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【後編】ブッダとキリストが遺した「身体のサプリ」──無我夢中、縁起、空。2500年前の処方箋が身体の話だった
2026-02-14 32:30

【後編】ブッダとキリストが遺した「身体のサプリ」──無我夢中、縁起、空。2500年前の処方箋が身体の話だった

後編は、釈迦(ブッダ)の話から始まります。

多くの宗教は「死後のご褒美」を用意する。天国、輪廻転生、来世の救い。釈迦はそのすべてを切り捨てた。人は死ねば終わり。宇宙もいつか終わる。──じゃあ、それでもやるのか。それでもやるなら、なぜやるのか。

「無我」「縁起」「空」。難しそうに聞こえるこれらの概念を、宮台真司さんは「火」のたとえで鮮やかに翻訳していました。火という固い実体はない。条件が絡み合って「暖かさ」という機能が立ち上がるだけ。「私」もまた同じだ、と。

そして宮台さんは、釈迦の「無我」を子ども時代の「無我夢中」として読み直す。砂場で遊んでた、虫を追いかけてた、あの感覚。損得も自意識もなく、ただ身体が世界に開いていた状態。

前編のイエス(愛する方向から自己保身を壊す)と、後編の釈迦(自我を手放す方向から自己保身の前提を崩す)。方法はまったく違うのに、到達する場所は同じ。

それを僕は「身体合理性」と呼んでいます。

最後に、前編冒頭の「私じゃなくてもいいんじゃないか」という質問に、僕なりの答えを返しました。頭の判断よりも、モヤモヤの方を信じてほしい。

▼ このポッドキャストは、サポーターの皆さんからいただいた質問にお答えする形でお届けしています。

身体の感覚を通じて自分を理解し、他者や社会との関わりを育む「身体の教養」。臨床17年の鍼灸師・柔道整復師 大沼竜也が、東洋の身体哲学と現代の知見を統合した視点で、あなたの身体との対話をサポートします。

