すごい外、風が強くて、 口座がブンブン丸ですね。今日はね。
なんでこんなに花粉症あったのに、くしゃみでになろうと思ったけど、 口座襲来ってニュースでやってました。
みんな大丈夫でしょうか? さあ、
今日はシリーズ、クセシリーズの第2回を話していこうと思います。 本気になって色々調べてまとめてましたので、ぜひ聞いてってください。
さあ、今日は、私はこういう人間ってよく言いますよね? なんかそれって、
身体から香ってくる、匂ってくるもの、 なんじゃないの?っていう話をしていこうと思います。
世間の気には本来の香りを持たず、人の香りをくんずれば、すなわち香りの気あり。
大乗鬼神論、大乗仏教という仏教の、 今、日本の仏教の中でも一番メインになるようなものかな?
一番僕らが親しみある仏教といえばっていうようなところを中心に話していこうと思います。
まずね、性格は変わらないってよく言いますよね? でもこれって本当にそうだと思いますか?
前回、1回目のところで、性格って呼ばれているものの正体は、 これって身体の癖なんじゃないの?
繰り返された防御反応っていうのが身体に染み込んで、構えとして固定化したもの、 それを僕たちは性格って呼んでるだけなんじゃないの?っていう話をしましたね。
で、最後にちょっと大きなことを言ったんですよ。
この身体の癖っていうのが全部なくなったとしたら、 この癖がなくなったら、全部ニュートラルな状態になりますよね?
全く何もない無の状態になると。 それって悟りとか、聖人のいわゆる境地みたいなものに近いんじゃないかっていう話をしました。
なんかこう、話しながら、台本が一応準備してるんですけど、 それを読みながら、思いついて喋った。
自分で勝手に繋がったんで喋ったことだったんで。
これちゃんと調べて、ちゃんと訂正するんだったら死なきゃなーと思って、 いろいろ調べてたんですけど、
これがね、どうやら全然間違い、 突拍子もないことというわけでもなさそうだったんです。
バーサナーっていう言葉があります。
サンスクリット語ですね。
ヨガとかアイルベラーとかやってる方だと意外と知ってる方もいるかもしれません。
サンスクリット語で日本語に直訳すると、 習う気って書いて実家って読みます。実家。
この実家っていうのが、香りが服に染み付くように、 行為の痕跡が意識の奥に染み付いていくっていうような、 そういう概念として使われるんですね。
2500年前のインドの修行者たちっていうのは、 この実家っていう言葉を使って、
もちろんサンスクリット語でバーサナーですね。 日本語じゃないよ。
こういう言葉をすでに持ってたんですよね。
つまり僕がクセって言ってるものを、 バーサナーっていう言葉で使っていたわけだ。
しかもこの実家っていうものが全部読んだ状態、 全部止まった、なくなった状態っていうものを、
彼らは下脱というふうに読んでいました。
下脱。苦しみからの解放っていう意味ですね。
解脱とか下脱っていうふうに書きます。
つまり僕が治療の中でクセとか、 箸の中でクセって読んでいるもの、
これを2500年前の人たちが全く違う言葉で、 ほぼ同じ構造として捉えていたということがありました。
僕も無意識に仏教が浸透しているこの世の中で生きているから、
知らぬ間にこの手のひらの中で思考を 巡らせているだけなのかもしれませんけどね。
今日はその実家っていうものと、
今回のシリーズのテーマである クセっていうものを紐付けながら、
さらにこう深く旅をしていこうと思います。
仏教はなぜ苦しみから始まるのか。
じゃあここでね、ちょっと仏教から入っていきましょうか。
知っているという方はおさらいになりますけど、
今日の土台の話になるので、 パラパラーッと喋っていきますね。
ブッダ、ゴータマシッタルタっていう風に 言います、名前を。
紀元前5世紀ぐらいに生きていた、 実際に生きていた人という風に言われています。
今から2500年前ですね、インドの北の方で、 ネパールとの国境あたりで生まれたそうなんです。
インドとネパールの国境のところ。
だからなんだろうな、あの山? ヒマラヤだっけ?エブレストだっけ?
なんかあの辺とかなんですかね、もしかすると。
元々この人って王族の息子なんですよ。
だからめちゃくちゃ裕福な家で育ってるんですよね。
何にも不自由な暮らしをしてたと。
ところがその城の立派な王宮の外で、
年取って老いた人、病気になって病んじゃってる人、
死んだ人というものをたまたま目にしたそうなんですね。
そこから人間って何で苦しむんだろうという問いを抱えて、
そこから29歳で出家するそうです。
6年の修行を経て35歳で悟りを開いたというのが、
ものすごくざっくり言った仏教の始まりです。
この中にもいろいろあったらしいですよ。
ブッダの中でも出世、王の地位を引き継げるか引き継げないかみたいな、
いろんな家の揉め事みたいなものがあったりとかっていうのがあったそうです。
あとはね、手塚治さんの漫画でブッダっていうのがあって、
それを僕もちょっと読んだことがあったので、
面白いんでぜひ読んでみると、
より臨場感を持って楽しめるかなと思います。
このブッダが35歳で悟りを開いたっていうところからこの仏教が始まっていくんだけど、
この悟りを開いたときのその内容をね、
ざっくり乱暴にちょっと言っちゃうと、
苦しみっていうものから始まるっていうことを言ってるんですよ。
苦しみから始まるんだと。
そうすればいいんだよっていうことを言ってるわけです。
人生は素晴らしいでもないし、世界は美しいというものでもないんですよね。
生きることには思い通りにならないことがあるよと、
そういう話から始まっていきます。
なんだいきなりちょっと重たい話だなーって結構気合い入りそうじゃんって聞こえるかもしれないですね。
どっちかというと、割と西洋的なキリスト教みたいなのだと救いがあるみたいなところから始まったりとかもするからね。
まあそんなこともないか。
罪を持って本来生まれてきてるみたいなことを言ったりもするからな。
まあでも、
まあそうだね、ごめんなさい。
ちょっと話がまた広がり、
あのー、
それちゃいそうだから。
えーと、
思い通りにならないということそのものを指しているんですよ。
辛さとか悲しみとか、
この苦っていうのはね。
あ、ごめんなさい。
苦っていうのは、
辛さとか悲しみとかそういう感情の話じゃないんです。
自分で抱えているその苦、
自分で思っている苦じゃなくて、
思い通りにならないこと、
そのこと、
そのことを、
そのものを指しているんですよね。
ちょっとわかりづらいかもしれないな。
好きな人とお別れしたとします。
もしくは嫌いな人と一緒にいるとします。
欲しいものが手に入らないとします。
で、体が老いて病んで死ぬ。
本当だったらさ、好きな人とずっと一緒にいれたりとか、
嫌いな人とは一緒にいたくないとか、
欲しいものはさっと手に入るし、
体はできるだけ老いない。
病気にもならない。
死にたくない。
こうなりますよね。
でも、そうはならないわけです。
思い通りにならないですよね、
僕らの人生というのは。
で、これが人間の基本条件としてあるんだ、
ということを最初に提示するわけです。
これをブッダは4つの真理として示しています。
これを死体と言うんですね。
4つの諦めると書くんですよ。
苦体。1つ目が苦体。
生きることには思い通りにならなさというのがあるよと。
それから実体。
集まって諦めると書けます。
その苦しみには原因があるよと。
原因は割愛。
ざっくり言うと執着の言葉です。
それから滅体というもの。
これは原因を取り除けば苦しみは止められるんだよということ。
で、胴体というもの。
道を諦める。
止めるための具体的な道があるよという
発祥土というような
8つの正しい道と書くような
偏りがない
8つの実践する道筋というものを書かれています。
で、今日の話はどこにつながるの?
