ザ・フォーク・クルセダーズの結成と初期
さて、5月も間もなく終わりますけれどもね。最終金曜日ということで、学ぼう社会のカギは潟永さんのこの歌詞が凄いということで、
今年はJ-POPの歴史を振り返っていただいててですね、前回がフォークソングブームの原点となりました1960年代の社会派フォークでしたけれども、
今日は同じ時代にさらに幅広い音楽活動で後に大きな影響を与えたグループなんだそうですね。
どなたなんでしょうか。元サンデー毎日編集長が潟永秀一郎さんです。おはようございます。
はい、おはようございます。
まず最初にごめんなさい。前回の最後に次は70年代フォークのレジェンドたちを取り上げるとお話したんですが、その前に一つ大事なバンドを忘れていました。
1965年に結成されて68年に解散したザ・フォーククルセダーズ、略してフォークルです。
活動期間はわずか3年余り、しかもプロ活動は1年もないんですけれども、残した足跡は大きくてですね、その音楽性の幅広さで言うとまさに今のJ-POPの源流とも言えると思います。
ということで今日はフォークルの足跡をたどらせてください。
フォークルの中心メンバーは加藤和彦さんと北山雄さんです。1965年に京都の大学生だった加藤さんが雑誌メンズクラブの読者欄でメンバーを募集して、
ちなみにこれが普通音楽雑誌なんですけど、男性ファッション誌のメンズクラブだったっていうことが、後にファッションリーダーともなる加藤さんらしいんですけれども、
医学部の学生だった北山さんら4人が集まって結成されたアマチュアバンドでした。
北山さんは後に精神科医、さらに臨床心理学者となられて長く九州大学の教授も務められたので、福岡とのご縁も深いですよね。
「帰ってきた酔っ払い」の誕生とヒット
ではまずはその名を世に知らしめたオリコンチャート史上初のミリオン売上が100万枚を突破したシングル、1967年発売のこの曲からです。
はい、年配の方は懐かしいと思います。あの帰ってきた酔っ払い。作詞は影のフォークルメンバーとも言われ、後に作詞家としてアグネシチャンさんとか竹内マリアさん、
オフコース井上洋水さんらにも歌詞を提供する松山たけしさんと北山さん、作曲は加藤さんです。
これ67年に一旦バンドの解散を決めた時、記念に300枚だけ自主制作したアルバムに収録された1曲で、つまり別に売る気なんかなかった。
ちょっと遊び心のような感じですか?
そうなんです。それが関西のラジオで流れて話題になって、レコード会社からプロデビューのオファーが相次いで、1年限りという約束でプロデビューするんですね。
このデビューする時のメンバーは加藤さん、北山さんと橋田信彦さん。橋田さんは解散後にシューベルスとかクライマックスとか自身のバンドでもヒットを連発しますから、すごいメンバーだったわけです。
ただ発売された帰ってきた酔っ払いは、これはアマチュア当時の録音で、北山さんの家にあったオープンディールのテープレコーダーを使って、これ語学学習用にあったらしいんですけど、
これで加藤さんのボーカルを録って早送りでミックスして、セリフで登場する神様と度胸の声は北山さんだということですね。
では歌詞ですけれども、はじめにお断りしておくと、これ今のコンプライアンス的にはアウトです。
飲酒運転で亡くなったドライバーが、天国でまたお酒飲んで、綺麗なお姉ちゃんと浮かれた挙句、生き返るっていう話ですから。
どうしようもない。
飲酒事故の被害者の方々からすればですね、とんでもない話で、実際そうした理由から放送が自主規制された時期があったんです。
それを理解した上での話ですけれども、これはおそらくフォークグループが初めて歌ったコミックソングで、
クレイジーキャッツとかはあったんですよ、ドリフターズとかで。
フォークソングの地平を広げた、こんなことやっていいんだっていうのも事実なんですね。
曲の間奏にビートルズのメロディーが流れたり、お坊さんの度胸にもビートルズの歌詞が登場したり、
最後はベートベルのエリーゼのためにが流れて終わる構成も含めてですね、
アマチュアならではの実験的なパロディソングですよね。
それが大人の都合でレコード発売されて大ヒットして、誰より戸惑ったのはおそらくご本人たちだったんじゃないでしょうか。
ただ、その新しさや可能性が当時の若者に巧妙を届けた。
いろんなことができるんだよっていうのを届けたのもこれもまた事実です。
「イムジン川」と社会情勢
ということで次も同じ自主制作アルバムからシングルカットされるはずだったのに、
今度は大人の都合で見送られて、さらに一時期放送も自主規制されたこの曲です。
イムジン川松山武さんが中学生時代、京都の朝鮮学校を訪れた時に聴いて歌をして、
後にそれを加藤和彦さんに歌って学府に起こし、2番と3番は松山さんが作詞して付け加えたのが、これがフォークル版のイムジン川です。
第二次大戦後、南北に分断された朝鮮半島で、歌は故郷にはもう帰れなくなってしまった主人公が、
自由に国境を越える水鳥たちを見送りながら、誰が祖国を二つに分けてしまったの?
