気候の変化とテンション
こんにちは、いわみです。
9月25日の木曜日、いかがお過ごしでしょうか。
こちらは昨日ぐらいから雨が降っていて、
そのせいもあってすごく涼しくなって、肌寒いぐらいになってきましたが、
過ごしやすくなっていいですね。
暑すぎるのからちょうどよくなるのと、
寒すぎるのからちょうどよくなるのだと、
気分の持ち上がりというか、気分の変動が違うなというのを思ったんですよ。
つまり夏から、今みたいに夏の暑い時から秋になると、
楽なんだけどテンションはあんまり上がらないですよね。
でも逆に冬から、すごい寒い時から春ね、3月とかになって温かくなると、
なんかテンション上がりませんか?
僕はね、春の方がテンションが上がるんですよね。
変化がね、上向きだとテンションが上がるけど下向きだと、
どっちもちょうどいい気候にはなるんだけど、
テンションもね、そんなに上がらないなっていう、どうでもいい話をしてみました。
情報の受信に関する価値観
今日話してみたいことは、
情報の受信に対しての価値観みたいなことなんですけど、
前に僕が配信した話に、スタンドUFMで配信されているタダノブさんが、
アンサー配信みたいなのをしてくださったんですよ。
まず、元になった僕の配信は、ノートブックLMについてね、
ここはイマイチだなっていう配信をしたんですけど、
それに対してタダノブさん、コメントもくださったんですけど、
自分の配信の中で、僕の価値観が衝撃的だったっていう話をしてたんですよ。
何が衝撃的だったっていうのかというと、
僕の場合は、なぜそのノートブックLMがね、イマイチだと感じるのかっていうと、
その掛け合いのね、AI2人による男性女性の声の掛け合いによる説明のキャラ付けがね、
結構曖昧だから、ちょっとそこがもったいないよなみたいなね、
ちょっとそれによって分かりやすさが減ってるよなっていう、減退してるよなっていう話をしたらですね、
タダノブさんはそこにね、衝撃を受けたらしいんですよ。
逆に僕はね、そこの部分はそんなに重要でないことはないけど、
こうですよねって、割と当たり前の事実としてね、淡々と述べたら、なぜかそこがね、びっくりしたっていうことで、
逆に僕はね、そういう人もいるんだっていうね、びっくりしたっていう話なんですけど、
これそもそもの話を簡単にかいつまんで話してみたいんですが、
つまりこれ何の話かというと、人がね、何かの情報を聞くときに、
特にその人の声でね、話を聞くときに、その人がどんな人であるかっていうことは、
どれぐらい重要かっていうね、そういう話だと思うんですよ。
僕がね、最初に持ち出したのは、AIによる掛け合いだから、
これは人ではないんだけど、でも一応ね、その声が男性と女性に分かれているから、
まあ無意識的にね、人としてね、カウントするというか、人として意識しながら聞くわけですよね。
AIじゃなくて、普通にボイシーとかポッドキャストで対談のコンテンツでも同じなんだけど、
そこのキャラ付けが、解説する方、話し手と聞き手が、かっちりキャラが分かれていた方が聞きやすいし、
そこが曖昧だとコンテンツが分かりにくくなるっていうね、そういう話をしたんですよ。
それね、ちょっとこれタドナムさんがね、話したことが僕はどこまでちゃんと捉えられているかわからないんですけど、
でもタドナムさんは、そこはそんなに重要じゃないと思ってたから、
僕みたいな価値観の人がいることに驚いたって言うんですけど、
繰り返しますけど、僕はね、逆にそんな人がいるんだって驚いたんですけど、
これね、どっちが多数派ね、マジョリティなのか、マイノリティなのかっていうのは、別にどっちでもいいというか、
そんなにここでは問題しないとして、でもね、両方ともいるっていうのは新たな発見だったんですよね。
解説コンテンツの重要性
でもここでいろんな人がいるよねっていうのはちょっとつまんないんで、
僕はここであえてね、ちょっとタドナムさんに対してツッコミというか、
あなた本当にそうですかってことをね、ちょっと問いかけてみたいと思って、
アンサーハイシンに対するアンサーハイシンをしてみたいと思います。
タドナムさんはね、人の話を聞くときに、
その人のキャラ付けというか、誰が話しているのかということを、
別にそんなに気になりませんよってことを多分言っていると思うんですよ。
特にAIなんかだと、来てと話してと役割がスイッチしても別に気にならない。
確かにタドナムさんもハイシンでおっしゃってましたけど、
何かの感想を言い合うとか、雑談みたいなコンテンツとか、