ここまでいろいろ喋ったけど
どこにつながるの?というと
仏教には苦しみには原因があるという風に言ったんですよね。
じゃあその原因は具体的にどういうメカニズムに動いているのか。
どういうメカニズムでこの苦しみというものが
できているんだという風に解き明かしたのか。
このブッダは結構これを精密に分析しているんですね。
その分析が十二因縁というものです。
これ十二縁起というものを言ったりします。
縁起が良い悪いというような縁起ですね。
つまりはどういう風につながるのということです。
この苦しみが生まれるメカニズムというのを
十二の要素と連鎖として描いたものになります。
無明、境、識、藐識、力所、束、
慈愛、宗、愚、生、老、死。
ちょっと覚えられないからさ。
僕もそんなちゃんと聞いたことないですよ、こんなの。
さっと読んじゃいますね。
とりあえずこの十二個の要素というのが矢印でつながっていると。
一番目が二番目の原因になって、
二番目が三番目の原因になっていくような
そういう配線図のようなイメージなんですよね。
もうこれ説明したらそれだけの仏教講座みたいになっちゃうから
僕はそんな大した知識を持っていないので
ここはちょっと割愛しますね。
今日はそこの最初の二つのところ
無明というところと境に集中していきます。
何でこの二つなのというと
最初、一番の起点のところであって
今日取り上げたい話の主役のところだからです。
無明、見えていないという出発点。
この無明というのはものすごいざっくり言うと
物事のありようが見えていない状態という風に言うんですよ。
物事のありようが見えていない状態。
無知という風に訳されることもあります。
でもこれって知識がないという意味ではないんですよね。
情報が足りないということでもない。
物事が実際にはどうなっているか。
それが見えていないという状態を指しています。
ああ、ということってなりますよね。
例えば僕が治療をしていると
自分の体がどうなっているか感じられない
ということが結構あったりするんですよ。
なんか肩凝っているんだよーって言うんだけど
じゃあその肩凝っているのってどの辺で凝っているんだろうなーって
より細かく知りたいんですけど
とにかく肩だよーっていうような表現がしかできなかったりとか
クライアントの方もいたりします。
そりゃそうなんだよ。怖がっているから
感覚器というものも刺激が入ってこないので
つらいのはわかるんだけど
ここがこんな風に具体的には答えられないんですよね。
普段おそらくここが凝っているということは
肩もたぶんギュッと上がっていると思う
力が入っているはずなんだけど
それに気づけていないということがあります。
なんで私こんなに肩凝るんだろう
ちゃんとストレッチとかもやっているんだけどなー
なんでなんだろうねーっていう風になるんですよね。
実は呼吸が本来よりもおそらく浅くなっていたりとか
本来よりも緊張している時間というのが
たぶん長いはずなんです。
何も原因がないということはありえないんですよね。
なんだけど本人はそれに気づけない状態になっています。
ずっと防御姿勢をとり続けている
緊張の姿勢をとり続けているのに
それに違和感がないという状態なんですよね。
これ前回の話ともちょっとつながるんですけど
身体図式
つまり意識されないまま体を動かしている
無意識化のプログラムがあると言いましたね。
コップを取ろうと思ったときに
肩をこのくらい上げて肘をこのくらい曲げて
上腕に頭筋をこのくらいのパーセンテージで使って
ってコップを持たないじゃないですか。
喉が渇いたなーって思えば
気づいたらコップを持って飲んでますよね。
これを可能にしているのが
身体図式という無意識化のプログラムだ
としてあるんだよという風に言いました。
これって当人にはほぼ見えてないんですよ。
無意識にやっています。
これが無明の臨床的な
実践的な
生活の中での
実感に一番近い方向性かなと思います。
もちろん仏教の中ではもっと広い意味で言ったりするんですけど
こんな感じで捉えてもらえればと思います。
でもね、そのコップを取るときに
身体に意識が見えてないということ自体は
悪いことじゃないですよ。
歩くときにも右足出して
次に左足出して、膝を何度曲げて
足首どう使ってという風にいちいち意識していたら
歩ってらんないじゃないですか。
そんな面倒くさいことしないですよね。
小鳥さんがいるわーと思えば
さささっと自然とその小鳥の方に向かっていくだろうし
なんかいい匂いすんなー肉まんじゃんと思ったら
ちょっと駆け足で段差とか気にせずに
さささっていっちゃうと思います。僕だったら。
本当に考えてないんですよ。ほとんど。
身体は無意識にそうやって動いていってくれます。
だからこそそういう無意識の向きもできるし
音楽を聴きながら考え事しながら歩けるし
人と話しながらコーヒー飲んだり
入れられたりもできるわけです。
見えてないってこと自体は
身体の働きの前提、僕らの存在の前提
なんですよね。
じゃあ何がまずいのっていうと
仏教がこの無明の中で読んでいるのは
おそらくもう一歩手前の段階
見えないまま苦しみを生む構えに
固まってしまうということなんです。
例えばね
10年前から肩が上がっているのに
それが自分は緊張しやすい性格だから
っていう言葉でちょっと
たしなめてしまっていて
窮屈さの方を日常として受け入れてしまっていると
そういう固着ですね。そういう固まりの状態
固まっちゃった状態を無明と呼んでいるんじゃないか
っていう風に思うわけです。
これが無明ですね。
そして行です。
行うっていう格行ですね。
銀行の行ね。
繰り返しがパターンを作る。
この無明から生まれてくるのが実はこの行なんです。
これをサンスクリット語では
サンスカーラって言ったり
サンカーラっていう風に言ったりするそうです。
僕はこれで初めて知りました。調べて。
正直なところ。
この行、サンスカーラっていうものが
ものすごく重要な概念なんだけど
これもまた一言で子だよって言うには
ちょっと僕の知識も浅すぎる。
なんて表現したらいいかちょっと乱暴になっちゃう気がしちゃうので
あえてこの話の中の文脈で言うと
形成力とか意思による形成作用
っていう風に使おうかなと思います。
ざっくり言うと私たちのこの行為
っていうものが次の行為のパターンを形作る力
って言うんですよ。
要は何かをして
そうするとそのしたっていう経験があって
次に同じような状況に出会った時に
また同じような経験を繰り返しますよね。
経験というかその行いを。
一回やったことだからさ。繰り返すほどにそうすると
そのパターンは強くなっていきますよね。
基本的に僕らの運動学習
何でも学習していくメカニズムってそうだと思うんです。
橋を持つにしたって最初は持ちにくく
持てないですよね。子供の頃は。
だけどだんだんと橋でつかむ練習とかを
するようになって当たり前に橋が持てるようになってくる。
で今度橋が持てるようになってくると
その橋の動きっていうものを模倣して
橋の動き持ち方知ってるもんだから
例えばなんだろうな
橋じゃないものも橋として
橋みたいに持ったりとかさ
そういうことに応用できたりするじゃないですか。
ちょっと橋の例えはまずかったな。
運動レベルで言えばそういう橋とか
自転車とかっていうのもあるし
あと
こういう直接的な動作
行動以外にも例えば
ほっかない上司に話しかけられた時に
反射的に肩が
すくんじゃうっていう方がいらっしゃったとします。
これは誰でもありますよね。ちょっと苦手な人とか
怖い人に声かけられたらさ
ちょっと怖ばっちゃうじゃないですか。
多分初めてそれが起きた時っていうのは
一回の出来事だったはずですよね。
それはそうだよね。
怒られるかもしれないとか緊張するとか
そういう具体的な理由があったと思います。
