ち振る舞いのニュースキャスターとか、
お手本通りですね、教科書通りですね、みたいな完璧な話し方振る舞いのプレゼンするYouTuberとかね、
いるじゃないですか。
あとは、本当にここで人間生活してるの?みたいに聞きたくなるような、
モデルルームみたいな完璧な、めっちゃ綺麗な家とかね、部屋とかテレビとかでね、たまにやるかもしれないですけど、
本当にここで生活してるの?みたいな、生活感ゼロですみたいなのとか、
あとは、規則ですのでそれは申し訳ないです、できません、みたいなそういうので一点張りで全然融通を聞かせてくれない、
例えば飲食店の積極対応だったりとか、そういう感じ、なんとなく分かりますかね。
ちょっと違う感じの具体例で3つ出しましたけど、こういうのが僕苦手なんですよ。
なんかね、キチキチすぎているのが苦手っていう共通項で3つ具体例を出しました。
ここにチャットGPTが作った文章っていうのも入れてもいいのかなと思ってます。
なんかね、チャットGPT賢いんで、ブログ用の記事書いてとかね、言えば上げてくれるわけなんですけど、
やっぱね、どうにもね、やっぱりね、違和感がそこにあると思うんですよね。
僕だけじゃなくてね、そういうのを感じる人も多いと思います。
確かにまとまっているけど、なんかちょっと響かないんだよねみたいなね。
そういうのってあると思うんですよ。
で、この違和感の正体何なのかなっていうのが今日の話ですね。
なぜ違和感を感じるのかというその理由なんですけど、僕はこういうふうに思いました。
人間の本来の在り方とか、人間それそのものの自然な在り方とか、
っていうのは本来アポロン的なものとディオニオソス的なものとあるんだと。
その両方があるのが自然なんですよ。
両方が混在している。
どっちの要素もあるっていうのが自然本来の姿であるのに、
なのにそのうちの今の世の中はアポロン的な部分だけをそっちだけに価値を見て、
ディオニオソス的なものを無視しているんだ、排除しているんだっていう。
だからそこを感覚としてキャッチしてしまって無意識のうちに、
それが違和感として現れているんじゃないのかなっていう、こういうふうに考えたわけです。
アポロン的ディオニオソス的っていうのはこれニーチェの言い方ですね。
ざっくりどんなものかっていうとアポロン的っていうのは秩序、合理性、理性ですね。
きっちりしているイメージ、きっちり整えられている、人為的なイメージ。
に対してディオニオソス的なものっていうのはカオスとか混沌、
なんか散らばって全然まとまってないもの、秩序だってないものとかね。
そういう感じです、ざっくりね。
で、僕が感じているキチキチしすぎているのなんか気持ち悪いなっていう違和感の正体は、
多分自然本来が持っているアポロン的ディオニオソス的っていう両方の要素のうちの片方、
アポロンだけを前面に押し出してきて提示してくるから気持ち悪いんだと。
ディオニオソスを排除しちゃってるから気持ち悪いんだという感じですね。
ふうに思いました。
ディオニソス的側面が排除される理由:ネガティブな思い込み
これを、このディオニオソスの部分を揺らぎっていう言葉でね、
F分の1揺らぎとか聞いたことある人いるかもしれないですけど、
揺らぎっていう部分、言葉で表現しているのもありだと思います。
そういう表現でも言い表せるかなと思いますね。
ここでは一応ディオニオソス的って言うようにしますけど、
じゃあ、なんでそうなってるのかと。
なぜディオニオソス的なものを排除しようとするのか、
その意味嫌うのかと言うとですね、その理由は、
これね、無意識のうちにやってると思うんですよ。
みんなディオニオソス的なものだと意識的に古い分けてるわけじゃないんだけど、
良いものにしようと努力していく過程でなんとなくそうなっていくという風潮というか、
世の中になってしまっているんじゃないかなというところなんですよね。
じゃあなんでそのディオニオソス的なものを無意識のうちに排除しようとしてしまうのかと言うとですね、
