「戦後81年 沖縄の女性史編纂に取り組んで」 第1回「集団自決」ということばをめぐって ゲスト:宮城晴美さん(沖縄女性史研究家)
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サマリー
このエピソードでは、沖縄の女性史研究家である宮城晴美さんをゲストに迎え、沖縄戦における「集団自決」という言葉を巡る歴史的背景と、女性たちの経験について深く掘り下げています。沖縄市民平和の日が制定された背景や、沖縄が地理的に東アジアの結節点に位置することなどが語られました。宮城さんは、自身の祖母の体験や、集団自決の犠牲者の多くが女性と子どもであったという事実に疑問を抱き、沖縄の女性史編纂に本格的に取り組むきっかけとなった経緯を語りました。特に、男性中心の従来の女性史では語られなかった、一般女性たちの歴史的・生活的な背景に光を当てようとする宮城さんの姿勢が示されました。また、集団自決の背景には、軍の機密作戦のための島全体の秘密基地化と、住民への徹底した情報統制、そして捕虜となった際の過酷な運命への恐怖があったことが明らかにされました。次回は、集団自決と「過負荷性」の関係、そして米軍兵士による性暴力の問題に焦点を当てる予定です。
沖縄の終戦と平和の日、宮城晴美さんとの出会い
FM八ヶ岳 Day in Life 暮らしの羅針盤の時間です。池田政子が担当する第90回です。このコーナーは、身近な暮らしの中にある男女共同参画やジェンダーの問題を取り上げてお話ししています。さて、リスナーの皆さんは、9月7日はどういう日かご存知でしょうか。
沖縄県で那覇市に次ぐ第二の都市である沖縄市では、この日を沖縄市民平和の日と条例で制定しています。なぜか。
1945年、81年前の9月7日に、現在の沖縄市で正式に終戦の調印、無条件降伏の文書に署名がされたからです。
日本政府による国としての連合国に対する降伏の調印は、9月2日でしたが、沖縄は米軍が単独で占領し、管轄権はアメリカにあることを示すため、生き残った日本軍師団長に降伏の署名をさせたと言われています。
それが日本から5日遅れの9月7日でした。沖縄の米軍による占領が本格的に始まった日でもあります。
今回と次回の2回は、沖縄の女性たちの歴史を研究していらっしゃる宮城春美さんをゲストにお迎えして、オンラインでお話を伺います。宮城さんどうぞよろしくお願いします。
宮城さんとは4ヶ月くらい前に、宮城さんが講師をされた沖縄における軍隊と整防力という講座に私が参加したときにご縁をいただきました。
本当に私がほとんど知らないことばかりで、しかも実証的なデータを根拠にしたお話で、ぜひ山梨の皆さんにもお伝えしたいと思いました。
この番組ではこれまで3回沖縄のことを取り上げていますが、そのシナリオをお送りしてゲストをお願いしましたら、OKというお返事をいただきました。
宮城さん番組の内容をどんなふうに受け止めてくださったんでしょうか。
正直申し上げまして、非常に驚きました。沖縄以外の県外でですね、沖縄のことをこの3回、しかもすごい丁寧にご紹介していただいたということが、私にとっては非常に驚きでした。
しかも内容的にですね、沖縄で常に毎年のように取り上げられるテーマというのが、歴史背景を交えて紹介されていることに驚いた次第です。
ありがとうございます。
特にどんなことについてそう感じられたんでしょうか。
沖縄で普通に語られていますけれども、学徒出陣した女性たちの、いわゆる学徒隊ですね。
彼女たちの証言というのがずっとありますけれども、それがとっても丁寧に話されていて、
逆に私としては、山梨の方で沖縄のことをこんなふうに丁寧に紹介されているのに、私はどの程度山梨のことを知っているんだろうかということも考えさせられたんですけれども、
先だって富士と沖縄を紹介していただいて、