初めてで失敗してたとかさ
もしくはギャンって言われるかどうか分からない
っていう人だったから。
それを毎日何年も何年も繰り返していくと
上司に話しかけられるっていう状況に出会った瞬間に
意識が、僕らの認識、思考が巡る前に
体は反応してしまうようになってくるんです。
肩がすくむようになっていくんですよね。
息が詰まったりとかね。
ここまでくると
これが仏教でいう行になります。
肩をすくめようと思っているわけじゃないのに
体が先に反応しているんですね。
さらに仏教っていうのは
この行を3つに分類しています。
この行を3つに分類しています。
1つが信行です。
体を通じた形成力、体のパターンのことです。
例えば座るときに
毎回同じ側で足を組むとかさ
緊張すると顎に力が入るとか
人前に出ると呼吸が浅くなるとか
ありますよね。
それから語行というものもあります。
言葉を通じた形成力、話し方とか
口癖とか言葉遣いというもの。
何か頼まれたりとか
止まりすると
すいませんって言ってしまったりとか
話すときにね、僕も言いますね、すいませんって
あ、すいません、やめた方がいいよとか言うけど
癖でね、嫌な感じもしないので使っちゃうんですけど
話の途中で
でもとかいいやとかいう風に打ち消しから入る
みたいな人もいますよね。
でもさ、みたいなのがパターンになってるみたいな人。
自分の意見を言った後に必ず
ていう感じかな、みたいな
語尾をぼかしたりっていうのもあると思います。
これ僕やるな、めちゃくちゃ。
まみれてますね、よくね。
それから異業っていうものです。
これは意っていうのは意思の意だね。
思考を通じた形成力のことを
思考を通じた形成力のことを異業
っていう風に言っています。
これは考え方の傾向で
思考の癖とも言います。
例えば何かうまくいかないなっていうことがあると
やっぱり自分には無理だなとか
またこうだったみたいに
自動的に考えてしまうということです。
誰かに褒められると
やっぱりそうだよなっていう風になるのも一つ異業なのかもしれませんね。
もしくはそんなことないんだ
自分はいつもダメなはずなんだっていう風に
なることもあるだろう。
こんな風に体の癖、言葉の癖、思考の癖
っていうものがあるわけです。
これ前回で話したことに
めちゃくちゃ通じてきますよね。
なんならそのまんまなんじゃないかなって思うくらいでした。
もしかすると僕が引用しているのって
メルロポンティとか
JJギブソンとか
その辺から持ってくることが多い
そこから影響を受けている日本の
神体論者の方とかが多いので
もしかするとこういう仏教のところを参考にして
作られてきたっていうものもあるのかもしれませんね。
って今回調べてて思いました。
でもちょっと反りちゃったんだけど
前回話したその癖っていうものが
体の構えが固定化して
性格のように見えるものっていう風に言いましたね。
これは仏教の言葉では
行の特に身行、心行のところに当たると思います。
体の身の行。
仏教はこれが体だけの話じゃない
っていうことも見ていたんですよ。
体が緊張すると言葉が固くなって
思考が狭くなってっていう風に言います。
これいつも僕が話していることですよね。
ソマティクスとか神体論がまさに
包括しているところです。
実は仏教が2500年前に
もう同じ構造を行とか心行、五行、
異行っていうもので整理していたんですね。
すごいね。
でも話はここでは終わりません。
仏教にはこの行っていうものの構造を
さらに深いところまで掘り下げた
人たちがいました。
それが有意識学派っていうものです。
この有意識学派っていうのが
カレコレ数年文字では見たことがあったけど
何て読むかわからなかったんですけど
みんなもありませんか?
文章とか文字で見ているんだけど
誰かに話す機会がないから
ずっとなんとなく自分の中の読み方
勝手な読み方を作って読み進めているみたいな
意味とかわかっているんだけど
読めないみたいなね。
これが有意識学派でした。
全然関係ないんだけど。
この有意識学派っていうのは
プッタの時代から約900年後くらい
もう1世紀後くらいですよね。
紀元4世紀から5世紀頃の話です。
インドの北西部で今の
パキスタンか
ペシャワールドかっていうところあたりに
2人の兄弟がいたそうです。
お兄ちゃんがムジャクっていう人で
弟がセシンっていう人。
どっちもサンスクリット語でアサンガっていう人と
バスバンドゥっていう人だったらしいです。
サンスクリット語は馴染みがなさすぎて
わからないな。
全然思いつかない。
この兄弟2人が中心になって
体系したのが有意識学派になります。
基本としては
プッタが最初に伝えたことを
広げて解釈わかりやすく
その時代に合わせてやっていってるものだと思うんですけど
ものすごくざっくり言うと
有意識ってのはただ識のみっていう意味で
ただ識のみ。
この世界ってのは私たちが経験していること
全てで突き詰めれば
識ってのは意識の働きの表れであるってことなんです。
つまり
実際にそれがあるかどうかわからん。
ただ僕ら認識している、考えて思考して認識してるよね。
全部そういうことなんだよって
いうことを言ってるわけなんですよ。
そういう考えを持ってこの有意識学派っていうのは
じゃあその意識って何なのっていうところを
徹底的に分析した一つの学派なんですね。
なんでこれ
有意識学派を取り上げるかっていうと
これが癖の構造を驚くほど精密に
記述しているからなんです。
この有意識学派っていうのは
人間の意識を8つの層に分けました。
8個ね。これを8識と言います。
最初の5つっていうのは
比較的分かりやすい感覚です。
原識、見ることね。
見る、眼識。それから
認識、耳識、聞くことということ。
それから嗅ぐ、微識。
味わう、舌識、ベロですね。
それから心識、触れること、体の感覚っていう
五感の大元になっている考え方です。
6つ目が意識なんですね。
それで考えること、判断すること、
五感から入ってきた情報を統合して
これは何か、好きか嫌いかっていうものを
考える働きです。
多分、普段僕らが使っている
意識って呼んでいるものに一番近いのが
この意識ですね。
ここまで6つが表層の意識だって
言われています。考えている、感じている
っていうふうに分かるレベルの働きです。
この6つの下に
自分では気づけないもっと深い
意識の層があるんだよっていうふうに
言うんですよ。7つ目に入るのが
マナ式っていうものです。
これはサンスクリット語のマナスっていう言葉があるそうで
そこから来ているそうなんですけど
考えるとか測るっていう意味の言葉らしいです。
何かっていうと
私っていう感覚を作り続けている
意識っていうふうに言います。
なんか難そうになってきましたね。
寝ていても起きていても生きている間ずっと
これは自分のものとか
自分が大事、自分を守らなきゃっていう
ふうに思い続けている根源的な働き
だっていうふうに言われるんですね。
このマナ式。
このマナ式っていうのは常に4つの煩悩が伴う
っていうふうにされています。
ガチっていう自分についてよく見えていない
ということ、それから
我見っていう自分というものが確かにあると思い込んでしまうこと
それから我慢っていうもの
自分に対するおごりです。
我愛っていう自分への執着というものですね。
我慢っていう言葉がここにも入っているんですけど
今の日本語でよく使う我慢っていうのは
耐え忍ぶっていう意味で使うと思います。
でもこれ仏教用語としての我慢っていうのは
自分へのおごり、つまり
自分の方が分かっている、自分が正しいという感覚を
指すんですよね。
これ結構僕も日本語の我慢に対して
こういうふうに捉えた方がいいんじゃないかな
みたいなのをところどころ話したりもしているんですけど
我慢って
耐え忍んでこれを乗り越えた方が
いいぞっていうある種
