第60回は、かしまが『あいまいな喪失とトラウマからの回復』から引用。
直近、祖母の葬儀に参列したことをきっかけに、「自分にとって大切な存在を失うとはどういうことなのか」「なぜこんなにも辛いのか」を、みんなと一緒に考えたくて選んだ一節です。
友達同士の会話ではなかなか切り出せなかったテーマも、“引用ラジオ”という形式だからこそ話せた回。
20代が終わることや、パートナーとの別れなど、人生の中で出会うさまざまな喪失を振り返りながら、「喪失の痛み」はどこから来るのか、どう向き合えるのかを語り合いました。
⚠️トークの中で家族の喪失についての言及があります。
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【メンバー】
わたる:発起人。テレビの制作会社ディレクター。テレビを見るより本が好き。
ひかる:わたるの大学からの友だち。会社員。道端に落ちているものを写真におさめたり、飼い犬を愛でるのが好き。
つかだ:ひかるの前の会社の先輩。ゆいこの塾の友だち。つかだくんと呼ばれているけど、みんなと仲がいいつもり。本が好き。
ゆいこ:みんなの友だち。ラジオやポッドキャストが好き。小学生からくるりを聴いている。
かしま:ゆいこの幼馴染。IN YOU RADIOのサムネイルをデザインしたデザイナー。
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00:07
引用ラジオ、小説や映画、ドラマや絵本など、日常で出会った言葉たち、心に残った言葉に、その人だけの経験や、普段考えていることが透けて見えてくる。
引用する言葉から、あなたの中に湧き上がる何かが、垣間見えたら。
メンバーたちが持ち寄った言葉を取り上げながら、社会や生活を考え、雑談するポッドキャストです。
渡辺です。
塚田です。
鹿島です。
ゆい子です。
ゆい子さんは、帰りました。
はい、所要のため。
ママのご飯。
気合の入った料理。楽しみです。
食べてほしいよ、早く帰ってあったらうちにね。
珍しい3人です。
初めての組み合わせです。
すごいすごい、面白い。
そもそも、塚田君と私が組み合わせとかないから。
今さ、最初の読み上げ、序文読み上げって、めちゃめちゃいいナレーションというか、いい声だなって思ったんだよね。
確か初めてかも。
読んでるとこ見ないもんね。
確か読んでるとこ初めてだったから、結構すげえいい声だなって。
私も塚田君とこういう風に読むんだ、思ったのさっき。
さっきはちょっとイレギュラーだったんですけど。
いやいやいや。
新鮮ですね。
うん、新鮮。
今日はですね、曖昧な喪失とトラウマからの回復。
家族とコミュニティのレジリエンスという。
ポーリンボスっていう。
何学者なんだろうな。
精神。
うん、精神。
ポリシュンソンじゃない?
ポリシュンソン。
トラウマとかストレスとかをどうやって和らげれるかってことの臨床研究みたいなこと。
社会学者。
家族社会学。
の研究者が書いた本ですね。
で、曖昧な喪失っていう概念について説明し、
その曖昧な喪失を経験した人がどういう風に回復できるのかっていう。
そういう本なんですけれども。
結構分厚い。
300円くらいでした。
高い。350ページくらいあるしっかりした本なんですけど。
そもそも曖昧な喪失っていうのが何かっていうのをちょっと軽く触れておくと、
2種類あって、
行方不明みたいな、
生死がわからない、目の前に体がない状態。
大切な人の行方がわからなくなっていて、
物理的な体の行方がわからないっていう曖昧な喪失。
いるかもしれないし、いないかもしれない。
それが確定してないっていう状態。
シュレディンガー状態。
シュレディンガー状態っていうのが一つの曖昧な喪失。
もう一つが認知症とかアルコール中毒みたいに、
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目の前にその人はいるんだけど、私の知っているその人はいないっていう。
その人も認識できてるからわからない。
そう、わからないっていう。だからいるけどそれもいない。
だからその存在と不在が曖昧になってしまってる。
曖昧な喪失ゆえに、まだ亡くなってないとか、
