前川先生、テレビで津波の映像をご覧になってすぐ岩手の医療機関に連絡を取られたと伺いました。
そしてわずか1週間で岩手へ行こうと決断されたそうですね。
関東でキャリアを積んでいた最中だったと思うんですけれども、前川先生の中でどんな思いが湧き上がって、
どんなふうに気持ちが動いていったかというのを聞かせていただけますでしょうか。
はい。ちょうど地震が起きたときは東京の都内の病院で勤務をしていたんですけれども、
テレビとか新聞とかそういったメディアで流れてくる情報を見て非常にショックを受けまして、衝撃を受けまして、
こんなことが本当に実際に日本の国内で起きているんだって思うと、
そのとき最初は本当に現実のものとは思えないような映画を見ているような感じだったんですけれども、
だんだんこれはただ事ではないと思うようになりました。
何かその意思として自分ができることがあるのであればやらなければいけないのではないかという強い衝動に張られたというか、
それで最初はやっぱり迷ったんですけれども、でも迷ったときは前に進もうとそういう気持ちになって、
それでインターネットで見つけた岩手県の岩手医大の災害対策室に自ら連絡を取ったという経緯になります。
連絡を取ってからどこどこに行ってくださいみたいな指示があるということですかね。
全く東北は1回だけ旅行に行ったことがあるくらいで、縁もゆかりもない土地で知り合いも全くいない地域だったんですけれども、
なのでどこでもよかったんです。岩手じゃなくても宮城でも福島でも行けるところがあったら赴こうと思っていて、
そこで見つけたのがインターネットで岩手医大の連絡先を見つけましたので、そこに最初に連絡を取って、
病院もどこでもいいと行ける場所にお答えをして。
そのときつないでくれたのは、もうその医大の先生とかがつないでくれなかったんですか。
はい。岩手医大の当時の学長が医師の情報サイトにメッセージを発信されていまして、
細く長い支援ができる先生応援支援に来ていただきたいというようなメッセージとともに、
災害支援室という名前だったと思うんですけれども、そこの連絡先が書いてあったんですね。
というわけで、自分から連絡を取りました。
すごいですね。勇気というか決断力みたいなところが。
行かないときっと、なんであのとき自分は動かなかったんだろうって、おそらく時間が経った後で後悔すると思ったんですね。
阪神淡路大震災のときに、自分は大学1年生で東京にいたんですが、
そのときにはやはり同じように悲惨な状況になっていたんですけど、自分は行動する勇気も行動力もなくて、
それが何か後悔というか、即死だろうと言っていたので、
今は医師になったのであれば、何かできることがあるんじゃないかというふうに思って、
後悔したくないという思いもすごく強かった。
突き動かされた。
その当時、巡回医の専門医としてキャリアも積まれていて、
専門医の取得を目指して、お勉強というか研修をされていたものの最中ということだったんですよね。
バリバリの若手で、これから専門医を取ろうと目指して、巡回医専門部員でやっていたところだったんです。
一旦そこを置いて岩手とかに行ってしまうと、もう一回やろうというところが不安に思ったりとか、
キャリアが一旦停止してしまうみたいなところで、迷いとかも当時なかったんでしょうか。
ありませんでしたね。
ありませんでした。
そこは専門医は何も考えずに、助けに行きたいという。
自分が、もちろん巡回機内科医としての専門性を高めることは大事だと思っていたんですが、
そうである前に自分は医師であり、また一人の人間であるので、
それを思うと巡回機の勉強、研修はまた時間が経ってからでもできますけれども、
被災地の支援は今しかできないと思ったら、
行きたいという思いに関して、キャリアが一旦中断するということに関しての迷いはありませんでしたね。
そうなんですね。
当時にも自分が見ていた患者さんとか、つながりのある人たちとかもいたりしたので、
そういった人たちを置いていくというか、いいのかなというそこはありましたけれども。
縁もゆかりもなかった岩手県に移住されて、12年間そこで細く長く支援を続けられたということだったんですけど、
最初の岩手県の病院での初年度ってどんな始まりだったんですか。
岩手医大の災害支援室から宮古病院を紹介してくださって、
そこの宮古病院というのが、巡回機の先生が一人常勤でおられるんですけれども、
60代で外来だけやっていて、入院診療はやっていないと、
心臓が立てているといった検査などもやっていないという状況で、
巡回機内科医が足りないということをお聞きして、
巡回機医として何かをしようと思っていこうと思ったわけではないんですけれども、
それであればより自分が活かせる役割があるのかもしれないなと思ってそこに行きました。
ただやっぱり最初は巡回機というよりも一般内科として、
何でも必要なことがあったら何でも受けて何でもお手伝いしますというスタンスでやっていたんですけれども、
病院自体は高台にあったので、病院機能自体は保たれていまして、
私が行ったのも震災から3ヶ月経ってからなので、
診療とか検査とか生活自体は通常体制に戻っていました。
町の様子は瓦礫がまだ山積みになっていたりとか、
もちろん避難所、まだ仮設住宅ができていない時期だったので、
避難所から病院に来る方もおられたりして、
病院の設備というよりも人手不足が問題としては大きかったんですね。
自分のご専門以外の診療とか不安とかは特になかったんですか?
ありましたけども、やるしかないと。
たった一人ではなくて、周りにもともとおられた先生とか、
それぞれの専門でやられている先生たちの力ももちろん借りながらだったので。
中にはPTSDと呼ばれているものもあると思うんですけど、
心身がショックで落ち込んじゃってみたいな患者さんもいらっしゃったんじゃないかなと思うんですけれども、
内科で診療されている先生がお話を聞く、
精神のところにもアプローチしていく必要とかもあったんじゃないかなと思うんですけど、
そのあたりどういう感じだったんでしょうか?
患者さんたちは自分から喋ろうとはしなくて、
震災の時のこととかは。
私も初対面だったりとか、患者さんとの付き合いが短い中で物質系に聞くこともできないので、
そのためにもやっぱり一回短期間行って、
終わりでは寄り添ったことにはならないと自分で思っていたので、
最初から長期的に滞在するという。