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2025-08-23 18:57

【仏教創業編#5】なぜ仏典には“神話”が必要だったのか?日本人天才学者の見解

▼今回の内容


ブッダがかつて苦行を行った地・ウルヴェーラーへ戻り、バラモン教の著名な宗教家ウルヴェーラー・カッサパと出会います。


火を祀る堂に棲む「毒をもった龍王」との一夜の対峙。これは単なる神話ではなく、インド文化の深層心理や仏教布教の舞台装置として重要な意味を持っています。


江戸時代の学者・富永仲基の文化比較論を手がかりに、なぜ仏典には“神秘的な物語”が必要だったのかを考えます。


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サマリー

このエピソードでは、仏教の成立とその背景にある文化的特性が考察されています。特に、日本人学者の富永仲本の見解を通じて、仏典に描かれる神話的要素が古代インドの人々の仏教への興味や信仰の形成に寄与したことが説明されています。仏教の輪廻や生まれ変わりの概念が現代の物理学と関連づけて考察されます。また、祖先を敬うことと生まれ変わりの関係において、個人の思いと記憶が重要であるという見解が示されています。

仏教の基盤と歴史
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教初心者の方に向けて、インスタグラムのフォロワー3万人超えの僧侶、私、かんどう和尚が、目立たきな視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。前回は、やさをはじめ多くの弟子を抱えるようになって、そしてみんなで一家子にとどまるんじゃなくて、バラバラになって遊戯をするように、仏陀が指示されたところをここまでお話ししました。今回はその続きです。
仏陀は、それまで過ごしたバラナ市を離れて、ウルベーラという地に向かいます。ここは、かつて苦行をしました。あの時に滞在していた場所です。そこで、ウルベーラ・カッサパという、すごく有名なバラモンに出会います。
バラモンというのは覚えておられますかね。カースの一番上に位置する階級の人たちですね。このウルベーラ・カッサパは、カッサパ3兄弟といわれる有名な宗教家の兄弟の一番上のお兄ちゃん、長兄なんですね。
この人が所属しているバラモン教というのは、火を神様化して、供物を捧げたりとか、崇拝するということをやるんですけど、密教のゴマ行のルーツですね。この長兄のお兄ちゃんの住まいには、火を祀る専用のお堂があって、仏陀はカッサパのお兄ちゃんに、ここで一晩過ごさせてくれってお願いをするんですね。
それを受けたカッサパのお兄ちゃんは、「私の気持ちとしては全然いいんですけど、でも実はうちのこのお堂には凶暴な竜の王様がいる。竜王は大変な毒を持っているから危ない。あなたに害を与えるか心配だから、ちょっとやめたほうがいいんじゃないですか?」って警告をしてくれるんですね。
インドでこの竜というのはコブラのことを指すんですけど、そのような恐ろしいコブラがいるお堂だということですね。でもそれに対して仏陀は、「私全く構いませんよ。」って言うんですね。それでそこで一晩過ごすことになります。
仏陀はコブラの住むお堂に入ったんですけど、コブラにとってはですね、仏陀は招かれざる客って言うんですか。自分の住まいになんか変な奴やってきたってなってるわけですね。それでコブラはですね、仏陀を追い出そうと思って煙とか火を吐いてきたと。
このあたりはね、ただのコブラじゃなくて竜の王様っていうのがね、よく表されてるんじゃないかなと思うんですけど、でも仏陀も負けてないんですね。コブラと同様に煙とか火を吐いて往生して、ついには屈服をさせるんですね。
このあたりのエピソードっていうのは、ファンタジーな感じがして、啓蒙主義的な考え方をする現代人から好まれないかというのが一つかなと思います。でも江戸時代のですね、日本の天才学者で富永仲本っていう人がいるんですけど、この人がですね、文化人類学的な視点から国に俗ありっていうことを言ってるんですよ。