まだその人かもしれないという希望を持ち続けることもできるし、
一方で状態が確定しないからずっと不安定な状態になるという、
そういう喪失。
テロがあったりとか震災があったりとかすると、
そういう曖昧な喪失状態になる人っていうのが増える。
残された家族側の状態だし、
あと日本だと認知症の、
自分の例えばうちの祖母とかも認知症ですけど、
とかもその人自体を目の前にいるのに、
なんか知っている状態と違っているのがあったりとか、
っていう喪失の話ですと。
で、どうしようかな。
先に引こうかな。
ちょっと見ましょうかね。
はい。
私は意図的に不在と存在という対立する考えを持つようにしています。
それはほとんどの人間関係は実際にその両方だと学んだからです。
喪失の中にもより曖昧なものとそうでないものがありますが、
それでもやはり完全な集結はないのです。
というところなんですけど、
この本ずっといつか引きたいと思ってて、
大きなきっかけがあったので今日持ってきたんですけど、
先々週、10月の27日に、
私の母方の祖母が亡くなったんですね。
だから完全な喪失を経験した。
目の前でというか、
おつやとお葬式と、
おかんに花を入れるという。
それが骨になって出てくるという。
結構、わーみたいな。
目の前にあった体が骨になって帰ってくる。
お骨拾いという、
お骨をお箸で拾うんだけど、
その焼き場がそういう特徴なのかわからないんだけど、
拾うときにすごい説明されるの。
ここは喉ごとっけですとか、
ここが耳の穴でとか、
急にさっきまで祖母だったものが、
人体模型とか、
パーツになってくっていう。
そういう確定した喪失の辛さみたいなのを、
その時に感じて。
でも一方で、
父方の祖母は存命で、認知症なんだよね。
でもその認知症も患って長いから、
06:01
結構その認知症状態の祖母が、
自分にとって当たり前の祖母にもなりつつあるっていう状態にあって。
この本自体は、
もうちょっとその後者の認知症とか、
いるけどいないみたいな状態にフォーカスした本なんだけど、
なんでいなくなると辛いのかみたいなのが、
すごい気になったんだよね。
この前亡くなった母方の祖母も、
別に東京都内ではあったけど、
そんなに頻繁に会うわけじゃない。
体調悪くしたりとかもしていたから、
1年に1回会えばいい方ぐらい。
かなり疎遠気味ではあった。
けど、いないっていう事実が確定すると、
はちゃめちゃ辛い。
でも、亡くなる間際に、
意識はある。
ギリギリ意識はあるけど、
すごく辛そうにしている。
もうすぐ寿命が来るっていう感じの祖母を見ているのも結構辛い。
でも、一応脈拍は打っている。
ピッピーっていうのは見えているみたいな。
なんで自分にとって重要な存在がいなくなることも辛いし、
変わってしまうとか、
いないってことが確定しないのも辛いんだろうな、
みたいなのを思っていて。
この本では結構学術的にそれがずっと書かれているけど、
みんなはどういう風にその人なのか、
物なのか、場所なのか、
不在と向き合ってきた経験があるのかなとか、
なんか最近何か、
広い意味でなくしたこととかあるのかな、
ちょっと話せたらよいかなと思って持ってきました。
死からあえて外れると、
たださっきもちょっと話したけど、
やっぱり自分は結構時間の流れみたいなものを失ってしまった、
あるいは離れてしまったってことをすごく感じていて、
具体的に言えば、
10代が終わった時は10代終わったなって全く思わなかったんだけど、
20代が終わるタイミングで、
10代も終わったし20代も終わったなっていう、
両方の過去の時の流れと、
そこにもう自分は関与できないのだっていう、
すごく当たり前なんだけど厳しい事実みたいなのを感じています。
関与できないっていうのは確かにそうだよね。
もちろんね、過去に身づけを与えて、
ある出来事に対してこういうことがあったっていうのを解釈することで、
自分が変え替えていくことができると思うんだけど、
問い選ばなかったことは選ばなかったことだって、
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当然なんだけどやっと恐れながらも実感できたっていう感じは、
失ってしまったんだなっていうのをすごく感じています。