自分の意識の中に頼っていることでもあるんですよ。
体はしんどいって言っているんだけどね。
ある種ここで言う自分に対するおごり
っても言えるんですよね。
そのおごりが、それがおごりになっているのか
とはいえやっぱり我慢したことによって
その先、
我慢しないと見れなかった景色が見れるようになる
みたいなことは多分あると思うし
これやっぱり加減みたいなものが大事だと思うんです。
二項対立じゃなくてね。
AかBかだけではなくて
多分このバランスだったりとかの問題だとは思うんですけど
我慢っていうものをそういうふうに仏教用語でも
言ったりします。
この私を作り続ける意識っていう
この慢しきですね、っていうのは
実際臨床の中でも感じることがあります。
人の体を触っていると
ある種の構えっていうものが
見えてくることがあります。
ここは触らせないぞとか、ここは守るぞ
ここは動かさないぞっていうものがね
あったりするんですね。
もちろんこうなんだろうな
急所って言われるような部分だったりとか
触れるのもちろん嫌だっていう風になる人も
いると思うし
例えば肩を
肩が凝ってるみたいな肩に対して
肩をほどきたい、ほぐしたいと思って
そういう時僕は
もちろん押したりもするんだけど
揺するっていう手法を使うんですよ。
揺さ揺さ揺さ揺さってこう揺すってあげると
力が抜けてないとね、体ってこう揺れないんですね。
ガチッと固まったままだと
このまま固まったまま動いた状態になっちゃうので
こう揺らしながら揺れを感じるようにしてください
っていう風に言って
揺れれば力が抜けてるよねっていうことに
してるんですね。だけど
本人も力抜こうとしてるんだけれども
なかなかこれが揺るんでこない。
つまりこう、ここは動かさないぞ
っていうようなある種の構えが体から
現れてくるっていうことがあるわけです。
それがね、なんだろうな、目線を変えると
そこは動かさないでくれとか
今この構えを解かれちゃ困るんだ
私はずっとこの構えなんだっていう風に
意識は別だよ、楽になりたい
っていう風に来てくださってるからね。
だけど体はそうじゃないっていうことが結構あったりするんですね。
これは意識的な判断じゃないです。
もちろん。だってほぐれたいんだもん。
クライアントの方は。しんどいって言ってる。
だけど体がもっと深いところで無意識の層で
境界線を引いてるような感じになっていると。
有意識学派のその言葉を使うと
この小暴りこそがマナスキの働きだ
っていう風に捉えていたのかなと
僕は解釈をしました。
意識的な判断ではない。
無意識の中でのその体の構えっていうものです。
そして8つ目が
意識の像。
これがアラヤ式っていうものです。
アラヤ式。
アラヤっていうのはサンスクリット語で
クラっていうような意味らしいんですね。
クラのような意識。
いろんな経験が蓄えられる
最も深い意識の層という風に言われます。
このアヤラ式、アラヤ式っていうのは
今まで僕らが生きてきた全ての経験とかの
痕跡っていうのが
ここに全部沈殿している、溜まっている
っていうような考え方をするものなんですよ。
目で見たもの、耳で聞いたもの
体で感じたもの、考えたこと、
言ったこと、やったこと、その動かし方
反応の一個一個っていうもの
全部がこのアラヤ式に痕跡を残している
っていう風に言われるわけです。
例えばね、小学校の通学路
歩いている記憶、皆さんありますか?
その時の匂いっていうのを大人になってから
ふと思い出すみたいなことってあるかなと思うんです。
例えば、僕だったら田舎に住んでいるので
田舎の青臭い特有の
あの時期の匂いとか
季節が変わると焼き畑の匂いとかさ
焚き火の匂いとかもあるし
明らかにプラスチック焼いてますみたいな
匂いがする時もありましたね。
あとは花が咲いてたりとか
金木犀の香りとかっていうものが
書いた時にふと小学校の時を思い出す
小学校に限らず子供時代の
いろんな場面を思い出したりということがあります。
この体験って実は
この痕跡っていうものが
今まで経験した、書いたことのある痕跡っていうものが
荒屋敷のどこかに
ずっと蓄積されていて
条件が揃った時に表に出てきたっていうふうに
解釈する、説明するんですよね。
で、この荒屋敷自体は
善でも悪でもないただのシステムだ
っていうふうに言われています。
ムキっていって善悪の判定がつかない
ニュートラルなものであると。
倉そのものはただの倉なわけです。
中に良いものが入っていることもあれば
そうでないものが入っていることもある。
だから現代の言葉で言うとこれって無意識ですよね。
そのままの自称
自称そのままをここに宿している
ということ。これ振り返ってみると
割と現代的な思想を持ち合わせている
フロイドとかユングとかっていう
心理学とか臨床心理系の
体操の方、体科の方っていうのも
言ってるんですよね。
意識のもとにすべてを蓄える真相がある
っていうふうに言っているわけです。
でもその1500年も以上も前に
仏教ではそういうふうに言っているんですよね。
ただこの有意識の中での
荒屋敷っていうのはフロイドが言う無意識っていうのは
ちょっと違うかなと思うんです。微妙にね。
フロイドの無意識っていうのは
抑圧された欲望とか記憶の溜まり場
っていうニュアンスがちょっと強いです。
なんかね、こう欲も悪くもすごい
ぐつぐつ煮えたぎっているようなイメージが
フロイドには僕はあるんですけど
荒屋敷っていうのはもっと広い意味合いで
使われているようなイメージでした。
良いものも良くないものもどちらでもないものも
全部経験の、全部の痕跡が
均等に蓄積されているよっていうふうに言うんですね。
だからこっちの方が
考える土台としては懐が広いのかなと
思うんです。言っていることは多分同じだしね。
フロイドは多分
ここを切りたいっていう箇所が
わりと明確にあったから、そこを
強調するためにこういった抑圧された欲望とか
記憶の溜まり場だっていうふうに言ったのかもしれませんね。
そして
唯識学派っていうのは行為のこの痕跡が
荒屋敷に蓄積されていく
っていうのはこのプロセスを
君中っていうふうに言いました。
君っていうのは香りをたく、君性の君ですね。
そして宗、君中の宗
っていうのは繰り返すとか染み付くっていう
習うっていう漢字を使います。
香る、習うっていう風に書きますね、君中。
お香をたく、煙が出る。
その煙の中に
服を置いとくと服にお香の香りが
染み付いていきますよね。
そのお香の煙消したとしてもしばらくの間
香りは残っていると思います。
焼肉屋行ったらもう次の日着れたもんじゃないですよね、お洋服はね。
タバコ、
最近だと禁煙運営進んでるからだけど
一昔前居酒屋に行くともうタバコの匂いが
満々についてしまうみたいなこと当たり前でしたよね。
この君中っていうのは
それと同じメカニズムなんです。
私たちが何かをする、体を動かす、
言葉を発する、何かを考える。
もちろんそのきっかけになる
話しかけられるとか、なんかテレビで情報を見る、
SNSで何かを見るとかね。
全部ひっくるめて
その行為っていうものの
その香りのようなものが
私たちの荒屋敷に染み付いていくっていう風に
考えるわけです。
1回だったらね、タバコ1本だったら、
焼肉1枚だったら
まぁちょっとの匂いですよね。
でも焼肉を何枚も焼いたりとか
タバコが1、2本、2本、3本って増えていったり
吸う人が1人、2人ってもっと増えていったら
その匂いはどんどんどんどん強く濃くなっていきます。
痕跡はどんどん濃くなっていくわけです。
例えばね、
僕らの生活の中でも
毎日8時間デスクワークだ、
右手マウス操作、
ちょっと前鏡で画面見てっていう姿勢を
5年とか続けたとします。
その人の右肩と首の付け根っていうのは
明らかに左側と違う硬さっていうのがある。
