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かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、これから仏教を学んでみたいという方に向けて、
臨済宗明神寺派の僧侶、私、かんどう和尚が1から仏教を解説していく、そんなプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。前回から仏教の歴史についてお話をしております。
まずは、仏教が生まれる前のインドの姿についてお話ししています。
なんでそんなありくどいやり方をするのかって言いますと、物事には文脈ってものがあるじゃないですか。
例えば、太郎くんっていう子が朝、お母さんから叱られて、そのテンションで学校に行って、
学校で、人生はろくなもんじゃないって言ったとしますね。
この人生はろくなもんじゃないっていう言葉だけを切り取っても、なんで太郎くんがそんなことを言い出したかわかりませんよね。
お母さんに朝叱られたっていう、その前の文脈があって、初めて太郎くんが人生はろくなもんじゃないって言った意味わかるじゃないですか。
これ仏教を理解する上でも同じなんですね。
前の文脈を知るということで、仏陀が言われていることがわかるようになるんです。
で、今日はですね、カーストっていうものができて、それがインドでどのように定着したのか、
そういう部分についてお話ししていきたいと思います。
これは前回にも申し上げましたが、今から3500年前、インドにアーリア人というヨーロッパの人々の先祖にあたるんですけど、
その人たちが侵入をしてきまして、そこからですね、インドに定着していく中で、いろんな文化とか種族が生まれました。
その中の一つがカーストっていう制度です。
このカーストっていう言葉は、16世紀にポルトガル公開者がインドで目にした、とある社会慣習に名前をつけたものになります。
それは、生まれによって人々を区別するという慣習です。
インドっていう国の歴史をもうちょっと前から見ていくと、もともとですね、早い段階で定着してたドラビダ人っていう人たちがいたんです。
この人たちが有名なインダス文明を築いたと考えられています。
そのインドにですね、今から3500年前にアーリア人というヨーロッパの人たちの先祖になる人たちが南下してきたと言いましょうかね。
北から南に下ってきたわけですね。
そこでですね、もともといたドラビダ人という人たちは肌が黒かったそうなんです。
そして後から来たアーリア人、ヨーロッパの人たちの先祖ですから肌が白いわけですね。
自分たちアーリア人ともともといたドラビダ人を区別するということを行ったんです。
これがカーストの始まりだったと言われています。
一口に我々、日本人はですね、カーストっていうふうに言いますけれども、
このカーストっていう言葉自体は、これポルトガル語のカスタっていう言葉、ここに由来をしてまして、現地のインドではカーストって言わないんです。
じゃあ代わりに何て言うかっていうと、このカーストっていう言葉には2つの概念が含まれています。
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1つがバルナって言って、もう1つがジャーティって言います。
この2つがですね、絡み合って1つになったようなものを我々はカーストっていうふうに呼んでるんですね。
まずですね、バルナの方からちょっと説明したいんですけれども、これは4つの階級からなる身分制度で、
一番上がですね、司祭階級のバラモン、ブラフマナと言ったりしますけれども、
次がですね、王族とか貴族の階級のクシャトリア。
これ、ブッダはこのクシャトリアの階級の出身というふうに言われています。
3つ目がですね、平民というのかな、商人って言ったりもしますね、の階級であるバイシャ。
有名なインド独立地、ガンジーはこのバイシャの出身ですね。
これがですね、バラモン、クシャトリア、バイシャというのが上位の3つになっています。
その下にですね、4番目にある階級がシュドラって言って、このシュドラはですね、この上位の3つの階級の人たちに奉仕をする階級なんだっていうふうにされるんですね。