それでこういうことが沖縄と同じようなことがあったんだということを改めてお知られましたけれども、本当に知らないことが多いというのが実感です。
この番組、山梨県以外でも聞いてくださっている方もいらっしゃるので、そう言っていただくと嬉しいです。
宮城晴美さんの生い立ちと大学進学の背景
まず宮城さんのご経歴を紹介したいんですけれども、もうそこでつまづいてしまいました。
1949年生まれ、沖縄県の座間村のご出身。
座る間味と書きますけれども、リスナーの皆さん、パッと沖縄県の地図が思い浮かびますでしょうか。
沖縄県というと、多くの人は沖縄本島を思い浮かべるかもしれませんけれども、
沖縄県は九州の南から台湾の近くまで、いろんな島々がこう描くように連なる海洋圏で、
東西約1000キロ、南北約400キロにわたって広がっています。
一番西の端の与那国島までは、那覇から約500キロあって、台湾の方がずっと近い島です。
そして日本地図で見れば、沖縄は南西の端ですけれども、東アジア全体の地図で見れば、
日本本土、中国、台湾、東南アジアを結ぶ、そういう位置にあるんですよね。
人が暮らしている島が約50あって、ザマミ村は沖縄本島の西、およそ3、40キロの海上にあります。
山梨県甲府市とザマミ村は直線距離で1500キロ離れているそうです。
ぜひ地図で確かめてみてください。
1949年生まれといえば、私もそうですけれども、いわゆる段階の世代ですよね。
宮城さんは4年生大学に進学していらっしゃいますけれども、同じ世代の女性の大学進学率は5、6%だったと思います。
どうして大学に進学したんでしょうか。
私の島は非常に貧しくて、高校でさえ半分しか行けなかったんですね。
そういう中で、私は大学にまで行くのは当然だと思っていました。
父親の影響が非常に大きいと思いますけれども、
父は日頃からですね、女性でも自立しないとダメだっていうことをずっと言ってまして、
ただ、この小さな島は中学までしかなくて、15歳になるとほとんどが島を出ていくんですね。
私も高校に出まして、寮生活なんですけれども、沖縄本島の一番南の都市である糸間市というのがありますけれども、
そこの糸間高校に入学しました。
ご存じの方もいらっしゃると思いますけど、糸間は激戦地だったんですけれども、
そこでですね、その沖縄戦の話を友人たちと話す中で、非常にショックを受けたことを覚えております。
そういったこともあってですね、結果的に大学で戦争を学ぶ機会を得たということになります。
沖縄国際大学で学ばれて、卒業後は雑誌記者、それからフリーライターなどをされた。
沖縄国際大学では何を勉強されたんでしょうか。
一応経済学を専攻したんですけれども、その経済学を専攻した理由が、マルクス経済学を勉強したかったんですね。
ちょうど沖縄の復帰を前にしたいろいろと、70年安保の問題とか、学園逃走とかですね、そういうのがありまして。
いわば流行りでした、マルクス経済学。
それで、少し沖縄の貧しさって何なのかを勉強したいと思って、マルクス経済学をやったんですけれども、
それがちょっと方向が変わることになったのは、たまたま大学の友人がですね、この琉球の歴史の授業を受けてまして、
それで彼女と約束してて、教室まで迎えに行ったときにまだ授業が終わってなくて、
そこで先生の話を廊下越しに聞いてたんですね。
そして非常に面白い話をしてまして、それが沖縄線の話だったんです。
そのことがありまして、先生に直に掛け合ってですね、登録はしてないけれども、受けさせてもらえませんかということで、受けさせてもらったんですね。
そこでテストもちゃんと受けましたし、レポートも出しなさいと言われて、レポートも書いたんです。
そのレポートを提出用に、私がテーマにしたのが集団自決でした。
石垣すすむ「芭蕉布」と祖母の体験
この集団自決っていうのが、実はずっと私らは気持ちの中でふさがっていまして、最初の頃は気にならなかったんですけれども。