この故郷をいつまでも忘れはしないと、傍聴の思いを歌うんですね。
フォークルはこれを、読み人知らずの朝鮮民謡だと思って改編したんですけれども、
発売前にラジオで流れると、朝鮮総連の方から、作者の名前を明記して元の歌詞に忠実に訳すようにという抗議があって、
東西の冷戦下という当時の社会情勢もあって、発売が見送られる事態になりました。
そもそもアマチュアバンドのフォークルが、朝鮮学校の友人との交流から知った分断の悲しみを歌にしただけなのに、
これも大人の都合で売り出そうとしたわけく、創造に巻き込まれて、私はいわばフォークルも被害者だと思うんですけれども、
ただ放送自粛の流れの中で、あえて流し続けたラジオ局のディレクターもいらっしゃるなどですね、
歌の素晴らしさは政治的事情を超えて人の心に届いて、後に再発売されるんですけれども、今や多くの歌手がカバーするスタンダードですよね。
「悲しくてやりきれない」の制作背景
とりわけ2005年に京都を舞台にした、日本人と在日朝鮮人の高校生たちの恋と友情を描いた映画、
パッチギの主題歌となって、フォークルが伝えたかった思いは世紀を超えました。
では次はですね、イムジンガーが発売中止になって、急遽その代わりに製作発売された1968年のこの曲です。
悲しくてやりきれない。作曲は加藤さん、作詞は詩人の佐藤八郎さんです。
この曲も後に吉田拓郎さんや奥田民雄さんら、多くのアーティストがカバーする名曲ですが、2009年のミュージックマンネットの記事で、
加藤さんのインタビューによるとですね、ギターを渡されてレコード会社の会長室に缶詰にされてですね、
イムジンガーが出なくなった。
閉じ込められて、仕方ないから2,30分で作ってカセットに吹き込んだのを、会長さんと一緒に詩人の佐藤八郎さんのお宅に持って行って、
1週間ほどで帰ってきた詩を歌ってレコーディングしたという経緯らしいんです。
すごいですよね。
歌は青春の一時期、誰しも感じるモヤモヤとした思いとか虚しさとか、それを抱えて空を見上げ風に吹かれ、立ち尽くす若者の姿を描きます。
ただね、当時佐藤八郎さん65歳。それでこの青春のやるせなさを当事者のように描けるってすごいです。
というか、この歓声をずっと、若さを持ち続けられるから詩人なんでしょうね。
デュエットシングル「あの素晴らしい愛をもう一度」
ということで、最後はフォークルの解散後に、北山治さんと加藤和彦さんが2人で歌ったこの曲です。
あの素晴らしい愛をもう一度。
作詞は北山治さん、作曲は加藤さん。
もともとはですね、女性寮シモンズのデビュー曲を依頼されて作ったんですが、やっぱりレコード会社フォークルに再結成してほしくてですね、
そういったレコード会社の思惑もあって、2人が歌うことになったと言われます。
だからレコードジャケットはですね、そのレコード会社に反発があるもんだから、カメラ目線じゃなくて、2人ともあさってを向いているんですけど。
ただその意味では、歌で結ばれたお二人、北山さん、加藤さんお二人、唯一のデュエットシングルで、
2010年に北山さんの九州大学体育館記念に福岡であったコンサートでもフィナーレを飾りました。
この歌で私が一番好きなのは、
あの時同じ花を見て美しいと言った二人の心と心が今はもう通わないという歌詞で、
愛し合うっていうのは同じものを美しいと思えたり感動できたり、つまりは一人でいるより一緒の方が何もかも素敵だと思えることなんだと。
逆に言うとそう思えなくなった時に愛は終わるんだと教えてくれます。
この歌も後に陽水さんや桑田圭介さんとか玉木浩二さんとか、早々たる方々がカバーするスタンダードになりました。
メンバーのその後
さて締めくくりにフォークルのその後を少しだけ。
まずはプロデビューに際して参加した橋田紀彦さんですけれども、解散後は橋田紀彦とシューベルツやクライマックスなどで活躍して、
人は誰もただ一人っていう風とか、花嫁はっていう花嫁などヒット曲を次々に出されました。
また北山さんはお話ししたように医師、学者となられ、一方で作詞家としては橋田さんに提供した今の風や花嫁のほか、
戦争を知らない子供たちや坂井正明さんが歌って大ヒットしたさらば恋人を手掛けるなど、音楽活動にも携わり続け、
さらにラジオパーソナリティとかから多くの本、著書も残してですね、本当にマルチに活躍されたんですけれども。
そして加藤さんは解散後の71年、サディスティックミカバンドを結成してロックの世界の方へ進むんですが、
このメンバーもまたすごくて、初期メンバーにはドラムの角田博さんやギターの高中正義さん、その後高橋幸博さんとか後藤嗣俊さんも加入しました。
いずれも後に大御所となる方々。加藤さんって才能を見抜く目もまた一流だったんですね。
ミカバンドは75年に一旦解散しますけれども、1989年ボーカルに桐島可憐さんを迎えて再結成し、
さらに2006年、木村可憐さんを迎えて再々結成しました。この間ソロ活動のほか、大丈夫マイフレンドなど多くの映画音楽やスーパー歌舞伎などの舞台音楽、
ゲーム音楽なども手がけ、日本の音楽シーンにものすごく大きな影響と足跡を残して2009年、62歳で亡くなりました。
木村可憐さんは、加藤さん亡くなった当時、朝日新聞に寄せた追悼文に、
加藤和彦が日本の音楽にもたらしたもの、それは革命だったと、その才能を真似記されました。
ということで、J-POPの源流として、フォークルは外せないなと取り上げさせていただきました。
フォークルの功績と現代への影響
今日ご紹介した曲全て、発表から60年近く経た今も、全く古びないどころか、むしろ新鮮ですよね。
この機会にぜひ改めて聴いていただければと思います。
フォーククルセダーズです。
ありがとうございました。
今月のこの歌詞がすごいわね。
僕も帰ってきて酔っ払い、子供でしたけど、やっぱケラケラ笑いながら聴いてたのを覚えてますけどもね。
フォーククルセダーズについて教えていただきました。
元サンデー毎日編集長、片中修一郎さんでした。
どうもありがとうございました。
どうもありがとうございました。