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みちくさして迷子中〜時差ボケ座談会サイドノート〜です。
定年退職と仕事のことについて、少し話そうかなと思います。
定年を前にした年給消化に入っています。
その会社というものに入って、40年近く働いてきました。
大学4年間を過ごした後に、大学からそのまま会社に入って、
その最初に入った会社にずっと定年までいられたというのは、
入った当初から考えても、本当に思ってもみなかったことでした。
まさか定年という日を迎えることができるとは全く思っていませんでした。
途中結婚もしましたし、子供も産みましたので、このまま本当に続くんだろうかと思った日は、
1回や2回なんかじゃなくて、何十回とありました。
でも辞めたいと思ったことは、実は不思議となかったんですね。
ありがたかったなと思うのは、いろんな人の会社の話を聞いてても思ったんですが、
子供を産んで続けている、私や私の周りの女性社員たちに対して、
会社の中が不思議とそんな厳しいムードじゃなかったんですよね。
こいつらの迷惑かけやがってとかいうような空気感はなく、
大変そうだけど何とかやってるんでしょっていうぐらいの、
ちょっと緩い感じの見守り方でですね、見ててくれたっていうことが、
私個人に関して言うと、とても気が楽だったなというふうに、今にして思っています。
入社する前はそうですね、2,30社ぐらい回ったと思うんですけど、
それはマスコミも中心にしまして、それ以外にもメーカーも行きましたし、百貨店も行きましたし、いろんなところ行きました。
結果的にここ入りたいなと思えるところの一つに、ちゃんと入れてもらうことができて本当にありがたいなと思いました。
子供を産む女性っていうのは、当時のマジョリティではないんですよね。
当時、CMで有名なもので24時間働けますかっていうか戦えますかか、そういうCMがありましたが、
とんでもないよね。もちろん子供を産む前は、本当に24時間戦うなと。
今なら、上司があるいは会社が、老期所に訴えられるレベルの残業もしましたし、いろんな仕事の仕方をしてきました。
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子供を産んだ後に、それこそ本当に続けていけるんだろうかとか、あるいは仕事の方が楽だなって思えるような日々も過ごしてきたんですけれども。
でも会社自体は、でも続けたいですって私が言っている限りにおいては、こんな人もいないと日本という国の仕組み自体が持たないよねっていうことを理屈で分かっている人たちが周りにいて、
少なくとも邪魔はしないよって、なんかあったらとりあえず相談してね、ぐらいのスタンスで見ててくれたなというふうに思います。
報道局というところにいたんですけど、その長い間ね。その報道局というところのありがたいところは、現実は現実、でも理想は理想。
理想っていうのは、でも女の人もこれからは働く世の中になるよね。きっと会社という中で家庭内での役割が違ったとしても、それでも会社という組織の中で女の人が生き延びていけるような会社に、あるいは社会になら
ないと世の中自体が回っていかなくなるよねっていう理想論みたいなものは分かっている人たちだったっていうことが
大きかったなというふうに思います。だから会議8時から、夜の8時からやるけどお前来れるみたいな、無理に決まってんじゃんみたいな、そういう状態の中ででもですね、いけませんってごめんなさいって言ったとして
も、
それについて、まあそりゃそうだよねっていうことが分かった上で、じゃあどうするっていうのを現実的に考えようっていうスタンスの人がまずまずいてくれた。
あとは当時、世の中全体がその雇用機械均等法において入ってきた人たちを何とか続けさせようとするために、じゃあどういう仕組みづくりをしたら続けられるんだっていうのを会社でもそうですし、
それから社会全体でも国としてもですね、少しずつ試行錯誤しながらやっている途中の中で、続けていくことができたなというふうに思います。
今となって思い出深いのが入社試験で、その入社試験においては面接がたくさんあるわけですけれども、ありとあらゆるテレビ局もそうですし、一般企業も行きましたが、
アナウンサーになりたいなと思って、キー局と言われている局にいくつか受けましたし、もちろんNHKも受けましたし、それから大阪局、純キー局って当時は言ったんですが、今も言うんですけど、純キー局も受け
ました。
あと名古屋の局も確か受けたと思うんですけど、キー局のあるところでアナウンサー試験の最後の30人に入ったということもありまして、その30人の中で結局はそのキー局に入れませんでしたが、その系列局の地方局
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だったら採用しますよみたいなことを言われて、どうしようかなって悩んだことがありました。
ただそれ正社員じゃなかったんですね。
3年間、職託という形でどうですかという話になって、グラッと来たんですけれども、それ東北のある局だったんですが、一族老党のおじさんおばさんも含めですね、ご相談した結果、
特に地方都市に住んでいるおばがやめとけと、3年間だけ行ってどうするっていうのもありますし、あとは若い女の子がたった一人で地方都市行ってアナウンサーで顔を売れて名前を売れたとしてですよ。
