いわゆるこういうバーチャルな話に出てましたけど、その途中で当然コロナがあって一気にDXみたいな話ありましたけど、新聞連載自体はコロナの前ぐらいかな。
そうですね、コロナの前からですよね。
ですよね、僕去年3月に寛美香さんに会わせていただいたとき、まだ連載中で。
そうですね、コロナの前からで、回答途中にコロナになったんです。
執筆中にコロナが起きて何か直接作品に関係あるかっていうと、意外とそうでもないとおっしゃってたように、僕が見た記事だったんですけど、やっぱりそれは平野さんそういう感じじゃないですか。
そういう意味では先ほどの話ですけど、どちらかというと先にちょっと予見しているようなところもあるから、あんまり実際現実がどうこうとか影響を受けたとか。
その現実が起こることであっという間に古びてしまうっていうのはね、やっぱり作家の世界観はちょっとやっぱり貧しいんだと思いますね。
だから特にある程度未来を予見しながら、僕なんか小説書いてますから、それがどれぐらいで僕の書いてる世界に近くなってくるのかっていうのはね、
ドーンとか10年ぐらい経って、あそこに書いてあることがよくわかるようになったとか、2008年、9年くらいですから、今読むとよくわかるとか、顔印象の話とかでよく言われますけど、
当時はやっぱちょっとね、なんかピンとこない人も結構多かったんですよね。
まあそういう意味で言うと社会の変化のテンポもどんどん早くなってるんで、今回は20年後ぐらいの質問で書きましたけど、
まあ書いてる途中で、本当に書く前はメタバーサーはそんなに言ってなかったんですよね、一般の人たちは。
そうですよね。
だからまあ書きながら結構コロナの影響もあって、その世界観の近くなってきたとは思いますけど、
読者がより理解しやすくなったかなと思いましたけど、連載中に書いてる内容自体がそんなに変わるってわけではなかったですね。
今、主人公というか設定の話も伺いましたが、作家のことだと思うんですけど、やっぱり何かその作品作る時に、まずどこから手をつけますか?
まあね、よく作家というふうに、まあいろんなタイプがあると思いますけど、なんかハッと閃いたとかね、
いうイメージを持つ人もいるかもしれないですけど、僕はね、話の思いつき自体はもう日常的にあるんですよね。
こんなのは面白いんじゃないかなとか、なんか面白いんじゃないかなっていうのは。
だけどね、まあそれをいきなり飛びつくわけじゃなくて、しばらく頭の中で転がしてると、可能性のあるものはだんだんね、
このテーマであの話も書けるなとか、雪だるま式に膨らんでいくんですよね、最初の着想が。
で、ダメなアイディアはね、やっぱ転がしてる間にだんだん摩耗してって消えてなくなっていくっていう、やっぱダメだなって感じがしてくるんですよね。
だから頭の中で一つの主題が膨らんで、物語ぐらいの規模までになったときに、これで書けるかもしれないなっていうふうに予感し始めて、
僕の場合は一番重要なのは、やっぱりクライマックスの場面を想像するってことなんですよね。
それがこう、いろいろこう、おじゃおじゃ説明抜きにその世界観っていうのを凝縮して、
象徴しているような場面っていうのがクライマックスとしてイメージできれば、これ書けるなって思うんですよね。
あとはそこに向かって書いていけばいいんで。
その段階になって、まあその思い描いたイメージっていうのが、
例えばマーチネの場合だったら、コンサート会場で舞台に立っている人と客席にいる女性がいて、
2人の間だけで何かこう通じ合ってる気持ちがあるんだけど、他のお客さんは知らないっていう場面をクライマックスの場面として思い浮かんだんですよね。
そうすると、じゃあどうしてこの2人はそういうふうなシチュエーションでここにいるのかっていうのが、
さかのぼっていくと物当たり全体がこう見えてくるっていうような発想に近いんですよね。
だからまあ今回は、最後に自宅でバーチャルな滝を見ながら、母親のことを回想して、
その母親に触れたら、バーチャルな存在なはずなのにこう触れることができたっていう場面が、
まあその最初に思い描いたクライマックスの場面なんですよね。
あとはまあ主人公どうするかとかっていうのは、結構脳内オーディションみたいなのがあって、
まあ何歳ぐらいにしたらいいかとか、どういう性格がいいかとかっていうのを、
一人一人どういう主人公であればこの物語を演じ切れるかみたいなところは結構考えますよね。
なんか今マチレの終わりの例を出していただきましたけど、
そうするといわゆるヒラノさんが作品で見えたクライマックスのイメージが、
そのまま本当に最後のクライマックスの文章というかなるかっていうのは、
まあそれは変わる可能性があるってことですね。
いやまあでもクライマックスはもうほとんどそのままですね。
そこを目指して描いていくっていうか、本当のことで言うとそこだけ描ければいいんですよね。
ただその場面だけ描いても何の話かわからないからということで、
そこの場面に至るまでに何があったのかっていうのが僕の物語の描き方で、
それは必ずしもラストではなくて、クライマックスまで行った後、
ちょっと余裕を残して終わるのか、もう一展開あるのかというのは、
そこまで行ってからちょっと考えればいいので、
終わり方っていうのはちょっと微妙に描きながら考えていってるところもありますけどね。
よかったですね。ヒラノさんの説明のおかげで、僕クライマックスとラストをちょっと今混ざってたので、