出てくるみたいなのもあると思います。
もちろん環境によって変わるけどさ、
デスクの位置がちょっと、画面の位置がちょっとずれてれば
その分の負荷がかかるかもしれませんよね。
負荷じゃなかったとしてもそうだ。
楽ちんな体勢だったとしても
ここにあるもんだっていう状態で体は動くので
それがどんどんどんどん染み付いていきます。
これは良いも悪いもないですからね、今の段階では。
そうすると
僕がすごいわけじゃないですよ。
実際臨床でその方の体を触っていると
この人こういうことを日常的にやってそうだなっていうのが
ある程度差しがつくような
体の状態になっていることって結構あったりするんですよ。
例えばね、なんだろうな
あの
修行の方とか
とにかくデスクに向かう仕事が多い方っていうのは
僕の経験上ですからね
この後頭部のところがめちゃくちゃ張ってて
あのね
ここの中心のところの骨がね
ちょっと形が変わってくるみたいな方もいらしたりします。
常にもう
20年30年同じ姿勢をやっていると
骨自体も引っ張られ続けながら
ちょっとずつ再形されて
変形してくるみたいなことがあったりするんですよね。
で、それからなんだろうな
料理を普段される方とかであれば
やっぱりこう
前腕の筋肉とかっていうのは
普通の方よりもしっかりしている場合が多いとかさ
なんだろうな
日常的に歩く仕事の中でよく歩くんだっていう方の方が
割と細身の方がもしかしたら多いかもしれないし
座ってる方の仕事が多い方の方が
結構お腹回りポテッとしている方っていうのも
多いかもしれません。
もちろん絶対そうだっていうような
変幻とか悪物をするためのものではなくて
もしかしてこういう可能性が見えてくるかもしれないなって
一つ当てを作るための
当てを作るための推察にすぎませんけどね。
でもそんな風に
想像すれば
意外とピンとくると思うんです。
確かにこの生活しているその自分の身体の状態
っていうものが5年10年続いていけば
当たり前にそれに適した身体になっていくだろうな
っていう風に
つまり言い換えれば
行為っていうのは身体に染み付くっていうことなんですよね。
身体に癖が染み付くっていう風に
僕は臨床の中でよく言ったりします。
これを仏教の中では
お香の煙で表現していたんです。
おしゃれな言い方するよね。
この染み付くっていう感触
表現方法っていうものを
フランスの20世紀の哲学者の方もよく言っています。
沈殿っていう言葉ですね。
沈殿っていう言葉ですね。
川の底に砂が積もるように
行為の痕跡が身体に
地層のように積もっていく。
沈殿という言葉で
川の底に砂が積もるように
行為の痕跡が身体に
地層のように積もっていく。
これを言ったのはメルロポンティっていう人なんですけど
この方は僕も
大尊敬している方なので
また別の回でしっかり話させてもらえればなと思ってました。
この同じ構造が同じ別の言葉で浮かび上がってくるんですよね。
この同じ構造が同じ別の言葉で浮かび上がってくるんですよね。
それから最初の方で話した
大乗鬼神論の一説もそうです。
世間の絹は本来の香りを持たず
人が香りをくんずれば
すなわち香りの気あり。
つまり世の中の服っていうのは
元々香りなんか持ってないんだよってことを言ってるんですよ。
この服っていうのは僕らのことを指してますよね。
僕ら一人一人は元々香りなんか持ってないんだよって。
人間っていうのは元々ニュートラルであるものなんだよって。
人間っていうのは元々ニュートラルであるものなんだよって。
だけど
人が環境が自然にお香を抱きしめれば
服に香りがついてくるよね。
つまり行為の積み重ねとか
いろんなものから影響を受けて話しかけられたり
仕事を振られたり宿題を出されたり
テレビがパッと目の前で流れたりとか
SNSの通知が来たりする、表示される
それに対しての応答っていう行為
それに対しての応答っていう行為
パターンが形成されていくんだってことを言っているわけです。
パターンが形成されていくんだってことを言っているわけです。
生まれつきそういう人なんではなくて
生きていく間に体がそういう香りが
抱きしめられたっていう風に
そういう捉え方をするんですよね。
もちろんね、これは僕はですけど
生まれつき、どこの癖が染みつきやすいか
どういう香りがつきやすいかっていうのは
あると思います。
持っている生まれっていうのは
持っている香りっていうものは
生まれつき多分あるはずですよね。
遺伝子によって違うからね、身長が。
190cmの人もいれば150cmの人もいるわけで。
ところが、その後どういう栄養を取るかとか
どういう話を聞くか
特に心の動きだったりとかっていうところは
こういう影響が
その後どういう香りを浴びるのかっていうところが
非常に色濃く関連するんじゃないか
ということを言っているわけです。
この実家っていうのは
有意識では3つに分類されます。
明言実家っていう言葉と概念の
習慣的な痕跡です。
それから画集実家って言われるもの。
自分への執着の習慣的な痕跡。
それから牛実家って言われる
行為の結果として未来の状況を生み出す
痕跡の力ですね。
ちょっと1個ずつ
簡単に説明してみましょう。
まず明言実家っていうものです。
明言って書きますね。
明言に習う気持ちって書きます。
これは言葉の痕跡のことを指しているんですけど
例えばね、私って
HSPなんですとか
私ってADHDよりなんですとか
私って人見知りなんですよっていう言葉を
繰り返し使う方がいたとします。
その言葉自体が体の構えを
固定化している
私ってこういう人間なんだっていう風に
そこに戻ろうとしているんじゃないか
固定化させている
不審もなんかあるんじゃないかっていう風に
思うこともあるわけですよね。
人見知りだからっていう風に自分を
もちろん必要がって言ってるんですよ。
それを逃げるなって僕は言いたいわけじゃなくて
やっぱり逃げたくなることもあります。やっぱ辛いからね。
人見知りだからっていう
ラベルを持つことで
誰かに話しかけられた時にも
いやでも私は人見知りだからなって
この輪に入るのはやめておこう
どうせいいことないし今までもいいことなかったし
っていう風に自分の体の構えっていうのを
固定化させてしまうんですよね。
新たに開かれるようなチャンスっていうのを
自分から放棄してしまうっていうことがある。
しかもこれ厄介なのが意図的に放棄してますよね。
もしかすると考えてなければ
この意識っていうものが
この言葉の痕跡っていうものがなければ
無意識に反応して
無意識に仲良くなるっていうことがもしかしたらあったかもしれません。
子供なんかまさにそうですよね。
自己紹介とか
どこから来たの?とか
どこ幼稚園?みたいな会話しませんからね。幼稚園児とか。
気づいたらもう同じものを手に取って
時には喧嘩して物を取り合ったりとか
時には貸し合ったりとかして
気づけば一緒に遊んでいるっていうようなことが起きているわけです。
言葉が体をロックしてしまう
縛ってしまうっていうものが
実際にあったりするんじゃないかっていうことを
仏教でも言っているんですよね。
これを妙言実家っていうふうに言います。
そして今度は合集実家っていうものです。
これは自分の痕跡ですね。
これはまさにさっき言ったようなことで
私はこういう性格だから
私は変われないんですっていうもの。
つまり自己認識そのものっていうものが
自分のパターンを固定化する力として働くことがあるということです。
なんかちょっと前に出した例えが
ややこしかったんだけど
言葉で自分を規定している上に
さらにその基盤として
私はこういう人間ですっていうふうに固定しちゃうことです。
これさっきの
お香の例えで言えば
本来の自分はもしかするとそうじゃなかったはずなんですよ。
だけどいろんな香りがついてきたからこそ
その香りがついたのが
