第1回目「承認欲求は誰もが持っている原点」、
第2回目「心の仕組みは、世界共通。誰もが持つ、親・成人・子ども。」、
第8回目「承認欲求を満たし合う、コミュニケーション3つの法則。」とも、リンクするお話です。
皆さまは、沈黙する方ですか?それとも、される方ですか?
コミュニケーションと言えば、言葉を活用した会話、しぐさでのやり取り、などなど。沈黙とは無関係のようにも思えますが、本当にそうでしょうか。
中学生だったか、高校生だったか。それくらいのお年頃だった時、こんなことがありました。
兄弟姉妹がいるのですが、どうやらカメラが欲しいらしい。
今なら、スマホに高性能なカメラがついていて、気軽にパシャッ。
そんな時代ですが、その頃は、カメラはカメラ単体だった時代。
それも、欲しがっていたのは本格的なもの。
確か、写真部などの部活動で欲しがるようなもの。
あまり詳しくないのですが、お高くて、気軽に買えないようなものだったかと。
そんなカメラを、欲しいとお願いしている場面に遭遇。
「うわぁ、高そう。無理じゃない?」
案の定、却下。
「そりゃ、そうだよね。」
とは言え、相当、本気で欲しいらしい。
私なら欲しいと騒ぎ立て、ダメと言われて、ちょっとした喧嘩になったりするところ。
それとは違う。黙って、引き下がっている。
どことなく、悲しそう。
でも、言い返したり、騒ぎ立てたりする気配なし。
その後どうしたかといえば、欲しいカメラのカタログを、どこからか入手。
見てるんです。
ページを一枚ずつパラパラめくりながら、何も言わずに、黙って見つめてるんです。
次の日も、そのまた次の日も、パラッパラッ。
見ている。見つめてる。ただ黙って、そうしているだけ。
それを見ながら、心の中がざわざわ。
「え〜、そんなに欲しいんだ。」
無関係のはずの私が、そわそわ。
「うわぁ、今日も見てる。」
「う〜ん…」、ついに根負け。
「ねえ、私が貯めてるお年玉があるでしょ。
あれで買ってあげて。」
珍しく、そう申し出てしまいました。
「あのお年玉、使って良いの?」
「うん、良い。だってぇ、もう買ってあげてよぉ。」
「そう」確か、そんな親との短い会話があったような。
それからしばらくして、無事、カメラが我が家に到着。
「良かった」ほっと一息。
余談ですが、さらに、それからしばらくしてのこと。
「あなたのおかげで、カメラを買えたね。」
「いやぁ、私のおかげっていうか、
あれ、ほんとに私のお年玉、使っちゃった?」
「良いって言ったでしょ。」
「言ったけど、ほんとに?
全部使っちゃった?
一部とかじゃなくて?」
そんな親とのやりとり。
後になって、それとなく惜しい気が。
実際のところ、どこまで使われたのか、使われていないのか。
今となっては、忘れてしまいました。
どうだったんでしょうか。はぁ〜っ。
さて、今回のお話、コミュニケーションの法則から考えてみます。
法則は、3つ。
第1法則は、誰もが心の中に持つ、親・成人・子どもの内、狙い、狙われたところから反応。やりとりが続くもの。相互に補うと書いて、相補交流。
第2法則は、違うところから反応。やりとりが一時停止するもの。交差点の交差と書いて、交差交流。
第3法則は、表面上の社交的なやりとりと、心理的なやりとりが、別に繰り広げられるもの。表裏の裏の面と書いて、裏面交流。です。
今回のお話は、第1法則の相補交流か、あるいは第3法則の裏面交流か、あたりでしょうか。
まず最初に、カメラが欲しいと、実際の子どもが実際の親に向かって、お願い。
この時、心の中の「子ども」から、相手の心の中の「親」に向かってのお願いで、断られはしたものの、穏やかにスムーズに続くやりとりをしていました。
その会話の後も、日常の親子の会話が、平和に続く日々。
コミュニケーションの第1法則、相補交流。
ただその後、それで終わりはせず、表面上はただ黙って、欲しいカメラのカタログを見ている子と、それを見ている親、そして、なぜか同じくそれを見ている私。
表面的なやりとりとしては、何事もない。ある意味、それぞれフラット。平らな状態。
親子でも<今、ここ>にふさわしい、心の中の「成人」同士、何気ない日常が続いている。
けれど、心理的なやりとりとしては、ざわざわ。
カタログを見つつ、「欲しいなぁ」心の中の「子ども」と、それを見て、「う〜ん。そんなに欲しいのか。」
心の中の「親」とのやりとりが、裏面で展開されていたのでは?
コミュニケーションの第3法則、裏面交流。