タスクシュートの活用
おはようございます。朝っぱらから精神分析第1255回をお送りします。
9月24日水曜日8時6分です。
えーっと、なんかこう、ちょっとぼんやりしてしまっていたんですけれども、多分昨日のタスク修度完全活用術の続編というのが終わりまして、
まあちょっと気抜けしたのかなという感じもしてます。
あそこでですね、自分はこう、マテブランコとかを出してきたりしてみたんですけど、どっちかっていうと終わってみると、
えーっと、割と直前にとっさに思いついたことだったりもしたんですけれどもね。だからまとまりの良い話ではなかったなぁと思ったんですが、でもまあまとまりが良くなかったのは、
あの、事前に必要な知識が、知識って言ったら、事前、何て言うのかな、前提となるべき知識が、この番組ではまあ繰り返し喋っているような話ではあるんですけど、ちょっとこう多く盛り込みすぎていまして、
まあ一言で結論を言うのはできるんですけどね、記録から落ちる時間を、あの、何て言うんですかね、記録から落ちる時間の意味と意義というものをもっと大切にしましょうっていう、
多分これだけでは何も伝わらないような結論だけ言うとそういうことになるんですけれども、まあそれってでもタスクシュートで24時間記録をすることが前提にあるみたいな話じゃないですか。
だからそういうふうに言ったんだったある意味、人がさらにその間に歯抜けのようなもの、つまりそこで記録がから漏れているか漏れていないまでも、
あまり意味のある記録になっていない部分、ここは非常にそういう生き方が多分その人の本質的な生き方に迫っているっていう話を昨日はしました。
ここをですね、今後タスクシュートで自分は拡張していくべきところだなと伝えていくならばですね、自分の使い方はもうほぼ完全にそうなっているんだけど、
これを人に伝わる形で伝えられるようにブラッシュアップして洗練させていくと、やること変わらないんですけど完全にやっていることではあるんですけれども、
要は記録を取らないところはすべてある種の休息時間になっているような、休息時間となると決まって記録から落ちているっていうのがほぼ無意識でできるようになったら完全かなというふうに思うようになりました。
この前段階にどうしても24時間で記録を取り尽くすっていうことができるようにならないと、これ時代はできるようにはなかなかならないんですけれども、
そこに本当にそこまですることはないじゃんって言われると、ないんですけどね、はっきり言って。ないんですけど、私はこれをやっているし、一つの形かなというふうに今は思っております。
対人関係のズレ
今日は全然違う話に行きたいと思うんですけれども、タスクシュートは完全活用術を持って一旦ここまでとして、また元に戻ってあさっぱらから精神分析なんですが、
最近ですね、ちょっと面白い、忘れてたんですけれどもね、対人関係の、その前に対象関係ってやつを、こうやっていろんな知識を前提として喋ってるから同じところをぐるぐる回ってるし時間切れになるわけですが、
対人関係の距離というものから、パーソナリティ障害みたいなものを測るっていう考え方が、久しぶりに読み直してみて、そっか、これは対象関係を言ってみれば距離に置き直しただけのようにも見えるけど、便利だなっていうかわかりやすくていいなって思ったんですよね。
これ考え出した人は、読んだ限り日本の臨床科の方なんですけど、外国にこういうのの元があるのかなと思っちゃうのが、検討士的なものの考え方の習慣なんだと思うんですけどね、その人がオリジナルで考えついたんだと思っておけばいいわけなんですけど、ついついオリジナルは、党の向こうに、当然ヨーロッパかアメリカってことの方が多いと思う、南米とかね、多いと思うんですけど、
検討士がいい考えを持って帰ってくるのが、この国の歴史的経緯なもんだから、ついつい思っちゃうわけですよね。コフートしかり、アドラしかり、フロイトもそうだし、まあこれは全部精神分析の話ですね。ユングもそうですよね。
えーと、まあいいや。それでですね、距離というのはつまり、まあその方ずれって表現されてたんですけど、詳しくは松木邦博さんの編集されたパーソナリティ障害への精神分析的アプローチかな、まあそういうシリーズだね。買うことないですよ、別に。高いし、そんなに面白いかって言われると、私はめっぽう面白いけど、一般的にはそうじゃないと思うんで、本当に。
あのー、僕ね、これあれなんですよね。臨床科の人だからといって、こういうの絶対読んでおいた方がいいんだろうかって考えるんですよね、最近。つくづく考えるんですよ。読むじゃないですか。そういうの面白いと思って、僕なんか読むわけで、しかもそれを、えーと、要するに3ヶ月チャレンジなどに、まあ活用させていただいております、申し訳ありませんみたいな、ちょっとね、あのー、そのうち何かでお返ししたいと思うんだけど、生きているうちにできるか、疑わしいものですって感じなんですが、
それはそれとして、読む、面白い、役にも立つ漢字しかしない、みたいな感じで、挑むわけですけど、望むわけですけど、いざお話を伺っているときは、別に、そんなに込み入った理屈はいらなかったりするんですよ。
正直言って、その、とっさに考えることとしては、いやもうそれは、あれでしょう、みたいな、それはもう、そのー、上司の人良くないでしょう、みたいな、もうそれだけでも、ある意味、いいじゃないですか、っていう感じ、だけどその方は上司が悪いというところに踏ん切りがつかないんだけど、それを別に上司が悪いということで踏ん切ってしまっておいて、あのー、いけると思います、みたいなのでも、いいケースはいっぱいあるわけですよ。