自分だっていうふうに思い込んでるんですよね。
でももしかしたら
他のお香の香りが入ってこれば
多分自分で容易に変わるじゃないですか。
人ってそんな変わらないよとかって言うんですけど
極端に言うとね
住む場所も変わったり
住む食べ物も変わったり
やる仕事も変わったり
身の回りにいる人とかもバッて変わったとしたら
結構変わると思いませんか。
それくらい僕らは周囲と繋がりながら
出来上がっている存在でもあるということなんですよね。
だから実際に変わっていってるわけです。
常に。
だって小学校の時の自分と今の自分って
全然違うと思うんです。
もちろん根本は変わんないねあんたはみたいに
お袋とかから皆さんも言われるかもしれないけど
明らかに違いますよね。
小学校の時の自分と今の自分が喋ったら。
そういうことを合集実験
というふうに言ったりします。
それから最後に言うのが
牛実験というものです。
これは行為が未来を規定する
痕跡の力というものですね。
これは仏教的に言うと
これは輪廻という
来世への業の力ということになります。
来世への業というのは
急に話が大きくなってきますね。
これをもっと身近に捉えるために
便利なのがやっぱり
神体論のソマティックスの考え方で
これつまりは今の行為の連続というものが
未来のパターンを決めていくよということなんですよ。
今の行為の連続が
未来の行為というものを決めていくよということ。
これを物理的な運動
シンプルな運動というところに当てはめていくと
今日の体の使い方
今の体の使い方というものが
明日の体を作っていくよと
今月の姿勢というものが
来月の姿勢を作るよ。
1年前に始めた歩き方、感じ方、動かし方というものが
今の皆さんの膝の具合を決めているよ
ということなわけです。
例えばね、念座したことあるとか
怪我したことあるというかちょっと思い出してみてほしいんです。
痛いとかばって歩くじゃないですか。
で、かばって歩いていると
念座自体は青毛も治ったよ
痛みはもうなくなったってなったとしても
そのかばう歩き方というものは
しばらく残ったりするんですね。
これがよくね、怪我が原因で調子を崩す
アスリートとかっていうのが
昔はよくいたりしましたけど
一般人にも結構あったりします。
一回足を痛めたことで
これも臨床の中で
癖になっちゃうとかってよく言ったりするかもしれませんね。
変な歩き方
痛みあるときの歩き方
痛みを前提とした歩き方というのは
体に染み込んでしまって
そういう歩き方をやっていると
やっぱり無理がたたってきます。
それで痛みが他のところに出てきちゃうみたいな
ことがあったりするんですよね。
物理的なその体の方を見てみれば
原因は明らか
それが何でかっていうと
仏教の中でいう牛実家で説明がつくということになるわけです。
この3つの分類というのは
言葉の癖と
自己認識の癖と
それから行為が未来を規定するというもの
これを初めて知ったときに
実際に僕が
いろいろ臨床の中でやったときに
なるほど、これのことかというふうに
いろいろ繋がった部分があったんです。
それから
もう一つの比喩というものが
有意識の比喩というのが修辞というものですね。
これは種の子供
種子供と書きます。
お子の比をさっきしましたけど
この種子の比喩というのは
種がまかれるというふうに言うんですよ。
何かしらの行為をするたびに
この修辞というものが
種がまかれるって
あらやしきっていうところに種がまかれるんだって
その種が条件が揃ったときに
芽を出すんだよというふうに言うんです。
つまり芽が出るというのは
体が反動する、言葉が出る、思考が浮かぶ
ということです。
そしてその芽が出たこと自体が
新しい種をまいてくれるんだということですね。
つまりこの
修辞、種子というものが出て
現行、今の行為というものになって
それが君従というものになって
それがまた新しい修辞に繋がっていく
というような循環になっていくんですよね。
これいろいろ因果で
繋がっているんだけど、じゃあ先の方まで
決まっちゃっているのかというと
仏教の中ではそういう
伝え方はしていないというふうに僕は捉えています。
いつでも
これはもう予測ができないくらい
いろいろ入り混じっている状態で
どこからでもパターンは変わり得る、規定されていない
というようなことを言っているんだと思っています。
つまり
癖は変えられる、変わるということなんですよね。
変えられるというとなんかちょっと自分ひとりよがりな
気もするから、癖は変わるんです。
つまり自分は変わるということですね。
ずっと今のままなんてことは今言ったことで
照らせばありえないんですよ。
だから今苦しいとか
なんかモヤモヤするなというものがあったとしても
それがずっと続くということは
今説明したロジックがずっと
同じように回っていくということだから
なかなか難しいことなんですよね、逆に。
これをなおさらこういうメカニズムで動いているんだったら
ここを変えてあげればいいということを
多くのボディワーカーだったりとか
心理療法家というのは適切なアプローチを
日々考えて実践をしています。
僕が提供しているその治療だったりとか
セッションとかソマティックスタジオというのも
その中のひとつなので
こういったものがたくさん今の時代には
用意されているので
ぜひいろいろ試してみてもらえたらなと思います。
ちょっと話も長くなってきたからな。
今日はこのくらいにしておくか
許してやるかじゃないんですけどね、全然。
いやいや、ちょっとせっかくなので
このまま読みますね、ごめんなさい。
途中でながら握って
だらだら聞いてみてくださいね。
それからね、この
種子、種のことで比喩していたけども
ここでもう一度
行、三菱というところに戻りたいと思います。
十二因縁があって
二番目に出てきた行ですね。
心行、五行、異行の3つに分かれるよ
という話をしたけど、この心行
体を通じた形成力というのは
仏教ではこの呼吸というのが
この心行、未行の代表という風にされているんですよ。
この呼吸というのも
強覚も横覚膜も六感筋も
自律神経系も
その他他の体のシステム全体が
共同して立ち上がっている形状なんですよね。
どれか一つだけが頑張って呼吸している
わけじゃないということなんです。
横覚膜だけ動けばいいのか、六感筋だけ
動けばいいのかというとそういうわけじゃないんですよね。
酸素濃度が上がればいいのかというとそういうわけでもない。
全部が連等して
一つのリズムとして立ち現れているわけです。
その共同のリズムというそのものが
未行の一番根っこにある
という風に仏教は見ていたようなんです。
そう読むと
呼吸というのはこの未行の代表という
言い方がただの呼吸の話じゃないんだな
ということが伝わると思います。
前回の中で話した
人見知りの肩の話で
肩とか胸に施術で触れていくと
実際ほぐそうとしていくと
少しずつ肋骨、胸骨が動くようになって
横覚膜も動くようになって
呼吸の深さがだんだん変わっていくよという話を
しましたね。まさにあれのことを言っています。
防御的に収縮した
その筋肉の出力というものが下がっていって
交換神経有為だった状態から
副交換神経有為、副交換神経が
働けるような状態に
変わっていくという
そういうプロセスでした。
仏教が言うこの未行、神行というものも
この神行というものの
最もプリミティブ、一番奥の
基盤のとなるものが呼吸だったとしたら
呼吸のパターンがじわじわ変わっていくというのは
つまりこの未行のパターンが少しずつ
書き換わっていくということと同じなんですよね。
もちろん呼吸だけじゃないと思うよ。
普段、今これを聞いてくださっている
皆さん、何かしながら聞いているかもしれないよね。
もしくは寝ながらという方もいるかもしれない。
今皆さんの首はどうなっていますか?