▼ サポーターになる・大沼竜也についてhttps://www.somaticstudiojapan.com/tatsuyaonuma

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00:05
のんべんだらりと暮らすだけ。 今日もやっていきたいと思います。前回からの続きですね。
さらっと前回のまとめをすると、Somatic Studioのサポーターの方からの質問で、 すごくつきたい仕事、やりたい仕事についたんだけれども、
なんか私じゃなくてもいいんじゃないかなっていうモヤモヤが湧いてきて、 そんな自分がこれで合ってるのか?いいのか?なんか不安を感じるんです?っていうようなご質問を頂いたんですね。
それについて、前回は宮台真嗣先生のお話からイエス様のお話をしました。イエスの話、イエスキリストですね。
良き様リア人のたとえと二つの祈りの意味。 一人を愛するということが見知らぬ他者への愛を開くという話をして、
全部体が先に動く話でしたよね。身体制の話をしていました。
今回はそのもう一人挙げられていたお釈迦様、バッブッダの話をしていきたいと思います。
現代社会の入れ替え可能性の問題、つまりあなたじゃなくてもいいという構造に対して、イエスキリストと釈迦、バッブッダ、この二人の処方箋を持ってきてお話していたんですね。
イエスキリストの処方箋は愛するという方向からのアプローチでした。
一方でお釈迦様、バッブッダの処方箋は、自我を手放すという方向のアプローチになります。
全然アプローチの仕方、ルートは違うんだけれども、行き着く場所は同じだよなという風に僕は思っています。
今日はそこをお話ししていこうかなと思います。
ではバッブッダの話ですね。
バッブッダは、お釈迦様は、亡くなった後、極楽浄土に行くとか地獄に行くとかという仏教の話、皆さんもイメージあると思います。
でも、実はお釈迦様はこの死後のご褒美というものをばっさり否定しているんですよね。
多くの宗教は何かしら死後の救い、死んだ後に救いを得られるということを用意しています。
天国に行けるとか、輪廻転生で生まれ変わることができるんだと。
冥界で裁かれるけれども、善行を積めばいい結果になると。
でも、実は本来の仏教、お釈迦様というのはそういう物語を全部切り捨てています。
人は死ねば終わりだと。文明もいずれ終わるんだと。宇宙だっていつか終わるんだと。
03:05
この言葉の並びだけ見ると、すごく過激なように聞こえますよね。
普通、宗教って安心を提供するものだと思われている。死んでも大丈夫ですよ、というふうに。
でも、お釈迦様は逆、仏陀は逆でした。救いがないという地点に留まれ、というふうに言っているんです。
そこから問いを始めていきます。
終わりがあるならば、今ここでの生、生きるの質をどう高めるかという。
これがお釈迦様の出発点でもあるんですね。
これ前回の冒頭、前回のポッドキャスト聞いていない方はぜひ聞いてみてほしいなと思うんですけど、
やりたい仕事に就けたっていうその質問者さん、サポーターの方の質問。
でも私じゃなくてもいいんじゃないかって思ってしまうっていうその質問。
あのモヤモヤの裏側には、じゃあ何のためにやってるんだろうっていう一つの問いがあるのかもしれません。
将来のキャリアのためなのか、お金のためなのか、もしくは誰かに認められるためなのか、
そういうご褒美のために働いているんだとしたら、
それはある意味、前回話したイエス様が、イエスキリストが批判した利己的利多と同じ構造になります。
でも多分そうじゃないですよね、この質問者の方は。
救われたいから善行を積むとか、見返りのために頑張るとか、
お釈迦様はもっとラディカルで、ご褒美そのものを消すような教えっていうものをたくさん残されています。
全部終わるんだと。何も残らない。意味はないんだと。
般若心経ですね。
色即是空。
じゃあそれでもやるのか。それでもやるなら、なぜやるのか。
その問いに正面から向き合うところに、お釈迦様の処方箋があります。
で、ブッダ、お釈迦様の革新的な教えである無我、縁起、空についてお話ししていきたいと思います。
無我とか縁起とか空とかって仏教用語なんですよね。
火を皆さん思い浮かべてみてほしいんです。
火ね、燃えている火。
この火って、どこかに火そのものが固まって存在しているわけじゃないですよね。
燃える物質があって、酸素があって、熱いっていう温度がある。
さらには火を起こす人間の行為がそこに介入することもあります。
いろんな条件が組み合わさることで、温かさとか料理ができるっていう機能が立ち上がってくる。
06:11
火は関係性の結果としてあるように見えるだけで、火という固い実体があるわけじゃないわけです。