これはその理由はネガティブな思い込みがあるからということになります。
まあ僕の言い方なんですけど。
ネガティブな思い込みっていうのは潜在意識の中に入っているネガティブビリーフのことですね。
これ言葉で表すなら〇〇しなければならないとか〇〇でなければならないとか〇〇すべきだとか〇〇じゃないとダメですみたいな、
そういうのがそういう信念ですね。
これがネガティブビリーフ、ネガティブな思い込みなんですよ。
これ全部根拠が全くないただの思い込みです。
そう思っているだけっていうね。
でもこの〇〇ならないとか〇〇すべきだみたいなね、こういうのでがんじがらめになっちゃっているのが今の世の中じゃないですか。
で、これなんでなのかというとですね、
これは今の世の中、今の経済社会がこのようなネガティブビリーフを僕らに持たせるような圧力を構造的にかけ続けているから、
これが蔓延しているっていう、こういう構造になっていると思われます。
この話は結構いろんなところで過去の配信でもしたんで深くは掘らないんですけど、
ざっくり言うとネガティブビリーフをたくさん僕らに背負ってもらうことによってですね、
そうするとそれが種となって、そのネガティブビリーフの種が発芽して芽を出すと、
それが不安とか恐れとかっていう感情になるわけなんですよ。
その恐れの不安とか恐れとかを外からチクチクと広告とかCMとかを見せることによって刺激して、
そうするとあらゆる勾配行動を僕らに起こさせるっていうことが可能になるわけです。
この辺の話は、例えば有名どころだとトマベチ・ヒデト博士なんかは、
洗脳経済社会っていう言い方で話しているところだと思うんで、
興味ある人はね、読んでもらうと面白いかなと思うんですけど、
つまり今の世の中は経済を回していきたいがために思考変調の時代、
作能変調時代、作能ばっかり思考ばっかりの時代になっちゃって、
感覚を置き忘れている時代になっていると言えるんじゃないのかなと思います。
だから簡単に言うと、アポロンは思考のことで、リオニオソスは感覚のことと言ってもそんなに外れてはないかなってちょっと思いましたね。
こういう現状なので、僕らにたくさんネガティブビリーフが埋め込まれているから、
こうでなければならないとか、こうじゃなきゃダメだっていう。
あえてこの文脈で言うんであれば、アポロンじゃなきゃダメだと僕らは思ってるんですよ。
リオニオソスはダメだみたいな。
なぜなら、リオニオソス的なものっていうのは取り扱いができないからなんですよ。
そういうわけで、今の世の中に求められていることというのは、さっきまでが今の状況分析でしたね。
今、僕は時々こういうものに対して違和感を感じるよ。
それは何でなのかというと、世の中こういうふうになっているからだよっていう。
ネガティブビリーフが蔓延していて、ねばならないの思考で溢れているからなんだ。
そのねばならないの思考に、無意識的に僕らが従った結果としてリオニオソス的なものがバンバン排除されていって、
アポロンだけの世の中でいつの間にかなっちゃってるんだよっていうことですね。
そういう現状があるんじゃないのかなっていうことです。
現代社会に求められるディオニソス的価値の復権
というわけで、そういう現状分析なので、じゃあ今の世の中に求められているのは何なんだと言えば、こういうことです。
リオニオソス的なものの価値の復権なんですよ。
リオニオソス的なものの価値を認め直すっていう、そういう作業が今の世の中求められているんじゃないのかなというわけなんですね。
リオニオソス的なものっていうのは、例えば言語化できない感覚だったり、
今の世の中で役に立たないとされるものだったり、合理性で測ることができないものだったり、そういうもののことです。
例えば、もうちょっとこれを具体化するなら、例えば音楽ですね。
音楽っていうのはリオニオソス的なものの、ニーチェが挙げている代表例なんですけど、