何か対象関係が、とか、やろうと思えばできますよ、多分ね。だけど、とっさにはできないし、あのー、込み入らせない方がいいときに込み入らせる必要って全然ないと思うんですよね。多分何かの役には立ってるんだけど、あのー、素晴らしい精緻なモデルが、まんま何かの相談ごとに適用できるケースっていうのは、本当にバレで、まあできるなーと思ったときっていうのは、もうすでに、かなりややこしい話になってしまっているということが、
少なくないわけですね。と考えていくと、多くの場合はあれは、まあ、私にとってすらですね、読み物なんだよなという感じになるわけですよね。これは、あのー、あれですよ、役にめちゃくちゃお前使ってるくせに何を言うかって感じなんだけど、そういうことではなくて、えっとー、普通の相談ごとは普通に相談に乗っているということでも、まあ、ある意味十分といえば十分で、これを持ってることによって、
思いがけないヒントになるということが、えっとー、10回に1回でもある、まあ1割って、実は相当高い確率だと思うんですけど、あのー、バッターボックスのバッタと似てるんですよね。あのー、今年なんかロッテの応援とかしてるから、チームダリスターに、見てる限り1割台じゃねえかって感じがするぐらい打てないわけですよ。
なんかヒットが出たら、すごい嬉しくなるぐらいなファンとしてはね、なんか普通に3アンダー無得点とかの試合をいっぱい見てきたんで、トータルで見るとそんなにひどくはないんですけどね、これも不思議ですよね。でも、あのー、本当に相手のピッチャーがいいピッチャーだったりすると、宮城さんとかだったりすると、もうなんかゼロがずーっと並んでるのが当然ですみたいな感じになって、言ってしまうわけですよ。すいませんね、あのー、ロッテの話ばっかりしている上に、ロッテファンの人にも申し訳ないし、ロッテの選手の人にも申し訳ない話なんですけど、
何しろ今年はですね、勝率4割切ってたんでフラストレーション溜まるんですよ。5回に2回しか勝てないっていうのは、ファンの目線からするとほぼ常に負けてるって感じなんですよ。まあいいんですけど、しゃあないんでね。
えーと、何の話をしているかというと、ヒットってほとんど出ないんですよ、野球見てるとね。ほぼボンダーを見ることになる。で、ファン目線で見ると、なんかもう1割も打ってる感じってしないんですよね。
だからもうですね、あのー、臨床の世界ってきっとこれとすごい似てるんだろうなと。私のような、いわゆる普通の相談系の人間だとしても、まあやっぱファールってなると、よしファール打てたみたいな、そういう感じになっちゃうんですよ。
あの、もうボールってなると、いやもうボール振らなかったから俺偉いみたいな、そういう感じで、法案とかあるんだけどないわけじゃないんですけど、
今年ね、あのね、ロッテではすごいこう西野清宮とか言われていて、えーと、すごい期待されていた安田というスラッカー、スラッカーとあえて言っておきますが、まだホームランが出てないんですよ。
ほとんど試合出てないとかならわかるんですけど、そこではないだけに、なかなか心配なわけですけど、でもまあ、ヒットが全然出てないとかそういうわけでもないんで、なかなかこう、あれだと、ご本人が一番こういうフラストレーションあると思うんですけど、
私もやっぱりこう、いや最近全然ホームラン出てませんよねっていう感じで、最近ずっとボンタイしてますよね。まあそういうことはあるんですけど、そういう意味で松木さんとか美音とかが、思わしくない仕事ってこれを名付けたんだなぁと思う。そんなことはないんですけどね。
だってバッターボックスってみんな立ちたいじゃないですか。10回に8回は失敗することがほぼ明らかな選手だって、絶対打つのが楽しいと思うんですよ野球って。
めったなことでは守備が楽しいってことにはならないスポーツなんですよね。ピッチャーはちょっと別として、キャッチャーも別としてね。大体はやっぱりバッティングしなくて野球やるもんだと思うんですよね。
10回に8回は失敗するとしても、だからそれが思わしくないということになるかどうかはまた別の問題だ。あとファーボールってすっごい野球の攻撃的に価値は高いと思うんですけど、
やってる側はファーボール取るって全然面白くないですよね。草野球とかでファーボールのほんと、ファーボールを選ぶくらいならなんかもうフォームランをブンブン狙って三振するとかのほうが、だからそういうわけで相手のピッチャーがまともになると草野球って三振の山になっているような気がするんですけど。
急な話が続いてますが、元に戻すとして、ラグとか書かれてたんですけど、つまり人と調子が合わないってことですよね。そういうことを訴えられる方ってよくいらっしゃるじゃないですか。
僕はこれを業理の中核の話に持ってきたっていうのはあんまり見たことがなくて、いや実は普通なのかもしれないけど、対象関係のこれは話だなと僕は思っちゃうんですけど、でも結局人と調子が合わないっていうのは
3通り考えられるじゃないですか。相手がそもそもずれているっていう場合と、自分がそもそもずれている。自分がちょっとおかしいから人と調子が合わないんだよね。これを言う人はいっぱいいますけど、内心どう思ってるかはまた別に。
そうではなくて、この関係がそもそもあっていないっていう場合。この3つ。この3つで、まあこの3つは典型的な3つなんですけど、
