そして例えばこの登場人物みんなね、際立ったキャラが立った登場人物たくさん出てきてますけど、
これ自体が何かいろいろ想像したりしてね、一つ一つが平野さんの全部文人なんじゃないかとか、
例えば主人公の作家は平野さんの文人の中でも、これあんまりマニアックになるとみんなごちゃごちゃしちゃいますけど、
文人の中でも、多重人格というのはちょっと意味は違いますけど、文人の中でも一番メインで出てくる文人は何なのかとか、
そういうものとかを平野さんに聞いてみたいなとか、それが作家なのかなみたいなのとか、
やっぱり前回マチネの終わりの時も平野さんに話聞いてるんですけど、やっぱりどうしても主人公と作者って結構重ね合わせてしまうところがあって、
基本的にはね、当然皆さん違うっておっしゃいましたし違うんでしょうけど、
でも何らかの形で投影されていることはすごくあるという名前も平野さんもおっしゃってたので、
そういう意味でね、その辺の話と、今回文人の話どこまで実際伺ってるかわかりませんが、絡めて登場人物、文人、そして平野さんご自身の文人みたいな、
その辺は聞いてみたいなと思いつつ、今真田さん挙げてくれたように平野さんご自身がね、小説とは別にエッセイとか、そういうねノンフィクション的な文人主義についてのものとかも書かれているので、
今回のインタビュー実際聞いてみて、そういえば早川が言ってた文人って言ってたな、これってどういうことなんだろうって思うと結構ね、
読んでいくとその文人って考え方自体面白いですし、人生にも役立つと思うので、合わせて読んでいただけるといいのかなというふうには思います。
それでは早川さんと平野圭一郎さんの対談、第3回をお聞きください。
皆さんご自身が昨夜の立場だったら、お母さんのVF作ってますか?
うーん、僕はね、父親が早く亡くなってるんですよね、1歳の時に。
でね、やっぱり子供の時から、母親とか姉とかを通じて父がどういう人かっていう存在については情報があるんですけど、
実際僕は1歳まで生きてた、僕は1歳の時まで生きてたんで、コミュニケーションもしてるはずなんですけど、その記憶は全然ないんですよね。
喋ってみたかったっていう感じはずっと自分の中にあるんですよね。
まあその上で、自分でバーチャルフィギュアまで作るかっていうとね、そこまではしないかもしれないけど、ちょっとその願望自体はわかるんですよね。
見残したことがあるとかね、いうような時にはわからない発想でもないかなって気がしますけどね。
なんか今お父様の話出てきたんで、よりリアリティーありましたけど、そこをちょっと比較するのもあれかもしれないですけど、
作家の場合はお母さんとある程度というか、かなり記憶があるわけじゃないですか。
だからそこと今のひなのさんとのお父さんのって、ほとんど記憶はあんまないわけですよね。
そうですね、全然ないですね。
でもそれでもVF作るかっていうと、うんっていうのはあると思いますけど、逆に足られば完全に難しいですけど、
いわゆるお父様じゃなくて、こういう本当に作家みたいな感じで、お母さんがある程度ずっと過ごしてきた。
つまり過去の記憶もある中でのVFっていうのは、やっぱりうんなのか、むしろ作りたい作りたくない。
まあ30で母親亡くしたらちょっと作りたいって思う気持ちもあるかもしれないですね。
あとどれぐらいそれが社会的に一般化してるのか、この小説はちょっと逆説的なんですけど、
母親、生きてる人間だからこそお互いに本心が分かり合うみたいなね、世界観があるけど、
実際にはなかなか人の本心ってわからないでしょ。
だからバーチャルの存在の方がいろいろ学習すれば、人にも話さなかったこととかも全部学習しちゃってるから、
ポロッと本心しゃべるかもしれないっていうね。
のが一つの逆説なんだけど、本当にじゃあそういったことが本心なのかどうかっていうのは、
結局また分からないっていう一種の堂々巡りなんですよね。
僕はね、さっきある男を引用してくださいましたけど、
人間の心とか本心っていうのはね、やっぱり分かろうとしなきゃいけないと思うし、
他者を理解するってことはすごく大事ですけどね、
一方で、簡単にみんな分かるって思いすぎてると思うんですよ。
特にね、自分がよく知ってる人についてね、知ってると思ってる人について、
勝手にね、その人まだ生きてる間に勝手なこと言うと、
例えば、早川さんって女の人だよとかって僕はね、いろいろ言っててね、
全然それは自分と違ったら反論するじゃないですか。
