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【ブッダの教え】他人ばかり見てしまうあなたへ
2026-06-27 13:06

【ブッダの教え】他人ばかり見てしまうあなたへ

私たちは、目に映るものは何でも批評します。しかし、批評はできる人とできない人がいるものです。今回は、ブッダの詩からそのことを考えてみたいと思います。


【目次】

外道パーティカの話

ダンマパダ第50偈

小説家小川哲さんのエッセイ


【参考文献】

ダンマパダ・アッタ・カター

『斜め45度の処世術』小川哲


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【大忍貫道プロフィール】

1987年福岡県生まれ。花園大学文学部卒業。臨済宗妙心寺派僧侶。

尾張妙興寺僧堂にて修行。

2011年より九州地方の臨済宗妙心寺派寺院にて住職を務める。

SNSでも仏教の情報発信を行い、Instagram フォロワーは4万人を超え、Podcastフォロワーは2千人を超える。

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サマリー

本エピソードでは、ブッダの教えを手がかりに「批評」という行為について考察します。ライバル宗教の修行者パーティカと、彼に嫉妬される女性の物語を通して、他人の過失ではなく、まず自分自身の行いに目を向けることの重要性を説きます。批評には深い知識と経験が必要であり、安易な評価ではなく自己省察が大切であると結論づけています。