業理を分けて考えているわけですよ。そうするとある意味、スキゾイドみたいな感じの人っていうのは全部他人のせいにしているわけですね。
だけどここで忘れてはいけないのは、人間関係をこじらせたいと思っている人は原則いないわけですね。
あのこじらせまくってるじゃんっていう人だとしてもですよ。絶対に人間関係はいいものでありたいとやっぱ内心の奥底では思ってるんですよ。人間なんで。
で、人間関係がいいものでありたいと思っている、しかし基本的には自分は正常だが他の人間はみんな狂っているっていうことになった場合ですね。
人間関係のこじれ
なるべく原因は遠くに遠くに置くべきだっていう発想になるって、これは私は大変興味深い発想だと思ったんですね。
だからそれをスキゾイドって言うんでしょって言われるとそうなんだけど、専門的にはそうなんですけど、パッとで考えるとわかりやすいじゃないですかこれって。
臨床で考え出されたことだような気がするんですよね。あのオレンジ色の雑誌にあったやつとよく似てる気がするんですよ。
あの山崎隆さんと戸畑隼さんが、編集は山崎さんなのかわかんないけど、とにかくこのテクニック、臨床で使えるちょっとしたテクニックみたいな、全然ちょっとしたテクニックじゃなかったなと思ったことが多かったんですけど、
これをちょっとしたテクニックというよりもすごい良いなと思ったんですよね。つまりこの人は他人のせいに全部するんだなと、自分は結局正常だと思ってるんだなっていう人が、いかにもスキゾイドっぽい態度になるのは当然だと思うんですね。
要するに人間関係をこじらせたくないわけじゃないですか。いやいやあのオレ正常だけどお前らみんな狂ってるからってすぐダメになるじゃん。関係できないですよね、そんなことを言ってしまったら。
そういう態度にも出せないじゃないですか。こういう人だから工夫すると思うんですよ。どういう工夫をするかというと、例えば、いやあのそもそも人間とはエゴイスティックなものなんだみたいな、なんかこう人間法則論みたいなものを持ち出そうとすると、遠くになるべく原因を置きたいということになってくると、つまり遠くに原因が置かれているということはですね、法則とかが遠いわけじゃないですか。その人が悪いわけじゃないから。
人間法則として人間とはそもそも人と仲良くはできないものなんだよということにしてしまえばですね、そうすると今度は相手のせいであるではなくて法則のせいだから、相手よりも向こう側に原因が行っちゃうわけですね。この法則には自分も縛られてるはずなんだけど、それは隠すわけですよね。本当の事故と偽りの事故みたいなものを思い出させるんだけど、だからやっぱりスキーゾイドっぽいんですよね。
自分のその悪い部分は押し入れの奥にしまっておきました。要するに万能空想の世界みたいなやつは本当の事故、奥の方にしまってありますと。で、相手が悪いんだけど、でも相手は悪くなくて、それは自然法則みたいな人間法則だからしゃあないよねと。だからここで人間法則に基づくエゴイストと全てを隠している私と、つまり偽りの事故とがここで仲良くまあまあ、ものの分かった大人同士仲良くやっていきましょうと。
つまり非常にこうある意味表層的な付き合いになっちゃうんだけど、これはうまく表面的には行きますという、こういうやり方で人と付き合うっていうのがスキーゾイドっぽさっていうやつだなっていう、等意味ですよ。要するに原因が。何が問題かってこじれることじゃないですか。人間関係が悪くなることじゃないですか。
その悪くなる原因の、悪の原因は僕においてあるっていうのがスキーゾイドっぽさなんですよね。等意、お互いに等意。だから本当の触れ合いがそこにはすごい希薄になるんだけど、でも表面的には友好関係が結構築けるという感じ。孤独な感じがするんだけれども、意外に友達は多いとかね、そういうことが起きるわけですよね。
で、真逆が考えられますよね。全部私が悪いんです。これなんか恋愛で別れるときにこれを振りかざしがちな人っていますよね。全部私が悪いのみたいなことを言ったり、全部俺が悪いからみたいなこと、あなたは何も悪くないとか言いながら別れる。要するにこじれてはいるわけですよ。
人間関係を良好にしておきたいから、この別れの修羅場みたいなのは嫌だから、とにかく全原因を自分に引っ張り込むという非常に鬱的なスタイルですよね。欲鬱的な。だからさっきのスキーゾイドのようなめっちゃ遠くに送ってるのと真逆にめっちゃ引き付けるわけですよね。
人間関係が悪くなることに対する対応の仕方だから悪いことが、もう人間関係がこじれたことが前提で、スキーゾイドの人の場合はこじれはしないんだけれども、そもそも触れ合えないみたいな話になってるわけですね。一方でこの欲鬱型の人はこじれはしないんだけど、全原因、全悪の原因は私に、私が引き受けなきゃならない。だからすごい極端な場合、相手の男の人が浮気しましたみたいな。いや私が悪いからとかって言って別れるわけですよ。
悪いのは相手じゃないわけですよ。いや私に魅力がないからとかなんとか言って、とにかく全原因は自分にあるということにして引き下がっていくっていう、こういう考え方があるわけですね。
だから関係の中に置くのが正常じゃんって思うかもしれないけど、そうではないんですよね。ちなみに最初のがスキーゾイドっぽいですよね。全部の原因を自分に引っ張り込むと、欲鬱とか鬱の方になっていきますよね。どうしても自罰的になっていきますから。