作業しているから、寝ているから
いつもと違う構えをしているから
もしかしたらちょっと怖がっているかもしれないし
いつもより力抜けているなと思うのであれは
今じゃない時間は結構怖がっていたのかな
というふうに
いろいろ想像ができると思います。
こんなふうに
その首のちょっとした動きが
あり方というものと
呼吸だったりとか歩くということ
それから包丁をトントンと切るような
全ての体の動作、行為というものが
少しずつ
繰り返されて
形成されていくんですよね。
つまりこの信仰のパターンが
少しずつ書き換わっていくということなわけです。
それは仏教的な言葉に翻訳すれば
新しい未行の種というものが巻かれて
少しずつ群集されていく時間だ
というふうに言えるのかもしれません。
ちょっとずつ変わっていくんですよ。
瞑想とか、僕も身体動態瞑想とかを
お伝えしていますけど
なるほど、このやり方でこんな変わったぞ
というような成果を覆うとすると
どんどんね、時々刻々と変わっていく
その体の変化というのを感じられないんですね。
だからやめちゃうんだ、すぐに。
なんかよくわかんないからもうやめちゃおーってなっちゃうんですよね。
なんとかね、その
味わっている感覚というものが
皆さんの、僕らの
生きた心地というものを
手触りというものを取り戻してくれるというものをね
言葉で理解する、頭で理解するんじゃなくて
ぜひ実感をする必要があるものだと思うので
ここのモチベーションになるような説明が
ここでできていればいいなと思います。
ここでちょっと誤解がないように
一応一回整理をしておきたいんですけど
僕自身はこの仏教というのを
体系的に学んだりとかしたわけじゃないです。
仏教には仏教の整理された道というのがあります。
こういうふうに学んでいくといいよというようなね。
で、それってすっごく多様
いろんな道のりがあるし
すごく成功に作られています。
すごいです。やっぱりこの歴史というのは
一体どれだけの人数の人、どれだけの人生経験が
乗ってこれが作られてきたのかなって
本当に感覚するんですけど
この道筋というものと
僕が今実際やっているというのは
体に直接触れて
直接その方たちの話を聞いていくということです。
針を打ったりとか、手で触れる。
それから体のパターンを物理的に保護していく。
新しいパターンが入りやすい状態を
作るということですね。
つまり微妙に入り口が変わってきます。
どちらかというと仏教というのは
多分時代的な流れというのもあると思うんですけど
意識の方から
そのパターンとか感覚というところに
働きかけようとしているように僕は見えます。
瞑想とかを使って
意識の一番深い層に蓄積された実験というものを
ゆっくり解いていこうと
浄化していこうとしたんですよね。
でも僕らとかボディーワーカーというのは
実際の体を触れていると
明らかに困っているものというのが手に取ってわかるわけです。
そこを解いていくことで
体が変わっていく。
体が変わっていくと自然と思考とか精神状態も
変わっていくというような
そっちの可能性を広げていくことを目指しているんですよね。
経路は
違う。トンネルを両側から
掘っているようなイメージをよく表現したりするんですけど
両方使えた方がいいんじゃない
というところでよくこれを
Somatic Studioとかの中では伝えていることになります。
私塾とかね。
特にこれは面白いなと思ったのが
仏教自身がこの教というのを3つに分けた時に
体というものをちゃんと
含めていることだったんですよね。
体を通じた形成力という風に言って
仏教はこれを無視しなかったんです。
仏教の主な実践というのは
瞑想とか修行ですよね。
そこで体に直接触れるという方法は
体系の中心にはなっていなかったんです。
少なくとも文字の中ではね。
またこれも時代観。
さっきから僕が言っているその時代観というのは
多分僕らの当たり前の何となくの感覚
体の感覚とかというものと
今から2000年前とかの人の
体の当たり前というのはおそらくレベルが多分違かったんだと思うんです。
明らかに僕らは論理的に
思考する能力というものが
いっぱいそれこそ
知識の奥をたくさん書いていますから
言葉の奥をたくさん書いているので
扱うのに長けていると思います。
でもその分やっぱり感覚
というものがおろそかになっているのが
今の現代。身体の状態というものが
おろそかになっているのが多分今の現代であるから
昔は
いちいち言葉にしたりとか
強く言わなくてもよかったところを
今は言う必要があるのかなという風に思っているんですね。
だから仏教に書いてないんだから
いらないじゃんみたいな
表層をなぞるようなことだけはしてほしくなくて
あれこれってその身体論で言えば
この体のここの部分なんじゃないという風にしていくと
仏教とは
宇宙なのだとか
という一種の物語に支配されないで
実際に今生きている
僕たち自分自身が生きている今の手触りがある
今の現実のところに戻してくれるというのが
あるかなと思います。
それから
全部の癖を消せという風には
ムキは言っていないんですね。
三性と言って
三つの性質という風に言っています。
善と不善とムキという
三つの分類です。
善というのは
自分や他者に利益をもたらす行為とか
心の状態のこと
それから不善というのは
善でも悪でもない
ニュートラルな状態という風に言います。
実験にもこの三つがあるんです。
良い実験もあれば良くない実験もあると。
もちろんどちらでもない
どちらともつかない実験というものもあるということですね。
僕はよくこの癖というのを
良いものでも悪いものでもなくて
ただの味だよという風に言っています。
その人らしさ、その人の味ですね。
猫背気味で
ちょっとこう人見知りっぽいような
ちょっと一見すると暗いような感じに見える人
明るくはないという人ですね。
その人が悪いか、姿勢を良くして胸を張って
もっと元気に生きた方がいいよ
って思うかというとそんなことはないですよね。
その人自身が楽しく生活できているのであれば
ちょっと猫背気味で照れくだそうにしている
その人が
一つの魅力になったりもすると思うんです。
人前に出ると胸が閉じて呼吸が止まってしまう
それによって自分が苦しんでいるみたいなものであれば
それは不善の実験かもしれませんよね。
不善というか良くないということですね。
もしくは
右利きか左利きかというもの
これは無機の実験という風に言います。
善悪とは関係ないただのパターンという風に言います。
でもね、これやっぱり
皆さんも振り返ってみれば
わかると思うし
僕も臨床で触ったと思うんですけど
一つのその癖
その人が持っている相対的なその癖の中に
味の側面というものと窮屈さの側面というのが
両方同時にはらまれているということが
やっぱりあるわけです。
猫背でちょっと穏やかだという方
あんまり元気じゃないけど
落ち着いているという方がいたとする。
でももしかしたら本人はちょっと背中が凝っててとか
息苦しさ感じててしょっちゅうお腹が痛くなる
みたいなのを抱えている可能性もありますよね。
だからこの善の癖なのか
不善の癖なのかという風に区分する
というのは結構野暮なことで
両方一体にあるよねということなんですよ。
開かれている方向と
閉ざされている方向というのが重なっているという感じですね。
そういう風にちょっとゆとりを
持ちながら見ていくと
まあいい、じゃあこれで苦しんでいるんだったら
こっちの方に行けばという風に
結果を求めなくても良くなる
というんですかね。
そういう生き方ができるようになると思います。
これを正確に言うと
苦しみに結びつくような実機を止めるということ
それが下脱であるんだよという風に
実は仏教が言っているわけなんです。
全部の実機を消せという風には言ってないんですよね。
全てのパターンを消滅しろという風に
言ってないわけです。
そして
ここまで有意識学科の話を中心にしてきたんですけど
アビダルマっていうような
仏教にもう一つある心を分析する
大きな伝統があります。
これがアビダルマ、アビダンマというものです。
ブッダが亡くなった後に
紀元前3世紀頃から
仏教の僧侶たちというのは
ブッダの教えを体系的に整理しようとするんですよね。
ブッダこういう風に言ってたよね。
こういうことって具体的にどういうことなんだろう
という風に言ってたけど
これとこれって繋がってない?