ヒラノさんが本心でおっしゃってたクライマックスはじゃあそこだったんですね。
それとラストっていうのはまた厳密と違う。
ラストはちょっと違いますね。もうちょっと余裕持たせてとか、
もっともっと面白くするとかね、いろいろあると思いますけど。
僕今回もですし、前回のマチネの終わりの時もそうでしょ。他の作品も読ませていただいて、
やっぱり今のクライマックスっていう意味でもそうですし、ずっとラストなんかも読んでると、
やっぱりとにかくビジュアルが湧くんですよね。小説ってもちろんある意味、
逆に視覚がないのでそういうものかもしれないですけど、今回改めて日食を読ませていただいて、
その周りのインタビューも結構前にもいろいろ見たんですけど、文芸春秋の中でその受賞インタビューを
拝見した時に、ちょっとマニアックですみません、あれなんですけど、日食はまずデッサンを描きましたっておっしゃってたんですよ。
で、やっぱりね、平野さんっていうと絵が好き、こないだの三転万一館のルーブル美術館の歩き方のウェブマン。
何かを着想する時って、ちょっと逆説的ですけど、平野さんって文字じゃなくて、やっぱりまずビジュアルなのかなって思ったんですけど。
ビジュアルっていうか、やっぱりその一つの世界ですよね。だからそれはもう五感全部が感じとくような。
だから、やっぱりね、描写っていうのは五感が効果的にその場にいるように活性化されるとリアリティを感じるんですよね。
だから、例えばですけど、結界とかで子供がスイミングスクールに通ってる場面とかに描いたんですけど、
スイミングスクールの場面をやっぱりビジュアル専攻で描くとね、あんまり伝わってこないんですよね。
だけど、独特の塩素の匂いとか、外界、外に比べてムッとちょっと気温が高くなってるとか、温度高く設定してある質度の高いムッとする感じとか、
コーチの声がすごく反響してるとか、そういう五感の情報をうまく入れていくと、やっぱり読者は臨場感を感じるんですよね。
だから、そこが抜けてるとね、プールの場面とか描いてもなんかプールっぽくないんですよね。
だから、もちろん人間はやっぱり視覚変調の動物なんで基本的には見えてる光景ですけど、
それより自分の身体を通じてその場所にいるっていうようなことをリアルに自分が感じ取るっていうのが描写の上では重要かなと思います。
今の話がかかってると平野さんが普段感じられてることをこの本心の中で宇宙の発生から何億年も体感するみたいな、
なんかそういう意味では平野さんが普段のある意味なんとなく感じてるのを追体験したような感じしますね。
そうですね、あれはなんか小説内小説じゃないですけど、フィクションの中のフィクションっていうか、
まあああいう体験がバーチャル空間では今でももうすでにちょっと似たようなサービスありますけど、
あとはね技術的な意味で言うとね、ちょっと話はそれますけど、小説の中のね、
その非日常の世界をどういうふうにこう自由にイマジネーションを膨らましていくかっていう時に、
かなりちょっと小説が枯渇してきてたところがあったと思うんですよね。
現実っていうのがあって、神話っていうものを導入するっていうのはね、マジックリアリズムとか流行りましたし、
もっとその前は外国っていうのはね、情報があんまりなかったからある意味好き勝手書いていいようなところもあったんで、
カフカナーアメリカとか、まあそういうふうに、あるいはオリエンタリズムって批判されるような書き方のものもありますけど、
あとそれから夢とかですね。
まあ外国に関してはもうネットを通じて情報があふれ返ってるんで、すごく現実になっちゃってあんまり好き勝手なことも書けなくなったし、
夢もね、夢はみんな夢だからいいと思って好き勝手書いてますけど、結構メカニズムがわかってきたんで、
ほんと言うとこんな夢見るはずないっていう夢いっぱいあるんですよね、小説の中とか。
まああと神話っていうのもね、わりとところずっとそれみんな取り組んでやったけど、
ある程度やり尽くしたところもあってっていう中で、
バーチャル空間っていうのはやっぱり小説の場面展開の中で、
全くこうずっと現実の描写が続いていって慣れてきたなっていう時に、
一瞬のうちに場面を転換させるすごく新しい要素になってくると思いますよね、小説の中では。
だから小説的な意味でもバーチャル空間の導入っていうのは結構今後活発になっていくんじゃないかなって気はしてるんです。
今回その日食も改めて読ませていただいて、もちろんある男もね、もう一回読ませていただいた。
これは20番目おめでとうございますって話もありましたけど、
なんかある男を今逆に本心読んでから読み直すと、なんかちょっと勝手に連作のように感じてですね、
なんか今はもういない人の本心を巡る物語っていう意味では通ずるかなと思って、
で、なんかある男の文言で、これちょっとだけ抜粋させていただきますけど、
誰も他人の本当の過去などを知ることはできないはずだった。
自分の目の前にいない時、その人がどこで何をしているのかも。
いや、たとえ目の前にいたとしても本心などというものはわかると考える方が思い上がっているんだろうかみたいな。
本心読んだ後だったので、よりちょっと敏感になったかもしれないですけど、
ヒランさんの中では、まあ全く同じ型が書いてあるのでね、通じないってことはないと思うんですけど、どうなんでしょう?
