ブッダの躊躇と教え
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教初心者の方に向けてインスタグラムのフォロワー3万人超えの総量、私、かんどう和尚がメーター的な視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。冒頭の番組の紹介、少し変わったのにお気づきでしょうか。
はい、これまでインスタグラムのフォロワー2万人超えと紹介をしておりましたが、この度3万人を超えました。なので3万人超えというふうに変更させていただきました。
直談、数字にこだわっているわけではないんですけれども、たくさんの方にフォローしていただいているということも素直に嬉しく思います。
さて、前回から悟りに至った後のブッダがどのような動きをしたのかについて、ブッダの伝記、ニラーナカタに基づいてお話をしています。
前回は、ブッダが商人のタップサとバッディカという2人の信者を得たところまでお話をしました。
この部分は、仏教が商人に支持された宗教であるという、そういう歴史を象徴させていると見ることができるように思います。
普通であれば、そこから順調に教えを広めていきましたとなりそうなところなんですけど、そうはならなかったんですね。
この後ブッダは、誰もが予想しない挙動、動きをします。
それは、教えを広めることを躊躇するんです。
この話、初めて聞いた方、かなり驚かれます。
特に日本に伝わっている大乗仏教では、ブッダは生きとし生けるものを救済する、助けるために出家したんだって語られることが多いので、皆さんそう思われていることがほとんどです。
でも実際には初期教典と分類される、非常に古いお経ですね。
これには、ブッダ自身が教えを広めることを躊躇したって語られる場面、これしっかり残されているんですね。
ではなぜ躊躇されたのか、ブッダはこんな風に語られています。
少し長いので、要約しますね。
私の得得した教えは、大変素晴らしいものである。
ただ、この世を人々は執着することを楽しみとしている。
そういう人たちに欲望、執着を捨てようと言っても、理解できないだろう。
理解できない人に説いても、私はただ疲れるだけである。
こんな風にブッダは考えられて、誰にも教えを説かずに、ひっそりと命が尽きるまで過ごそうかと思われたそうです。
かなり意外な展開に思われるんじゃないでしょうか。
ただ、ブッダは自身の教えがどういう性質のものなのか、そして世の中がどういうふうに成り立っているのか、これをよく分かっておられたんですね。
例えば、私たちは資本主義社会に生きていますけど、資本主義社会では消費者の欲望が市場を動かします。
だから政府は消費を促すために様々な策を講じますし、テレビをつければ盛んにコマーシャルで欲望を煽りますよね。
ブッダが生きておられた古代インドではここまでではないんですけど、それでも経済が発展をしてきた時代に都市部で過ごされたブッダはそういう生い立ちなんです。
だからそういうブッダは社会が欲望で成り立っているということを重々承知しておられたんですね。
だからこそ、欲望を立つことを説く自分の教えを受け入れられない人が一定層いるんだということを理解して、それで教えを説くことを躊躇されたんですね。
梵天の登場
このままでは仏教は始まりませんよね。どうしようと。そこで登場するのが梵天です。
これは何度かお話ししましたけど、この梵天というのは当時のインドにおいてマジョリティであったバラモン教の最高神、一番偉い神様です。
バラモン教というのは、我々仏教からするとライバル宗教なんですね。目の上のタンコブみたいな存在です。
そのライバル宗教の最高神である梵天が、このままでは仏教は始まらないと危機を察知して、天の世界から降りてきて、こんなことを言うんですね。
お願いですから仏教を説いてください。この世には少ないながらブッダの教えを理解できる者もおります。こんなふうにブッダに懇願をするんです。
ブッダはそれに対してしぶるんですよ。どうしようかな。また梵天はお願いですからって何回もお願いを繰り返して。
3回目のお願いでブッダは重い腰を上げて、確かに世間見渡してみると仏教を理解できる者も少ないけどいるなと。
じゃあ私はその者たちのために教えを説こうと仏教を決意するんですね。このエピソードというのは仏教ではすごく有名ですよね。梵天感情というふうに言います。
梵天感情の感というのは、お勧めするとかの勧誘の感ですね。そして情というのは言辺にあおって書いて、恋、願うとかの恋ですね。これで梵天感情。
この偽ってエピソードっていくつか示唆されているものがあるように思うんですね。まずは仏教の優位性を説いているということです。
これは以前も申し上げましたけど、ブッダが生きた時代って仏教以外にもいろんな宗教とか思想が起こった時代なんですね。