自決っていうのは、自ら決めるっていうふうに書きますけど、自分で決めて死ぬっていう意味ですよね。
それが女性史への一歩ということになったわけなんですね。
そうなんです。
じゃあ、ちょっとここで宮城さんのリクエスト1曲目です。ご紹介くださいますか。
今日聴いていただくのは、石垣市沖縄の石垣すすすの夏香里美さんの芭蕉譜ですね。
芭蕉譜って言いますのは、沖縄ではですね、私は幼い頃にはほとんどの家で庭に植えられてたんですけれども、
芭蕉は実がなるのは普通のバナナですね。
芭蕉は食べられないんですけど、糸が取れるのが糸芭蕉と言いまして、この糸芭蕉から植物から繊維を取っていきまして、
この繊維でですね、布を折って、それでこの歌の中では、主要譜に常農品として収めるという歌詞になってますけれども、
この芭蕉譜っていうのは、一般の庶民の日常服ですね。
ずいぶん切られていたということを私は聞いています。
はい、ではどうぞお聞きください。
それで、集団自決についてはどんなレポートを書かれたんですか。
実は私の祖母の家族の話なんですけれども、
母の養母にあたります。
ですけど、私にとっても本当にずっと長い間、実の祖母と思ったくらいに非常に可愛がってもらったんですけれども、
物心ついた頃から祖母はですね、喉元に白いハンカチを巻いていて、
そのハンカチ、いつも呼吸するたびにパタパタするんですけれども、祖母は声が出なかったんです。
その声を出すときには、喉元をパタパタするハンカチで押さえて、
それで絞り出すように声を出しますけれども、そのときに喉元からかすかにですね、声が聞こえてきたんです。
口は動きますけれども、口からは音はないんですね。
それで非常に他の人とは違うということは、子供なりにいろいろ感じていまして、
ですから直接祖母には聞けないような、そういった気持ちというのが子供の頃からありました。
ですけれども、母からもですね、それとなく戦争のせいだという話は聞いていたんですけれども、
それをレポートを書こうと思って、
その祖母の娘ですけれども、私のおばにあたりますけれども、
彼女も喉に傷があったんですね。この家族みんな喉に傷があったんです。
ですけれども、祖母ほどはそんなに深くなかったのか、
ただこのおばも一旦死んだものとして放置されているのを米軍が救助したという話だったんですけれども、
そのおばから聞いた話なんですが、1945年の3月25日に米軍からすごい激しい艦砲射撃。
海からですね、軍艦から島をめがけて一晩中、艦砲射撃という爆弾が飛んでくるんですね。
そういう中で玉砕命令が下ったという命令が届いたんです。
大敷を集まれというふうに防空壕にその伝令がやってきまして、
それで一旦集まれと言われた場所に行きますけれども、誰もいないというので、
そこにいた日本兵から手榴弾をもらって自分の家で自分の防空壕で死になさいと言われて、
一旦防空壕に戻ってくるんですね。でも一晩中動いてますので疲れ果てて寝てるところが、
非常に周りが騒々しい。何事だと思って祖母が防空壕の外をちょっと覗いてみたら、
米軍がですね、大勢防空壕の壁を作るようにして銃剣を構えてですね、壁を塞げて立ってたそうです。
初めて見る人種ですね。白い人や黒い人。劣勢が高い。
そういう状況の中で祖母がパニックになって早く殺してくれというふうに自分の夫を急がしたわけです。
私の祖父をですね。そうしましたら持ってた道具で祖父は自分の妻の首を締めようとするんですけれども力が入らない。
これでも駄目だということで祖母がとにかく急げというので紙擦りを出して、
祖父はこの紙擦りでですね、私の祖母の首を何度も切ったわけです。
祖母はそれでもまだまだと言って何とか切りつけられる。
そして息子の当時11歳です。11歳の息子の首を切りつけて。
そしたら息子はお父さんと一言だけ言葉を残してそこで亡くなってしまったんですね。