批評家としての私たちとパーティカの話
物語で読み解く仏教
私たちって、みんな批評家ですよね。
テレビに映るタレントを批評して、職場の同僚、友人も批評して、映画、音楽、食事、いろんなものを、目に映るものは何でも批評します。
でも本来批評って、できる人とできない人がいるんじゃないかってことを思うんですね。
今回は、ブッダの言葉を手がかりに、批評というものについて深掘りしていきたいと思います。
今回の物語は、パーティカというゲドウについてブッダが語られたものと伝わります。
ゲドウっていう言葉、現代の日本語だと、人出なしとかね、そういう意味合いで使われることが多いと思うんですけれども、
これ本来はインドの言葉、ティールティカっていう言葉を仏教を通して翻訳してゲドウっていうふうに呼ばれるようになったものです。
もともとの意味は、仏教じゃない宗教、道を実践する人。
だから仏教から外れた道ってことでゲドウっていうふうに使うんですね。
だから用例としては、日本じゃない国のことを外国っていうのに似てると思います。
さほど悪い意味の言葉ではもともとなかったんだと思うんですけれども、
サーバッティという町のある家庭において、夫、妻、息子の3人が暮らしていました。
妻は家族とは別にパーティカという名前の宗教者を養子にしておりまして、自分の息子のように世話をしています。
これ、禅宗の典籍とかにも度々出てくるんですけど、昔はおばあさんとかがお坊さんのために祈りを立ててあげて養うみたいな、そういうことがあったそうでして、
宗教者の面倒を見るっていう人が割といたらしいんですね。
古代インドとか中国の話だけじゃなくて、日本の婚弱物語集か、そういうものにもそういう類の話が出てきます。
女性がお世話していたパーティカっていうのは裸業者だったって言われてまして、これ裸業者っていうのは裸でずっと生活をしている人です。
仏教と同じ時期に始まったインドの宗教で、ジャイナ教っていうのがありまして、これ今も続いてるんですけど、
ジャイナ教の修行者はこの裸業者なんですね。だからおそらくこのパーティカはジャイナ教のお坊さんだと思います。
だから、仏教のライバル宗教の宗教者っていうことですね。このライバル意識っていうのが今回の鍵になります。
ブッダの教えとライバル宗教
ある時、この家の近所の人々がブッダのお説法を聞きに行きまして、大変素晴らしかったと、周囲で評判になるんです。
この3人家族の女性、奥さんは自分もお寺に行って聞いてみたいなと、こういうふうに思いまして、そのことをパーティカに話す。
でもパーティカは行かない方がいいって強固に反対します。それはもうそのはずですよ。これはやっぱり怖いんだと思うんです。
ここで女性がブッダの教えを聞いて、そちらの方に惹かれてしまったら、自分のお世話をしてくれなくなるかもしれない。
現代でも宗教に限らず、企業とかでもそうですね。自社製品を売り込むために、やっぱり囲い込むってことをやるわけですね。
だからそういう様子がここでは見られるということです。
ちなみにブッダはそういう囲い込みってものをしたのかというと、ブッダはしなかったんです。
有名な話で、アングッタラニカーヤっていうお経に収録されているものに、シーハ将軍という著名人が、これもともと仏教ではなくて、ジャイナ教の熱心な信者だったらしいんですけれども、
この方がブッダの教えを聞いて感銘を受けまして、ぜひ仏教徒に転向したいってことをブッダに申し出るんです。
でもブッダはそこですぐに、あ、わかったって言わなくて、あなたのような著名人は影響力がありますと、だから慎重に考えた方がいいですよって悟すんですね。
そして仏教徒にもしなってからも、これまで通りジャイナ教のお坊さんたちのお世話を続けてあげなさいってことをするんですね。
だからブッダがですね、どういうふうに一般の方々を見ておられたのかっていうことが、ちょっと伺えるエピソードかなと思います。
パーティカの策略とブッダの招待
話はちょっと戻しますけれども、女性は行くのがダメなら、ブッダを家に招いてはどうかって考えるんですね。
そしてそれを実の息子に告げまして、今からあなたはブッダのところに行って、ブッダを招待してきなさいと、こういうふうに使わすことにする。
お母さんから命じられた息子は、ブッダのもとに行く前に、ある種のご機嫌うかがいですね、のためにパーティカのところに行きまして、今からお母さんに言われてブッダのところに行って、ブッダを家に招いて食事をあげたいと思いますと。
それで聞いたパーティカは当然止めます。
でも息子は、いや私ちょっとお母さんが怖いからと、だからちょっと行かせてくださいと、ブッダのところに行ってきますと、その精神を振り切ろうとする。
でもパーティカは諦めないんですね。
いやちょっと行くのやめてくださいと。
食事を用意するんであれば、その食事2人で食べましょうっていうふうにそそのかすんです。
それでも断れてしまう。
そこでパーティカは、じゃあわかりましたと、もう行っていいですと、でも家までの正しい道は教えないでくださいと、でたらめな道を教えてくださいって言うんです。
これは妥協点を探ってるんですね。
こう言われて息子の方も、それであればブッダを招待するっていうお母さんの言いつきも守ってるし、またパーティカの希望も叶えてあげられると。
そこは確かに妥協できるかもしれないということで、その条件をのみまして、その足でブッダのところに行って招待しながらも、家はでたらめな道を教えて帰ってくると。
でパーティカは心配だったんでしょうね。
帰ってきた息子に、ちゃんと約束通りにやってくれましたかって確認をして、そして約束が守られたことを知ると喜んで、じゃあ明日はブッダのために用意された食事があるけれども、ブッダ来ないから2人で食べましょうねって約束をして、2人はわかります。
ブッダの全知と女性の感激
翌日、意気揚々とパーティカは女性の家を訪ねまして、食事の席に着くんですけれども、来ないはずのブッダが来るんですね。