そこに自由はないぞって言われましたね。
当時時代もありますが、彼氏とでもですね、ちっちゃな街の中で歩いてたら、いっぺんにどこどこの誰々さんが男の人と歩いてたよっていうのが分かっちゃうようなぐらいの規模感なので、すごい行き詰まるよって言わ
れて、なるほどねっていうことは割とリアルに言われてやめましたね。
あとは、今にして思えば正社員じゃないので、若い女性の一番いいときだけ切り取るように働いて、それでその後ポンと放り出されるっていう状態っていうのはどう考えてもやっぱりね、フェアじゃない取引だなと今なら思
うんですよね。
当時はそんなことを考えるあれじゃなくて、とにかくアナウンサーという実績を作るためだったら何でもいいみたいな考え方もありかなと思ったんですが、それはすごくフェアじゃなかったんじゃないかなと今にしても思
います。
アナウンサーにはなれなかったんですが、結果的にそこから一般職も全部含めていろんな局も受けた結果、一つの大阪局に拾ってもらうことができて、そこの正社員として入ることができました。
あなた来ていいですよ、正社員として採用しますよと言ってもらえて、そこから38年通ったことになります。本当に楽しい時間を過ごしたなと思います。
で、その当時面接の時によく言われたセリフで今でもよく覚えているのが、結婚しても子供、あの結婚しても仕事続けますかというのが一つ。
それから子供産んだらどうしますかというのも一つ。転勤になったらどうしますかという、この3つはだいたい聞かれましたね。
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結局入った会社では結婚しても続けますかって聞かれたかどうか覚えてはないんですが、転勤になったらどうしますかっていうのは聞かれました。
特に名古屋とかにも私局あるんだけど、君名古屋になったらどうするって言われて、当時実家の父が名古屋で働いてましたんで、あの父と一緒に電車に乗って通いますって言ったら、
社長さんがですね、当時の社長がひらって笑ったんですね。なんかちょっとその笑顔が浮かんだらしいんです。その父親と娘が一緒になって電車に並んで立っている姿が一瞬浮かんだんだと思うんです。
で、その笑ってもらったということで、何かなぜか合格をもらったっていうふうに覚えています。
で、その続けますか続けませんか。結婚しても続けますか続けませんか。子ども運でも続けますか続けませんか。どうするんですかって聞かれたときに、続けますって迷いなく答えてましたけど、
でもやってみなきゃわかんないよねそんなことっていうのは正直なところを持っていました。
だってやったことないことですからね。何だったら親の世代だってやったことないわけですよね。
あの企業に勤めながら子ども育てるなんていう経験をしたことがある人は周りにはほんとレアで、まあ本当に桐島陽子さんぐらいしかいないんじゃないでしょうかね。
子どもを抱えながら働き続けたっていうことを当時やってた人は、もちろんNHKさんとかですね、いくつかの先進的な社員に対する、特に男女の扱いが非常に先進的だった会社においてはやってたところもあったと思うん
ですが、
多くの人にとっては本当にバラの道だったと思いますし、想像がつかないなと思っていました。本当にできるのかって。
だからこそ30ぐらいまでに産むんかなぐらいのことは考えてて、現実に30で産んだわけですけども、そっから先どうなるのかっていうことについては、
本当に矢部の中っていうか、雲の中っていうか、想像の拉致害とか、びっくりするぐらい大変そうな絵しか思い浮かばなかったです。
で、当時ですね、現場の仕事には当初つけませんでした。事務的な仕事ばっかりしてましたが、女の人っていうのは泊り勤務とか深夜勤務っていうのは法律上やっちゃいけないという扱いになってたんですね。
子供を産み育てるせいであるということが、労働基準法か何かで決まっていたようで、深夜勤務をやろうと思うといろんな手続きを取って何かにサインするなり、あるいは人事と何かやりとりするなりして立場を変えるか何
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かしないとできないっていうことになってて、なかなかこれはめんどくさいなって思った覚えがあります。
それは多分使う側である上司も思ってたことだろうと思います。ところがそれが時代が変わって女性も泊り勤務ができるようになった。それは法律改正があったんですけど、法律上の女の人を守りますという大義名分という
のを国が外すことを決めたっていうことでもあります。
自分は報道局というところに移ることができました。
夜の11時ぐらいのニュースをやって、次の朝の暇ネタニュースみたいなものを大体編集しておいて、夜は2時間か3時間ぐらい寝られたら女子で、また朝の5時ぐらいに起きてきて、朝のニュースをやってみたいな。
そうするうちにみんながまた朝になって出勤してくるので、じゃあ帰れるかというと、実は帰れないことの方が多かったです。
だんだん20代の早い頃だったら全然大丈夫だったんですけど、30前後になると一晩泊り勤務をやると顔が明け方ボロボロになるなっていうのを自分で自覚しました。