この4つが基本としてバルナって呼ばれるんですけれども、実はここからですね、除外された階級というのもあるんです。
その階級、カテゴリーをですね、不可植民というふうに私たち日本人は学校で習います。
あんまりイージーじゃないですね、触ることができない民っていうふうに書くんですね。
これなんでそう呼ぶかっていうのは、後でわかってきます。
この不可植民の人々はですね、こんな名前とてもね、自称できませんから、近年ではダリットというふうに自称をされます。
ダリットって縮めたりもしますね。
このダリットはですね、虐げられたものっていう意味なんです。
もうまさしくその通りの名前なんですね。
で、これがバルナです。
で、一方ジャーティーっていうのは何かっていうと、職業とか儀礼とかを共有する集団になります。
ちょっとね、言い方が固いのでわかりづらいかもしれませんけど、今でも日本でもですね、地方とかで
法事ってありますね。年季供養って一周期とか三回期とかやりますよね。
あの時に、血縁の方だけじゃなくてですね、隣近所でいわゆる知縁ですね。
こういう人たちをお家に呼んでですね、一緒に法事をしてその後食事を食べるってことをやりますけれども、こういうイメージを持っていただくとわかりやすいかなと思います。
このジャーティーの方はですね、さっき申したバルナと違ってですね、
バルナはですね、理念なんですよ。理念って、企業理念ってあるじゃないですか。
会社の壁とかに掲げてある、今掲げてるとこあるんかな。昔の会社とかそういうのよくあったと思うんですけれども、
理念はですね、こうあるべし、格あるべしみたいな感じでね、何とか何とか何とかって言葉が書いてありますけれども、
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あれはみんなそういう感じで働けたらいいなっていうものじゃないですか。
あれを守らなかったからって何か罰則があるとかそんなわけじゃないですね。
言い方は悪いですけど、実質的には機能しませんよね、理念っていうのは。
でもそれに対してジャーティーっていうのは実質的に機能するわけです。
さっき言った法事の時にみんなで集まってご飯食べるとかですね、あれ実質的に機能してますね。
そういうふうにね、職業とか遅延、欠縁とかなる共同体、これをジャーティーって言って、
これ数千もの数があるって言われてて、これインド政府も把握しきれてないらしいんですよ、多すぎてね。
その内容によってそれぞれのさっき言った4つのバルナのいずれかに該当をしていくって形。
だからこれちょっと正確なのかわからないんですけども、入れ子っていうんですか、入れ子構造って言うんですか。
このバルナの中にいろんな細かくジャーティーが入っているっていうような、こういうイメージで間違いないんじゃないかなって思います。
では具体的にですね、このバルナ、ジャーティーが違うことで何が区別される、何が違うのかっていう話なんですけれども、
ここで鍵になるのが常、不常っていう観念です。
常っていうのは綺麗ってことですね、常水気の常。不常ってのは綺麗じゃないってことですね、汚いってこと、汚れっていうこと。
この常不常の観念っていうのはバラモン教って言って、これもね後々話すので今ちょっと省略しますけれども、
このバラモン教、それに基づいている現代のヒンドゥ教、この教義に基づいてありましてね、
インド人の生活の中にものすごく深く浸透してます。
右手と左手を使い分けるって皆さんご存知です、インドの人たち。
右手は綺麗な手ってことで常の手って言って、左手は不常の手って言って、汚い手っていう風にするんですね。
この2つの手をですね、生活の中で使い分けるんです。 例えば食事の時っていうのはこれ綺麗な手、常の手で使うんですね。
あとは排泄の処理、お尻拭いたりとか、これは不常な手っていう左手を使うんですね。
そしてね、これは皆さんお気づきかわかりませんけれども、実は日本にもこの習慣って仏教を通して入ってきてるんです。
仏教でね、常・不常っていうのはね、もともとはブッダはそんなこと言ってなかったと思うんですけれども、
でも仏教も時代が経つとヒンドゥの影響をすごく受けますので、そういう部分を通して日本に入ってきたのかなと思うんですけれども、
その場面っていうのはね、称呼です。 皆さん称呼って右手左手どちらでやるのかご存知です?