そういうつもりじゃなかったんですよとかね。
だけどね、死者はね、もう死人に口なしで、みんな好き放題言うんですよね。
あの人今生きてたらこう言うと思うとか、
小説の中にも書きましたけど、極端なのはやっぱ先死者がどう思ってるかっていうのはね、
もうイデオロギーの中でみんながもういろんなことを死者に勝手に思いを堅くしてますけど、
僕はね、やっぱり自分の父が本当のところでどういうことを考えてたのかっていうのがね、
分からないっていう原体験があるんで、
他人の本心っていうのを語るってことに対してすごい抵抗があるんですよね。
特に死者について好き放題語るっていうのは。
あとね、本心っていうのはね、やっぱり単に個人間の問題じゃなくて、
社会システムが立脚してるポイントでもあるんですよね。
つまり契約とかある社会制度とかが一応受け入れられたり、みんなが納得して守るのは、
相手が本心からそれに同意してるんだったら、
成立する契約だとかね、悪くない仕組みだっていうふうに思うわけでしょ。
だけど、その本心自体がそういうふうになかなか分からないってことになるとね、
契約とか社会制度とかっていうのが足元から崩れてきちゃうことになるんでしょ。
例えば性的な同意にしたって、一応はいって同意したけど、
もう権力関係的に断れなかったから言って、本心で本当は嫌だったとかね、
そういうことってあるじゃないですか。
この小説ではそういう象徴的なものとして、自由主っていうのを本心から同意してるんであれば、
それは認めるっていうような社会になってるんだけど、
本心が分からないといったら、制度自体の足元がもうぐらついてしまうことになりますよね。
だから、人間の心とかっていうのをテーマにするんじゃなくて、本心っていうのをテーマにすることによって、
対人関係の中での心理的な問題を超えて、それが確定できないってことが、
社会的な問題に広がりを持ってるってことが重要だと思ったんですよね。
今、社会と人の心っていうところで、またこれちょっと逆説的かわかんないですけど、
思ったんですけど、今の本心の話聞いてると、ケースバイケースだと思うんですけど、
ひょっとしたらとにかく自分が本心だと思ってるものも、全然本心ですらなかったりとか危うかったり、
つまり社会のいろんなことでどうにでも変わることもいっぱいあるのかなって思うんですよね。
そうすると、そもそも本心っていうものなんてあるんだ。
文人の考え方で自分探しがある意味終わったようなところがあるんですけど、
本心探しっていうのもまたどうなんだろうみたいな。
やっぱりすごく揺らぐものですよね。時間の中でも。
昨日はそう思ったけど、よくよく考えたらやっぱり違うとか。
あの時はいいと思ったけど、もっと何年も経って振り返ったらあれはやっぱり騙されたとか。
だから本心ってやっぱりなかなか難しいことですよね。
で、ひとつ頼りにしてるのは、やっぱりフィジカルな、身体的な感覚だと思うんですよ。
なんとなく胸のあたりがモヤモヤ嫌な気持ちがしながら、
わかりましたっていうときはね、やっぱりそのモヤモヤした感じっていうのは、
やっぱり自分は本当は本心じゃないんじゃないかっていうふうに思うし、
すごく元気で前向きな気持ちになって、わかりましたって言ったときは、
自分でも本心だっていうふうに納得してるっていう。
だけどそういう意味で言うとね、やっぱりフィジカルな感覚っていうのは根本になってる以上、
バーチャルな存在の本心って言ったときにね、それがなかなかやっぱり、
AIはもう単にパターン通り喋ってるだけだから、そういう自覚もないし、
っていうようなところにもちょっとつながってる話だと思うんですよね。
でもよく言いますよね、それこそ日本人は知ってたんじゃないかじゃないですけど、
心のときにやっぱりね、腹が立つとか、腹で決めるとかね、
だからやっぱり心って実は心臓じゃなくて、いろんな説ありますけどね、
腹とか腸内環境ありますよね、今。
そういうのを重視する人はね、結構いますよね。ガッツですからね、英語で言うと。
そうなんですよね。なんか今の話し方ってすごく、それこそ負に落ちたんですけど文字通り。
さっきね、自然史のキーワードも出てきましたけど、
自然史は新聞連載時から自由史に変えてますけど、
それ以外にいわゆる新聞連載からこの本になるときに、
過筆修正した具体的な表現でもいいですし、
なんかもうちょっと大きなところで何か変えてることってあるんですか?
