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謝ったら負け⁉︎謝罪できない人の心理を読み解く
2026-05-30 13:23

謝ったら負け⁉︎謝罪できない人の心理を読み解く

仏教の物語と現代の心理学という二つの視点から、人間が謝罪できない理由を読み解きます。物語の中では、ブッダの親族という立場に執着し、非を認められずに苦しむ

僧侶ティッサの姿が、過去生からの因縁とともに描かれています。


【目次】

なぜ人は謝罪できないのか

傲慢な仏弟子の物語

ダンマパダ (法句経)第三

現代心理学における謝罪できない心理


【参考文献】

ダンマパダ・アッタ・カター


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【大忍貫道プロフィール】

1987年、福岡県生まれ。花園大学文学部卒業。尾張妙興僧堂にて修行。

臨済宗妙心寺派僧侶。

2011年より九州地方の臨済宗妙心寺派寺院にて住職を務める。

SNSを中心に仏教を発言し、Instagramのフォロワーは現在4万人を超える。

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サマリー

本エピソードでは、仏教の物語と現代心理学の視点から、人が謝罪できない心理を読み解きます。傲慢な仏弟子ティッサの物語や、過去生の修行者デーバラの因縁を通して、自己防衛、自尊心の脆さ、責任回避バイアスなどが謝罪を困難にする要因として挙げられます。仏教ではこれを「慢心」と捉え、自我への執着を手放すことが謝罪への第一歩であると説いています。

