悟りの過程
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教初心者の方に向けてインスタグラムのフォロワー3万人超えの総助、私、かんどう和尚が目立的な視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
皆さんこんにちは。前回は第1シリーズと第2シリーズをコンパクトにまとめたダイジェスト編をお送りしましたので、今回はその続きとして第3シリーズの悟り編と第4シリーズの仏教創業編をコンパクトに振り返りたいと思います。
仏陀は29歳で出家して以来、長きにわたって修行をして、35歳の年についに悟りに至りました。なぜ悟りに至ることができたのか。これね、すごく難しいんですよ。難しいので、今回はコンパクトにしたいので、ざっくりとした説明にさせてもらいますね。
詳しく知りたい方はそれぞれの悟り編でね、詳しく見ていただければと思うんですけれども、仏陀が悟りに至ることができたのは、人生の苦しみの原因が何かを観察をするんです。そしてその結果、それは世界を正しく見ることができていないことにあるんだと。これが我々の人生の苦しみの原因なんだと突き止めた。
そしてそれを是正すること、つまり正しく見ることによって苦しみが解消されるんだ。これが仏陀が悟りに至ることができた理由、プロセスになるんですね。
これ、世界を正しく見ることができていないっていうのは、いろんなことが言えるんですけれども、例えばですね、皆さんが家族や友人と温泉旅行を計画してた。すごく楽しみにしてるわけですよね、そういうのね。でもその当日に風邪をひいてしまって、行けなくなってしまった。ものすごく落ち込みますよね。
でもこれが赤の他人の出来事だったら、皆さんどうです?何とも思われないんじゃないですか。多少の同情はされるかもしれませんけど、まあでもね、そういうこともありますよねって思って終わりだと思うんです。けれども、それが自分のことになるとそう思えないじゃないですか。ものすごく自分が不幸な目にあっている気持ちになりますよね。
これが私たちが世界を正しく見ることができていない一つの例なんですよ。自分中心に見ますから、客観的に見れないんですよ。物事を正しく見ようと思ったら、それは客観的に見ないと正しくは見れないわけですよ。でも私たちは自己中心的なので、そういうふうに物事を見れない。その結果、物事を正しく判断したりとか、正しく理解、正しく把握することができなくなっているんですね。
これが我々の人生を苦しくしているんです。でも悟りに至るとどうなるかというと、これをブッダは我が身にそういう辛い出来事が生じても、これを他人ごとと同様に客観的に見ることができるようになるので、苦しみが生じないようになるんですね。
ただ単に温泉旅行が中心になる苦しみだけが消えたわけじゃないんですよ。もっと大きなことがあるんです。それ何かというと、我が身が老いて、病になって、この世を去っていくということも客観的にそれを理解、把握することができる、見ることができるようになるんですね。これはものすごく大きいと思いませんか。
この世の中において生きていると、いろんな方が、知人とか知人じゃなくてもニュースでいろんな方が亡くなられたりとか、また病気になるということを我々は経験をしますよね。
でもそういう時に、もちろん身近な方が亡くなったら我々はものすごく動揺をするんですけれども、でもそうじゃなくて遠い方の場合、自分から遠遠い方が病気になったり病気になったりするとき、やっぱり同情はするんですけれども、でもそれ以上の大きな自分の心がかき乱されるみたいなことはないわけじゃないですか。
これは正しく私たちは物事を客観的に見ているんですよ。正しく把握できているんです。やっぱり人は老いて病になって亡くなっていくものだということを私たちはちゃんと分かっているから、避けられないと分かっているから、そういうふうな反応ができるんです。
でもそれが自分のことになると、そういうふうな反応ができなくなるんですね。これはやっぱり私たちが正しく見られていないんですよ。それを正しく見ることができる、これが悟りだということが言えるんですね。このような苦労の末に悟りに至ったブッダは、しばらくはその余韻に浸ったと言われるんです。当然ですよ。すごく苦労しましたから、良かったなって思うわけですよ。