20代から30代は結構その喪失を実感して、
10代から20代はなんでだったんだろうね。
それは結構自分でも分からないんだけど、
もちろん模範回答的に言えば学生っていう立場が連続していたから、
みたいなことなのかもしれないんだけど、
でもやっぱりその時はまだ変えられるものの方が大きいように感じていたんじゃないかな、
20代の序盤って。
でももう20代終わると、
もしかしたら上の世代とか他の人から見たら全然まだ変えられるっていうかもしれないけど、
結構もう変えられないものって多いなみたいな。
例えばもう当然だけど自分が26の時に結婚して3歳の子供がいる状態に絶対になれないし、
違う仕事をいきなり始めるのも選択肢としてはできるけど実際はできないよねみたいなことってあるし、
結構そういうことをより強く実感している。
それは後悔というよりも単純に無くなってしまったなっていう喪失感があるっていう感じですね。
関与できないっていうのは、それは多分真だと思うんだよ。
履別とかその資格になっていると思ってて。
その俺の部分は、いろんな喪失を経験してさ、みんなそう思うんだけど、生きてたら。
大事にしてたものを無くしてしまうとかもあるし、
あと俺は大学の時にすごい好きだったパートナーと当時好きだった人がいて、
めちゃくちゃ好きだったんだけど別れちゃった時にすごい落ち込んだし、
喪失って何だろうみたいなのをめっちゃ考えてた。
あと去年、おじいちゃんが、ずっと一緒に住んでたおじいちゃんが亡くなって、
毎回思っているのは、喪失がつらいのは、
物相手でも自分と物でもいいし、自分と大切な他者、自分と大切な家族でもいいんだけど、
自分と他の間に、自分の物でも他の物でもある記憶とか、
手触りとか、一緒に触れ合うことの対応みたいなこと。
自分の物でもあるし相手の物でもある。
でも時に自分の物でもなくて、相手の物でもない感覚がある。
あるいは相手の方が強いものもあるんだけど、
その中で共有している、どっちもベンズでいう重なっている部分みたいなものが、
お互い存在しないと存在できない。
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お互いがそこにいないと存在できない、共有している領域みたいなのがあって、
それは心の中にも多分あるし、体を触れ合った時にもあると思うし、
記憶の中にもあるんだけど、
それが他者相手がいなくなることによって、
二度と更新できなくなるこの辛さ。確認もできない。
それがあるということもなくなるし、
それがあったと確認、あの時こんなことしたねみたいなことも言えない。
それがリニューアルされることもない。
新たな思い出を刻むこともできないという、
もう変えられないものになってしまうという、
関与できないというのはそういうのがあるんだと思ってて、
その辛さが一番辛いなって、一番来るなとは思ってて、
おじいちゃんとの記憶を、
あの時こんなことやったよねみたいな、一人でしか言えない。
家族とか他の家族とは言えるけど、
おじいちゃんに確かめられないとか、
こんなことあったよねっていう確認だけじゃなくて、
いるということで思い出せたのに、
もう写真の中に家にしかいないみたいな。
確かにそれはあるね。
まだおじいちゃんのベッドも、絵描いてた机もあるんだけど、
そこには見出せるけど、本人との間では見出せない記憶みたいなのが、
めっちゃあるなと思って。
その更新不可能性みたいなところに喪失の核があるんじゃないかなってずっと思ってて。
共同作業してた。
共同作業してた共通領域みたいな。
これがもう更新できなくなってしまう。
だから曖昧な喪失でもそうだし、
本当にいなくなってしまう。
明確にいなくなってしまう喪失でも同じだよなと。
あとなんか、
桃山翔司さんっていうポッドキャスト大好きなんだけど、
そこで人が変わったようになってしまうパートナーがいるみたいな話があって、
急にめちゃくちゃ信じられないぐらい急変しちゃうパターンがたまに話してあるじゃん。
多分何かあったんだけどそれもわからないみたいな。
それもまた更新できなくなるわけじゃん。
あの時何でこんなこと言ったのかなとか。
本当はどうだったのか確認できないみたいな辛さって。