自分が思っていることについて感想を言い合うときだと、
別に聞き手も話してもないから、どちらがね、主導権を握ろうがいいんですけど、
むしろその主導権が変わったりすることの方が雑談の醍醐味だし、
聞き手が面白いと思うんですけど、
ここではあえて解説コンテンツ、難しいこととかニュースとか、
分かりにくいことを誰かが誰かに教えるみたいな、解説するコンテンツのときに、
それが例えば2人でやるときに、聞き手と話しての役割がスイッチすると、
途端に分かりづらくなるっていう。
これを前提にするかしないかで、価値観が違うかどうかっていうのがすごく変わってくるから、
難しいところなんですけど、
でもここはあえて絞り込んで、
タダノブさん的な人は、たとえ解説コンテンツであったとしても、
役割分担が一定でなくても気にならない、そこは影響しないっていうことだとね、
してみますよ。
僕の場合はそれがすごく影響するっていう。
場合によっては情報の整合性より大事かっていうのは、
それはもうちょっと後でもう一回放り下げてみますけど、
一個話を戻して、解説コンテンツにおいて、話してと聞き手の役割分担があったほうが
コンテンツは分かりやすくなるかどうかってことですね。
でもこれは僕の価値観というか、僕の意見だと明らかに違うと思うんですけど、
例えばノートブックLMで言ってみると、
AIが解説コンテンツ、音声の対談コンテンツみたいなのを瞬時に作ってくれるわけですが、
どっちがどっちでもいいんですが、
例えば男性がニュースとか難しいことに対して解説して、
女性がそれを分からない立場で役割で聞いていると、
それが何かの表紙で反対に反転しちゃう。
女性が解説側になって、男性の声が聞き手になる。
僕はそれがすごく気になって、
情報の咀嚼というか、理解に支障を来すっていう話をしたんですよ。
それが気にならない人が、タトゥーさんみたいな人がいるってことは、
情報のキャラ付け、解説コンテンツにおける役割の設定っていうのは重要じゃないというか、
もっと言うとキャラがスイッチしてもスイッチしなくても変わらないという、
この2つで分けて考えてみると、
さっきどっちが主流派っていう話をちょっとしましたけど、
僕はこれはどう考えても、
僕が主流派じゃないかなって思って、
これは別にどっちが多いからって言ってもないんですけど、
でもやっぱり誰が喋ってるかっていうのは、
すごく無意識的に、
それは誰でも気にしながら聞いていることなんじゃないかなと思うんですよ。
これね、AIの話でもそうなんだから、
生身の人間が喋ってるコンテンツ、もしくはそのリアルの人間関係において、
誰が喋っているかっていうのは、
やっぱりそれ結構前提条件になってくると思うんですよね。
誰が話しているかによって、
その聞き手の熱意みたいなのが多分変わってくると思うんですよ。
これは多分無意識に行われていて、
僕は田中さんに突っ込んでみたいって言ったのは、
実は気づいていないけど、
あなたもそのフィルターをかけていませんか?っていう、
そういう問いかけを、
別にこれ聞いている方はみんなにしているわけですけど、
だから本当は人間は誰しも、
誰が喋っているかってことに、
すごく前提条件にしていて、気にしていて、
あえて言わせてもらうと、
僕がそこに意識的で、そこに意識的じゃない人は、
そんなことを考えていないって言うんじゃないかっていうね、
ことを思ったわけです。
でもこれはね、コンテンツの入れ物を変えるとね、
割と逆も成り立っちゃうことなんですよね。
どういうことかというと、
例えば本とかね、書籍。
書籍は別に誰が書いているかいないかって、
あんまり気にしないじゃないですか。
面白そうな本を買って、
もしくは手に取って読んで、
その時に筆者が誰であるかっていうのは、
気にする人もいるかもしれないけど、
少なくとも僕はね、本を読むときは、
誰が書いているかっていうのは全然重要じゃないし、
後でね、その著者の略歴みたいのをね、読んでね、
ネットで調べてみたりして、
こんな顔してるんだって、
実は結構若いんだなって思ったりすることはあるけど、
でもそれはその付随というか、
おまけみたいな情報で。
書籍にとっては、
誰が喋っているかっていうのは全然関係ない。
話の場合はそれが、
雑談とかその場合は全然関係してくるってことを
言いたいわけですけど、
これなんでその違いが生まれるのかっていうと、
単純に考えると、
多分その情報のね、
コンテンツの完成度の問題だと思うんですよ。
つまり、
完成度が高いコンテンツだったら、
誰が話してようが、