音楽とか、あと芸術、映画とかもそうですよね。
何の監督か忘れちゃって、黒澤明監督だったかな、ちょっと忘れちゃったんですけど、北野健さんだったかな。
その辺の人が撮った映画についての説明をインタビューで求められた時に返した返事が、きちんとそれについて言葉で説明できるんだったら、映画なんてそもそも撮ってねえよみたいなことを言ったというふうに僕は聞いたことがあるんですけど、そういうことなんですよね。
彼らがつまりやりたかったことは、きちんとアポロン的に言語化して提示ができないけど、そこにある価値が確かにあるものを僕らに見せたかったわけじゃないですか。
そういう場合、言語化が難しいものを提示した場合、どうするかというと、音楽だったり映画だったり芸術だったり、そういうもので提示するしかないわけなんですよね。
ということです。そういうことが両入卒的ということですね。
情報化社会と言語化至上主義の弊害
今すごいに言語化っていうのを繰り返し話しましたが、ここまでの議論でなんとなく差しがついてるかなと思うんですけど、この両入卒的なものっていうのは基本的に言語化ができないものなんですよ。
両入卒的っていう言語化ができないがゆえに、だからこそ両入卒であるとも言えると思うんですけど、曖昧なものっていうものが両入卒の定義だから、きちんときれいに言語化できちゃったらそれはもう両入卒じゃないんですよね。
今の世の中、言語化言語化ってなんかうるさい風潮があるような気が個人的にはしてるんですけど、これね、なんでみんな言語化言語化言うのかというその理由なんですけど、それは情報化社会だからなんですよ。
グローバル社会でインターネットでつながってインターネットで回ってる世の中ですけど、情報化社会っていうのはイコール言語化社会なんですよ。
というのは、情報化社会っていうのは言語化されてないものはその存在が認められない、ないものとされるっていうそういう社会なんですね。
なぜなら、情報イコールデータって言ってもいいと思うんで、情報ニアリーイコールデータなので、言語化されてないものはその情報化社会においては社会的に無視されるんですね。
ないものとされちゃうんですよ。だから権力論みたいな話で言うと、言語化できる人が権力をどんどん持って、言語化できない人は権力を持てないんですよね、情報化社会において。
なんとなくわかるじゃないですか、こういう話ね。だから言語化できる方が偉くて言語化できないしない人はダメみたいななんとなくそういう風潮が世の中にあるように僕には感じられているんですけど、皆さんはどう思いますかね。
そういう世の中に対して僕がなんとなく思っているのは、常日頃感じているのは、だけど言語化できるものの中には本物ってないよねって僕は思うんですよ。
言語化できるものの中には本物は存在しない。本物っていうのは真理と言ってもいいんですけど、言語化できたら真理ではないんですよ。
これちょっとね、ちょっとっていうかだいぶスピリチュアルですけど、曖昧で言語化しにくい感覚っていう、例えばね、言語化しにくいんで説明し難しいんですけど、
あの時言われたすっごい嬉しい言葉の価値だったりとか、あの時言われた人から言われたすっごい悔しかった言葉だったりとか、その悔しさを言葉できれいに表現することってできないじゃないですか、おそらく。できないと思うんですよね。
筆舌に尽くしがたいっていうやつですね。なんで筆舌に尽くしがたいかっていうと、それは感覚だからなんですよ。感覚っていうのはそもそももやっとしたもんで、曖昧なもので感じ取ることはできるんだけど、言語的にそこにアクセスをかけることは不可能なんですよ。
不可能っていうのはちょっと違うか。えっとね、無理やり言語化することもできるんだけど、言語化した瞬間、形、言葉っていう形式に翻訳した瞬間にそのもやもやした感覚、自分が感じた嬉しかったり悲しかったり悔しかったりっていうそういう感情感覚とは言葉にした瞬間に違うものになってるはずなんですよ、絶対。近似値ではあると思うんですけどね。