その次に私が話を聞いた娘と、娘2人いましたけれども、2人の首を切ったというこういったお話をですね。
私は生き残った、おばで当たり前ですけれども、そのおばから聞いたという話。
その時にはおばあさまはもう亡くなられていたわけですか。
いえ、元気でした。元気ですけれども、一度だけですね、聞かせてほしいと。
その当時のこと。祖母に一度だけ聞いとくとがあります。
ずっと黙ってですね、首を横に振って、それで何にも言わなくなります。
それ以来私は直接聞くことをやめようと思って、それでおばから聞いたということになるんですね。
それをレポートにお書きになったわけですね。
集団自決への疑問と学友との衝撃
そうですそうです。それを提出しましたけれども、それを読んだ先生はちょっと驚きまして、
ただその先生も沖縄県の専門家ですので、集団事件そのものを知っていたんですね。
ですけれども具体的に、生き残りの人からこういった話が聞く機会というのはなかったと思います。
ですので私は具体的に話をしたんですけれども、
この集団事件について私自身が非常に、そんなに気にも止めなかったんですけれども、
先ほどすごいクラスメイトとの話の中で、ちょっとショックを受けたという話だと思いますけれども、
実は先ほど言いましたように、伊都満という地域は激戦地で、クラスメイトの誰もが家族の中に誰かが亡くなったという話が必ずあったんです。
私はクラスメイトと話をしながらですね、この一人が自分の兄は戦争で亡くなったんだよっていうふうな話をしたもんですから、
私はその戦争で亡くなることはすべて集団事件だったというふうに、高校1年まで思っていたんです。
それでその友人に、あなたのお兄さんはどんな集団事件の仕方をしたのって、
だから紙すりを使ったのとか、ロープを使ったのとかっていうふうな見合わせで聞いたら、何を言ってるのっていうふうにですね、
というふうに呆れられてしまったという感じでした。
その時に結局他の友人たちも、集団事件って何なのというふうに問いかけてきたもんですから、
私はこれについてすごいショックを受けたということなんですね。
集団事件っていうのは、私の島の独特の出来事だったのかっていうことを思い始めていたんです。
高校に入って初めてその集団事件っていうのが、ざまみだけのことだったのかっていうふうに思い始めたっていうことなんですね。
もちろん調整していく中で他の県内のいろんな場所であったって知ったんですけど、
その頃はもう私の島の独特の出来事だったんだっていうふうに思ってしまったんですね。
それがずっと引きかかってたものですから。
沖縄県史編纂と「集団自決」の項目
聞いてきた話をですね、先生、レポートとして提出したら、先生はこれはすごいことだっていうふうに。
それでその頃、いろいろ体験書を集めた沖縄県民の証言というちょっとした本だったんですけど、
それに載せてもらって初めて活字にしてもらったんですけども、
それの未収録されたことで、私はこの集団事件っていうのはすごいことなんだろうなというふうに、
ずっとこれを非常に心の中で止めることになったんですけども、
しかも私が書いてきたことが先生が驚いたという、
そのことにも私は驚きました。
それで先生は、沖縄県室という本を今作っているところで、その中に県民の体験を収録するので、
ざまみ草全体を担当してくれないかというふうに言われました。
それで私としては家庭教室その頃3件載ってたんですけれども、
バイト料が必要だなと思って、受験考慮を上げるからバイトでやってくれないかというふうに言われて、すぐ引き受けたんです。
そうなんですね。
それはきっかけで、ざまみ草の人たちの話を多く聞くことができた。
20歳くらいからそういう作業に関わり始めて、
でも集団事件という言葉はずっと宮城さんは知っていたわけですけど、
お母様やおば様自身も集団事件という言葉をお使いになったわけですか?