本当はそうは思ってないと思うんだけど、マゾキスティックな感じもしますよね。で、中間に置くといいのかっていうと、中間に置くとボーダーっぽくなりますよね。どういうことかっていうと、私とあなたのどっちかが悪いのではなく、この関係がいけないんだっていうのは至って妥当で真っ当な感じがするんだけど、これはこじれているということの問題なんですよ。
こじれをどう考えるかっていう問題なんで、うまくいってるんだが何も考える必要ないんで、どこに原因があるか、うまくいく原因を探りましょうとか、さほどいらないと思うんですね。うまくいかない原因を我々は知りたいわけだ。で、うまくいかない原因はお互いが要するに相性が悪いんですっていう話にするのがこの中間に置くやり方なんだけど、ある意味これはボーダーっぽさが出てくるわけですよ。
だからボーダーっぽさって普通の人間関係がこじれた時の状態だと私はよく思うことがあるんですけれども、要するに両方が悪いとか両方の中間に問題があるという言い方っていうのは、極端に言うとこじれた時、こじれそうになった時、こじれることがすごい恐ろしい人にとっては特にそうするんだけど、こじれそうになった時、中間に爆弾を置けばいいってことになっちゃうわけですよね。
ある意味マッチポンプ的になっていくわけですよ。つまり真ん中に爆弾を、例えばお互いの間に爆弾をドーンと置いてドカーンってなって二人とも吹っ飛びましたみたいになるわけですよね。もう痛かった、あなたも痛かったでしょ、私たち付き合えないよねみたいなそういう感じ、こういう別れ方みたいな、こういう関係のこじらせ方を繰り返す人もいらっしゃいますよね。
実は私が多少そういうところがあったんですよ。私、隙ぞいどっぽい方がはるかに多いんだけど、要するに人間とはそもそもエゴイズムであるみたいな、そういう人間法則みたいなのを持ち出すことによって本音を出せなくなるわけですね。本音は出さずに付き合うのが大人の付き合いでしょうみたいな感じになって、表面的な付き合い方に終始するわけですね。これが隙ぞいどっぽさですよね。
理想化と脱価値化
この3者に共通しているのは結局のところ、人間関係のこじれというものに直面したくない臆病さみたいなものなので、別にどれも違いはないと言えばないんですけど、そのスタイルが違うということなんですね。要は付き合いたくないという部分があるわけですよ、怖いから。
真ん中に置くというのはつまり問題を作り出すという面が出てきてしまうわけです。真ん中に置けば、真ん中に問題がないならば作ってても、なんか不穏な空気を感じたら、これがもう別れ話に展開していくのが恐ろしいので、だったら壊そうってことなんですね。
それが中間に置くってことじゃないですか。例えばちょっと挑発して相手を怒らせると、そうすると、私たち相性が悪いと、あなたは別にそんなに悪くはないんだけど、でもこの程度のことで怒っちゃったし、で、怒らせたのは私だし、みたいな感じで作り出すことができるわけじゃないですか。
で、作り出すということになってくれば、作り出そうと思えば作り出すネタなんて、人間関係、特にこの関係が深まれば深まるほど、いくらでも作り出せますから、あの、例えば、なんだろうな、いや、だからやっぱり恋愛が多いんですよね。恋愛ってもうボーダーの世界だと私は思うんで、恋愛っていうのは本当に境界性パーソナリティ障害を自分たちでやるようなもんだなってよく思うんですよ。
だって、我慢できないことってどうしたってあるじゃないですか。例えばあなたのおならが臭いとか、そういうことだって言えちゃうわけじゃないですか。何だって言えちゃうわけじゃないですか。極端に言うと。で、例えばこういう切り出し方をすると思うんですよ。ずっと我慢してたんだけどさ、とかって言うわけですよ。ずっと我慢してたって言われると、言われる方は相当傷つくじゃないですか。でもこんなこと言っちゃう、私が悪いよね、ごめんね、みたいな、これを繰り返せば、2、3回やれば、人間関係絶対こじれると思うんですね。
このこじれを作り出すというやり方によって、人間関係の我慢のならなさというものを対処する。私が悪いわけではないし、あなたが悪いわけでもないんだけど、相性が悪いみたいな言い方。言い方としては妥当なんだけれども、これを繰り返すことによって人間関係を頻繁に壊していくということは、つまりある種の耐えがたさを、人間というものに対する耐えがたさがそこにあるということになりますよね。
これの明けというのかが、いわゆる理想化と脱価値化で、相手の方に全原因を置いてみたり、自分の方に全原因を置いてみたりするのを、極端に言ったり来たりするわけですよね。だから最初は相手を理想化するわけですよ、多くの場合。そうしないと人間関係始まらないので、あの人は私にないものを全部持っていて、とても素晴らしいみたいにするわけですよね。
私はそれに比べて全然ダメで、こんな私と付き合ってくれるんだから、あの人は本当に素晴らしいみたいな。つまり、ものはいいようなんですよ、これは。原因なんて本当はないわけなんで。
ものはいいようで、相手をうんと高めれば、自分をうんと低めて相手をうんと高めればですね、あらゆることがそこの理屈では成立するように持っていけるということですね。でもこれをやるということは、ちょっとイラッとすると全部逆転しうるってことになりますよね。
あの、実はあの人は友達付き合いがほとんどできなくて、あの人と本気で付き合ってるのは私ぐらいなもので、みたいな。さっきと同じことを違う言い方してるだけじゃないですか、これは。