すっごい悲しかった人から言われた一言があったとして、それをあの時の私のこの感情はものすごい悲しかったんです、みたいな。
言うことはできるんだけど、すごく希釈されてるというか、全然そんなんじゃ伝えきれないなっていうのがあるじゃないですか。
で、もうちょっと言葉を繊細に語彙力を活用してね、表現を多彩に、多彩な表現の仕方で表現するっていうのはできると思うんですけど、それでもやっぱりね、どこまでいってもそれそのものじゃありえないんですよね、言葉にした瞬間に。
なんていうのかな、言葉でもって、これで私のあの時の表現はもう過不足なくきちんと伝えきれましたっていう状態に言葉っていう手段を使っている限り持っていくことは絶対にできないんだ、みたいな話です。
ちょっとあのなんかね、わかりにくい話をタラタラしちゃったかなと思うんですけど、つまり言いたいことはですね、言語ができない思いっていうのも、それはそれで大事なんですよっていうことを言いたいわけなんですよ。
言語化できない思いの価値と「適当人間」への提案
今言語化言語化、なんか言葉にしなきゃ価値がないみたいにともすれば言われてしまうような情報化社会にあって、でそのアポロン的なものっていうのはね、なんかね言い返しが難しいんですよ、なぜならアポロンでガチガチに固められちゃってるから。
なんか理屈としてはね、向こうに正義があるような、理があるような気がしてしまうんですけど、僕はそれに意を唱えたいっていうね、試みをここでやってるつもりです。
なんかわかんないんだけど、だけどちょっと違うよなっていう。
そう、つまり言いたいのは言語ができない思いっていうのもすごく大事なことなんですよってこと。
言語ができないもやもやした感覚とか思いとかそういうのも、それっていうのはね、言葉みたいに容易く取り扱うことは難しいものかもしれないんだけども、それでもその感覚それ自体の価値っていうのはとても価値ある素晴らしいものなんですよっていうことを僕は言いたいんですよ。
だから、言葉にできないからといってダメだとか思わないでほしいなっていう。
それはなんかその今の情報化社会の言語化言語化のうるさい社会洗脳の影響を受けているだけであって全然ダメじゃないんだよっていうことを言いたいわけです。
だって本当に価値があるのはそっちだからと僕は思ってますからね。
そっちっていうのは本当にあなたが感じた人生での熱量だったり悔しさだったりその心が動いたわけじゃないですか。それそのものが価値なんですよ。言葉にできなくったって。逆に言葉にできないからこそ本物じゃないですか。そういうことです。
伝わったら嬉しいなと思うんですけど。
じゃあこんな世の中だからじゃあどうしていくべきかっていう話を最後ちょろっとしていきます。
今までの話ね。アポロン的な言葉ですよね。言葉とか理性とか秩序とかそういうかっちり説明できるものだけが良いとされる。
世の中の中で流用におそすもやもやした感覚とかあなたが感じる居心地が良いとか悪いとかそういうものですよね。そういうものに価値を見出していく。そっちの価値を見直していくっていうために必要なことはじゃあどうしていくべきかっていうとですね。
これはいつも言ってる話に着地するんですけど。ネガティブなビリーフを手放していきましょう。ネガティブな思い込みを手放していきましょうっていうことになります。
つまりさっき言ったアポロン的なこうあるべきだとかこうであらねばならないとかこうすべきだみたいなこうしなきゃいけないみたいなそういう信念をどんどん手放して軽くなっていきましょうっていうことです。
これすごいもうちょっとゆるい言い方で言うともっと適当人間になっていきましょうっていう提案でもあるかなと思います。そう言ってもいいかなと思います。
ネガティブビリーフっていうのはこの文脈で言うとアポロン的なものしか良しとしない信念思い込みみたいなものでしたね。