そうですね、まあ特に第4期の仕事っていうのは一定の連続性があって書いてることでもあるし、
マチネの割にで、過去は変えられるってことをテーマにしましたけど、変わってしまうってこともあるっていうな。
ある男はそれを戸籍を変えるっていうようなことで、実際にやろうとした男の話ですし、
今回の小説ではバーチャルの存在っていうのは過去からしか学習できないけど、今度はそこに拘束されてしまうっていう。
まあその過去は変わるって話と、ある意味対になってるようなところもあって、
一つの小説を書くとやっぱりこの次それをもうちょっとこういう形で発展させたいとかっていうのはあるので、
大体僕の話はこういろいろなテーマが、一本の線じゃないですけど複数の線で連続しているっていうところはあると思うんですよね。
今回はやっぱりね、咲夜、三好、母、伊妃、藤原、ティリー、岸谷、他にもいたと思うんですけど、
僕の中ではこの辺りの人がすごくやっぱりイメージあったんですけど、
ひなのさんの文人って全てがその人にあるもんですけど、やっぱりひなのさんの文人もこの中にいるんでしょうか?
そしてメインの文人って言い方が正しいのわかんないんですけど、なんかそれは特にやっぱり咲夜なのかとか、どんな感じなんでしょう?
あんまり自己投影しないようにはしてますね。
おっしゃってましたよね。
まあ咲夜なんて僕よりももっと、僕ってよりも今の若い人っていうかその20年後の若者っていうのはかなりやっぱりイメージしましたよね。
で、ちょっとやっぱりお母さん死んであんなにこう嘆いてるっていうのはね、
30になろうっていう青年としてどうなのかとか、女の子と同棲しててこう本当にこう指一本振れないっていうのはあり得るのかな?
確かに。
そういうことをやっぱり今のおじさんの感覚だと考えてしまいますけど、
例えばこう性っていうものの対する捉え方っていうのがすごく変わってきていて、
確かに。
そういう経験したことないっていう人がものすごく、ものすごい数になってますし、20代とかでも。
やっぱりそのプロセスも性的暴力とかの問題があるから、
同意をきちんと得てからじゃないとそういう関係になるべきじゃないっていう風になってきてて、
それはそれでまあ理由のあるもんだと思いますけど、
結構やっぱそれをうまくできる人、みんながうまくできることではない気もするんですよね。
だからだったらこうやっぱりリアルなそういう関係っていうのは難しいっていう風になっちゃう人もいると思いますし、
あと寿命が伸びてってやっぱり精神年齢がだんだんっていうんですか、
昔の人の方がやっぱり早熟だと思うんですよね。
人生50年とかいう時代の人の方が。
どんどんそうなってますよね。
そういう意味で言うと今の20歳前後ぐらいの人の感覚が、
20年後はその30前後ぐらいの若者たちがそういう感覚なんじゃないかっていう風なことをイメージしていて、
まあそういう意味ではあんまり、僕だったらやっぱり三好って人と同棲してたら、
もうちょっとやっぱり自分がこう彼女に関心を持ったら、
そうですね。
なんかアプローチがあるんじゃないかと思いますけど、
まああえてやっぱり僕だったらっていうのをちょっと抑制しながら書くべきだなと思って書いてましたね。
ただ小説はね、なんかそのやっぱり1年とか2年とかかけて書きますから、
自分が興味ない人間についてやっぱり書けないんですよね。
ある意味自分がこう映画監督とか舞台演出家みたいな存在として小説家っていうのをちょっとイメージするなら、
キャストとして舞台に上がる意味のある登場人物を集めて書くってことになりますし、
まあ音楽みたいに捉えるんだったら必然性のある楽器編成みたいなこととして登場人物たちを集めてくるんで、
自分そのものじゃないけどやっぱり強い興味を持てる人たちっていう感じですかね、登場人物が。
平野さんおっしゃってたように、やっぱり佐倉と三好が同棲して何もないというかね、
そういうのが僕なんかもやっぱりなかなか感覚がん?と思ったんですけど、
でも作品の中で読んでると、まあ確かに今もうすでにそういう人もちろんいるだろうしそうだし、