それぞれ物体としてあるものが関係した結果として炎が現れているっていうものの見方ができます。
で、ブッダは私についても同じだと考えたわけです。私、自己ですね。
固い物質としての本当の私がどこかにあるっていうのは錯覚なんだと。
体とか脳とか環境とか言語とか他者との関係。
一つ身体っていうのもあると思います。
こういうものが絡み合うことで、私であるように感じる働きっていうものが生じているだけっていう風に言っているんですね。
ややこしくなってきましたね。
だから、これは近代先進医学とか心理学とかでもよく言われていることだと思います。
実存主義とかでもよく、現象学とかでも引き合いに出されますね。
私っていうのはあるとも言えないし、ないとも言えない。
あるともないとも言えないものとしての働きであると。
これをブッダは空と言いました。空って書いて空。
もう一つ演技です。
つまり全ては関係性の中にしかないっていう考え方と一体になっています。演技。
世界は固定した物体の集まりではなくて、関係性の網の目として立ち現れていると。
もし実在っていうものを語るのであれば、
例えばですよ、全部の宇宙の関係性だけが実在しているっていうことでもあるんですよね。
個別のものはその網の目の結び目に過ぎないっていうことを言っているわけです。
すごく哲学的な問いになってきたので、
それが何の役に立つんですかって思う方もいると思います。
なんか難しい話になってきたなというふうに。
面白かった、聞いてくださっている方はありがとうございます。仲間ですね。
答えはシンプルで、この視点に立つと、
自分だけを切り離して守ろうとするっていう発想が、
いかに偏っているかっていうものが見えてくるんですよね。
自己保身っていうのは、固い私を外の世界から守る行為ですよね。
自分を守りたい。
でもその固い私っていうものが、そもそも幻想なんだとしたら、
あれ、私たちは何を守っているんだろうというふうになります。
09:08
宮台先生はここで、このプッタ、釈迦の世界観というものが、
現代の量子物理学とかと驚くほど響き合うという話もしていました。
量子物理学とかはあんまり詳しくはないんですけど、
例えば聞いたことある単語で言うと量子物理とか、
あとテレポーテーションとかっていうのも研究されていたりとかしますよね。
なんかちょっと薄っぽいなみたいなイメージもあったりするんですけど、
たぶんホーキンス博士とかが言っている、
ちょっと僕の知的レベルではあまり理解できないような、
物理としてそれを解明されている分野があるみたいです。
ここの分野では、全体の関係性が先にあって、
個々の量子、電子というものは、
その現れに過ぎないということを言っているそうなんですね。
このイメージというのはまさに演技の発想と同じですよね。
プッタの思想、考え方というものと一致していると。
2000年、3000年前にプッタが現れて考えたことというものが、
現代物理学が別のルートで辿り着きつつあると。
そう考えるとすごくロマンのある話、面白い話ですよね。
ここからが僕にとっての一番大事なところです。
宮台先生はプッタの無我というものを、
すごく身近な体験として翻訳しています。
それが無我夢中です。
前編でお話しした無我夢中。
子供の頃を思い出してみてください、皆さん。
砂場で遊んでた。
虫を追っかけて捕ってた。
友達と追いかけっこ、鬼ごっこしてた。
その時、自分は今何をしてるんだろう、なんて考えてなかったと思います。
ああ、なんて無駄なことしてるんだろう、そんなこともないですよね。
これをすると得だろうか、そんなこと考えてません。
ただやっていました。
追っかけられたから逃げるとか、逃げたから捕まえるとかね。
砂と道具があったから遊ぶ、みたいな。
時間を忘れて、自分を忘れて。
これが無我夢中なわけです。
無我夢中の状態というのは、
自我の利害計算というものを一時的に手放します。
自分の利害の計算ですね。
つまり損得。
これを一時的に手放して、
関係性の流れそのものに身を委ねている状態なわけです。
仏陀が説いた無我というものは、
12:01
特別な修行者だけのものじゃないんですね。
子供の頃、僕たちは毎日それを体験していたわけです。
でも大人になるにつれて損得が入ります。
経済、社会が入り込みます。
言葉が入り込んで、ルールが入り込んで、
あの無我夢中の時の感覚というものにアクセスできなくなっていった。
逆に言えば、
感情の劣化や身体性の劣化というのは、
不可逆ではないわけです。
戻れないわけじゃないんですよね。
意識的にその無我夢中の状態というものを取り戻すことはできるわけです。
だから修行僧とかは、その無我を取り戻すために
