悟り編の開始
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、これから仏教を学んでみたいという方に向けて、インスタグラムでフォロワー2万人越えの臨済集の総量、私、かんどう和尚が、仏教の基本を1からお話ししていく、そんなプログラムです。
皆さん、こんにちは。今回から悟り編という新シリーズでお送りしたいと思います。
前のシリーズ、仏教誕生編では、ブッダが生まれたところから出家して、苦行を放棄したところまでお話ししました。
その部分を簡単に振り返りたいんですが、ブッダはシャアギャ族という王族の出身で、次の王様になることを期待されて生まれてきた。
でも、自らが老いて病になって、やがてはこの世を去る、そういう定めにあるということを憂いて出家を志します。
そして、出家者としていろんな修行に取り組んで失敗を重ねていく中で、ようやく悟りに至ろうかというところまで来ました。
私たちがやっているこの仏教にとって、悟りというのはとても大切なところなので、ここをピックアップして悟り編という新シリーズでお送りしたいということです。
前々回くらいに収録したものを聞いていましたら、声がカッカフでしたね。
しかも明らかに疲れてましたね。
その時、ちょうど法事で、何件も法事があって、お経をいっぱい唱えた後で収録をしたんですけれども、その結果声は枯れてるし、法事で疲れてるから声に張りはないし、
なんかもう今すぐ寝るのかなっていうようなテンションでお話ししてましたね。
ちょっと聞きながらですね、これちょっとあまりにも元気がなさすぎるなと思ったので、今日はもう前に何もしてない状況、一番余力がある状況で、充電満タンの状況でお話をしているので、前より聞きやすくなるんじゃないかなと思っております。
余談でしたけれどもね。
よくね、仏教の教えってどんな教えですかって尋ねられるんですけども、そういう時に模範的な回答、典型的な回答としてこんなふうに言われるんです。
仏教というのは、迷いを転じて悟りを開くこと、これを目指す教えですと。
このことを転明開悟っていうふうに言うんです。
転じて迷い開く悟りという、こういう感じですね。
ほう、なるほどって思われるかもしれませんが、皆さんお気づきですか。
この言葉は裏を返せば、悟っている人以外は迷っているという意味なんです。
だから仏教は、人っていうのは生まれながらにして先天的に迷っていると考えてるんですね。
では私たちを迷わせているものは何なのか。
それは煩悩です。煩悩まみれってよく言いますけど、煩悩っていうのは心の良くない働きをまとめて、総称して煩悩って言うんですね。
よく百八つあるとか言われるじゃないですか。
いろんな数え方があるんですけれども、確かにたくさんあるんですよ。
その煩悩の中で最も重いもの、良くないもの、これを明かりがないと書いて無明っていうふうに言います。
無ってのはあるなしの無ですね。明かりっていうのは暗い明るいの明かりね。これで無明。
この無明っていうのをちょっと見ていきたいんですけど、これどういう煩悩か、心の良くない働きかっていうと、
物事の世界の道理を理解できていない、そして自分に都合よく世界を解釈させる、そういう心の働きのことを無明って言うんです。
簡単に言うと、自己中心的に世界を眺めさせる作用、働きっていうことです。
もしも自分を中心に世界が回っているのであれば、それは私たちは世界をちゃんと正しく眺めているって言えるんですけど、実際には自分中心に世界回ってないですよね。
中にはね、これ聞いて、いや、私は自分中心に世界なんか見てませんよって、そう思われる方もおられるかもしれないんですが、本当にそうですか?
ちょっと想像してください。
例えば、お友達とか家族とお花見に行く計画を立てます。
何週間も前からすごく楽しみにしてた。
でも当日に雨が降って中止になってしまった。
その時どう思われます?
あぁ、ついてないなって。
なんでこんな日に限ってって思いませんか?