教えを広める決意
でもだんだんと考えてみると、自分の教えというのは一般の人々には受け入れがたいんじゃないかということに気づくんですね。難しいじゃないですか。それを理由にブッダは教えを周囲に説くということを躊躇し始めるんですね。
一生懸命話してもわかってもらえない、理解してもらえないって辛いじゃないですか。しかも疲れますよね。だから徒労に終わるのがやっぱり嫌だなっていうことをブッダは思われたそうなんです。そのタイミングで梵天という神様がそのことを察知するんですね。
このままじゃブッダの教えがいろんな人に広まらない。ブッダの教えはすごくいろんな人の利益になるのに広まらなければすごくもったいないことになってしまうなと。こういうふうに梵天は思って、そしてブッダの下に現れまして、世の中にはあなたの教えを理解できる方も少なからずおられます。だからその人たちのためにも教えを説いてくださいとブッダを説得するんです。
その結果、確かにそういう人もいるかもしれないなって言ってブッダは教えを広めることを決意をするんですね。
今、さらっと私は梵天と言いましたけれども、この梵天というのは当時のインドで最も権威があった神様なんです。
神様ってインドではたくさんいるんですよ。ランクがあるんですね。その中で時代とともにこのランクも変動するんですけれども、ブッダの生きてた時代で一番権威があったのは断トツでこの梵天なんですね。
これは仏教以外の宗教では最高神なんです。最高に偉い神様なんです。
その梵天がブッダの下に現れて、ブッダにお願いをする、頭を下げるという構図になっているんですね。
これは、仏教が他の宗教よりも優位なんだ、有名なんだということを表していると言われています。
ただ、これもう少し違った見方もあるんですね。
この構図というのは、ブッダが梵天に承認、認めてもらっているんだというものなんです。
これどういうことかと言いますと、当時の仏教というのは信仰宗教なんですね。
サンガの成立
そこで信仰宗教だから、やっぱり権威が欲しいわけです。
そういう中で、権威のある梵天のお墨付きをもらっているんだという、こういうふうにも見れるんですね。
これ現代でちょっと私たちに置き換えてみると、新人の学者さん、新進経営の学者さん、すごく能力はあるんですけれども、でも新人ですから、みんな誰この人と思っているわけですね。
その中で、その道の第一人者のすごい権威のある教授が、この新人の学者に推薦書を書いてあげるわけですね。
そしたらその途端、この新人はみんなから、あの先生が認めてるんだと、じゃあこいつはすごい奴に違いないと思う。
こういうふうな感じに似てるんじゃないかなと。ちょっと失礼な例え方にないかもしれませんけれどもね。
こうしたらちょっとわかりやすいんじゃないかなと思いますね。
そのようにして教えを説くことを決心したブッダは、悟る前にですね、一緒に修行してた仲間がいたんです。5人の仲間が。
この仲間に対して初めての説法をするんですね。
彼らはですね、最初はちょっと何言ってるのっていうふうにね、理解を示さなかったんですけれども、じっくりと一緒に生活をしてブッダの教えを聞く中で、
確かに最もだと、これブッダはすごいことをおっしゃってるぞということになりまして、順番に悟りに至りまして、ブッダの弟子になります。
この時をもって仏教の組織が成立をするんですね。
この仏教組織のことをですね、サンガというふうに呼びます。これ以降はサンガというふうに呼んでいきますね。
この後ブッダはヤサという青年を、資産家の息子なんですけれども、彼を弟子に迎えることになります。
この彼の生い立ちっていうのが特徴的でして、ブッダにそっくりなんですね。
なんでそっくりなのかっていうところ、これね意味があると私は思ってまして、ヤサはこの後ブッダの下で速やかに悟りに至るんですけど、
ブッダと苦行の否定
彼はブッダと違って苦行を経験してないんですよ。断食したりとか、いろんな厳しいことを肉体に課すってことをやってないんですね。
ブッダは後々ですね、この苦行っていうものを否定する言葉を数多く残しているんですけど、
このヤサ、ブッダにそっくりな生い立ちのヤサがすぐ悟りに至った、苦行を経験せずに悟りに至ったっていうことは、