報道局にいたときに子供を産んだんですが、産んだ後に結局記者のまま続けるっていうのは非常に難しいなと思う頃に、報道局の中のシステム部というところに移らないかという話になって、
自分が気が向いたときに自分の企画を特集で編集して出してくれたらいいから、普段はサポートの方に回ってくれみたいな感じのことになって、上司の見るに見かねてっていうやつだったと思うんですけどね。
で、そういうのは今にして思えばマミートラックってよく言うんですけど、そのマミートラックでもあるんですけど、でも仕方がないですよね。
そこへ移って、その後、広報部へ行ったり、それから著作権部門に行ったりという感じで、報道局から離れていくっていうような感じでした。
本当は行きたかったところっていうのがあって、それは海外市局でした。
特にパリ市局だとか、上海市局というのがあったんですけど、それは本当に花話なと思って行きたいなってずっと思っていました。
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自分自身ね、フランス語やってましたんでね、それもあって、行ってみたいなとは思いますけど、もうその頃には子供が一人二人いる状態で、リアルで考えても、いかにお手伝いさんをお願いできるとしても、
普段はまだいいにしても、何か事件、事故が、そのヨーロッパなヨーロッパ、アジアならアジアでドーンって起きたら、子供たちはとりあえず置いて、自分はボンと出ていかなきゃいけないわけですよね。
ここからいつ帰って来られるかっていうのが、なかなか読めないようなところへ行くとか、あるいは非常に危険なところにも行かなきゃいけない。
それって、誰のためなのって、その憧れはいいんだけど、一体そこの仕事するのって誰のためなのって、冷静になって考えてみると、それはエゴなんですよね。
で、じゃあ、そこは行けないよなって、もちろん、その場合行くとしたら、夫を置いていくってことになるんですけど、まあ、夫はね、大人なので、どっかに置いていくとしても、ある日本のどっかにいるわけで、
それは安全だし、大丈夫だと思うんですけど、
彼も朝の7時に家を出て帰ってくるのは、夜の11、12時っていう仕事をしている人でしたので、彼に子供たちを託すことは当然無理で、自分が全部連れて行くしかないとかいうことを考えたときに、これは絶対無理だな
と思って諦めた、みたいな感じでした。
で、現場から離れたっていうのは、自分にとってあんまり苦にならないことが、人にとっては苦になることがある。
で、その苦にならないことで、何か作業をしたり、取りまとめたりっていうことが、己の身を助けることもあるんだなということを思った記憶があります。
何が自分にとって苦にならないかっていうと、それはパソコンのアプリ関係だったりとか、インターネットだったりとか、システムを組むときのユーザーサイドの意見を取りまとめるだとかいう感じです。
自分は絶対に技術系ではないので、どうやっても足掻いても文系の方なので、でも記者経験やディレクター経験はあるわけですよね。
だとすると、記者はどういうふうにシステムを使いたいかとか、取材のときの予定を立てて、原稿と映像とどうやって合わせていって、それをどうやってオンエアまで持っていくかとかいうときの動きがある程度わかってる
わけですよね。
だったら、じゃあこういうシステムを組んだら使えるんじゃないか、セキュリティはこうしたらいけるんじゃないか、みたいなことを思うことが言えるというか、こうじゃないと使えませんよねっていうことを技術の
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人とユーザーと結ぶようなことが苦じゃなくできる。
で、しかもやってて楽しいっていうことに気がついて、サポートをやりながら、非常にこれは自分に向いてるなあというふうに思った記憶があります。
だからそうすることで、ああ、生きていく場所が見つかったなあというふうに思った記憶があります。
その、24時間戦える人じゃなかったけれども、こうやってやっててもいいですかみたいな、そんな感じだったんですね。
でまぁ、その後はだから、著作権系のことをやったり、ライブラリーの系のことをやったり、あとそれから関連会社行ったりという感じでしたね。
関連会社にはずいぶんいろいろお世話になったんですけど、早くこうやって引退したこと、もちろん定年なんですけどね。
定年だけど、そこを離れて去ることになったっていうことについては、なんかちょっと心を残しているというか、申し訳なかったなって思う部分があります。
いや別に、本当にしょうがなかったんですよ。定年だから。でも、もっとやれたことがいっぱいあったんじゃないかなって、今にして思っています。
でも、置いてもらえた、こうやってご縁をいただけたっていうことについて、しかもそこが、本当最後まで続けさせてもらえたっていうことについては、もう全体に感謝してます。
時代においてね、いやこれはないでしょうって思った部分もたくさん、もちろんないではないんですけど、それも時代のものでもあるんですよね。
その度ごとに言いたいことは言ってきましたし、それに対してちゃんとしたレスポンスももらってきたなって思うので。
自分としては、よく生き延びましたね、ということは、自分を褒めてやってもいいんじゃないかな、なんていうことを今思っています。
今日のところは、こんなところです。