私のような人間と付き合ってくれる、あの人は本当に素晴らしいだったのを、ただ、私だから我慢できている、相手は本当に最低だっていうのは実によく似てるんですよね、実はね。
ここしか人間関係がないっていうのを、あるいはここしか本当の意味では濃密に成立しないって言ってる人間関係について、違う観点から述べているだけなんだけど、理想化と脱化しか真逆になってるわけですね。
だから、あの、この関係がうまくいかない前原因は私にありましたから、ゲロから、いきなりこの関係がうまくいかない前原因はお前にありますに変わるわけですね。真逆になるわけです。
これがつまり、こじれたときの対処の仕方なんですよ。これはでも、相性という言い方のすごい極端なバージョンだとも考えられますよね。だから、これもすごくボーダーっぽさというものを感じられるんだけど、でですね、今のこれは全て自分がやってますよね。原因をどこに置くかを自分がただサブっているにすぎませんよね。
ところが、ここでナルシシズムって問題が僕は出てくるとよく思うんですよ。これがあくまでも外的な原因であるというふうに信じられるほどナルシシズムの病理は深いということになると思うんです。
ナルシシズムの理解
あのナルシシズムってやっぱりナルキッソスの話が秀逸で、要するにあれは自分というものを他人に投影してにもかかわらず、それのことに気づかないほど病理は深いってことになるわけですよね。鏡に映った自分に見惚れて死んじゃうっていうのは、つまり、鏡に映った自分なんじゃないですか。問題はそれに気づくかどうかの問題なんですよね。
あのナルキッソスは、まああれは罰でそうなってるんだけど、気づくことができないわけですよ。だから、わあ、素晴らしいっていうのは他者に見えてるわけですよ。これが一番ナルシシスティックじゃないですか。自分というものが存在していることを知らないんですよ。そして自分に惚れると。だから絶対に自分から外に出ることができないわけですよね。鏡ってのはもう投影の局地なんで、鏡を見るってことはできませんよね。鏡を見ちゃったら自分を見ることになってしまう。
これは鏡であって、映ってるのは私なんであって他人じゃないんだって、まあ普通は気づきますが、これに気づくことができないというのがナルシシズムなんですよ。だから結局自作自演っていうのが一番わかりやすいですけれども、あなたと私の間に爆弾を置いて、この爆弾を置いたのはすっかり忘れてましたっていう話なわけですよ。
なんでここに爆弾あるのかしらっていうのに巻き込まれて、ここに爆弾があるようでは私たちは付き合いませんねって言ってるんだけど、いや置いたのはあなただからっていうこれが忘れられているわけですよね。つまり鏡に映った自分を他人だと思っちゃってるわけですね。原因というものを自分が置いたのにその原因は外的な原因だと思い込むわけですよ。
ナルシシズムには今では二通りあるとされておりまして、厚皮と薄皮って言うんですけど、この薄皮ってやつがね、私は仕事術でもライフハックでもめちゃめちゃ出てくるなって思うんですよ。薄皮のナルシシズムっぽい話だなって思うんですよね。それは花瓶と言われるわけですよ。でも花瓶って言い方はとてもおかしいわけじゃないですか。自分で他人に投影しておきながら花瓶って話になってるわけですよ。
他の人は気づかないけど、あの人の怒りに私は気づいているって言っておきながら、実はそれは自分がただ相手に怒りを投影しているだけかもしれないわけですよね。関係が壊れるのは怖いので。
例えばその会社での上司なりに、ある程度以上に好意っていうか、性的な話じゃなくてもね、好意を持ってるわけじゃないですか。持ってるとしましょう。で、その課長に批判されたりするのはとても怖いことですよね。そうなってくると。
で、このことに気づかないと、つまり自分が好きだからその人にちょっとでも仕事の批判されると辛いということに気づかないと、花瓶ということにしてしまうと。してしまっても不思議ではないですよね。
あの上司がちょっと右の眉毛を少し下げるということは、仕事が気に入っていないという合図だみたいな。それはあなたが勝手にそういうふうに見えてるだけなんだけどっていうわけにはいかないわけですよ。気づかない場合には。
で、その人に嫌われたくないという気持ちが、こういうアンテナの話し方をするわけですから。つまりアンテナの中には、アンテナである場合もあれば、ここが問題なんですよね。本当の原因が外にあるかうちにあるかは、我々は本当はわからないわけですね。究極的にはそうですよね。
この話、私よくプレゼンの準備の話でします。つまりプレゼンの準備を何時間もかけてして、これならいいだろうというのって自己ジャッジだから本当は。何時間かけようともこれならいいことにはならないし、そういう意味ではかけた時間というものが全てではないはずなんだけど、でも我々は究極的にはわからないわけです。
アンケート取ったって、全員嘘をつくかもしれない。そんなことはあんまりなさそうですけど、結局のところ満足しました。5段階で5ですって言っても、実はこいつに内心ではチッと思って位置つけてるに違いないっていう風になればですね。つまりどこまででも行けるわけじゃないですか。これは結局のところ、究極の証拠は得られないということになりますよね。だから我々はどこかに原因になるものを置くわけですよ。