これどういう意味かっていうと、その国その国、土地においてですね、文化的な特性とか種族の傾向ってものがあるんですよって指摘されてるんです。
例えばですね、中国人っていうのは文、レトリックですね、これを好むと富永は言ってて。漢詩って皆さんも学生時代に習われたことあると思うんですけど、漢詩ってすごくやっぱり美しいんですよね。流霊ですね、表現とかね。規則性がありますよね。ここにはこの字は入れちゃいけませんよとか、標則とかありますけれどもね。
規則性がちゃんとある。ああいうのを大事にするっていうのが中国人の文化的な特性、種族なんですよと。ああいうふうに美しい文じゃないと中国人は読む気がしなかったんだと思うんですね。
お経も古代インド語から中国語に翻訳する時っていうのは、美しく中国語に翻訳されたっていうのはすごく評価されたんですよ。そういう文化なんですね。じゃあ日本人はどうかっていうと、秘匿する傾向が強いって言ってます。秘匿っていうのは隠すっていうこと。
これもね、私なんかわかるんですよ。神社とかに行くとですね、神様って見えないようにされてますよね。お寺でもですね、禅拝寺とか秘仏って言って、普段拝めないようになっている。何十年かに一度御開帳みたいな、ああいうとこありますよね。
日本人はですね、見えないとか隠されているっていうところがすごくありがたみであったり、説得力を感じると。だからそういうふうに日本の文化はなっているんだと富永は言ってるんですね。
ではインド人はどうあるのかっていうと、富永はインド人は神秘を好むって言ってるんです。インド人の種族は幻の術であり、これは中国人にとっての文と同じであると。そういうふうに表現しないと民衆は信用しないんだって指摘してるんですね。
確かにこれもね、私わかる気がするんですよ。現代のインド映画とか見ても、主人公がですね、現代の話であっても空を飛んだりとか火を吐いたりする場面ってしばしば目にするんですね。
そういう文化的特性があるから、仏典にも当然そういう場面が入ってくるんだよってことを富永は言ってるんです。そういうところが舞台装置になって、古代インドの人々は仏教の興味を持って学ぶ意欲をかけたてられるんだということなんですね。
仮に仏教が他の土地で生まれたものだったら、全く異なる舞台装置になったというのはこれは想像に難くないですね。
それと仏陀の竜、大蛇、コブラ大蛇のエピソードっていうのは、これはね、リグベイダに出てくるインドラのブリトラ大蛇が意識されてるんじゃないかって個人的には思ってます。
リグベイダっていうのは、インド最古の宗教文献です。バラモン教の聖典になるんですけど、詳しくはね、これ仏教誕生前のインド編の第5話でお話ししてますので、
後でね、お聞きいただければと思うんですけれども、そのリグベイダの中で一番人気があった神様っていうのがインドラなんですね。
日本では大尺天の名前で知られています。リグベイダの中ではそのインドラがブリトラっていう名前の大蛇、コブラですね、これを倒して英雄死されるっていう有名な話が収録されています。
その話が意識されて挿入されたのが、ブッダの大蛇退治のエピソードになるんじゃないかって私はちょっと感じたんですね。
インドラにできること、バラモン教の人気のある神様のインドラにできることは、ブッダも当然できますよって言いたかったんじゃないかなと。
いずれにしてもですね、このようにしてコブラを退治したブッダにですね、ウルベラカスタパは、この人すごいと信仰の心を起こしまして、2人の弟とともにですね、ブッダの弟子になります。
彼らには計1000人の弟子がいたそうなんですけど、その弟子たちもブッダのもとで出家をしました。
文化的特性と仏典の神話
ここでですね、一気に弟子が増えて、バーンとライジングする形になって、仏教の相談・参画は一大勢力になるんですね。
この時にですね、たくさんの弟子たちにブッダがお説法をしている内容が残ってまして、これちょっと皆さんにご紹介したいと思います。
ビクたちよ。お坊さんたちよってことですね。
すべてのものは燃えている。目は燃えている。目の対象も燃えている。耳も燃えている。耳の対象も燃えている。鼻も燃えている。鼻の対象も燃えている。舌も燃えている。舌の対象も燃えている。皮膚感触も燃えている。皮膚感触の対象も燃えていると。