修行に取り組んだりしてたわけですよね。
人のために自分を忘れるくらい打ち込む。
何かに打ち込むとか。
尊徳を脇に置いて関わりに飛び込むと。
誰かを愛する。
そうした体験というものが、
自分、自我、自己の利害計算、尊徳というものから離れた感覚を
少しずつ読み戻してくれると。
ここがもう完全に体の話なんですよね。
身体論の分野になってくると思います。
無我夢中というのは、頭で決めて慣れるものじゃないんです。
ソマティックスタジオの身体の教養の中でも
ずっとこの話を実はしています。
頭で僕らは決めて、決断をしているように
錯覚しがちだけれども、
体がいろんな関係性の中でそういう状態になっていくんですよね。
呼吸が自然に深くなって、視野が広くなって、
体の力みが抜けて、
環境と自分の境界というのが薄くなると。
子供が遊んでいるときの体を見ればわかると思います。
力が抜けているけどものすごいスピードで動いています。
ちょこちょこちょこちょこって。
お願いだからじっとしてくれって思うときもありますよね。
疲れているときは。
柔らかいけどものすごく反応しているわけです。
あの正体を大人の体でもう一度取り戻せるかどうか
これが僕がやっている身体の教養の確信でもあるわけです。
ここでちょっと整理をしますね。
前回と今回をまたいで、イエス・キリストとブッダ・釈迦
二つの処方箋を見ていきました。
イエスの処方箋は愛する方法からのアプローチであって、
一人の人をかけがえのない存在として思う。
その経験こそが自己保身、自分を守る、
その壁に穴を開けてくれる。
15:03
そうすることでやがて見知らぬ他者に対しても
身体が先に動くようになる。
釈迦・ブッダの処方箋は自我を手放すという方向からのアプローチでした。
固く固まった閉ざされた私というものは幻想だと見抜く。
世界は関係性の中の網の目であって、
自分はその一部に過ぎない。
そうやって気づくことで、自己保身の前提そのものが崩れる。
この二人への方法というのは全然違うと思います。
イエスは誰かに向かって開けというふうに言っている。
釈迦様は閉じているものの正体を見よというふうに言っている。
でも到達する場所は同じ。
同じことを話しているように僕には聞こえました。
それは宮台先生が言う存得、言葉、
法に閉じ込められた人間というものが、
もう一度力を取り戻す場所。
宮台真嗣さんの言葉で言えば内発性。
内から湧き上がる力です。
僕の言葉で言えばこれを身体合理性というふうに言ったりもします。
言語化、計算化の手前で体が先に知っている身体値。
それが立ち上がる体。
その体が合理性を取り戻すことで
内発性が立ち上がってくる。
これを身体制というふうに僕は言っています。
法務に落ちた人を助けに飛び込むとか、
我が子を命懸けで守るとか、
誰かを昼も夜も思い続けて胸を焦がす。
これらは全て存続を超えて
体が動いてしまう出来事なんですよね。
でもそれが起きるためには
そうした関係性に身を委ねられるほどの
体の土台というものが必要なんだと思うんです。
体が固まって閉じていたら飛び込めません。
法務に。
一瞬固まっちゃう。
一瞬固まるから頭が回ります。
これどういう状況だ。
こうした方がいいのか。
ああした方がいいのか。
考えている間にその瞬間は過ぎ去ってしまいます。
体が固まっていたら委ねられません。
素敵だなあと思った人が目の前に来た。
でも体がぐっと固まってしまう。
でもかけられないままそのまま過ぎ去ってしまって
思考が色々巡ってきます。
ああなんで自分はダメなんだろう。
もしくはなんで俺のことを無視するんだ
っていう人ももしかしたらいるかもしれません。
思考が介入してきてしまう。
目の前に倒れた人がいても
18:00
いやこれで今
ぐっと体が固まってしまっている
反応する体がないからこそ
いやこれに変に関わったら
自分にとって損なんじゃないか。
何かもっと悪いことに巻き込まれてしまう。
面倒だ。
そういう思考が通り過ぎてしまう。
前回も
良きサマリア人のお話でしましたね。
法律の専門家とか
宗教の専門家っていうのは
知識がなかったわけじゃありません。
知識はむしろ
サマリア人よりもたくさん持ってた。
でも知識のあるなしっていうところよりも
体が閉ざされていたからこそ
反応ができなかった。
その反応ができなかった体
自分に対しての言い訳っていうものに
この知識をたくさん使うことができてしまったんですよね。
それから宮台新先生の話を
今回はたくさんさせていただいたんですけど
この方すごく好きで
僕のソマティックス・シン・タイランの研究とか
勉強の中でもたくさん
参考にさせていただいています。
で、せっかく宮台先生を話の中に出させていただいたので
もう一つ触れておきたくて