多分あの特に意識せずともですね、皆さん右手でされていると思うんです。 みんなそうしてるからそうするって言ってね。
これ余談ですけども、昔、オスマン・サンコンさんですか、タレントの。
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あの方が日本に来て初めてね、称呼をしている時に、称呼って後ろから見ていると何しているか見えないじゃないですか、前の人が。
だからあの、ただみんながね、真っ向をね、刻まれたやつですよ。
あの真っ向を手にね、つまんで、高くね、額のあたりに押し上げているのを見た時に、食べていると思ったらしいんですね。
それで、サンコンさんはその真っ向を食べたらしいんです。 とても食べれたもんじゃないからですね。
すごくまずかって、ペッて吐き出したらしいんですけれども。 そういう笑い話がありますけれども、
あの称呼の時に右手を用いるっていうのは、このインドで上不浄の手って言って、右手と左手を使い分ける、この習慣が仏教を通して伝わったためなんですね。
だから皆さんも実はね、これやってるんですよ。 不浄なもの、汚いものって、今、排泄のことを申し上げましたけれども、それ以外にもたくさんあるっていうふうにされてまして、
インドの日常生活、これに対して、日常生活の規範みたいなものがあるんですね。
それを書いている文献というものに、マヌフォーテンというのがあって、 その中に不浄なものとして、次のようなものを挙げられています。
まず最初が誕生なんですね。 そして次が死。
3つ目が排泄物。4つ目が分泌物なんです。 1つ目の誕生が不浄ってどういうこと?って思われるかもしれないんですけど、
これですね、これいろいろ言われるんです。 バチッとね、これだから不浄なんだ、汚いんだとは言わないんですけども、
諸説ある中で言われるものがですね、 1つは、誕生する時ってお母さんのお腹から出てくるので、
体内物、お母さんのがやっぱり付着をしますから、一番最初にきれいに拭きますよね。 あの状態がですね、やっぱり不浄だっていうふうに考えられたんだっていう、そういう考え方もありますし、
あとは、生まれるってことはやがて死ぬということなので、 2番目に死というものが不浄なものとして挙げましたけれども、
死に近づく、その死のきっかけになるから不浄なんだと、 まあこういう考え方もあるらしいんですね。
で、次のね、死が不浄っていうのは、これはね、 日本でも神道なんかはそう昔は考えたんですよ。
ちょっとこれも余談になるんですけど、 お葬式って日本ではもともと神道をやらなかったって皆さんご存知です。
なんで仏教のお坊さんがお葬式するかというと、神道はやらなかったからなんです。 これ記録で残ってて、
仏教のお坊さんがお葬式するようになったルーツみたいなのがあるんですけども、 これですね、
もともとは、日本の仏教の一番最初って奈良なんですよ。 奈良の仏教、これなんとっていうふうに我々呼ぶんですけど、
この奈良の仏教においてお葬式をね、 最初は始めたんですけど、始めてはないのかな。
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奈良仏教って、皆さん幸福寺ってご存知です。 鹿がいっぱいいる奈良公園の隣にあるお寺。
奈良公園っていう場所、あそこはですね、 もともとは幸福寺のお坊さん、たくさんお坊さんがいたので、
そのお坊さんたちの住まい、僧坊って言いますけれども、 僧坊が建ってた場所なんですよ。
でも時代とともに幸福寺が廃れていって、 お坊さんがいなくなったから僧坊はなくなって、
で、お坊さんたちが住んでた場所に今は鹿が住んでいるっていう、 非常に諸行無常を感じる場所なんですよ、あそこ実はね。
この幸福寺にはもう一つ、春日神社、春日大社っていう神社がくっついてるんですね。
で、その時代のこの奈良の仏教っていうのは、 その神社と仏教の境というのがすごく曖昧で、
お坊さんもこの神社の方でお勤めしたりしてたんですよ。
で、神道の方では死を穢れっていうふうに考えたので、 だからあの、
お葬式に出てしまったり、人の死に関わってしまうと、 このお坊さんたちは神社の仕事に出れなくなったんですね。
今でも、母中って言うでしょ。あれは神道の考え方に基づいてて、
お葬式にね、人の死に関わると穢れて、 そしてそれが人に、人と接することで人に移っちゃうと、穢れがね。
それじゃいけないから禁止をするってことなんです、母中っていうのは。
で、誰にも会わないようにするっていう機関なんですね。 それで身を清めるってことを考えたんです。