でもですね、農家の方だったり雨を喜んでいる人も絶対にいるんです。
だから雨自体は悪くもなんともない忠誠な出来事です。
でもそれを自己中心的に見てるから良い出来事、悪い出来事にしてしまってるんです。
これが自己中心的に世界を眺めているっていうこと。
そのことをまるで暗闇にいるかのように何も見えていないということで無明って言うんですね。
現代風に言うと認知が誤っているってことです。
それを表した有名な比喩があるんですよ。
悟りと輪廻の理解
これダジョーマの湯って言うんですけど、ダっていうのは蛇のことです。
ジョーっていうのは縄、ロープですね。
そしてマっていうのは朝、素材のことですね。
暗闇の中を歩いていると道端に長細いものを見つけて、思わずあ、蛇だと思って慌てて家に逃げ帰った。
そしてその翌日その場所に行ってみると縄、ロープが一本落ちてた。
蛇だと思ったものは縄だったんですね。
もっと言うと縄っていうのは朝でできているので、これは朝っていうのが真実の見方なんです。
私たちの通常の認知っていうのは、暗闇で縄を蛇と見るように誤っているっていうことなんですよ。
そうやって誤った認知で世界を眺めている、捉えてしまっているので苦しみが生まれるんだって。
でもそれに気づいてないんです。自分たちが暗闇にいるってことに気づいてない。
ブッダはそういう私たちのことを多分かなりはがゆく思われていたんです。
だからダンバパダっていう有名な経典があるんですけども、その経典の中にブッダの言葉としてこんな言葉が残っています。
人は何を笑い、何を喜ぶのか。この世は常に炎に包まれている。
暗黒に包まれているのになぜ明かりを求めようとしないのか。
本当にこの言葉を聞くたびに胸に迫るというか本当やなという気持ちにさせられるんですけれどもね。
明かりがないと危ないじゃないですか。落ち落ち歩きませんよね、暗闇の中を。
こういうふうに暗闇がある、これが私たちの状態なのでやっぱり明かりが必要ですよ。
この暗闇に明かりを灯すもの、これ何かっていうと、これを仏教では知恵って言うんです。
この知恵によって私たちを迷わせている煩悩、心の良くない働きが断ち切られていくんですね。
108つあるって言われるような数多くの煩悩が心に起こらないようになる状態、煩悩が全部断ち切られている状態、これを悟りって言うんですね。
だからよく〇〇を悟ったみたいな言い方されるじゃないですか。
でも悟りっていうのは心の良くない働きが二度と起こらないようになった状態、こういうふうに言った方が適切なんじゃないかなというふうに私は思ったりします。
では悟りに至るとどうなるのか。これは二度と生まれ変わらないようになります。
ちょっと唐突に感じられるかもしれませんが、インド思想では生き物は生まれては死に、また別の命として生まれ変わる、これを繰り返すって考えます。
これを輪廻って言います。輪廻っていうのは車輪の輪に輪っかですね。
そしてそれに回る。回るっていう字には延命措置とかいう時の縁っていう字がありますね。あれの縁がついている方の回るです。
これで輪廻ですね。ただ生存には老い、病、死をはじめとする苦しみが付随しているので、生まれ変わるということ自体を苦しみだっていうふうに考えるんですね。
これは仏教もそうですし、インドの思想は基本的にこう考えます。
そしてそこを脱した状態、つまりこのぐるぐるぐるぐる延々と生まれ変わり死に変わりを繰り返す状態から離脱した状態、二度と生まれ変わらなくなること、これを仏教では下脱って言ったり、涅槃って呼んだりします。
さっきも言ったように、仏教に限らないんです。二度と生まれ変わらないのが一番思考の目標だっていうのは。これはインド全般で考える目標なんですけど、ただそう考えない人もおられますよね。
また生まれ変わりたいと思う人もやっぱりいると思うし、生まれ変わった末にもっと良い生涯を送りたいと考える人もやっぱりおられる。
それはそれでいいって仏教は考えるんです。そういう人は来世良い生涯を送れるように今良いことをしなさいと。それが来世良い芸人になって良い家宝としてもたらされますよって。
だから仏教は二つの目標を据えるんですよ。倫理から下脱したいという目標もあるし、そうじゃなくてより良い生涯を送りたいという目標も認めるので、仏教は二段構えになっているんですね。
最後にこれちょっと余談になるんですが、悟りの段階っていうものをちょっとお話ししたいなと思うんです。これ一般にはおそらくほとんど話されてないので、ご存じない方が大半じゃないかなと思うんですけど、悟りっていうものは煩悩をすべて断ち切った状態だってお話ししましたが、煩悩が断ち切られる時っていうのは、
全ての煩悩が一気にバーって断ち切られる時と、徐々に段階的に断ち切られる時があるって言われてます。一つでも断ち切られるとどうなるかっていうと、その時にはですね、聖なるものって書いて、聖者って呼ばれる人になります。仏教では聖っていう字はこれ聖って読むことがほとんどですね。
その反対に煩悩を一つも断ち切ってない人のことを何て言うかっていうと、凡人の凡に乙って書いて、凡夫って言います。だから皆さんも私も凡夫なんですね。
私はね、もちろん悟ってないんですけど、皆さんの中にはもしかすると悟ってる方もいらっしゃるかもしれないので、凡夫じゃないよという方もおられるかもしれませんが、おそらくほとんどの方は凡夫だと思いますので、だから世の中にはこの聖者、悟った人と凡夫の2種類の人間がいるっていう風に仏教は考えるんですね。