やっぱり人はもう立ち止まってしまうというか。
逆に言うと、
喪失が悲しい相手と悲しくないと言ったら語弊があるけど、
そこまで今回のそぼほどは傷つかない場合も過去、
お葬式に参列していてあって、
そこの差分も何なのかなと思ってたんだよね。
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母方の祖父ももっと先に亡くなっていて、
そのお葬式も参列してたんだけど、
その時も辛かったけど今回ほどは来なかったなと思って。
でも両方とも会う頻度としてはそんなに変わらないから、
何でなんだろうなと思ってたんだけど、
確かに一つは祖母がまだいたから、
祖父が亡くなった時は。
だから祖父との思い出を祖母と共有できたっていうのがあったけど、
二人がいなくなったことで、
完全にそのパスが途絶えたっていうのは確かに一つあるかもね。
僕も祖母を亡くしたのが2、3年前で、
比較的最近なんだけど、
そこまであんまり、
その近親者の死を経験する機会が小学校2年生くらいから全然なくて、
久々だったんだけど、
もちろん葬室感あったんだけど、
とはいえまだずっと祖父母の声を思い出せるなとか、
それこそ祖母が絵描いてたりとかしたんだけど、
その絵を見れば思い出せるなみたいなのがあって、
結構その葬室って事実というよりは自分の中に残る、
割と解釈というか観念的なものだなってその時は理解をして、
割と結構希望があるとは思ったんだよね正直。
そこは何なんだろうな。
結構渡る君の言ってることはめちゃめちゃ理解できる一方で、
自分はそこの確認みたいなことを自己完結ができるなみたいな。
ほとんど。
もっとピュアに、
もう次声を聞けるのは僕が天国行った時だけかみたいな方が悲しい。
もしかしたらそれは同じことなのかもしれない。
そうね。
不意になる。
いまだにでもね、
おじいちゃんが亡くなってもうすぐ2年くらいになっちゃうんだけど、
いまだに信じられなくて、
自家帰って家があってお墓作ってないから、
いろんな事情でね。
親が、親の出身がちょっと離れてた。
今横浜の実家なんだけど、横浜に墓作るのも何かなみたいな。
一旦保留になってるんだけど。
家がまだあるしお子妻もあるんだけど、
あれーみたいな。どこいるんだろうみたいな気持ちに今でも。
あんまりまだ腑に落ちてないみたいな。
亡くなったというか。
腑に落ち準備はあるかもしれないね。
腑に落ちると変じゃん。
どうしようもないことだし。
死が馴染んでいく家庭みたいなのもある気がしたし、
生きてる時からちょっと体調が悪いとかっていうのはあったかも。
心のどっかで準備をしていた部分みたいな。
でもさ、うちのじいちゃんも嫁1年って言われててさ、
18:00
みんな覚悟してたってさ。
ちょうど1年だったんだけど。
私、亡くなる1ヶ月半くらい前に急激に体調悪かったりしてたから、
あ、もう亡くなるんだろうなって思ったんだけど。
これちゃんと全部読んでないんだけど、
失われた時を求めてるのさ、プルーストの。
大学のすごい好きな授業で陰陽師先生がしてくれた時があって、
主人公が、俺ちゃんと読んでないから陰陽の陰陽なんだけど、
主人公の男が祖母が亡くなった後は全く泣けなかった。
しばらく1年か2年が経った時に、家で靴を履いてた時に急に涙が溢れたみたいな表現があって。
それはなぜかというと、靴を子供の頃自分で結べなくて、
なんとか結ぼうとした時におばあちゃんが後ろから抱きかかえるように靴を結んでくれてた記憶が急に降りてきたみたいな。
それで突然悲しくなった、そういう質感を得たみたいな。
モノプロセスみたいな、ロランバルトとか書いてるけど、
必ずこういうプロセスを辿って死を理解できるみたいなのなくてさ、
なんとか折り合いをつけていったり、あるいは折り合いをつけられなく、向き合わなくなったとしても、
急に何かのきっかけが呼び水になって、強い喪失体験になるみたいな。
説明のつかない順序とプロセスとタイミングとみたいなのがきっとあって、
簡単には説明つかないというか、ケースバイケースなんだろうし、
説明つかないけど、思い出し続けることはしたいみたいなことがある。
たしまさんこの2週間、2週間って短い時間の中だけど変わった?