まあ多少ちょっとカットした場面とかいくつかありますけど、
まあその大きな場面じゃなくてちょっとしたところとか。
まあ全体的に、やっぱ新聞ってね、1000文字ずつぐらいなんですね、1回。
そうするとその中で、ちょっと改めて説明しとかないといけないこととか、いろいろあったりするんで、
単行本にしたときはやっぱりね、ちょっとこう、
紙の単行本で読むときのペースと、1日1000字ずつぐらい読むときのペースってのは違うんですよね。
だからそのテンポ感とかを整え直して、
若干ここ短くしてここボリューム出してみたいなことは調整しましたけど、
まあ一番大きなのがその今言われた自由史っていう言葉に置き換えたっていうことぐらいですかね。
先ほどね、本市のこの連載中とか執筆中に、
そのコロナが起きて、直接その作品に同行っていうのはあんまりないっておっしゃってたと思うんですけど、
いわゆる執筆の作業というか、ワーク自体にあえた影響って何かないのかなというのも、
それこそまた5年前の話で恐縮なんですけど、
やっぱり最もクリエイティブになれる空間どこですかって僕が伺ったときに、飛行機っておっしゃってたんですよ。
僕も同じだったんで、すごい話盛り上がらせていただいたんですけど、
当然この1,2年というか多分というかほぼ使えてなかったと思うんですけど、
さっきの運動とかも関係するかもしれないけど、
いわゆる身体制というかあんまりその辺使えない、
あと飛行機とか移動とやっぱりアイディアって結構関連すると思うんですけど、
その辺は大丈夫だったんでしょうか。
幸いコロナが始まる前に一通り取材とかを終えて連載が始まっていたので、
やっぱり結構小説書く前に取材する方なんですよね、いろんなところで。
そうですよね。
それが楽しみというのもあるんですけど、
だからね、北海道の小樽に行ったりとか、
それがちょっとコロナの時だとできなかったと思うんで、
それが済んでたっていうのは良かったですよね。
本当のこと言うとね、やっぱりコロナになってみんなこう収入の不安とかもね、
いろいろこう精神的な打撃の一つだったと思うんですけど、
僕は新聞連載ずっとやってたっていうのは、
日々やんなきゃいけないことがあって、定期的な収入がありましたから、
その点に関しては結構ちょっと良かったんですよね、精神的には。
ただ、やっぱり外に出かけられないし、
ジムとかも行けないし、
時は特にジムの恋室で映ったとかっていうのはよく言われてました。
この2年間本当に海外に一切行けなくなりましたから、
そのストレスっていうのは結構ありましたよね。
ただ、後は子供が休校になると、
家にずっといるんで、どこかじゃなくなっちゃうとか、
そういうのもありましたけど、
それでもどうかこうかやってたっていう感じですかね。
やっぱり小説家の方、一区にするのもあれですけど、石平さんなんかもそうですけど、
やっぱりご自宅で書いてたりとか、
どこでも書けると彼も言ってますけど、
基本ご自宅で書いてることが多くて、
ふらふら散歩行ったりとかされてたんですけど、
僕なんかも完全に取材は大好きで海外も行くんですけど、
それ以外とJガチャは結構、もともとステイホーマーなので、
ストレスほぼないなみたいに最初、
こうやってズームでもインタビューさせていただいてて、
思ってたんですけど、やっぱり半年くらいですかね、過ぎたあたりから、