他者が本当に自分を批判しているのか、それとも自分の考え過ぎなのか、自分が相手とずれているのか、相手が自分とずれているのか、究極的にはわかんないですよね。ここに対処関係みたいな話も出てくるはずですよね、本当は。つまり自分は対処を通じて人と接してしまうので、我々は。もちろんそれは相手とちゃんと外的対処とか言ったりしますけども、
相手の本当の姿に近いものを見ているという場合もあるでしょうし、ほとんど相手に対して100%に近いぐらい自分のイメージを勝手に投影しているだけの場合もあるでしょうし、それはもうその人その人というよりはその時々だと思うんですよね。だってやりますからね、やっぱりね。例えば私なんかでもそうですけど、母に似た顔の人とかってしょっちゅうやっちゃいますからね。母に顔に似てるだけでなんだって言うんだって、母に似てるってことにならないじゃないですか。
しかもよくよく見るとちっとも似てなかったり平気でするわけですよ。そういう投影ってのはその時々その人その人のその時々との調子とか色々な事情とかによるんで、ただ全くしないってことはないと思うんですね。対象関係って結局はその人の記憶を対人関係なり近くなりに投影するってことですから、しなければ我々例えばあれですよね。
あのナスが鳴ってるみたいなのを見てもわからないってことになっちゃいますよね。子供はナスが鳴ってるのを見ても全く何もわかんないわけじゃないですか。それはどうしてかっていうと、知識と記憶がそこにないからで、知識と記憶を投影するからこそそのナスならナスのこう苗みたいなものと私の関係、特定の関係、これを買って帰りたいというふうに関係づけるとか、これが対象関係ってものだと思うんですけれども、
特定の対象との私との関係を特別な意味をつける、あるいは特別な文脈のもとに置くっていうそういうことだと思うんですよね。で、思いっきり内的対象になってくるともう私の記憶と私の知識がすべてみたいに、だから心理カウンセリングでもよく今占められてますよね。特定のレッテルバリをするなと。すぐにこの人はアナルシシスティックなディスオーダーですね。
その場合はこうこうこうこういうふうに対応するみたいな、マニュアル的な対応をしたがるという。しかもそのバリエーションはだいたい狭いということになるって話ですよね。それは自分の内部の知識をなるべく当てはまりそうなものには無理やりでも当てはめようとするからっていうことになるんだけど、これはだからある種ナルシシズムってことになると思うんですよ。ナルシシズムと対象関係っていうのは僕は間違いなく同じような意味だと思うし、特にそこに部分対象、その人の特定の部分だけを、
投影していくっていうことですよね。 だから自分がその人を好きだと思ってるっていうのがもうすでに前面に出ているっていうのはめちゃくちゃナルシシスティックなわけですよ。
その人は私が好きな人っていう存在でしかないっていうことですよね。 だけどこういうものがないと恋愛とかって発展しないことがほとんどだと思うんですよね。
そんな超冷静に見ていたら、恋愛感情なんて発展のさせようがないじゃないですか。 だから結局このズレっていう、ズレっていうのはこの対象関係みたいなものを持ってるから我々はズレていくしかないんですけど、このズレを大変恐れている人もいらっしゃるわけだけど、ズレは絶対にあるわけですよ。
実際のところ。ズレがないっていうのがおかしな話で、私とこの人の間にはズレがある。どっちがいけないんだろうって考え方は本当はおかしいわけですよ。
だから中間にあるっていうボーダー的な発想っていうのは正しいんだけども、この中間にあるというのは注意して使わないとどっちかにあるよりもまずい結果を生み出しかねないところはあるわけですよね。
中間にあるに決まってるんだけども、つまりお互いがどちらかの規範ではない以上はズレていなければいけないんですけど、このズレは事故の確認にまず用いるっていうのが常識的ですけど必要なんだと思うんですよね。
つまりズレてるってことは自分ってものがあるってことじゃないですか。相手に完全に合わせて相手の鏡みたいになっちゃったら相手に合わせるって言いますよね。もうどう考えても自分ってものを消していくしかないわけですよね。事故抹消的な世界に入るわけですね。
自分を相手に合わせさせるということになるとこれはつまり古代型のナルシズムってことになるんだけど、これもどう考えても無理があるわけじゃないですか。
全てお前らは俺に合わせろってやつですよね。滅多に最近そういうことを主張する人は増えなくなってきましたけど、どっちも嫌だから多くの場合、なぜこれをやるかというと結局こじれるからなんですけど、調子が合わないとこじれるからなんですけど、
大抵の人はどっちも嫌だから、自分殺すの嫌だし、相手を強引にコントロールするのも嫌なので、結局何をやるかというと両方嫌な人は距離を空けるってことになるわけですよ。スキゾイド化するわけですよね。そしてそれはナルシシズム化でもあるわけですよね、ある意味では。
自分の世界に入っていくわけですからね、当然。人と調子がずれているというのは自然現象に近いものなんだけれども、これも非常にスキゾイドっぽい言い方になるんですけどね。つまり人間関係の外に原因を私は今置こうとしているわけですよ。でもずれているというのは必然じゃないですか。
自他の区別
だからずれなかったら自分と他人の違いがないってことになってしまうんで、これがだから途中言った通り全部私が悪い世界なわけですよ。自他の距離がないというか、自他の区別がないというか、あってはいけないというか、あるということがすでに悪であるみたいになってるわけですよね。
