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はい、早いもので今日でも1月も終わりなんですけれども、
毎月の最終金曜日は、学ぼう社会のカギ、この子ら、恒例のこの歌詞がすごい、なんですけれども、
今年はですね、昭和100年ということで、この歌詞がすごいも、しばらくは昭和開講編ということで、
この歌詞がすごいを届けてくれるということです。
今日がその初回、元サンデー毎日編集長、潟永秀一郎さんです。
おはようございます。
おはようございます。
はい、おはようございます。
17日のこのコーナーで、私は、段階の世代を取り上げさせていただいて、
皆さんが今年、後期高齢者になるという2025年問題についてお話ししましたが、
その中で、段階の世代には、早々たるミュージシャンがいらっしゃって、
70年代のフォークソングブームを起こして、その後のJ-POPの礎を築いたというお話をしたんですが、
今日はその70年代フォークの代表曲から、時代の変化をたどります。
まずは、この曲からどうぞ。
吉田卓郎さんの「旅の宿」です。
1972年、昭和47年の発売で、作詞は岡本治さん、卓郎さんとのコンビでは、
このほか、楽洋やえりもみさきなどの名曲があります。
ちなみに、岡本さんと卓郎さんは、段階の世代の一つ上、昭和21年生まれの学年です。
では歌詞ですけれども、ここで取り上げるのは、着物と畳の文化です。
冒頭はあまりに有名というか、年配の方は懐かしいと思うんですが、
「浴衣の君はススキのかんざし」という舞台だし、
宿の夕食って、今でこそ別室、食事会場が増えてますけれども、
かつては団体客以外は、中井さんが部屋にお膳を運んでくれるのが一般的でした。
歌はその情景ですね。
風呂上がりの彼女は洗い紙をあげて、外で拾ったんでしょうか、
ススキの木をかんざし代わりに紙まとめています。
もちろん今も旅館は畳敷きですし、浴衣も着ますが、当時はそれが日常でした。
実は洋服が大量生産されるようになったのは、1970年代の後半からで、
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例えば男性の背広、女性のスーツで既製品が扱いより多くなったのは、1976年代。
それまでは仕立て屋さんで作ったり、婦人服は型紙で自家製の方が多かったんですね。
それこそ寝巻き、寝巻きという言葉自体も死後なんですけれども、
寝巻きも昭和のお母さん世代って浴衣が多かったですよね。
だから浴衣もかんざしの使い方も手慣れていて、
ススキを洗い紙に刺すなんて粋なことをさりげなくできたわけです。
また部屋もかつては畳敷きが大半でしたが、ご存知の通り近年はフローリングが増えて、
20代では家に畳の部屋がない人の方が多数派という調査結果もあります。
まして茶舞台や座布団は今や昭和の風景ですよね。
何のことかわからないかもしれませんね。
そんな畳の文化を象徴するのがもう一つ。
この歌詞で僕はすっかり酔っちまって君の膝枕にうっとりなんですが、膝枕です。
私も小さい頃は母親に耳掃除してもらったときの記憶しかなくて、
例えば恋人同士でも今やったら何してんのって怒られそうですよね。
どうでしょうそれはカップルのイチャイチャによるじゃないですか。
私は本当に膝枕って文化なくなったんじゃないかと思ってるんですけど。
どうなんですかね。
若い人、ガラスの向こうの若い人。
あとで聞いてみたいですね。
とはいえ歌は歌でして厚缶やあぐら、上弦の月とか俳句とかですね。
古き日本の旅情を伝える名曲。
歌がその当時のことを伝えてくれるという意味でですね。
本当に名曲だと私は思います。
ちなみにこの歌ですね。
作詞した岡本治さんの新婚旅行の思い出だそうで。
宿はですね、青森県の戸羽田市に現存する津田温泉旅館というところだそうです。
今冬は休業中のようですけれども、4月には再開するそうなので、
タクローファンの方はいかがでしょうか。
かっこいい私もいつか行ってみたいなと思ってます。