それが現代リベラルへの批判です。
現代リベラルというところへの批判。
LGBTとか性的マイノリティとか
属性にラベルを貼ってリストに登録をして
それを法律に守ろうとするっていう流れ
今は当たり前のようにありますよね。
一見正しいことに見えます。
優しいことに見えます。
差別をなくそうとして始めていることも痛いほど分かります。
でもこれが別の差別とか反発を生んでしまっている
現実もあるわけです。
リベラルな態度というのが何かというと
相手がどんなカテゴリーに属していようと
一緒に楽しくやろうよっていう風に構えること
だと思うんですね。
誰か分からないけども
仲良くやろうよっていう姿勢。
これって体の話として読むと分かりやすくて
ラベルって頭の産物なんですよ。
この人って結婚してるんだ。
子供がこのくらいって。こういう仕事に就いてるんだ。
年収はこのくらいかな。
だからこういう人なんじゃないかとかね。
でも目の前にいる人の声のトーンとか
表情とか、呼吸のリズムとか
体が走っている場の質
そういうものに私たちっていうのは反応します。
21:02
これを現代科学で言うとミラーニューロン
とかでも言ったりします。
相手が何者であるかの名前とか
ラベルっていうものじゃなくて記号ではなくて
相手がどういう存在感を持っているかに
反応しているんです。僕たちっていうのは。
それなのにラベルで人を管理しようとする
ということはそうした体の感受性
身体性
こういったものを知識で
いや、知識じゃないな。思考のところで
上書きするっていうことでもあるんですよね。
これってまさに宮内先生が言う
言葉の自動機械そのものなんだと思うんです。
記号に飲まれない。
僕らは言葉を扱いますが
その言葉の
言葉以前にある体で反応してしまう
そしてもう一つです。
善悪の判断の限界の話です。
お祈りの話でしましたよね。
キリスト教的な祈りの中で
どうか見ていてください。
私はあなたのものですという祈りの意味があるんじゃないか
という話がありました。
その中でナチスドイツの例を出していました。
ナチスドイツっていうのは絶対悪だと言われるけれども
あの歴史がなかったら今のドイツはなかった。
ああいう悲劇というものを徹底的に
自国民全員で反省し続けたからこそ
ドイツはヨーロッパの名所になれたと。
過去の出来事を
完全な悪だという風に封印してしまうと
そこで例えばですよ
ドイツを完全に損害してしまったら
今の良きドイツというものは見れなかった
というわけですよね。
完全な悪という風に封印してしまうことで
その先に続く変化というものを
見る目というものが塞がれてしまうわけです。
つまり関係性を遮断する防御のパターンなわけです。
途中で線を引かないこと
出来事を善悪で裁かないで
判断を保留しながら開かれたまま見続けること
現代哲学の検証学とかにも
繋がる部分でもあります。
体ってまさにそうなんですよ。痛みが出た。
悪いことだ。これは消さなきゃいけない。
そんな風に思って
来てくださる方って結構たくさんいます。
こんなに体が痛くなった自分は本当にダメだ
という風に思い込んでしまっている。
でもその痛みも関係性の観点から見ていけば
24:04
関係性を見ていけば
実は体がバランスを回復するための
プロセスの一部でもあるわけです。
肩がギュッと固まった。
固まったことが悪い。そうじゃないんです。
悪いわけじゃなく、なぜ固まったのかを見ていく。
ストレスのせいだ。
何をストレスとして感じていたんだろう。
何から自分を守ろうとしていたんだろう。
そんな風に
その塊がある時期を生き延びるために
体が選んだ最善の戦略の可能性もあるわけです。
肩が凝ってる。もう最悪。
という風に思考で善悪を判断した瞬間に
体が教えてくれようとしていることに
耳を塞いでしまうんですよね。
体を読んで、解いて、反っていく
という身体の教養を
Somatic Studioが提供しています。
これは、善悪の判断を保留しながら
体が示す流れ、つまり
身体地というものに乗っていくことでもあるんですよね。
実はこれが
キリストが言う、「私はあなたのものです。」というものだったり
ブッダが言う、「空。空が
体の実践レベルで交流する地点だ。」という風に
僕は思っています。
はい、だいぶ長くなってしまいましたが
前回の冒頭で紹介した質問に戻りますね。
やりたい仕事に就けた。
でも私じゃなくてもいいんじゃないかと思ってしまうんだ
というようなご質問をサポーターの方からいただきました。
これに対して改めて
今までの話をまとめながら僕の答えを言うと
私じゃなくてもいいというのは多分
頭がそう判断しているのかもしれません。
仕事の中身を見て、スキルを見て