こんなデブ症の僕でもやっぱりきつくなってきたんですけど、
リアルで人と会えないこととか、どっか移動できないこととか、
その辺は平野さんも完全に解消したってことはないでしょうけど、
なんかどう向き合われてたのかな、みたいな。
結構ね、作家とかの友人は日本人、外国人問わず、
もともとそんな外に出るほどもなかったから、
結構静かでいいって言ってる人たちも確かにいたんですよね。
で、普通に働いてる人たちも会食とかは一斉になくなったんで、
付き合わなくて良くなったっていうところでは結構良かったんだけど、
付き合いじゃなくて、やっぱり会いたい人と会えないっていうのは、
だんだんストレスになってきてましたし、
でもちょっとこの2年間もこの生活強いられて、
みんなも根本的な意識も変わってきて、
東京脱出していった人たちも、僕の前でも2桁以上いますし、
そんなですか。
で、会社終わった後、上司とかと飲みに行くとかいうのも、
ちょっと戻らないんじゃないかなって気もしますよね。
そうですよね。震災の時もじゃないですけど、
本来、必要ないって言うとちょっと言い過ぎですけど、
だから結構ありますよね。
このコロナが今ちょっと収束してて、この先分かんないですけど、
コロナがあれなんでちょっと飲み会みたいなのが言えないから、
次の理由どうしようかみたいな、みんな結構悩んでるみたいに聞きます。
震災で1回遅くまで飲まなくなって、
コロナでまた2段階のショックが来てますよね。
だから結構レストランとかでも、今ちょっと商工状態なんでコロナが。
高級なお店とかはね、割と予約取りに行くかったりとか、
たまに行くからちょっとおいしいもの食べようみたいな感じってあると思うんだけど、
日常的なその居酒屋チェーンとかそういうとこはなかなか人が戻らないみたいですね。
ありがとうございます。
ここですね、リスナーの方から質問が来ていてですね、
1つだけ取り上げさせてください。
ひなのけいじろうさんに質問です。
生涯で最も衝撃を受けた本、小説かノンフィクションかを問いません。
と言えば何でしょうか?
まあサラッとですけど結構大きな質問ですけど。
僕はいろんなところで言ってますけど、
最初に文学に興味を持ったのが三島愛嬌の金閣寺だったんで、
それはもう非常に大きな強い衝撃を受けましたね。
それを読まなければ作家になってなかったかもしれないっていうぐらい、
僕にとっては決定的な出会いでしたけど、
そうですね、やっぱりドストエフスキーとか読んだ時は、
やっぱり大きな衝撃でしたね。
罪と罰とか原物語とかっていうのは。
やっぱりね、銘場面を書くのは上手いんですよね。
歌舞伎のようにバチッと決まっている銘台詞と銘場面っていうのはね、
だからそれはちょっと圧倒されましたね。
ちょうどこの前、いらさんとのこの番組を大人の放課後ラジオで、
100分で名調だったじゃないですか、今、
ドストエフスキー、罪と罰を僕のリクエストでみんなで読んだ。
僕なんか全然やっぱり、その前にカラマー族の兄弟もいるんですけど、
やっぱりまあ難しいというか、でもとにかく読みにくいな、
俺が知性がないだけかな、いやどうなんだろうみたいな。
いらさんもやっぱり読みにくいとかはありましたけど、
平野さんは普通に読んだ時に評価する部分とかは別として、
やっぱり平野さんでも読みにくいみたいなのはあったんですか?