では次はこの曲です。
はいもう皆さんご存知ですよね。
かぐや姫の神田川です。
1973年、昭和48年のリリースで、
作詞は北条誠さん、作曲は南光節さん。
共に団塊の世代です。
北条さんは当時文化放送の放送作家で、
光節さんから作詞の依頼を受けて家に帰る途中、
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タクシーの車の窓から神田川を見て、
早稲田大学の学生時代に1年間だけ彼女と暮らした三畳一間の暮らしを思い出して書き上げ、
光節さんに電話口で読み上げると、
数分後には曲ができていたという逸話があります。
私も編集長当時北条さんにお目にかかったことあるんですが、
その時北条さんは、私は大阪生まれなので、
実は農林に浮かんだ風景は道頓堀までしたと言った。
聞きたくなかった。
話をされました。
そうですか。
さて歌詞ですけれども、ここで取り上げるのは、
銭湯と三畳一間の暮らし、
そして70年安保世代の貧しさの美学です。
この歌もまた冒頭の歌詞はあまりにも有名ですよね。
あなたはもう忘れたかしら赤い手のぐいマフラーにして
二人で行った横丁の風呂屋です。
手拭いという言葉もいつの間にか使わなくなりましたね。
あのタオルみたいにふかふかしてない一枚布で、
バスタオルなんてものありませんからまだ。
湯上がりはこれをきっちり絞って、髪も体も拭きました。
だから髪なんて本当まだ半分濡れたまんまで、
寒空の下で待たされたらそりゃ冷え切りますよ。
本当ごめんって謝るのが筋ですが、
あなたは私の体を抱いて冷たいねって言ったのよって、
今ならお前のせいじゃって怒られますよね。
もうガタガタさん今なら今ならってもう現実に戻さないで。
時代を行き来するのがこの本なんです。
二番もそうで三畳一間の貧しい暮らしなのに、
彼は生活必需品でもない24色のクレパスを買ってきて、
それで似顔絵描いてくれるのはいいんだけど、
ちっとも似てないと。
あげくおそらくは少し手荒れした彼女の指先を見つめて、
悲しいかいってお前が言うなですよね。
ちなみに70年代といえども三畳間はもう少数派で、
落成アパートは4畳半から6畳が多かったんですが、
とはいえ風呂付きはまだ圧倒的な少数派でした。
それが変わったのはバブル経済期です。
地価が高騰して固定資産税に見合った古いアパートの建て替えが進んで、
家賃を上げるために風呂付き物件が増えていきます。
東京23区内の銭湯は1973年当時2700件近くあったんですが、
バブルを経て1993年にはおよそ1700件、1000件も減りました。
今はもう500件を切ってます。
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実は主力理学のピークも1990年代の前半なんです。
首都圏では平均およそ12万5000円。
今は8万9000円くらいですから、
このデータからも日本が一番元気だったのは、
1980年代から90年代の初めの頃だったことがわかります。
高度経済成長期に若者の貧しさが必ずしも悲観的じゃなかったのは、
これは学生時代だけだと思える未来の明るさがあったからなんでしょうね。
さて歌詞に戻るとやっぱり最大の謎は次の歌詞で、
若かったあの頃何も怖くなかった。ただあなたの優しさが怖かった。
これさっきの話にも通じるんですが、
これも解説しますと、これは若かったから貧しさは平気だったけど、
あなたは優しいから私たちの暮らしのために夢を捨ててしまうことが怖かった。
そういう意味らしいですね。
今ならは?とか何それ?と突っ込まれそうですけれども、
70年安保闘争世代、多くの学生が政治や権力に反発して、
安定より自由が尊ばれた時代だったから成立した歌詞なんでしょうね。
その意味でもこの歌は戦後日本の青春期、
日本自体が青春だった70年代を代表する一曲と言えそうです。
では最後にこの曲です。井上陽水さんの人生が二度あれば。
1972年昭和47年リリースのファーストアルバム断絶の一曲です。