いえいえ、他の地元の人たちもすべて玉砕でした。
そうなんですね。
玉砕ということを使っていたんですけれども、
ただ沖縄県市に収録する項目として、集団事決という項目を作っていたんですね。
ですのでその玉砕を集団事決というふうな言葉に変えたんですけれども、
ただ中にはやはり玉砕命令が出たという、そういった表現というのは玉砕でした。
なぜ集団事決が起こったのかという、
集団自決の背景:軍の秘密作戦と住民への統制
今までもちろん言われているのは軍の命令で、
いざとなったら敵に捕まる前に死になさい、玉砕しろという、
そういった命令があったということですけれども、
ただこの島に都会隣りの都会敷村、座間見村の2つ、ケラマショ島と言いますけれども、
このケラマショ島に駐屯した日本軍と言いますのは、
実は海の特攻隊と言われている、非常に未成年で組織された軍隊だったんです。
その100人くらいの軍隊ですけれども、その特攻隊なものですから、
非常にこれは機密性の高い作戦だったんですね。
つまり日本軍は、敵は南の方から来て、
沖縄本島の那覇を中心に、南の伊都満から中部に上陸するだろうから、
その背後から海の特攻隊、それを一斉に体当たりさせるという、
そういった作戦を組んだ部隊だったんです。
これも非常に機密性が高くてですね。
その基地を作るために、約900人の軍隊も駐留したんですね。
ですから1000名くらいの軍隊が駐留しますけれども、
これが3つの島に300隻の特攻隊が配備されたんですね。
その300隻を一斉に、敵かに体当たりさせる。
しかも一人乗りのボートです。
一人乗りのボートの特攻艇といいますけれども、
それで爆雷を積んで、それを体当たりさせるという、
そういった軍隊だったものですから。
そういう作戦を組んだわけですよね。
そうです。それで島全体が秘密基地にされてしまいます。
ですので住民がですね、もし一歩でも外に出て、
外に出ようもんなら大変なことですので、
一切外に出すこともなかったんです。
それで秘密基地が高いものですから、
いざ敵に捕まると住民が内情を知ってますからね。
この日本軍の手伝いで、今度陣地を作るから集まれとか、
全部隊長命令、日本軍の命令として命令が来てるから、
藤井海は食糧増産に集まれとか、
それからどこそこのグループは陣地を作るから集まれとかですね、
毎日のようにこの命令が下されたんです。
ですのでどこが軍隊の本部であるとか、
どこに武器があるとか、住民は全部知ってますので、
それがもし敵に捕まると、みんなバレてしまいますね。
だから絶対に捕まっていけない。
そのことが捕まる前に自分で死になさいという意味ですね。
命令になっているわけです。
この命令というのは、敵が今ここに来たから、すぐ今ここで死ねではないんです。
日常的にそれがずっと言われてて、
親しくしてますもんね、日本軍と。
日常的に言われてて、軍の命令として組織で届けられるのは、
地元のリーダーです。
地元のリーダーがこの命令を、軍の命令をみんな持ってきたんですね。
ですので集団自決の玉砕命令も、
地元の人を通して命令がもたらされたということなんです。
この小さな島ですので、
それで包囲されてて、逃げ場がないですね。
しかも捕まったら、男は戦車に引き殺されるとか、
あるいは女は捕まると合間される。
それからいわゆる朝鮮Pと言われた日本軍慰安婦がいました。
彼女たちみたいに、朝鮮人の彼女たちみたいに、
あなた方も捕まったら合間されるか、彼女たちのようになるんだよという。
毎日のように脅し文句をずっと聞かされてきたんですね。
ですので特に沖縄の人っていうのは、
移民も盛んな県ですので、
ハワイ移民に行って帰ってきた人たちも結構いたんです。
ザバミソにもいたんです。
英語がわかりますね。
ですので、そのハワイ外の人たちが英語がわかるから、
もし米軍に捕まったら全部つながる、通じるよというようなことで、
とっても疑われていたということなんです。
こういった軍隊と住民の関係だったということですね。
いわゆる鬼畜米だから、敵に捕まったら合間されるっていうのは、
戦時中に女学生だった山梨の女性たちの聞き取りをしたときにもありました。
海瀬戸豊「月桃」と平和への願い
敗戦の玉音放送を校庭で聞いたときに、
先生生産借りくださいといった生徒がいたっていうふうに話された方もいたんですけれども、
それが沖縄では実際の行動につながってしまったということですよね。
そうです。敵に捕まったら合間される。
それよりは死んだほうがいいということですね。
そういった気持ちを持っていたということに対して、
私は非常に疑問を持ち出した。
なぜそうなるかということですよね。
リクエストの2曲目です。
海瀬戸豊という方の作詞作曲で、月東という歌です。
月東というのは月の桃と書きます。
これは沖縄に咲く花のことなんですね。
そうなんです。
これは沖縄の4月から6月に咲く花ですけれども、
歌詞の中にですね、