それを当時の幸福寺のね、お坊さんもやったわけですね。
でもね、お葬式に関わっていると神社の仕事に全く出れなくなってしまうので、 それじゃ困るわけですよ、当時の人たちはね。
そこで、
もうお葬式受け付けないってことを当時はやってたんですね。 でもその状態だとですね、やっぱり当時、
大事な人が亡くなった時に、もう本当にそのまんまね、道に打ち捨てられるみたいな状況だったらしいんですけども、
それじゃ嫌じゃないですか。私たちも自分の大事な人がですね、亡くなって、 そのままね、道のそこらへんに放置されているとか嫌ですよね。
だからそれじゃ嫌だってことで、このお坊さんたちに御経を呼んでほしいってやっぱりみんな思ったらしいんです。
でもその幸福寺とかね、奈良の伝統的なお寺のお坊さんは、
引き受けてくれない。神社はもちろんダメですよね、神徒の管理士さんたちはね。
で、どうしようかなってなった時に、その時、野良のお坊さんっていうのがいたんですよ。
どこかに所属するわけじゃなくって、もう放浪している。これを日尻っていうふうに言います。 聖なるの聖で日尻ですね。
で、この日尻の人たちがそれを引き受けるようになったらしいんですね。 そして日尻も引き受けたけれども、その系統というかな、
奈良仏教は日本では古いんですけど、新しい仏教というのは鎌倉時代に起こった禅宗とか浄土神宗とか浄土系の仏教なんです。
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ここの仏教っていうのは神社はくっついてないんですね。セットじゃないんです。奈良の仏教みたいに。
だから別にお葬式を引き受けても、何ら困ることがなかったんですね。
だから、我々じゃあお葬式引き受けますよってことになって、禅宗とか浄土宗はお葬式をこうやってやるようになって。
今はね、もう奈良の仏教もおそらくお葬式すると思うんですけれども、日本の宗派で一番団家さんが多い、お寺が多い宗派どこかというと、
禅宗と浄土宗系なんですよ。これはやっぱりお葬式を引き受けたからだろうと、こんなふうに私は思っています。
かなり余談が長くなりましたけれども、これがね、汚れっていう、死を汚れっていうふうに考えた、これ日本もやっぱりそういうふうな考え方があったんですね。
3つ目が排泄物。排泄物がね、汚れって考えるのはわかりますね。
4つ目、分泌物。分泌物って涙とか、あとは血もそこに入るのかな。あとね、髪の毛とか爪とかも入るんですよ。
だからインドのヒンドゥー教ではこの髪の毛とかダメというかね、美容師さん、理容師さん、髪切るね、の仕事っていうのが向こうでは一番低いカーストの人たちの仕事っていうふうに伝統的にされていたんですね。
今はちょっと私もわからないんですけれども、仏教の仏陀のお弟子さんにもですね、ウパーリっていう有名なお坊さんいるんですけど、この人はもともと理容師だったっていうふうに言われてますね。
出家をしたっていうふうに言われています。これらですね、不浄なものとして書いてあるんですけども、でもこの浄不浄の観念っていうのはこの4つだけにとどまらないんです。
実はですね、人も入るんですよ。でもね、みんなが穢れてるって言わないんです。最上位のバラモン階級、司祭階級の人たち、この階級に属する人たちは穢れてないって言うんです。
綺麗だ、浄だってなるんです。それ以外の階級の人たちは生まれながらにして穢れてるってされるんですね。その穢れの具合もですね、階になるほど強くなるんです。
2番目の階級はクシャトリアになりますけれども、クシャトリアはちょっと穢れてる。3番目のバイシャ、もうちょっと穢れてる。
4段目のシュウトラがすごく穢れてる。こんな風になる。そこのカーストにもね、4つの階級にも入ってないラリットの人たちはもうすごく穢れてるって扱いをされるんですね。
この穢れっていうのがですね、食事とか身体的な接触を介して伝染するって考えられてまして、同じ空間にいるだけでも映るって言うんですよ。
だから食事とかを階級が違うと一緒にしないんです。だから結婚ももちろんしないですよ。今でもね、この結婚をしないっていうのはね、続いてましてね、結婚するとすごく親族から嫌がられたりとか、あとはもうそのことによってね、殺人が起こったりとかも今でもたまにニュースになりますね。
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すごくね、我々にはちょっと理解しがたい部分ではあるんですけれどもね。でもそういうのが今も残ってて、これはもうブッダの時代にもやっぱりあったということなんですね。