ここで取り上げるのは戦後世代が戦前生まれの親たちに感じた申し訳なさです。
歌は順に陽水さんのお父さんとお母さんを描きます。
陽水さんも段階の世代なんですね。
1番は父は今年2月で65、顔のシワは増えていくばかり、仕事に追われこの頃やっという鳥ができた。
2番は母は今年9月で64、子供だけのために年取った。
母の細い手、漬物石を持ち上げているんですね。
この歌が出た72年当時、男性の平均寿命は70歳、女性は76歳。
実は男性の平均寿命が70歳を超えたのはこの前年、1971年のことなんです。
今なら65歳と64歳ってまだ若いですけれども。
そうですよ、シワなんてそんなになさそうですけど。
当時はもう晩年と言える年だったんですね。
陽水さんのお父さん若見さんもこの歌が出た年、引退して郷里の高地に戻った3日目に亡くなっています。
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で歌に戻りますと、こたつで向き合ってお茶を飲む2人。
お父さんのイノミジャワンは欠けていて、お茶に映る自分の顔をじっと見てます。
お母さんはか細い手で漬物石を持ち上げて刻んだ漬物をお茶受けに出したんでしょう。
今はお茶もペットボトルが増えて給酢も湯飲みもない。
なんか情緒もない感じですけどね。
でも漬物を漬ける家もほんとわずかになりましたけれども。
そうですよ。
昭和の風景ですね。
昭和40年生まれくらいまで、親世代の多くは戦争経験者でした。
空襲や引き上げ、疎開や食糧難などを経験した大変な世代ですね。
ヨスイさんのご両親も朝鮮半島からの引き上げ者で、
ソ連軍が南下する中、命からがらの逃避行だったそうです。
その後お父さんは筑豊の炭鉱で働いて、
糸田町で司会員を開業して、1年2女を育て上げるんですけれども、
まだレジャーっていう言葉も概念もなかった時代。
お母さんたちって着飾るでもなく、外食や旅行を楽しむこともなく。
だから、そんな母を見てると人生が誰のためにあるのかわからない。
子供を育て家族のために年老いた母と、申し訳なさが募るんですね。
しかも後継ぎを期待されたヨスイさんは、
試科題を受験しますが3度失敗して、東京で勉強すると言って上京して、
歌手デビューしてます。
そんなヨスイさんの前でご両親は若い頃の思い出を語り合います。
苦労続きの人生の中で、けれども懐かしい新婚当時の暮らしです。
思い出してる夢見るように、夢見るようにと歌います。
だから、人生が2度あれば、この人生が2度あればと、
私にはこの歌詞がごめんなさいっていう心の叫びに聞こえます。
最後、ヨスイさんは涙を得て歌い上げますけれども、
私もこの歌を聞いて泣いたことがあります。
母は亡くなりましたけれども、今も旅行したり外食したりするときですね、
苦労して親一人で育ててくれたお母さん、母への申し訳なさを感じることがあります。
日本は豊かになりましたけれども、その礎を作ってくれたのは、
戦争を知る世代だということを、この歌は今に伝えてくれます。
ということで、今日は70年代フォークソングの名曲3曲をお届けしました。
昭和世代のお二人はいかがだったでしょうか。
子供だったんですけども、懐かしく感じますよね。
あの空気はまだ、匂いとか覚えてますからね。
はい、でも確かに戦中、戦後苦しい時代を戦ってきた人がいたからある、
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今日というのは忘れちゃいけないでしょうね。
はい、この歌詞がすごい。今回ね、昭和100年ということで、
その第1回をお届けしてくださいました。
また2回目も楽しみにしております。
元サンデー毎日編集長型永衆一郎さんでした。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
バッテン少女隊の春野紀伊菜と、
青井リルマです。
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