圧倒的に凡夫が多いわけですけれども、でもこの悟った人、悟りの海底を歩いている人、聖者ですね。この聖者には4種類があるって言われてるんですよ。これ覚えなくていいんですけども、その4種類をですね、夜、一雷、不厳、荒寒っていう風に言います。
悟りの流れと生まれ変わり
これそれぞれ断ち切った煩悩の数で違うんですけど、夜っていうのは一番最初の段階で、これは夜っていうのは預かる、預金通帳の夜ですね。お金を預けるっていう字。この夜に次は流れって書きます。川の流れのようにの流れ。これで夜ですね。これは悟りの流れに入ったっていうことなんです。
そうなるとね、人間界と天界を往復することを7回の間のどこかで完全な悟りに至って、涅槃に至るって言うんです。生まれ変わり死に変わりを繰り返すって言いましたね。
その中では一番いい世界、境遇が天の世界。これ神様の世界です。次が人間ですね。その次が畜生とかですね、動物たちの世界であるとか。あとは地獄とかが出てくるんですけれども。
あとは日本とかでは6つの世界があるって言われますけれどもね。この5つないし6つの世界のどこかを延々とグルグルグルグル生まれ変わり死に変わりを繰り返すんですけれども、夜に海底に入ると人間界と天界、このいい世界だけを何回か生まれ変わり死に変わりを繰り返す。これが7回最大で生まれ変わり死に変わりの往復があると。
でもそのどこかで完全に悟りに至って二度と生まれ変わらない下脱、涅槃になるんだっていうことなんですね。で、この次が一来って言います。一来っていうのは1つ関数字の1ですね。それに来っていうのは来る。来ると、行くとか来るとかの来るですね。
これね、その字の通りでね、天界と人間界を1往復だけするんです。その間に涅槃に入るので一来って言うんですね。そして3つ目、3段階目は不幻って言います。不っていうのは不思議の不。そして幻っていうのは、帰るっていう利益還元制度とかの感ですね。これで不幻っていうふうに言います。
帰らないっていうことなので、死んだら天界に生まれ変わって、この天界で涅槃に入る。人間界には戻ってない。帰ってこないので不幻って言うんですね。
で、その次がですね、最後、あらかん。これ聞いたことありません?日本ではらかんさんって呼ばれたりするんですけど、十六らかん像とか祀ってるお寺ありますよね。このらかんです。らかんってあらかんを省略してらかんって言うんですね。
これはあらかんになったらもう天界に行かないんです。この生、この生涯の間にこれが終わると涅槃に入りますね。だからブッダもあらかんなんです。でもあらかんになる人みんながブッダなわけではないんですね。ちょっと複雑ですよね。
このブッダっていうのは、我々が知っているお釈迦様、釈迦族の尊者であるゴー玉ブッダだけがブッダなんです。ブッダと呼ばれるんです。最初はですね、おそらくこのあらかんとブッダに違いってなかったんだろうと思うんですけど、時代が、時間が経過していくにつれてですね、ブッダの権威が上がったんですね。
だから我々が修行した結果、ブッダになるっていうのは、ちょっとこれ不届きもの、不存じゃないかっていう思いがね、仏教徒の中で生じてきたんだろうと思います。その結果、我々はどれだけ修行してもブッダにはなれませんよって、あらかんにしかなれませんっていう風になったんだろうと思うんですね。
ちなみに、このあらかんとブッダの違いっていうのは何かっていうと、あらかんはすべての煩悩を断ち切る知恵っていうのは持っているんですけど、ブッダの知恵はもっと範囲が広いんです。この煩悩を断ち切ることだけに留まらなくって、世界のすべてのことに対する知恵があるんですね。
だから一切知って言ったり、あと全知全能の全知って言われたりしますね。全能ではないんです、ブッダはね。でも全知なんです。過去、現在、未来におけるすべてのことの知識があるっていうこと、これが全知っていうことですね。
これは私がですね、仏教の勉強をしているときに、昔先生から習ったことなんですけど、その先生が全知っていうのはどういうことかっていう話のときにね、ちょっと面白いこと言われてて、ブッダは訪れたことのない町のコンビニの場所もどこにあるかわかるっていうんです。全知ってすべてのことの知識があるって、そういうことも含むんだっていうことですね。
我々は行ったことがある町にどこに何があるってわかるじゃないですか。例えば京都の四条河原町のセブンイレブンどこですかって言われたら、あそこにありますよっていうふうに答えられる。これは私が京都に住んでたからですね。
でも私は北海道とか行ったことないし住んだことないので、北海道の尾広でセブンイレブンどこにありますかって言われてもわかんないんですよ。それは私が全知じゃないからです。でもブッダは全知なのでそれもわかるっていう。理論上ですよ。理論上はそういうふうになるんだっていうことを言われたのをすごく今も覚えてますね。
本当これも余談になりましたけれども、次回はですね悟りに至る場面についてお話をしていきたいなというふうに思います。本日のアフタートークです。今日のお話いかがだったでしょうか。悟りっていうのは日本語としてもひどく人口に感謝している言葉になりますので、でもその内容をはっきりと説明できる方ってまずおられませんよね。
それもそうなんです。抽象的なんですよね。ふわっとしてる。でもそのふわっとした言葉を少しでもつかめるようになったらいいなということで今回お話をさせていただきました。もしちょっと面白かったなとかまた聞きたいなって思っていただけたらフォローとかレビューを残していただけると大変嬉しいです。
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