だから自他の区別が全然ない世界というのは非常に抑鬱的になりやすいわけですね。こじれたときには自他が完全にくっついちゃってる世界においては、悪は全部自分が引き受けるしかなくなってしまうので、つまり自罰に走るしかなくなってしまう。自責と自罰ですよね。
だから当然自分ってひどいダメな人間だってことになってうつうつとしていくというのは必然的に起きる。自分と他人の間はずれてるわけですから。ぴったり揃っていたら変ですから。何回か僕はこの番組で喋っている、使ったことのないあんまり、関西でニコイチと言うそうですけれども、そういう人を見つけ出すことはできますよね。これも非常に対照的ですよね。
ものすごく上がる二人。なんだけどこの二人は二人でしか付き合えないみたいな不思議な世界に入っていくわけですよ。これは要するに当然相性の問題あると思うんだけど、この二人はお互いが気分がいい気分が悪いといういわゆる地雷がよく似てるみたいな話ですけど、そういう壺がよく似ているためにぴったり合わせることができる。
そうするとその二人は事故になり、それ以外が他者になっていく世界なんだと思うんですよね。でそれ以外の他者は当然ずれてますから、いやあいつらダメだよねって、我々はとても正しいとお互いお互いが規範にするみたいな感じで、しかもそれに合わせるのはすごい気分がいいわけですよ。
そういう人間関係ってあると思うんですけど、なんていうんだろうな独特ですよね。独特のナルシシズムって感じはします。でこの説明って結局でもそもそもそのずれ何なのっていうところに対照関係があったはずなので、あのずれで説明するというのはある意味ずるいなって感じもしなくはないんだけど、でもこの感覚は自分と他人がずれている。
人に合わせる。自分に合わせさせる。そしてお互いの関係性というものに問題を見る。あるいは相手にやたら合わせていたのが急にそれが嫌になる。要するにあの双極の触れみたいなやつが基本的にこれで説明できちゃうんで便利だなと思うわけです。
でこれによって動くわけですよね。最初はすごいスキゾリドっぽく人外に全ての原因を置いていた人が。だからあれですよスキゾリドっていうのは究極の精神病的なレベルまで入っていってしまうと統合主張症の世界に入っていっちゃうんですけどそれは人外に原因が置かれているからですよね。
全原因を人に置きたくないっていう気持ちが強すぎてつまりそれは人間関係に対する恐れがすごい強いってことで。で万能空想かそれともATMが見張っている世界のどっちかに行くことになるわけです。人外なんで悪い原因が人間関係の外にありそれらが人間関係を悪化させるということになってくると物とか宇宙空間とかそういったことになっていくわけじゃないですか。
超自然現象みたいなある意味ではね。だから私の心が読み取られてしまう。これではとても人間関係はやってられないみたいなそういう非常にこう要するに無限の遠くに置かれたわけですよね。悪化する原因が。
そして良い私を守るっていう意味での良い私は本当に家の奥のある部屋のある空間に限定されてそこは他者に触れさせてはならないみたいな感じになってくるわけですよ。
妄想性がすごい強いという言い方もできますけどしかし人とのズレが怖いというのは決して我々はおかしくないじゃないですか。共感性周知とか言ってなんかそういうものをあえて何としてでも外に置こうみたいな発想って後を絶たないですよね。
心理的安全性みたいなのもそうですけどここだけは安全な場所として作り出し悪いものはその外に置いておくことにしようっていう考え方ですよね。超気をつけましょうみたいなある意味そういう考え方だと思うんだけどこれって結局はいずれにしてもこれらをやっていくということはやっぱり我々からすると我々はみんなある意味ではこの小じれを何とかしたいとできればあの分割排除したいわけですよ。
不快不快で言えば不快に決まってるんで人間関係の難しさっていうのはこれを分割し排除したいと。だから統合していくってことは結局その不快を引き受けるってことになるのでここが我々がやりたくないことなわけですよね。
無意識の状態と心理的安全性
コンテインしましょうとかホールディングしましょうとか全部同じことでこの不快というものを引き受けましょうっていう話になってしまいがちなんですよ。でまぁちょっとあの画伝引水的になりましたけどたまたまなつもりなんですけど私が昨日タスクシュートの完全活用術でしゃべったことってそれはしかし大変なのでそもそもそういうことをあんまり無理してやらないで済むようにするにはどうしたらいいんだろうかっていうのを考えると
ときにその無意識がだらっとっていうのかなつまりこれが記録に残らない時間なんですけど記録に残らないようなだらっとした状態というものを引き込んでくればですねつまり我々はある意味ではゼロ歳児まで対抗していくような状態に接近していけば寝てるときがそうなんですけれどもこれを果たすことが少しでも少しでもできればどうかというのを考えたときに
今までの話と何ら逆になっちゃってるだけで昨日ここが一番お伝えしにくかったんですよつまりこれはですねなぜ分割排除したのか分別をつけるためなんですよ分別というものを持たないでいい時間にはとにかくその理由は問わぬ持たないとそういう時は心理的安全性が当然確保されているはずなんだけど
安全性を確保してからはやれやれになるんじゃなくてとにかくどんな時にせよはやれやれに慣れているときはもうそれを邪魔しないと心理的安全性とかはその場合には多分確保されているんだろうぐらいに思っておくとこのぐらいまである種の信頼ができるチャンスをとにかくどんなシーンでも逃さずにどんどんどんどん