具体的には例えば時間は守らなきゃダメですよとか人に迷惑をかけちゃいけませんよとか仕事はサボっちゃいけませんよとかそういう常識みたいなのがあるじゃないですか。
別に僕も基本的にこれらに同意はもちろんするんですけどこれらが間違っているとは思いませんよ。
だけどこれらが絶対的に真実かと言われればそれもちょっと違うんじゃないかなとは思うわけなんですよ。
時間守らなきゃダメとか人に迷惑をかけてはならないとか仕事はサボってはいけないとかそうなんだけどゼロイチじゃないんでこういうの。
どんな状況でもそうかと言われればそんなことはないじゃないですか。
人に迷惑をかけてはならないって基本的にはそうだと思いますけどこれを絶対の真実だとして受け入れられるかといえば僕は受け入れられないわけでなぜなら人に迷惑かけてない人間なんてこの世に一人もいないわけじゃないですか。
みんななんだろうこの3次元宇宙で質量を持って体積専有して息を吸って吐いて物を食べて生命活動している時点で絶対に他者に迷惑をかけていると言えるわけでそんなことを考えだしたら絶対にルールは守れないというかゼロイチじゃないわけなんですよね。
だから言いたいのはもっと余白を持たせるっていうかゆるく適当でいいんですよっていうことを言いたいわけです。
「ココヒシタフワヨ」を基準にネガティブビリーフを手放す
じゃあ適当人間で生きていく適当になっていきましょうネガティブなビリーフを手放していきましょうそのための基準はこれもいつも言っていることでコヒシタフワヨなんですよ。
つまりコヒシタフワヨで生きて自分の好きなこと嬉しいこと心地いいことを追求して生きていく中で居心地が悪いとかネガティブな思いが湧いたそういう居心地の悪さにあなたが遭遇したんだったらそれは絶対に何らかのネガティブなビリーフが反応している証拠なんですよ。
あなたがネガティブなビリーフを持っているからそこにフックが引っかかって居心地の悪さとして体験できているっていうことなんですよねちょっとスピリチュアル的に言うとね。
だからそのことを認めて手放す。
あなんか今居心地の悪さ感じたんだけどってことは自分の中にそういうネガティブな思い込みっていうのがまだあったんだなーっていうことにそれをきっかけに気づいていくってこと。
そのことを自分への罰とかね反省の材料とかじゃなくて好奇心の目でね見てみる観察してみるっていうそういうのがねすごい大事です。
すると外し合っていけますね。
こんな思い込みまだ持ってたんだみたいなね。
っていうことです。
より良い世の中と人生を楽しむためのメッセージ
こうしていくと個人の人生もどんどん適当人間になっていきますから別に何でも許せてくる余地が広がってきてね。
で、余白のある人生を楽しめるようになってくると。
そういう人たちが増えていけばアポロンアポロンしていたカッチリした世の中じゃなくなって、
僕みたいなこの配信みたいな適当なスタイルの世の中もねだんだんそういう適当なコンテンツがだんだん普及してきてね。
なんかねいい感じに適当でいい感じな世の中になっていくんじゃないのかなと思うわけです。
そんな感じで締めていきたいんですけどね。
あのアクアタイムズもですね。
人間ってそんな立派なものかい。人生ってそんなかっこいいものかいというふうに歌っています。
で、ブッダもですね。
人間なんて所詮クソ袋なんでみたいに言ってるんで。
つまり言いたいのは全然ね、人間完璧じゃないんですから。
完璧じゃないのを体験しにやってきてるんで。
だからアポロンアポロンして完璧にならなくていいんですよ全然。
だからもっとねテイクイットイージーで緩く楽しくいきましょう。
その方がきっと楽しいですよっていうそういう話でした。
はい、なくなりました。
配信の締めくくり
久しぶり配信の話は以上になります。
またねもしかしたら気まぐれになんか話したいなと思ったらこんなね取り留めのない話をしていくかもしれないのでよかったらまた聞いてください。
それではお聞きくださりましてどうもありがとうございました。