何によって燃えているのか?
むさぼり、怒り、愚かさで燃えている。
だから、そういうものに対して厭う気持ちを持ちなさい。
これね、何言ってるかというとですね、
普段私たちは目であったり耳であったり、こういう感覚機関で捉える外の世界に対して、好ましいものには欲求を募らせる。
好ましくないものに対しては嫌悪感をあらわにして怒りを覚える。
これが目は燃えているとか、目の対象も燃えているとか、耳も燃えている、耳の対象も燃えているということ。
でも、そういうところから心は執着をして苦しみが生じるんですね。
だから、そういう外の世界のものに無自覚に振り回されるのはやめなさいってブッダは言われてるんですね。
ちゃんと自分たちがなんでそういうふうに欲求を募らせているのか、ちゃんとわかりなさいよ。
外の世界のものに対して欲求を募らせる。
まるで燃えるように、欲望の火を燃えるように、燃やすように、思いがそこに行ってるからあなたは苦しいんですよ。
そのことをちゃんとわかって、そういうものは、好ましく見えるものは、実は我々の欲望を募らせて、我々を苦しみに連れていくものなんだと。
そしてその反対に、怒りを生じさせるものも、我々の心を燃やして、目を燃やして、耳を燃やして、我々に苦しみを与えるものなんだと。
だから、そういうものを厭いなさい。あれは良くないものだと、ちゃんと理解しなさいということなんですね。
これね、私すごく良いお説法だなって思ってます。
この後ですね、ブッダは、ラージャガハ、これ漢訳されると大社城って言われるんですけど、現代はラージギルって呼ばれてます。
この場所に移動をしまして、懐かしい人と対面することになります。
生まれ変わりの視点
それによってですね、さらに組織は拡大をしていく。
次回はその話をいたしましょう。
はい、ここからはアクタートークです。
今回もですね、いただいたご質問にお答えしたいと思います。
ラジオネーム、OTOさんからいただいたご質問です。
リンネ転生、生まれ変わるということと、先祖を敬うということが一見矛盾しているように思えるんですが、どう整理すれば良いでしょうか。決してそれぞれを否定するつもりはないのですが。
はい、ありがとうございます。
このご質問は、そうですね。
仮にAさんという人が生まれ変わってBさんになったら、それはもう別人だから先祖と言えないんじゃないかっていう、こういうことも含んでるんですかね。
このあたりはですね、仏教に限らず、古代インドでは割と複雑なんですよ。
時代とともにですね、考え方が変遷していってるんですね。
ちょっとこれ、一から説明した方がいいと思うので、ちょっと突っ込んで話していくんですけど。
一番最初のですね、生まれ変わりの話、説っていうのは、古代インドでは五華二道説っていうものがあります。
五華っていうのは五つの火って書いて、二道っていうのは二つの道っていうこと。
この五華の方はですね、人が生まれ変わる段階を五つに分けて説明をしたものです。
まず人が亡くなると火葬されて煙になって、その煙になって月に行くんだと。
そこから雨になって地上に降り注いで、そして植物に吸収されて穀物となって、それを食べた男性の生死となって、
現代の物理学と輪廻
そしてその男性が女性と交わることによって、この世に胎児として生まれ変わるっていうものですね。
この隣立説は私、いいなと思うんですよ。
現代の原子論とか物理の話とも共通点がかなりあるんじゃないかと思うんですね。
我々は原子の集合体ですよね。
亡くなって火葬されると、私たちの体を構成している原子っていうのはバラバラになって、大気中にばらまかれますね。
それを植物であったりとか、他の動物、他の生命が摂取をして、それぞれを構成する原子として組み込まれていきます。
これなんかはですね、現代の物理学者の人たちがですね、科学的な倫理としてね、しばしばこういうふうに説明されることがあるんですけど。
私たちを構成している原子っていうのは、大昔に恐竜を構成していた原子ももちろんあると思いますし、もっと言うと宇宙を漂っていた原子もあるんですよ。