その発信者がね、
男であろうが女であろうが、
どんな肩書きを持っていようが、
関係ないっていうことなんですよね。
でも、
ポッドキャストとか、
その雑談みたいのは、
別に完成度は関係ないというか、
高くないじゃないですか。
そういうね、情報の場合、
整理されていない情報の場合は、
人はね、それを自分から取りに行くわけですよ。
熱心にそのね、
情報の受け取り方
傾聴してそれを聞きに行くから、
その傾聴するね、
その姿勢の強弱みたいなのは、
無意識で誰が発信しているかによって、
変わってくるっていうね。
もっと言っちゃうと、だからその、
この人は偉いなって思ってる人だと、
もしくは正しいこと言ってるなって思ってる人だと、
熱心に聞くし、
そうじゃない人が話しているなって思ったら、
ちょっと気を抜いてね、
話半分に聞いたりするっていうね、
その調整みたいのを無意識で行っていると思うんですよ。
僕よく妻に言われるんですけどね。
僕は、妻がね、
話したことだと、
あんまりその、
間に受けないというか、耳を貸さないけど、
本で読んだこととか、
ボイシーで、
誰かね、チキリンさんが言っていることだと、
すごいよく聞くよねみたいな、
皮肉的なことを言われることがあるんですけど、
それはまさにあれですよね。
誰が話しているかによって、
フィルターというか、
自分の中に取り入れる、
割合みたいなのをね、
変化させているわけですよね。
そう言ってしまうとなんかね、
人によってその態度を変えるのかみたいな、
取られるかもしれないけど、
でもこれ言っちゃらんですけど、
これはね、多分誰でもやっていることで、
誰しもその、
背景というかね、
立ち位置みたいなことですけど、
それを無意識的に自分の中で、
固定させて、
それによってそのね、
自分の中の咀嚼、
飲み込むね、量みたいのを、
多分決めているわけですよね。
この人が話していることは、
8人でちゃんと取り入れようとかね。
この人が話していることは、
なんかあんまり信用できないから、
3,7ぐらいでね、
あとは捨てちゃおうみたいなね。
それを別に意識しているわけじゃなくて、
無意識のうちに多分それをね、
分別みたいなのを行っている。
多分これはね、
僕は思うに、
人間のね、
根本的なね、
ネイチャーだと思うんですよ。
自然の現象というか。
なぜそれがネイチャーだと思うのか、
そうしなければいけないのか、
どうしなければいけないのかというと、
情報のフィルター
多分そうしないと、
多分人はね、
情報に溺れてしまって、
もうやっていけなく、
処理が追いつかなくなるからってことですよね。
だって誰が言ったことでも、
間に受けて、
全部それをね、信じていたら、
身が持たないっていうのは、
当たり前じゃないですか。
で、それをどんどんね、
広げていくと、
たとえ知っている人でも、
割と信頼している人でも、
話している内容、
ジャンルと、
その人のね、
整合性というか、
マッチ度みたいなのを、
勝手に意識して、
この人が経済とか、
金融のことについて話しているんだったら、
聞く価値があるよな、
同じ人が、
音楽とか、
子育てとかのことに関して言ってたら、
でもこの人は別に、
子育てについてはね、
専門家じゃないというか、
あんまり詳しくないはずだよなって、
自分の中で思っていると、
そこの話はそんなにね、受け取らなかったり。
さっきその、
コンテンツのね、完成度の話を
しましたけど、
物によっては別に、
誰が喋っているのか、あんまり気にしないで、
そのピンポイントで、
そこの部分の意見みたいのを、
自分の中に取り入れられるタイミングってね、
結構あると思うんですよ。
特にこれはね、その、
音声コンテンツで顕著だなと思っていて、
例えばボイシーを聞いていて、
自分のフォローしている人を
聞いていたら、
それが再生が終わって、
月に全然知らない人の配信がね、
流れてきて、
でもちょっと手が離せなくて、
そのままそのコンテンツを聞き続けることって、
僕はあるんですけど、
その時にその、どこの誰だか知らない人が
話していた話が、
実は面白くてというか、
案外その参考になって、
なるほどってね、
思ってしまうってことはあるんですけど、
状況によっては、
全然そんなことは起こらないと思うんですよ。
手が離せなくて、
自然と耳に入ってきた時に、
多分自分のフィルターがね、
調整が無意識にされていなかったんでしょうね。
そのされていない状況の中で、
どこの誰か知らない、
初めての人の話が、
耳に入って、
あの、
入ってくるっていうこともあるし、