みなさんなんでブッダがここで来れたと思いますか。
これはブッダが全知だからです。
神様の言葉を全知全能って言うじゃないですか。
ブッダは全能ではないんです。
けれども修行によって悟りに至ったことで、すべての知識を得た、全知になったんだって信仰されるんですね。
この辺は当時の仏教徒たちのブッダ感が現れてるんだと思うんです。
だから行ったことがない場所でもわかるってことですね、全知ですから。
Googleマップもいりませんし、ナビも必要がないってことですね。
ちなみに私は行ったことがある場所でも何回もナビ使って行ってるので、その全知の大局にいるということです。
女性はブッダに給仕をしまして、食事を提供して、食事が終わるとブッダは女性にお説法をされます。
このブッダの教えに感激した女性は何度も何度も簡単な声を上げる。
この簡単な声をサードゥっていう風に言うんですけれども、これが簡訳されると禅剤になるんです。
おしるこのことを禅剤って言いますよね。
これ一休さんが飲んだ時に禅剤って言ったらしいんです、このおしるこ飲んだ時に。
それで禅剤という名前になったんだっていう説ですね、そういうものもあるんですね。
嫉妬と罵倒、そしてブッダの教え
このように女性はブッダをたたいたんですけれども、パーティカルにとってはこれはたまらないんです。
これまで自分だけを見てくれた、大切にしてくれた人が、今は別の人を見て目をキラキラさせてる、そういう状態。
このパーティカルの気持ちって多分わかる方多いんじゃないかなと思います。
私自身は経験ないんですけれども、学生時代スポーツをしてた時にすごく上手な子がいて、
その子に監督とかも目をかけてたんですけれども、新たに新入生が入ってきた時にもっと上手な子が入ってきたんですね。
そしたら監督の目はもっと上手な新入生の方に移ってしまって、それまで散々目をかけていた、私のチームメイトがほとんど相手にされなくなった。
やっぱりその時に目をかけられなくなった子はすごくじくじくたる思いと言いますかね、そういうものを抱いているのがよくわかったんです。
だからやっぱりそういう気持ちになるっていうのは人間ですからあるんですね。
パーティカルはそれについに耐えきれなくなりまして、部活とかスポーツしてればそれはやめるってことでいいんですけれども、
そうはいかないので女性をみんなの周りで罵ってしまうんです。もうお前は私の信者なんかじゃないって。
そう言って様々な言葉で罵倒をして、そして飛び出してしまう。飛び出してますから結局部活やめると一緒ですね。
そういう状態になっているんです。いきなり罵倒された女性はショックで放心状態になって、
ブッダのお説法を聞いてたんですけど、もう耳に入ってこなくなるんです。この耳に入ってこなくなっている時って見てたらわかるじゃないですか。
この人耳に入ってないなって。ブッダも当然気づきまして、その女性に対してパーティカルの罵倒されたそういう言葉に心を向ける。
これはよくありませんよ。自分のなしたこと、なさなかったことだけに思いを向ける。これが正しい行いですよって言うんです。
そしてブッダは次の詩を唱えます。他人の過失を見るな彼。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見ようと。
この詩の注釈には次のようにこの詩を説明します。あの人は汚いとか、キチだとか、心構えがなってないとか、仕事をしてないとか、そういうことを言っちゃいけないと。
もしそうであっても、その人自身がその報いを受けるんだと。だから放っておきなさいと。こういうふうに書いてあります。
批評に必要な実力と自己省察
この詩ってすごく有名な言葉になるんですけども、私はちょっとこの物語と詩がずれてる印象を受けるんですね。
これブッダの批判をしてるわけではなくて、伝わった物語と詩が別々だったものを後からくっつけたんじゃないかなって。こういう想像をしてしまうぐらいずれてるんですね。
先日、小説家の小川さとしさんのエッセイを拝読したんですけれども、そこでこんな話がありました。
小川さんが学生時代、先輩に中華そばのお店に連れてってもらった時に、先輩が一口麺をすすって、そしてスープを飲んだ後、小さな声で、味が落ちたなとつぶやいた。
それを聞いた小川さんは先輩に腹が立ったそうなんですね。味が落ちたんじゃなくて、味の進化に先輩がついていけなかったのかもしれない。
また、店長の好みと自分の好みが乖離してしまっただけかもしれない。相手の実力を疑う前に、まずは自分の実力を疑うこと。客観的な質をジャッジする能力が自分に本当にあるのかどうか、常に問い続けていくこと。
これが大事なんだってことをおっしゃられてて、すごく耳が痛いなと思ったんですけれども、でも思い返すと、批評する、評価するってことには実力が必要ですよね。文芸評論家の三宅嘉穂さんとか、あの方のYouTubeとか本を読んでてもすごく感じるんですけど、知識量もすごくありますし、文学への造形の深さ、解像度の高さっていうものを随所に感じますよね。
鋭い分析とかを見てると、どれだけのものを積み上げてきたのかっていうこと、これはやっぱり思わずにはいられません。実際あれだけお忙しいのに、本も年間100冊以上読まれてるっていうふうにおっしゃってたので、やっぱり批評するっていうのは、そういう積み重ねの上でようやくできることなんだろうと思うんです。
それを思ったときに、私たちが人を批評したりとか、音楽、食べ物、こういうものを批評するってことは、本当にその能力があるのか、まずは自分に問うこと、ここから始まるんだなってことを改めて思います。今回も最後までご視聴いただきありがとうございました。YouTubeをご覧の方々は高評価、チャンネル登録を、ポッドキャストをお聞きの皆さんはフォロー、レビューをよろしくお願いします。それではまた来週お会いしましょう。
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