緑は燃える、うりずんのという言葉が出てきます。
そのうりずんという言葉が沖縄の記号になりますけれども、
冬に入るちょっと前、4月から5月中旬くらいまでの、
非常に爽やかな季節があります。
その季節に咲く花ですけれども、歌詞の中に
間舟の丘とか、キャンの岬。
そして6月23日を待たず、花は散った。
そういった歌詞が出てきますけれども、
これは伊都満の南部の激戦地の中で、
非常に亡くなった人たちのことを歌っているというんですね。
平和を私たちは今後守り続けていこうという、
そういう歌詞の非常にいい歌です。
ではどうぞ。
犠牲者の多数が女性・子ども、リーダーたちの自死
その引っかかったことについてどうされたんでしょうか。
集団自決の座間美濃子、犠牲者数を調べていきましたら、
亡くなった人の83%が女性と子どもなんです。
なぜこんなに女の子どもが死んでしまったのかという。
しかも亡くなった男性たちというのは、
圧倒的に地元のリーダーたちだったんですね。
村長、住宅、修理学、学校長とか、
こういった町のつく人たちがことごとく亡くなってしまった。
それだけですね、やはり、
この住民に対して自分たちが反を取られたと言いますかね、
そういう意味で、自らリーダーたちが積極的に亡くなっていったという、
そういった状況が見えてきたわけなんです。
亡くなったというのは、いわゆる自死したということなわけですよね。
はい、そうなんです。
男性中心の女性史と「ノロ」
本当に命に変えてでも定層を守る意味というのが何なのか。
そういったことを非常に疑問に思っていて、
沖縄の女性の歴史について調べてみたんですけれども、
それの答えになるのが全くなかったんですね。
沖縄の女性の歴史というのは男性たちが書いてきたんですけれども、
その内容というのが、とにかく沖縄の女は非常に偉い。
よく働くとか、非常に男性たちを守るという、
そういった男社会を支えるという意味での非常に立派だということを
ずっと書いていたわけなんです。
その中でも沖縄には、ノロという祈る女性というのがいまして、
その女性が非常に仕事でも重宝されていまして、
もともとは琉球国際の国家公務員で、王様のために祈る人たちだったんですけれども、
その人たちが地元でも随分評価されているのはわかりますけれども、
そういったことには集中してしまって、
一般の女性たちの歴史的な生活背景とか、そういったのがほとんどわからなかった。
というのがこれまでの男性たちの書いた女性史でした。
要するに、女性は男性を支えているから立派だという、
その分だけを書いてきたということなわけですね。
そうなんですね。
ウナイフェスティバルと女性史編纂への決意
それで1980年代に出版社を勤めていたんですけれども、
辞めてフリーランスになったんですけれども、
85年にウナイフェスティバルというのをやったんです。
ウナイというのは沖縄では女兄弟を意味します。
その女兄弟が主スタッフということでみんなで集まって、
ちょうど国連婦人の10年の最終年でしたので、
そこでお祭りをやるということで立ち上げたフェスティバルでした。
国連婦人の10年の最終年ということで、
沖縄からもケニアのナイロビで世界会議がありましたけれども、
そこに参加した女性たちがすごく熱気を浴びて帰ってきたんですね。
この熱気を冷まさないで沖縄でも何かしたいという、
そういったことがありまして、
ちょうど自分の放送局も25周年記念の授業で、
私たちで何かやろうというそういった企画があったものですから、
それで一緒にやろうということで向こうから提案されて、
ラジオ局から。
12時間の生放送をやったんですね。
その12時間の生放送をしながら会場では、
まず沢越司さんの講演をやってもらったり、
約50団体の女性たちが参加したんですね。
それぞれがワークショップをやって、
自分たちが今歌いたいことが何なのかという、
そういったことを愛情いっぱい使ってやったんですね。
それとか、舞台では流級舞踊があったり、ロックがあったり、
ジャズがあったりですね。
本当に女性たちだけで舞台を盛り上げました。
このフェスティバルがあったことで、
本当は1回限りで終わろうと言ったんですけれども、
これが非常にみんなまだ続けたいということで、
毎年やるようになりまして、
結果的には30年やったことになりますけれども、
ただこの女性たちのすごい熱気の中でですね、
私は改めてですね、沖縄の女性たちって、
何でこんなにすごい力があるんだろうというふうに思うようになりまして、
それでやっぱり女性のことを私はきちんとまとめないといけないということでですね、
それから本格的に自分で女性史を、
ちょっと手探りだったんですけれども、
調べていくようになりました。
そうなんですね。
那覇市職員として女性史編纂に着手
その時に那覇市の職員として、
女性史編参のために採用されたわけですよね。
どんなことから手をつけ始めたんですか?