ポジションを見て、これは変わりが効くんだな
という風に、もしかしたらね。
でもそこで感じているモヤモヤというものが
実は大事なのだと思います。
これを質問にくれるということは多分
体のそのモヤモヤを感じているし
その重要性というものを
なんとなく感じられているんだと思うんですよ。
頭の判断というものと体の感覚がずれている
だからモヤモヤするわけです。
体はいやそんなことない、ここにいる意味があるよ
ってもしかしたら言っているのかもしれないし
もしかしたらさっさと違うところに行けって言っているのかもしれない
それは分かりません。ただモヤモヤというものが
今あるということだけ
実際に感じてみてほしいです。
ぜひ身体の教養を
読む辺のところで
このモヤモヤというものを分解してみてください。
27:01
このモヤモヤが体のどこにあって
どのような質感で
どのような動きがあって
どのような形をしているのか
これが特定できてくると
どこに介入すべきなのか
というのが受け守りになってくると思います。
何よりも頭の判断というところももちろん大事なんだけれども
そこよりもこのモヤモヤというものを
先んじて認識してあげてほしい。
宮台先生が繰り返し言っている通り
社会学者の宮大臣自身が言っているように
社会というのは入れ替え可能性の論理で回っています。
これが悪いわけではないんですよ。しょうがないことでもある。
経済、社会においてはね。
ただ、頭で考えれば
私じゃなくてもいいというのは正しいわけです。
でも体の、体というのは
その論理の外にいるということも事実なんですよね。
社会の論理と
僕らが生きている人間としての
動物としての論理というものは
まだやっぱりズレがあるようなんです。
体はあなたでなければならないという場面を
ちゃんと知っているということでもあると思うんですよね。
これまでの経験の中で。
それがいつ来るかわからないし、もしかしたら今あるのかもしれないし。
体が開いていれば
開かれていれば
来た時に応答できるようになるはずです。
サマリア人が倒れた人の前で
体がふっと動いてしまったように。
前回と今回、2回にわたって宮大臣先生の
お話をきっかけにですね。
イエスキリストとブッダ、釈迦の
話をしていきました。
宮大臣先生は社会学者の方で
一見すると体の専門家ではないと思うんですね。
ソーマティックスについて話しているわけじゃないけれども
イエスキリストもブッダも
宗教とか哲学とか
そういう話、抽象的な話をしているようで
体の話をしているわけでもない。
でもこの人たちが言っていること
っていうのはとどのつまり
体の話なんじゃないか
っていうことを
この前編と後編のポッドキャストで僕が
お話したかったことなんです。
イエス様が指し示した場所
30:01
ブッダ、釈迦が指し示した場所
それを
宮大臣氏は内発性と呼んだ。
僕はこの内発性が
身体の合理性というものから立ち上がる
っていう風に呼んでいます。
それぞれみんな言葉は違うけれども
見ている景色はおそらく同じなんだと思います。
この前回と今回のポッドキャストを
聞いてくださっている皆さんも
おそらく同じ景色を見ているんだと思います。
こっちなんじゃないかな。
だから多分この話は面白いと思って聞いていただけ
ているのかなと思うんですよね。
頭が先に動くっていうような生き方
構えから体が先に動くっていう生き方
構え
ルールを参照してから動くわけではなくて
体が応答して初めて言葉が
後からついてくる。その順番を取り戻すこと。
それが宮台真嗣が言うまともな人間であって
イエスが言う隣人であって
釈迦が指した無が夢中の状態であって
僕がやっているSomatic Studioの
身体の共有を目指すところです。
質問をくれた方ありがとうございました。
まさかこんな量で応答されると思ってなかった
と思います。すみません。
暑くなってしまいました。
でもね、この質問者の方のモヤモヤ
っていうものは体が走ってる際です。
つまりは。大事にしてほしいんですだから。
気になった方はぜひ宮台真嗣先生のことを
見ていただいたり
キリスト教とか仏教、宗教について
こういう身体制の観点から見ていくっていうのも
面白いかなと思いますのでぜひ
それぞれ覗いてみてください。
たぶんね、今後も何かしらのテーマで
結構接続する部分が多いので
それぞれの方、また話に上がってくるかもしれないので
ぜひ面白がって聞いていただけると
嬉しいです。はい、ということで
後半のPodcastも
終わりになります。皆さん聞いていただき
ありがとうございました。またお会いしましょう。
32:30

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