で、この穢れってものが伝染すると、目浴とか清めの儀式が必要となるんだそうです。
そういうものをね、どう考えていくのかっていうのはね、すごく難しいんですよ。
我々日本人からすると理解やっぱりできないですよね。なんでそれに従っているのって。これはもう実際にそのことで問題がたくさん起こっているし、今もなお苦しんでいる人たくさんいるんですね。
それ辞めればいいじゃないのって。国は何している、政府は何しているんだってこう思う方もいらっしゃるんですけども、これね簡単じゃないんです本当に。
でね、なんで簡単じゃないのか、なんで為替はなくらないのか、それを次回ちょっとお話ししていきたいなというふうに思います。
これから仏教を学びたいと思う初心者の方に向けて仏教を解説するポッドキャスト、感動書の初めての仏教、
アップルポッドキャスターやスポティファイなどご利用されているポッドキャスト、プラットフォームのフォローボタンを押して定期的にお聞きいただければと思います。
アフタートーク、ここからは私がアフタートークということで本編に関わる話であったりとか、また関わらなくても私が話したいなと思うことを少しだけお話ししたいというふうに思います。
今回はなぜポッドキャストを始めたのかっていうところをちょっとお話ししたいんですけど、このポッドキャストっていうサービス自体、これすごくもう歴史があって20年ぐらいになるんですかね。
最初はアップルの方で始まったサービスになりますけれども、それがじわじわと需要が伸びていったことで他のプラットフォームもできて、今ではスポティファイであったりとか有名なところもポッドキャストをやっております。
日本では未だにそんなに認知度がないというかですね、利用者があまり広がってないんですけれども、若い方の間ではすごく流行っているらしくて、今高校生の3人に1人はこのポッドキャストを利用しているというふうに言われています。
あとアメリカの方ではもうシェアが拡大していて、40%から50%の人がポッドキャストの方を聞いているというふうに言われています。これから先どんどん伸びていく、そういう業界ということでございます。
形としてはですね、ラジオのインターネット版ということですね。利用者は好きな時間に配信されているものをダウンロードして、いつでも聞くことができるという、そういうシステムになっています。
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でも私の方がですね、なんでこのポッドキャストをやるようになったのかと言いますと、もともとインスタグラムの方で仏教の教えを発信するということをやっておりまして、ありがたいことに多くの方からフォローをしていただいているんですけれども、
ただ、よくいろんな方から、仏教を学びたいんですけど、どうやって学んだらいいですか、何をやればいいですかという質問を受けるんですね。
一応私の方では、いろんなおすすめの仏教書であったりとか、そういうものをリストアップして、これいいですよというふうにお伝えしたりしてたんですけれども、
よくよく考えるとですね、私仏教の宣伝をしているわけですよ。でも宣伝しておきながら、じゃあ教えてください、どうしたらいいですかって言ったら、よそに行ってくださいって、そういう状態なわけですね。
これちょっとおかしいなと、よくないなと思いまして、自分の方でもですね、仏教を教えられるようにですね、こういう形で作っていこうかなと、配信していこうかなというのがきっかけです。
最初はYouTubeでやろうかと思ったんですけど、YouTube動画って大変なんですよ。いろんな設備も必要ですし、また喋るだけで済むならいいんですけど、動画でしょ。
だから目線であるとかですね、あと台本を覚えたりしながらとか、今私もInstagramですでにショート動画でずっとやってますけど、ショート動画の撮影もすごく大変なんですよ。
何本かまとめて撮るんですけども、もう言い間違いしてもう一回撮り直しますし、噛んだらいけませんしね。
だからもうあれ撮影するだけでも結構時間取るんで、わずか1分ちょっとの動画でもそれだけ大変なので、YouTubeで20分とかになったらとんでもないなと、ちょっと無理だなと思ったときに、ポッドキャストがあるなと。
ポッドキャストだったら声で録音するだけでいいので、これすごく楽だなと思ってポッドキャストにしたんですね。
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