そういう中で仏教が一番優れているってことを示すために、当時最も栄えてた宗教であるバラモン教の一番偉い神様の梵天に頭を下げさせるってことをしているんです。
このあたりは電気を作った作者とか、当時の仏教徒の意図、これが如実に現れている箇所だと思います。
仏教と他の宗教の違い
これは付け加えたい、申し上げたいんですけども、仏教聖典に登場する神様のことですね。
これは仏殿に限らなくて、仏教聖典には多くの神々が登場したりするんですよ。
こういう箇所っていうのは近代以降ではヨーロッパの人とか日本人にすごく嫌われてるんですね。
ファンタジー、フィクションが混じりすぎている。
ノンフィクションの歴史的な話だけじゃなくて、こういうフィクションがあるから仏教がおとぎ話みたいに聞こえるんだっていう批判ですね。
ただね、インドの歴史とか古いお話とか読んでいくとよくわかるんですけど、
インドはですね、人々が生きる世界に直接神話というものが接続されているんです。
現代の我々日本人とかヨーロッパの人たちみたいに、神話と人々の暮らしっていうのが断絶されてないんですよ。
接続されているっていうのがインドの特徴なんですね。
だから、もっと言うとね、神話も含めて現実なんですよ、インドにおいては。
だから、今の私たちに信じられないような箇所を切り捨てるっていうことは、
これはインドの都合よく切り取っているに過ぎないんですよ、私たちが現代人がね。
だからそういうことをすると、私は正しく仏教を理解するっていうことの阻害になると思うんですね。
だから経典を読むとか、経典に当たるっていう時には、
当時のインド人になりきって仏教に触れるっていうこと、これもすごく大事になってくると思いますね。
どうしても俯瞰してメタ的に私たち判断するんです。
私のこのポッドキャストもそういう部分が非常に強いんですけどもね。
ただ、そういう視点ももちろん大事なんですけども、
でもそれとまた別の視点でね、当時のインド人の視点っていうのを持っているのもね、仏教を尊重する上ではすごく大事になってきますね。
そしてね、もう一つ大事なところ、示唆するところっていうのが、仏教は全ての人を対象にしてないっていうことですね。
IYKYKって言葉知ってますか?
これ、英語のスラングですね。
If you know, you knowっていう言葉の略です。
この意味はですね、分かる人には分かるっていう意味ですね。
仏教はそういうことなんですよ。
この世に違和感を覚えたりとか、生きづらさを感じる人、そういう人はいらっしゃいって言うんですけど、
でもその反対に、この世を楽しいと、この世の春を謳歌しているような人、そういう人は対象にしてないんです。
これ考えてみると当然なんですけど、
すごく渋谷のね、渋谷?東京の都会ってどこなんですか?
ちょっと私東京数回しか行ったことないから、東京の街中が繁華街やどこかいまいち分かってないんですけど、
東京のね、すごく楽しいところ?繁華街?
そういう場所を歩いている人、みんなで仲間たちでね、ウェーイって言って喜んで楽しんでいるような人にですね、
そういう人のところにテクテクテクって歩いていって、その人の耳元でね、
この世は苦しみですよ。執着は捨てなさいって言っても聞いてくれないでしょう。
余計なお世話ですよね。
だから、仏陀はそういうことをちゃんとわかっているんですよ。
誰が聞いてくれるかということをちゃんとわかっている。
自分の教えを必要としている人と必要としていない人がいるということをちゃんとわかっているんですね。
だから、わかる人だけわかってくれたらいいっていう、そういう姿勢がこの梵天感情というもの、エピソードの中では示唆されているんですね。
こういう仏教の教えを説く姿勢というもの、
これは他の宗教と比べるとすごく特徴的なんですよね。
例えばキリスト教ではですね、歴史的に十字軍の遠征って言って、
キリスト教以外の宗教との衝突とかがしばしば起こりますよね。
こういう他の宗教に対する弾圧っていうこと、
これ仏教はね、基本的に組織的にはやらなかったんですよ。
三発的にはね、起こったりはするんですよ。
でも組織でね、そういう姿勢というのは見せなかったんです。
ブッダの教えを躊躇した理由
で、それ何で見せなかったかというと、
それはこの梵天感情にあるようなね、
わかる人だけわかったらいい、
全ての人に仏教を伝えようとか、わかってもらおう、
全ての人を仏教信者にしようとか、そういうことを思ってないんですよ。
その辺がね、そういう部分はこの梵天感情のエピソードに端を発してるんじゃないかなと思いますね。
その後、教えを説くことを仏陀は決心されてね、
最初は誰に教えを説こうかなって試案をします。
そこで最初に瞑想を自分に教えてくれた、覚えてます?