こういうふうな現代の物理学の視点から見ると、誤化説の倫理っていうのはかなり良い線を行っているんじゃないかなというふうに私は思っています。
続いて二動説。これは人が亡くなると、祖先の道と神々の道という、いずれかの道をたどるというもの。
祖先の道をたどると、亡くなった後は祖先たちが住んでいる世界に行って、一定期間そこで過ごすと、次は誤化説のサイクルでまた人間界に生まれ変わるというもの。
もう一方の神々の道に行くと、神々の世界に生まれて、そこで定住するというもの。
だから祖先の道だと、亡くなった人先祖は一定期間は存在するんですね。
AさんはBさんになる前に、Aさんとして亡くなった後も存在するということになるんですね。
こういうふうな輪廻観というのは、生まれ変わりの考え方というのは、ブッダよりも数百年前の時代になると考えられています。
じゃあ、ブッダがこの先祖、祖先を敬うということ、これをどういうふうに考えていたのかというと、あまりわからないんですね。
やった方がいい、亡くなった人先祖を弔うことを推奨はしているんですよ。
でも、今回ご質問いただいたようなところに対する疑問に対する回答というのはされていないんですね。
おそらくそこまでの興味がなかったんだろうと思うんですね。
ただ、生まれ変わる前と生まれ変わった後は別人なのか同じ人なのかという問いに対しては、別でもないし同じでもないという回答をします。
これは仏教でよく使われる例えがありまして、ちょっとご紹介したいんですけど、マンゴーの例えですね。
ここにマンゴーの木が一本あったとします。その木にマンゴーの実がなりますね。
実は熟すと地面に落ちますね。そして落ちた実の中に種があって、それが発芽して、そこからまた新たにマンゴーの木が成長します。
じゃあ、この時の最初のマンゴーの木と新たなマンゴーの木、これは同じですか?別ですか?
それに対して仏教は同じでもなく別でもないですよね。
リンネもそうですよって言うんですね。生まれ変わった前と生まれ変わった後の人は同じでもないし別でもないですよって。
納得できました?できません?
これね、私はね、まあまあわからんでもないな。大体皆さんそんな感じですか。
じゃあもう一個例えましょうか。
蝶の例えっていうのがありましてね。蝶っていうのは最初はサナギですよね。
サナギから蝶になる時って一旦ドロドロに溶けるんですよね。
ドロドロに溶けて、そこから蝶の姿に変わるんですね。
見た目は同じ生物と思えないような感じですよね。
じゃあこのサナギと蝶って同じですか?別ですか?
そしたら同じでもないし別でもないって仏教は言うんです。
祖先を敬うことの意義
どうです?別ですか?
ちょっとマンゴーの方がまだ何かわかる気がしますけどね。
そんなことが言われるんですよ。
遺伝情報が一緒ですからね、これはね。
ちょっとマンゴーの方がやっぱりまだいいかな。
いずれにしてもですね、これ私個人の見解というか感覚なんですけど、
私は輪廻していることと先祖祖先を崇拝する、
敬うことは矛盾しないと思っているんですよね。
たとえ私の親が亡くなってカエルになったとしますね。
でも私の親であったことは変わりないんですよね。
だから私が育ててもらったことが亡くなるわけじゃないし、
いろんな思い出が消えるわけでもないですね。
だから、生きている時と変わらずに断るごとに、
私は亡くなった親を思い出すでしょうし、敬うでしょう。
私たちは姿形を敬っているわけじゃなくて、
その人と過ごした思い出であったりとか、
やっぱりその中で育まれた思いがありますよね、内に秘めた。
そういう個人の思いを発露する方法として、
個人を敬うということをやっているので、
その人が生まれ変わって別の生き物になっていようが、
生まれ変わってなくて、死後の世界でその人はその人として生きていようが、
私はあんまりそこを気にしたことがないんですね。
どちらでもいいという感覚があるんですね。
ちょっと今回この回答でご理解いただけるかわからないんですけれども、
私はそんなふうに思っているので、そこはそんなに問題じゃないのかなというふうに思いました。
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