なぜ人は謝罪できないのか
大変申し訳ありませんでした。 大人になって、こんな風に謝罪したことってありますか?私はあります。
お約束してたことを失念しまして、すっぽかしてしまったんですね。 これはもうすぐに、全力で謝罪をいたしまして、お相手からも許していただいたんですけれども、
謝罪するって簡単なことではないですよね。 なんで私たちは謝りがたいのか。今回は、仏典に現れる謝罪できないお坊さんの話を通して、謝れない心理を読み解いていきたいと思います。
傲慢な仏弟子の物語:ティッサの事例
物語で読み解く仏教。今回の物語の主人公は、ティッサという年を重ねてから出家したお坊さんの話です。
彼はお寺の部屋の中にいるところから物語は始まります。 ある時、ティッサ尊者、ティッサ長老が
お寺の室内に座っていると、部屋の中にいると、ブッダにお目にかかるために遠方の地域のお坊さんたちがやってきます。 そのお坊さんたちはティッサにこのお寺の習わしなどを尋ねるんですけども、ティッサは黙ったまま答えません。
すごくベテランの雰囲気を醸し出しているんですね。 そんなティッサに若いお坊さんが、あなたは出家してどれくらいですかって尋ねます。
出家してからの年数ってすごく大事で、これによって座る場所とかお寺の中の仕事内容が変わるんですね。
ただ冒頭で言ったようにティッサは年を重ねてから出家しているだけで、見た目はベテランなんですけど実際はペーペーなんですね。新人なんです。
だからこの若いお坊さんの問いに対して、いや出家したばかりですけどって返すんですね。
すると若いお坊さんがティッサを非難します。あなたは間違っていると、立場をわかってないと、先輩方を目の前にして挨拶もしない、質問されても無視する、反省すらしてないじゃないかって幕を立てます。
この若いお坊さんが非難するの、これ合ってる、正当なんです。仏教では出家年数の若いお坊さんっていうのは先輩のお坊さんに対してやらなきゃいけないに努めっていうのがいろいろ規定されてるんですね。
ティッサはこれを全くやってないんです。だから非難されて当たり前なんですね。でもティッサは謝罪するどころが腹を立てます。
このティッサっていうのは出自がいいんですね。クシャトリアって言って王族の出身、その上ブッダのおばさんの子供、つまりブッダのいとこなんですね。
企業で言うと創業者のすごく濃い親戚が途中で入社してくるみたいな、そうなると他の社員たちどうせしていいかわからないみたいになりますけど、仏教の場合はそれは許されないんです。
創業者の親戚であろうと新人としてやっていきなさいよっていうのが仏教なんですね。本人は何も成し遂げてないんです、ティッサは。
でも出自がいいこととブッダの親戚だっていうことでプライドだけはすごく高いんですね。プライドを傷つけられたティッサはこいつらは我輩がブッダの親戚であるということをこれ知らないんだと、
ブッダに言いつけてやるって言って泣きながらブッダのところに行くんですね。そしてブッダに事の天末を話して彼らが私を阻止るんですって訴えるんですけど、ブッダから君、新人の務め果たしてないよねって。
君が悪いよと。彼らに謝って許しをこいなさいと諭されます。でもティッサはこれを拒否します。
世間でも謝らない人っていますよね。謝らないじゃなくて謝れないって言った方が正解なのかもしれませんね。一回私も会ったんですけども、お寺に電話がかかってきて、取りますと電話口からすごく不機嫌な声で、入口で待ってるんですけどって男性の声がするんですね。
私誰とも約束してなかったので、何の話かなって。入口に出るけど誰もいないんですよ。話を聞いていくうちにお寺の名前間違いをしてるんですね。お寺って同じ名前のお寺って結構あるじゃないですか、全国に。
だから私がいるお寺と別の同じ名前のお寺に行ってるわけです。そこと約束してたんですね。そこに行ったら約束のところでお坊さんがいなかったから文句の電話をかけてきてる。でも電話番号がネットか何かで検索してね、うちが引っかかったんでしょうね。で、うちにかけてきてるわけですね。
で、そのことに私気づいたので、あなた何県にいますかって。何県のどこのお寺にいるんですかって聞いたら、やっぱり私が思った通りで私がいるお寺と同じ名前の別の県のお寺にいたんですよ。で、それを指摘したんですね。そしたら相手ははって一瞬したんですね。
で、言葉が詰まるんですけども、でも振り上げた拳の納め所が多分なかったんだと思うんです。で、謝罪もなくそのままあそうですかって言って電話を切られました。で、まあ戻りますけれども、周囲のお坊さんたちがこのティッサの様子に呆れ返ると、ブッダは実はね彼は過去もこういう奴だったんだって言って次の話を始めます。
過去生の因縁:デーバラとナーラダの物語
昔、バラナシという場所において山に籠ってたデーバラという修行者が塩を求めて都にやってきた。そこで近くのお堂に宿泊するために立ち寄ると、後からナーラダという修行者がやってきて、彼と一夜を共にすることになった。
で、このナーラダは寝る時にデーバラの寝る場所をそして出入り口を確認して就寝をしましたが、デーバラはその後寝る場所を変えます。そうとは知らないナーラダは夜中にトイレに行こうと思ってこのデーバラを避けて部屋から出ようとしたんですけれども、デーバラ移動してましたよね。だから移動して寝てたデーバラの髪を踏みつけてしまうんです。
痛みで目が覚めたデーバラはナーラダを叱責してナーラダは謝罪しながらすいませんって言って部屋から出ていくんですけれども、髪を踏まれたデーバラはまた同じとこにいたらまた踏まれるなって考えてまた寝場所を変えるんですね。もう想像できますね。ナーラダも悪いと思ってるので戻ってくる時にデーバラを踏まないようにってさっきとは違う方から戻っていこうとするんですけれども、今度はデーバラの首を踏んでしまうんです。