同じ話を聞いたんだとしても、
違う状況でね、
例えば、
自分がもう少し余裕のある状況とか、
もしくはその忙しくて、
話が聞けない状況とかだと、
たとえ同じ話を聞いたとしても、
全然頭に入ってこなかったりとか、
話に対する受け止めもね、
なるほどって思うのか、
何言ってんだよって思うのかも、
自分の状況によって変わってくるわけですよね。
ふとね、
思ったんですけど、
誰かの話を聞くときに、
それを素直に受け止めるか、
受け止めないかってのは、
これも無意識ですけど、
上下関係みたいのを、
自分の中でね、
固定させたくないみたいなね、
多分そういう意識が働いているんじゃないかな、
と思ったんですよ。
どういうことかというと、
さっきに妻の話をしましたけど、
僕は妻の話をして、
妻の話をしましたけど、
僕は妻の話だと、
あまり聞き入れないというか、
内容によりますけど、
例えばニュースとかね、
ある程度専門性のある情報の場合は、
妻が例えばね、
誰々さんがこういうことを
言っていたよって言っても、
へえそうなんだってね、
聞き流してしまうけど、
同じことを、
誰かね、専門家とか、
話の上手い人が言うと、
ああなるほどって思っちゃうってことはね、
論理性とか話の上手さみたいので、
入るか入らないかっていうのが
決まっているっていうのもあるかもしれないけど、
もっと深いところで、
多分ね、その話を、
目の前の人がしている話を、
はいそうですかってね、
すごく素直に聞くっていうのは、
それは心のフィルターを多分全開にしているってことだから、
それはね、ある意味では、
自分の中での上下関係をね、
多分固定させるっていう行為に
つながっている気がするんですよ。
この人の話を、
素直にね、
全開で聞くっていうことは、
相手と僕との関係を、
上下でね、
相手が上で僕が下っていうことを、
無意識のうちに固定してしまうっていうね。
多分これはね、
動物的な、
猿で言うと、
チンパンジーとか、
群れが50匹いると、
ナンバー1から50まで決まっているって言いますけど、
固定づけみたいのを、
決めたくないから、
だから話聞かないんだっていうね、
いう意識が働いているんじゃないかなってね。
このね、
現象っていうのは、
話の受け止め方の変化
多分誰にでも起こると思うんですよ。
同じことを
言っているのに、
同じ説明をしているのに、
詳しい人、
もしくはその自分が上だと、
認めている人だとちゃんと聞くけど、
そうじゃない人だと、
ちゃんと受け止めないっていうね。
聞き流してしまうっていうね。
これがすごいあの、
深いところでは、
チンパンジー的なね、
上下関係の、
固定みたいのを、
規定するね。
固定させたくないっていう、
動物的な、
本能の現れなんじゃないかなって、
思ったりしました。
そういう話だったんですが、
一つのテーマを話している割には、
なんか話があっちゃこっちゃに、
飛んだような気がするので、
思い出せる範囲で、
話したことを、
まとめてみようと思うんですが、
最初ね、
このノートブックエレームの、
キャラ付けによって、
情報のね、
入り方がね、
分かりやすさが変わってくるっていうところから、
それをタナノブさんが、
そんなこと考えたことね、
そんなこと考えたことなかったっていう、
衝撃を、
逆に僕はね、
その意見に衝撃を受けたっていうところから、
始まったんですが、
この会話における人それぞれの、
役割分担っていうのは、
意識してる人としてない人がいるけど、
実はね、
人間というかもっと言うと、
動物的な、
本能に結構影響していることなんじゃないかなって、
その耳から入った、
目でもいいんですけど、
特に耳ですね、耳から入った情報を、
ちゃんと咀嚼できる時っていうのは、
無意識的なフィルターで、
相手の方をね、
いい表現ではないけど、
上下関係を、
相手の方が上だというね、
その部分においては、
それで認めるというか、
固定させる行為が発生するから、
そこに無意識のブレーキがかかると、
たとえ同じ話をしていたとしても、
ちゃんと情報をね、
情報の理解と整合性の重要性
受け入れないというか、
理解しようとしないみたいなね、
現象が起きるなと思ったわけです。
でもここまでの話でも、
もうちょっと、
ノートブックLMと関係なくなっているなと、
今まとめながら思いましたけど、
あえてくっつけてみると、
AIのね、
生成コンテンツだろうが、
一応そのキャラ付けというか、
人間として、
効いているという風に仮定すると、