アララカーラーマですね。
この先生のことを思い出すんですね。
でも彼が1週間前に亡くなってたってことを知るんですね。
それで、アララカーラーマさんは惜しいことをしたな、
あの人だったら理解したのになって言って諦めるんです。
じゃあ彼はダメだっていうことで、じゃあ次誰に説こうかなって考えると、
つぎはですね、ウッダカラーマプッタ先生のことを思い出すんですね。
これはアララカーラーマの次に瞑想を教えてくれた人ですね。
彼のことを思い出すんですけれども、彼も前日に亡くなってたってことを知るんですね。
ウッダカラーマプッタ、惜しいことをしたねって言って、
それでじゃあ次誰に説こうかなって考えると、
かつて一緒に苦しい修行、苦行ですね。
この苦行に励んだ5人の仲間がいましたね。彼らのことを思い出すんですね。
それでよし、じゃあ彼らに届こうと思って、彼らがバラナシっていう、今でいうとベナリスっていう地域ですね。
そこに修行していることを知ってたので、じゃあそこに行きましょうということで、テクテクと歩いていくんですね。
その道中で、ちょっと他の宗教のお坊さんと出会うんですよ。
このお坊さんがウパカって言うんですね。
この人は仏教ではもちろんなくて、アージービカ教っていう宗教のお坊さんだったらしいんですけども、
彼に対してブッダは、私、悟ったんですって告げるんですね。
それを聞いたウパカはですね、首を横に振って、ああそうなんですかって言って去っていくんですよ。
この首を横に振るっていう仕草、これが何を意味しているのかっていうのがちょっとね、
現代の仏教学者の中でも見解が分かれるところなんですよ。
インドに詳しい人が言うには、この首を横に振るっていう仕草は、了承をしたという意味なんだって言われるんですね。
日本人が首を横に振った時って否定ですよね。了承してないですよね。
でもインド人はそうじゃなくて首を横に振るのは了承してるんだって言うんですね。
このあたりがね、ちょっとよくわからないんですよ。
でも教典を見る限り、了承しているように見えるんですけど、でも納得しているようには見えないんですね。
感覚的にはですね、ああそうですか程度の様子に見えるんですよ。
ちょっと相手にされてないように私の目には映るんですね。
ちなみにブッダが生まれた時に、天上天下唯我独尊って言葉を言ったと。
これの元になった言葉があるんだってことを、エピソードの一番最初の時、
これ第2シーズンかなってお話ししましたね。シーズン2の時かな。
中で言いましたけれども、この天上天下唯我独尊のオリジナルになった言葉。
これは元々はウパカというアージービカのお坊さんと出会った時に、
ブッダが語った言葉がオリジナルだというふうに言われています。
これが後々、生まれた時の赤ちゃんのブッダが喋った言葉に異動をしたんだと。
移植されたんだということを言われたりしてますね。
次回はですね、この5人のミクと出会った再会のエピソードですね。
仏教の勧誘の姿勢
これをお話ししたいなというふうに思います。
ここからはアフタートークです。
今回は有名な梵天感情のお話でした。
私はですね、このブッダが教えを説くことを躊躇して、
一部の人に教えを説くように決意したという部分。
これね、すごく大事だなと思うんですよ。
現在の日本でも強引な宗教勧誘という社会問題になりますよね。
仏教はこれをやらないということです。
だから、この話を仏教のお坊さんはちゃんと肝に銘じておかないとならないように思うんですね。
仏教というのは病院みたいなものなんですよね。
困った時に寄り所となる場所なんです。
病院って勧誘しないでしょ。
勧誘する病院もあるんですか。
家に来てくださいとか基本的に言わないじゃないですか。
待ってるわけですよ。困った人が行くところですよね。
仏教もそうだということですね。
勧誘がんがん自分から行くんじゃなくて、
ここに仏教がありますよ、困ったらいらっしゃいということですね。
その部分でも、でもちゃんと病院があるということは知らせないといけませんからね。
だからこうやって私もね、ポッドキャストでね、ここにね仏教があるんですよということをお知らせをしているということですね。
この番組ではですね、フォローしてくださる方、またねレビュー書いてくださる方もお願いお待ちをしてますから、
ぜひそういう部分もやっていただければなと思います。
また次回お会いしましょう。