そうだなー。
でも、なんか、私顔がめちゃめちゃ亡くなったおばあちゃんに激になる。
本当に、向かい合っている写真が、何かのときに撮られたら向かい合っている写真が本当に鏡みたいな。
そのおでこから鼻のシルエットが全く一緒で、
こうやってやって分割のやつでこうやってやったら同じ人が。
本当にそのくらい似てて、
で、鏡見るたびにおばあちゃんの鼻みたいな気持ちにはなる。
21:00
もともと生まれたときからめっちゃ似てるって言われてて、
おばあちゃんの子っていうくらい激になると思って。
で、なんか自分はそんな自覚もなかったけど、
でもなんか亡くなって、
写真とか見返すようになって、確かに笑えるくらい似てて。
だからなんかその自分の顔のイメージ系が変わるっていうのはなんか一個経験している。
亡くなったからこそより強くなる。
うん、なんかここに残ってる。
継承したものが。
っていう感じはあるね。
なんか携えて一緒に生きていくみたいなのはさ、やっぱなんか、
なんていうのかな、なんかそういう人間の不思議な解釈って結構あるじゃん。
俺が生まれたとき、前もポッドキャストの話だけど、
うちのおじいちゃんが俺を抱いたときに生まれたときに、
あ、私とツムジが一緒だって言ったの。
っていうの。本当かどうかわかんないけど。
だからそういうのとかさ、自分の頭を触るときに思い出すしさ、
おじいちゃんこれが一緒だって、本当なんだけど。
とかさ、
なんか、
例えば高校生のときに同級生の子が何秒で泣きなっちゃって急に。
その子が一緒に、今俺が卒業した大学に一緒に受験しようって約束したりとか、
その子がジャーナリストになりたい、取材して、
そういうのをメディアで発信したいみたいに言ってて、
何気なくその彼が生きたかもしれないものを少しずつ一緒に世界に行ってみたいなことを言ってたり。
知らず知らずのうちに受け取ってるみたいな感じ。
受け取って一緒に生きてるみたいな感じをしたりとか、
勝手な解釈なんだけど、
そういうのっていいなと思う。尊いなと思うんだよね。
それを顔にさ、おばあちゃんがいると思うことで。
そう思い出した。
ありがとう。
この話を誰かにしたいなって思った。話せてよかったです。
あと骨に分けられるみたいなパーツがちょっと思い出したのが、
俺もすごい淡白に説明してくるな、この人みたいな。
すごいよね、あれ。
ちょっとムカついたんだけど、なんなら。
情報だもんね、あれは。
情報を提示してくるのがすごい嫌だなと思ったんだけど。
でも分かる。死が分かる。死んだということがそこですごい分かったと思った。
確定するよね。
分かるっていう言葉の語源って分けるってことじゃん。
ふわけだよね。
これではないこれです。
青じゃないものがリンゴ。
それと青リンゴもあるから。
何か、例えば黒じゃないものが分かってるから黒が分かったりとかさ。
男性ってカテゴリーがあった中で、ここを隔てる何かが把握できることが分かる。
24:05
つまり、わたるくんはわたるくんであり、スカダはスカダであること。
何かいろんなものを分けてさ、分けていくから分かる。
差を差別化していくみたいなプロセス。
最近それもなんか、いろんな哲学界隈でちょっと疑われてる部分もあるらしいんだけど。
分けられることですごい分かってしまうみたいな。
すごい分別されることによって、
違う何かそれまでと思ってたものとは別のものに理解してしまうみたいな。
そういう作用ってすごいあるなって。
その骨を愛したときに思い出したことで。
確かに物体に変わったっていう感じがすっごいあった。
確かにおじいちゃんが亡くなったときに、
おじいちゃんの遺体が結構3日くらいかな、おじいちゃん家にあって。
おばあちゃんがつい最近亡くなったときにその前通るときめっちゃ泣いてて。
でもこれが燃やさなくたっていいのにねってずっと言ってた。
燃やして骨にする必要ないじゃない、このままいてくれればいいのにみたいな。
いたらいたでちょっとって思ったけど、でも確かになみたいな。
でもさっきので言うと、その姿がそのままあることで分けられなくなっちゃう。
だから分かれられなくなっちゃうっていうのはあるのかもって思って。
特に私何の信仰もないけど、お葬式でずっと何を言っているのか聞き取れないお経が1時間くらい流れている中で、
これは本当に儀式なんだなみたいな。分けるための。
ていうのはすごい思ったからね。
今日私が持ってきたのは曖昧な喪失とトラウマからの回復より、
私は意図的に不在と存在という対立する考えを持つようにしています。
それはほとんどの人間関係は実際にその両方だと学んだからです。
喪失の中にもより曖昧なものとそうでないものがありますが、それでもやはり完全な集結はないのです。
でした。ありがとうございました。
個人が今どういう状況にあるかって載ってるといいですね。
27:00
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