デーバラは激怒しましてナーラダの弁明も聞き入れません。叱責した上で朝になったらお前の頭は7時に避けるだろうとナーラダに呪いをかけるんですね。この頭が7時に避けるっていうのはインドの物語でよくあるフレーズになります。
しかしこうなるとナーラダも黙ってない。私に過失はないじゃないかと謝ってるのに私を呪うのはおかしいだろうとデーバラの方こそ頭が7時に避けなさいって呪いを呪い返すんですね。呪詛合戦が始まってるんです。でもナーラダちょっといい人なんですね。ちょっとやりすぎだなってかわいそうだなって思って太陽が昇ろうとするのを超能力で遮る。
あのねこれインドだなって感じなんですよ。あのRRRって映画インド映画が数年前流行りましたけどね。あれもなんかねそういうこうファンタスティックな話でしたね。でまあそれがねインドのいいところなんですよ。朝になっても太陽が昇らないので都の住民たちは不思議に思って王様に太陽昇らせてくださいってお願いするんですね。
で王様が何が原因なんだろうかって探るとどうも出家した人たちが口論してるらしいと。それが原因だからって言って仲裁に入ります。で事情を聞いた王様はこれはデーバラが悪いなっていうことでナーラダに謝りなさいってデーバラに言うんですけどもデーバラは謝罪することを拒否するんです。
でもそのままだと頭が7時に裂けてしまうのでみんなで彼の体を拘束して力づくり謝罪をさせるんですね。でブッダはこの話が終わりますとこのデーバラこそがこのティッサの前世だったんだって言って次の詩を唱えられます。
ダンマパダ(法句経)第三:恨みの連鎖
彼は我を罵った彼は我を害した彼は我に討ち勝った彼は我から強奪したこういう思いを抱く人には恨みは遂にやむことがない彼は我を罵った彼は我を害した彼は我に討ち勝った彼は我から強奪したこういう思いを抱かない人には遂に恨みがやむ。
現代心理学における謝罪できない心理
この物語っていうのは自らの火をみどめず謝罪しないティッサが主人公となって話が進んでいきましたけれども
これ実は私たちの姿でもあるんですね
誰しも謝罪するっていうことには心の抵抗がありますよね
なぜ謝罪することにこれほど抵抗を覚えるのか
現代の心理学の見地から見るといくつかのことが指摘されています
一つ目は自己防衛
人には自分自身に対する良いイメージがありますね
これを守ろうとするんです
自分は間違ってない人間だ
自分は正しい判断をする人間なんだと
こういうイメージが脅かされると認知的不協和が生じてしまう
そのため謝るっていうことが自分の否定になってしまうんですね
そこで防衛的に言い訳とか責任転嫁否認っていうことをするんだってことですね
二つ目は自尊心の脆さです
一見プライドが高い人ほど実は傷つきやすい自尊心を持っているということがある
この自尊心が安定している人って謝罪しやすいんですよ
反対に不安定過剰な自尊心を持っている人は批判に過敏で謝れないんです
つまり謝罪っていうことが自己崩壊に感じられる
そういう人ほど謝れないんですね
三つ目が責任回避バイアス
人っていうのは自然にこう考えるんです
成功というのは自分の能力のおかげ失敗は外部要因のせいなんだと
このバイアスが強いと自分は悪くないっていう認識これが形成される
だから謝罪する必要性を感じないんですね
そして四つ目共感性の低さ
謝罪っていうのは相手の痛みを想像する力が必要です
共感性が低いと相手が傷ついていることが理解できないんですね
だから謝る理由というものが見えないんです
五つ目謝罪が敗北だと思っている
これは文化とか育ちの要因も影響も大きいと言われています
謝ったら負け責任を認めたら立場が弱くなる
こういう信念を持っていると謝罪っていうのは合理的に避けなきゃいけない行為になってくるんですね
これらは特に上下関係が強い環境ではよく見られると言われています
六つ目が感情制御の未熟さ
仏教的視点:慢心と自我の虚構性
謝罪には以下のプロセスが必要になります
自分の非を認識するそして罪悪感を受け止める
それを言葉にして表現する
これができない人っていうのは恥とか不安に耐えられない
感情を処理できない結果として沈黙したり逆切れしたり逃避するってことになる
いかがでしょうか
どこかちょっと自分自身に当てはまるところもあったんじゃないかなと思います
つまり謝罪できないっていうのは自己防衛とか自尊心っていうのが強く関係しているってことなんですね
仏教ではこれを慢心が強いというふうに言います
実際に今回の物語を伝えるダンマパタアッタカターにもティッサ尊者は強い慢心を抱いていたということが言われています
この慢心っていうのは自分と他者を比較して優劣をつける
良くない心の働きなんだって仏教では定義されています
でもここが最も大切なところで
自分自我っていうものは仮想されたものなんだと仏教は指摘しています
私たちそれぞれは様々な要素の集合体であり
それが真実の在り方実態です
車とかでもそうですね
いろんなパーツの集合体ですよね
それに車っていう名称を便宜上つけてるだけです
人間も同じですよって
私とか自我と呼ばれるものは便宜上つけられたものに過ぎませんよと
でも長い年月の中でいつしか私や自我っていったかっこたる存在があるんだと
謝って認識するようになると
そのような末に仮想されたに過ぎない自分と他者を比較して
一喜一憂したり過失があっても謝りがたくさせてしまうんだと
謝罪しようと思ったら自我が錯覚であるということを理解して
そこへの執着を薄めていかないといけないんだってことなんですね
だからこの謝罪ができるかどうかっていうのは
私たちが自我に執着しているかどうかの利と増し禁止だっていうことです
まとめとエンディング
今週も最後までご視聴いただきありがとうございました
気に入っていただけた方は高評価、チャンネル登録もよろしくお願いします
ではまた来週お会いしましょう
13:23

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