これブッダとそっくりなヤサは苦行しなかった、なおかつ悟れた、ということは悟りに至るのに苦行はいらないんだと、これをはっきりさせておきたかったんだろうと思うんですね。
そうじゃないと、このブッダは苦行を否定されてるけど、でも苦行役に立ったんじゃないかっていう見解も必ず出てくると思うんですよ。
それもやっぱりね、当時の仏教の人たち、これブッダが直接そう思われたのか、もしくはこのブッダの伝記を作った作者がそう思ったのかわからないんですけど、
この苦行というものはちゃんと否定しておかないと、この目を積んでおかないといけないって考えたんじゃないかなと思うんですね。
この後、ヤサを弟子に加えたブッダは順調に弟子を増やしていくんですけど、
またちょっと皆さんに紹介したい、特殊される弟子のエピソードがあるんですけれども、
ブッダはヤサの後にウルベーラーという土地に行くんですが、そこでカッサパという宗教家を弟子にするんです。
このカッサパは火を崇拝する宗教家であったと言われるんですけど、彼の住まいの一部には竜が住みついていたっていうんですね。
ブッダはその竜と戦いまして、戦うと言っても、それぞれの超能力っていうんですか、
神通力って仏教では言うんですけれども、火を吐いたりとか、そういう対決をしたらしいんですね。
竜の方で屈服をブッダはさせまして、カッサパはブッダすごいと思って、ブッダに信仰心を抱いて、あなたの弟子にしてサンガに入れてくださいって願いでたんだと。
この逸話っていうのは現代人から見るとすごくファンタジー感が強いエピソードになるんですけれども、
ここには文化的な背景があるんじゃないかってことを日本の江戸時代の学者が言ってるんですね。
この学者は富永仲本っていうんですけれども、この人こんなこと言ってて、その国ごとに文化的特性や種族の傾向というものがあるんだと。
例えば日本だと日本人は隠されているってことにすごく神秘性を感じる。
信仰心を掻き立てられるんだと。
だから秘仏というものがあったりとか神社に行っても神様は見えないようにされてるでしょ。
また中国とかでは中国人というのはすごく文章というものを大事にするから、中国の宗教は文章がすごく精緻に作られていると。
そういうものを見ることで中国人は素晴らしいなって心が引き寄せられるんだと。
じゃあインド人はどうかというと、インド人はこういう神秘性を求めるんだと。
だから空を飛んだりとか火を吐いたりとか、そういう描写がすごく心がそこに引き寄せられていくんだと。
だから仏典にも仏教のお経にもそういうふうな話というのがたくさん入っているんですよってことを仲本は指摘してるんですね。
この指摘はですね、ものすごく的を得ていると思いますね。
こういうふうにしてカッサパと、あとカッサパはたくさん弟子がいたんですけれども、そういう人たちを弟子に加えまして、サンガが王女隊になっていく。
その後ですね、ラージャガハという場所に行くんですけれども、そこでその後の仏教サンガを支える2人のかけがえのない弟子を獲得をします。
サーリブッダとモッカラーナの加入
そのきっかけっていうのは最初の弟子の一人であったアッサジノタクハツにありました。
このブッダがラージャガハに滞在していたときに、このアッサジもこの土地に滞在をして多活をしてたんですね。
その様子をとある異教徒が目にしまして、このアッサジのですね、折り目正しい姿に心を奪われます。
そしてアッサジに師匠がブッダであるということを教えられて、彼はブッダの弟子になることを決意しました。
この異教徒の名前をサーリブッダって言います。
この人ね、般若心経ではシャリシーとかね、あとはシャリホツって言われたりもするんです。
これものすごく有名な仏教の弟子さんです。
このサーリブッダさんにはもう一人弟子が、友達がいまして、これモッカラーナさんっていうですね、これモクレンソンジャって言われたりします。
彼も入団をするんです。
この2人が後のブッダの2代弟子になって名前を馳せるんですね。
今回はですね、ブッダが悟りに至ってから、産後が出来上がっていくまでの話をさせていただきました。
次回はいよいよ新シリーズ、ブッダが老いていく様子、
ブッダ晩年編、晩年のブッダ編をお送りしますので、楽しみにしていただければなと思います。