こういうメカニズムなんじゃない?というのを
細かく分析していったわけです。
このアビダルマというのは
仏教の教えを分析分類する
一つの学問体系なんですね。
このアビダルマの伝統の中で
行というのはもっと広い意味で使われています。
語運という風に
仏教が人間の存在を構成する
5つの要素とするもののうちの1つだ。
それが行運として
意志、注意、意図、浄土、
触れる、受けるという風に
心の様々な働きがここに含まれてくるよ
という風に言っているんですね。
つまりこれって心の働きのことを
僕らが心理学とか
最近で言うと認知神経学とかも含まれるのかな
そういったもので一生懸命
科学で解き明かそうとしているものを
このアビダルマの中で
心理分析というのをやっていっているわけなんです。
だから繋がってくるものが
あって当然なんですよね。
ということでちょっと長くなっちゃったんですけど
今日話したことを一回整理しておこうと思います。
ブッダというのは
苦しみには原因があるという風に言いました。
その原因のメカニズムは
因縁というもので
12個その因縁はあるよと。
その2番目の経、サンスカーラというものが
意志を伴った形成力だったよという風に
言っています。
これは
体の癖、言葉の癖、思考の癖として
働いているよという分け方をしていました。
有意識学派というのは
意識を8つの層に分けて
一番深いところに現れるのが
アラヤシキというもの。
ここに香りが染み付いて
行為が染み付いて
僕らの癖とか当たり前というのが
作られていくんだよ。
その中には時に種がまかれるようなことがあって
すぐに咲くものではないけど
何かのきっかけに芽が出てくるものもあるんだよ
という風に言っています。
それから実家、僕らのその癖というものには
良いものと悪いものとどっちものつかず
というものがあるよと言っています。
全部の実家を消すんじゃなくて
自分がこれは嫌だなあ、これに苦しめられているなあ
というものがあれば
それを止めるという表現をしていますね、仏教では。
そうすることで下達、悟りというものに
つながっていけるんだと言っているわけです。
仏教は意識の側から行って
それからソマティクスとか神体論というのは
体の側からこれを明らかにしようとしています。
探求をしていっています。
2500年前のインドの修行者達は
瞑想とか修行というような方法で
意識の奥深くに入ろうとしていました。
そこに蓄積されたパターンというものを
見つけたと。
逆に現代、この近代で
その神体というところから
身体、心というところにアクセスしたい
いろいろ学んでいきたいという方
僕らにとっては身体からその心理の方に
心の方に向かっていっていると。
仏教と僕らがやっていることって
基本的に同じことなんだと思います。
その伝え方とか使う言葉とか
というのは違うけれども
まっとうに仏教をやっている人
まっとうに施術とかボディーワーカーをやっている方
というのは話が合う部分も結構あるんだろうな
というふうに思ったんですよね。
ここでタイトルの話に戻ります。
私はこういう人間だからという
一つの自己認識とかというものを
仏教では画集実験というふうに言いました。
意識の奥に染み付いている
自分への執着の香り
というふうに言うんですよね。
これは臨床の中でも分かるように
自分の身体の構えとして現れます。
物理的に正確に言うと
肩の角度も変わるし
胸郭の動き方というものも変わるし
呼吸の深さも変わるし
触られた時の反応の仕方とかというもの
本当に微細な動きというものがいっぱい重なって
身体の形として変化が出てくる。
つまりですよ、私はこういう人間というのは
身体に染み付いた匂いなんですよ。
香りなんですよね。
その香りというのは
生まれつきじゃなくて
生きている間についてきたものなわけです。
それがちょっと不快な匂いなのであれば
その匂いにずっと自分が苦しめられているのであれば
その匂いを脱臭していく
そして新しい匂いというものに触れていくことで
容易に変わっていくんですよね。
もちろん長い時間かけて癒されたものであれば
なかなか取れなかったりもしますよ。
でも変わるんですよ。
僕らは完全になくなった時に
安堵とか安心感を得られるわけじゃなくて
昨日よりも良くなった時
という時に
幸せというものを感じるようにできているんです。
すごいメカニズムだよね。
これがあるおかげで僕らは
大金持ちにならなくても
世界で一番優秀とか
世界で一番恵まれている
というわけじゃなくても
幸せに生きることができるようになっているんですよ。
この間見た
ちょっとソースが明確じゃないのであれなんですけど
今ここに住んでいる
日本に住んでいる僕らよりも
明らかに経済的には貧困にある
確かアフリカだったかな
の大人とか子どもたちに
インタビューを取ったそうなんですね。
アンケートを取った。
幸福度というものをそこの指標で調べたそうなんです。
そしたらアフリカの子どもたちの
幸福度というのが非常に高かったと。
経済的に恵まれていない
という言い方もできるのに
彼らは今を生きているんですよね。
体で今を感じながら
その手触りというものを味わいながら生きている。
そこにはアメリカを
アフリカを大きくするぞとか
僕らの街を世界中にするぞ
みたいな目標があるわけじゃないんですよ。
ただ毎日を当たり前に生きていくということが
その幸せに満ちていることだというふうに
言っているんですよね。
これ皆さんにも僕らにも当てはまります。
本当首懲りとか肩懲りのレベルでも
これが完全に消えたときはもちろん最高だと思うけど
この心の苦しみとか
過去のトラウマというものが完全に消えなかったとしても
少しずつ変わっていくんです。
少しずつ消えていくんです。
そして前の日よりも前の一瞬
その刹那の一瞬の前
その刹那以前
の変化も僕らは感じ取って
それに対して安心感とか幸せというものを
感じられるようになっているんですよね。
だからこそその意識というものを
体の方に感じるというところに持っていってほしいんです。
言葉で目標とかを
定義するんじゃなくてね
言葉に自分を縛られないようにというふうに言ってましたよね
仏教の中でも。
そんなふうに
できるといいのかなと思いました。
ということでまた次回は
トマス・アキナスという
中世最大の知性といわれた神学者の方
今回は仏教の話をしたので
今度は西洋の宗教的な考え
西洋哲学とかではどういうふうに
この体のことを言っているんだろうというものを
キリスト教を引き合いに出しながら
話していこうかなと思います。
すんごい長くなっちゃったんですけど
ここまで聞いてくださった方
本当にありがとうございます。また次回も
真面目に聞かないでダラダラと聞いていただければ
嬉しいなと思いますので
ぜひまたお会いしましょう。
ということで今日の身体の教養ラジオ
これで終わりになります。
お疲れ様でした。またお会いしましょう。
今日もどんどんダラリといきましょう。