まず女性史について全くやったことがありませんでしたので、
それで女性学の講座をやろうということですね。
女性学というのは、いろいろ学際的にと言われていますけれども、
例えば経済とか政治社会教育とかですね、
そういったそれぞれの分野で、
専門の方に女性の視点から話してほしいということでですね、
大学の先生が中心だったんですけれども、
お願いしまして、そこで講座を開設することによって、
午前と夜間の二部構成で1年間、その講座をやりました。
1年やったというのはすごいことだと思います。
そうですね。参加者も多くてですね。
その参加者って、その中でもやはり歴史に興味がある、
という人たちを募集しまして、
そこでグループを作ってもらったんです。
ワーキンググループを作ってもらって、
高齢者の方から聞き取り調査をするという、
そういった予算をまず組んでですね、
それで女性たちに聞き取り調査をしてもらって、
それを提出してもらったんです。
やっぱり高齢の方ですので、
いつこれが自分の証言が本になるのかって期待しますね。
それで資料集という形で、
証言集を出してですね、まとめて、
それをベースにして、
本格的な女性史の編参をスタートさせていった、
ということなんです。
集団自決と「過負荷性」の関係
とても意義のあるお仕事をね、
されたと思います。
山梨の場合には残念ながら、
まとまった山梨県女性史というものは、
勧告されていないんです。
そういうお仕事をされている中でも、
やはり集団自決というのはなぜ起きたのか、
ということについて、
ずっと問いを持ち続けていらしたわけですね。
はい、そうなんです。
私自身は一時資料に当たりながらですね、
他の執筆者の方々と、
いろいろ原稿の内容を確認しながら、
女性史を作ってきましたけれども、
自分のライフワークとして、
並行して勉強することができたように思います。
そういう中で、集団自決の説明の中で、
非常に欠落しているなというふうに思ったのが、
過不調性と女性たちの行動の関係、
ということが分かってきました。
はい、ということで、
次回は集団自決と過不調性の関係で、
そのことにも関連しますけれども、
沖縄で続いてきた米軍兵士の性暴力と、
現在の課題についてお話を伺いますので、
どうぞまたお聞きください。
浅戸隆太「木の花のそよげる闇や涼新た」
宮城さん、次回もよろしくお願いいたします。
FM八ヶ岳、池田雅子がお送りする
暮らしの羅針盤、
きょうも聞いてくださってありがとうございました。
きょうは沖縄本島にある与那丸町出身の
浅戸隆太さんという、
1994年生まれ30代前半の若い詩人の句を
ご紹介します。
木の花のそよげる闇や涼新た
涼新たは、離州を過ぎ秋に入って初めて感じる
心地よい涼しさや秋の気配を表す記号です。
木の花は黄色の花ということなんですが、
沖縄で今頃咲く黄色の花、
宮城さんに伺ったところ、
まず思いつくのは木銭菜ということでした。
ぜひどんな花か調べてみてください。
木の花のそよげる闇や涼新た
浅戸隆太
ではまた。
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