男性キャラと女性キャラで、
話してと聞き手の役割が、
入れ替わると聞きづらい。
もしくはね、
人によってはね、
女性が話してて、
男性が聞き手だと、
その役割分担によって、
もう聞く気がしないっていうね、
ミソジニー的なね、
思いを強く持っている人は、
多分ね、
その現象起きるなと、
いうことも思います。
コンテンツの入れ物の
コンテンツの入れ物というか、
完成度によっては、
その話してのキャラというか、
役割が別に関係ない時もあって、
特にその書籍なんかだと、
誰が書いてようが、
筆者が女性だろうが男性だろうが、
何歳だろうが、
コンテンツさえちゃんと整頓されて、
分かりやすいものであれば、
ほとんどの人にとっては、
多分ね、受け入れられるものになる、
ということなんじゃないかなと思いました。
だからかもしれないけど、
すごいね、まとめられた、
完成度の高いコンテンツを出すと、
結構知らない人からね、
尊敬じゃないけど、
なんか上に見られることってね、
あるなぁと思っていて、
リアルの知り合いで、
普段話している時は、
あんまりね、こっちのことをね、
意識してなかったのは、
例えばなんかね、
ブログとか、
SNSとかで、
リロ整然と話して文章を書ける人だっていうのが、
分かると、急にちょっと尊敬の念が
湧いてくるみたいなね、
僕はその逆の立場で、
それを味わったことが何回かあるんですけど、
あなたこんな文章を書けるんですね、
っていうのは、結構なんかね、
その人の
知性みたいのをね、
見直すきっかけになるなって思って、
でも書いている方としては、
こんだけ時間かけて書いたんだから、
それぐらいできるよってね、
あの、ことを思ったりしてるんですが、
ちょっとこれは本題からずれますね。
それで、
話し手の役割分担、
キャラによって、
その情報のね、
フィルターの、
情報を咀嚼するフィルターを
開けたり下げたりするっていうのは、
多分無意識に相手と上下関係みたいなのを
固定させる意味合いがあるから、
結構人はそれを慎重になって、
開けたり下げたりとか、
受け入れたり受け入れられなかったりするっていう
現象が起きるんだなっていうね。
これはちょっと同じことを言ってますね。
情報の整合性と、
人間の関係性、
キャラの関係性みたいなのは、
どっちが重要なんだっていうね、
問いかけを最初の方に
した記憶がありますけど、
これはね、
それこそ人それぞれだし、
多分このね、
比重の取り方に、
その人の、
価値観というか、
個性みたいなのが含まれているなっていうね、
気がします。
僕なんかはね、
言うても、
その情報の整合性をすごくね、
優先にしている人間だと思うんですよ。
タダノブさんはそんな僕を見ても、
あなたそんな情報の整合性よりも、
キャラ付けの方が大事なんですか?
っていうね、
ツッコミが入ったわけですけど、
場合によってはそうだけど、
でもそうじゃない時もあるというか、
むしろだから、
僕もそうじゃないとね、
情報の整合性の方が大事だと思っているけど、
でも実際そのノートブックLMとかで、
思ったことから考えてみると、
こんなね、
理屈っぽい僕であっても、
やっぱりそれ誰が喋っているかっていうのを、
結構気にしながら聞いているんだなってことを、
思ったわけです。
それでね、タダノブさんは、
あなたも実はそうなんじゃないですかっていうことをね、
チクッとね、
言ってみたかったわけなんですけど、
発信者の影響
人によってはね、
僕よりももっとその、
誰が喋っているか、
気にする人はね、
実はそっちの方が、
世の中的には多いんじゃないかなと、
多数派なんじゃないかなと、
思っているんですよ。
専門家の言ったことがすごく、
信じられて、
同じことを誰か知らない人が言っても、
全然相手にされないっていう現象は、
いろんなところで起きていると思うんですけど、
これなんかがまさにそれの、
証拠というか、
現象の説明になると思うんですよ。
最後に、
ノートブックLM的な終わり方をしようと思いますけど、
あなたはね、
自分のことをどっちだと、
思いますかっていうね、
整理された情報かどうかっていうのを、
重要視するのか、
それともその、誰がそれを喋っているのかっていうのを、
どっちをね、
重要だと思っているのかっていうのを、
この無意識の自分の上下付けみたいのを、
改めてね、
掘り返してみると、
新しい発見が、
あるかもしれません。
はい、では、今日の話はこれで終わりにしたいと思います。
ありがとうございました。
良い一日を過ごしください。さようなら。