だらっと過ごしてみるっていうことなんですよね
昨日言ったのはそういうことなんですよ
これは私が多分3ヶ月チャレンジで培いつつあることなんですよ
あのだんだんだんだん時々なんですけど本当に時々できるようになってきたのが気を張らないようなセッションの場合なんですけれども
なんかこう白昼夢を見るんですよね
寝てはいないんですよ
寝てるんだろうって言われると非常に困るんだけど寝てはいないんですよ
寝てれば夢を見るんで
その差が歴然としているんで
白昼夢と夢は違うんですよ
まだ僕うまくやれてないから変な感じになっちゃって気持ちが悪いんだけれども
ウトウトみたいなのと限りなく近いんですけど
ウトウトではなくて白昼夢を見てるんですよね
つまり無意識と自意識の結構がある条件に入るとですね
白昼夢を見るんだなってことがわかったんですよ
これと幻覚はどう違うんだって言われると本当に難しいんですけど
まず僕は何かを見えてないんですよ
だから説明できないんですよね
言ってみればベータ要素のベータスクリーンみたいなものでして
気持ちのいいもんではないんですよ
考えられていない光景っていうものがなんとなく注いでくるって感じなんですよね
眠ってるようにはために見える時もあると思うんですけど
眠ってはいないですよ
眠っていれば特にああいう段階で眠ると夢を見てしまうんで
夢と白昼夢って違うんだなということに気づいたんですよ
あれは究極のダラッとなんですよね
なんて言えばいいのかわからないですけどね
一つ例を挙げますと本当に変な話なんですけど
相手の方のお話を伺ってるじゃないですか
何の話でもいいんですけれども
実家の話みたいなのを聞いてると
にょろぎょろっとした
ヘビとも巨大なミミズともつかない白っぽいものが
ふわーっとこう
宙空を漂ってきているような感じがするようなものを
意識しながら
でも相手のお話は全部
なんなら文字起こしの文字を時々読んでることもあるんですけれども
それは声が聞き取りにくいなって思った時に
時々文字起こしに切り替えるんですよ
相手の画面をそのままにしてその上に文字起こしを上げていくんですけど
そうすると声が入ってくるんですよ
かつ白昼夢を見るんですよね
私の中ではフロイトが
藤山直樹さんがそういう無理なことをフロイトは言ってるんだって
言ってる無理なことの一つの
平等に漂う注意とか言うやつなんですよね
近いなって感じがするんですよ
なんかね
無意識っていうものがのさばり出してくるみたいな
普通の人がだらだら過ごしてしまうって言ってる時間の
感覚とほとんど合致します
なんか3時間も意味のテレビを見てしまったみたいな感じと似てる
これを私はものすごく大事な時間なんだということに
最近気づいたんですよ本当の意味で
昔はそれはなんか大事な気がするから
むやみに減らさない方がいいですよとか
そういう時間について自責しない方がいいですよというのが
精いっぱいだったんだけど
身近くていいからそういう時間を
取らないとダメだみたいな
休息時間とかって言われてはいるんだけど
休憩だけではないんですよね
無意識の時間なんですよ
白昼夢の重要性と体験
あえて言うならば
我々は仕事は無意識でできないんで
意識するしかないんで
現実現復を意識してしかできないんで
意識の時間をのさばらせすぎてはいけないんだなっていうのが
最近わかったんですね完全に
このハクチュームはどういうふうに役に立ってるかって
説明できないんですよ
何しろさっき言ったみたいに変な抽象絵画みたいなものが
脳内を巡ってるだけなんで
この間サンダルのようなものが
サンダルじゃないんですよ
サンダルのようなものが天井の方から
天井じゃないんですよ
落ちてきたっていう感じを抱いたんですよ
それがその人とのセッションにおいては
非常に大事な意味を持ってたんですけど
どういうことなのか説明できないんですよ残念ながら
そのうちできるようになるんじゃないかと
期待してるんですけど
今のところできないんですよね
ただただハクチュームっていうのが
最も適切な表現なんですね
本当の意味で
無意識の活動ってこういうもんなんだなとしか
言いようがない
なんか一番近いのがだから寝てるんでしょって
言われたくないんだけど
寝入り花の感じなんですよね
あるいは起きたと思ったんだけど
実は夢を見ていた時の感じ
ただあれに比べると相手が喋っているというのを
はっきり聞いてるし
はっきり聞いてる認識あるんですよね
文字も読んでるし夢は見てないんですよね
夢は見えない
何も見てない聞こえもしない
ただ感覚があるんだよ
だからメーター要素なんですよ
考えることができない何かな
そしてあんまり気持ちのいいもんじゃないですよ
やっぱ考えられないものっていうの
夢っていうのはナラティブがあるじゃないですか
できないこともありますけど
物語化して記録に残すこともできるじゃないですか
今の段階で私のハクチュームってな
記録に残すことは決してできないんですよね
それが何である
さっき言ったようなサンダルのような
ヤモリのような
長靴のような
サンタクロースのようなものなんですよ
こんなものは記述できないじゃないですか
天井の方からと言ったけれども
ただ中空を漂ってるような
しかし落ちてきている感じがするようなものなんですよ
そういうのがフッとこう感じられた時に
ああそっかその話はこうですねみたいなのを言うと
いいんですよ