もうすらすら普通に入ってくるのか、これ単純な興味です。
まあ僕ドストエフスキー集中的に読んだのは、大学生ぐらいの頃ですから、
まあその頃は結構本好きでよく読んでたんで、
まあ割と読めましたけどね。
罪と罰、まあ翻訳にもよりますよね、誰の翻訳が違いますかっていうのは。
亀山さんの訳とはやっぱりすごく読みやすいですし、
そうですね、僕もそれで読み直した。
翻訳で読んだんで、一般的にはちょっと読みにくいとか言われたりもしますけど、
結構でもあの文体も癖になるっていうか、
やっぱりちょっとこうスリラーみたいなところもあるし、
登場人物のキャラクターがやっぱり立ってますからね。
スビドリガイドフとかってすごく考えてると思いますけどね、最後に至るまで。
あの自殺に至るまでのプロセスとかはもうちょっと目白押しだと思うんですけどね。
ひらのさんに言われるとそうですね、もう一回読みたくなってきました。
今三島の話出ましたけど、本当のリアルタイムで三島をそんなに知らないというか。
だって70年してますからね。
なんて言うんでしょう、ひらのさんの中で、
まあやっぱりそのデビューした時から三島の再来と言われたりとか、
ご自身も今おっしゃったように三島の作品の一番に挙げられたと思うんですけど、
今のひらのさんにとって三島はどういう存在なんでしょう。
またね、その関連する本も出されたりとかもあると思うんですけど。
まあ来年2022年に三島意見論っていう本を刊行しようと思って、
ずっと新庁で法者の未論っていうのを1年ぐらい連載していて、
それも含めて本にするんですけど、
とにかくやっぱり自分が文学に関心を持ったきっかけの作家だったんで、
三島とは何かっていうのを考えるのは、
自分がなぜ文学に興味を持ったのかっていうのを考えるところでもあるんですよね。
やっぱり一つは、戦争体験っていうのを
彼がどういう風に文学的に描こうとしていったかっていうことが一つの関心ですし、
それから、まあ社会からの疎外観みたいなものが、
キンカムシとか特に主題化されてますけど、
10代の時やっぱりそういうことにすごく共感したし、
それから三島は戦後社会をどうやって生きていくのかっていうときに、
非常に深刻なニヒリズムに陥ってるんですよね、一度。
僕はやっぱり一番三島に共感したのはそのニヒリズムですよね。
何のために生きてるのかと、この世の中に何の意味があるのかみたいな、
それはドセフスキーとかでも通じますけど、
そこから彼は美的なものとか、天皇政大とかいろいろ、
虚無の世界に価値を与えるものっていうのを見出そうとするし、
その究極がやっぱり彼の場合は言葉だったと思うんですよね。
言葉っていうのを通じて世界に価値を付与できるのか、
言葉があっても世界っていうのは虚無のままなのかっていうのを、
最後の法上の海でも存在論的にかなりギュウギュウ追求してますけどね、
その辺のところがやっぱり僕は面白いなと思うし、
あとやっぱり類稀な才能だと思いますから、
非常にきらびやかな文体、詩的な文体に魅了されましたし、
あとは小説家としてってよりも、彼は日記とかエッセイとかたくさん書いてますけど、
その中で語られてる文学論っていうのはね、やっぱりちょっとすごいと思うんですね。
なかなかあんなに文学のことよくわかってる人いないんじゃないかってぐらいよくわかっていて、
そこなんか今読んでも面白いですし、
その一方でやっぱり最後の行動みたいな方に急進化していったっていう、
思想的に急進化していったっていうのが、
僕の思想とはもう政治的には対極的ですけど、
ですよね、まさに聞きたかったです。
でもやっぱりなぜそうなのかっていうことはすごく興味がありますね。
その本はもう来年の予定ではいつですか?
夏ぐらいじゃないですかね、今ちょっとゲラを見直していってるんですけど。
楽しみですね。
ありがとうございました。
やっぱり平野さんというと先ほどおっしゃったように、
第1期、第2期、第3期、第4期。
この表現合ってるかと思うんですけど、
第1期はロマン主義、三部主義。
2期が短編小説や地域圏。
3期は前期、文人主義。
ご本人そうにおっしゃってるでしょうかね。
4期、後期、文人主義みたいなのありますけど、
これから5期に差し掛かるのかなと思いつつ、そもそもですけど、
木ってこれ、変な話、後付けなのかとか、
どう意図的に変えてんのか、変わっていくのか、
周りが言ってるだけなのか。
3期ぐらいまではちょっとデビューの頃からイメージはありましたね。
最初に、まあ森大愛がね、
初期三部作にロマンチック三部作とか呼んで、
後はハローが名付けて、そういう言われ方したりするんですよね。