山梨県における女性議員の現状と課題
FM八ヶ岳 Day in Life 暮らしの羅針盤の時間です。池田政子が担当する第83回です。 この番組は、身近な暮らしの中にある男女共同参画やジェンダーの問題についてお話ししています。
先月4月第1回のこの番組では、都道府県版ジェンダーギャップ指数を取り上げて、山梨県の女性議員がいかに少ないか、そしてそういう状況の中で女性議員を出そうとする動きがあることを話しました。
その後、藤川庁議会の選挙がありましたが、立候補者が議員定数に1人足りなかったんですね。平成の大合併で27市町村になった2010年以降の選挙では、初めての定数割れとなったことが危機感を持って話題になりました。
この選挙では、女性の新人1名が立候補していましたが、無投票当選ということになり、藤川庁議会は12名中4名が女性、つまり33.3%になりました。
その結果、それまで女性議員の比率が26.3%でトップだった笛吹氏を上回って、山梨県で初めて女性議員が3割を超える議会が誕生しました。
また、そのすぐ後に行われた会市議会の選挙では、現職の女性議員3名のほかに2名の女性の新人が立候補して、女性候補者全員が当選しました。
会市の女性議員割合は15.8%から26.3%に増えて、藤川庁、笛吹氏、甲州氏に次いで、県内で4番目となりました。
このように少しずつ女性議員が増えているのですが、一方で、会市議選の投票率は38%。
平成以降の県内市町村議選で最低だったそうです。投票権を持つ人の6割以上が帰県したということは、深刻な問題ではないでしょうか。
女性参政権行使80年:大森香織さんの生涯と著作
そもそも、日本の女性が初めて賛成権を行使したのはいつだったでしょうか。
答えは、1946年、昭和21年の4月10日です。
敗戦の玉音放送が流れた昭和20年8月15日から8ヶ月くらいしか経っていないこの日に、まだ当時は帝国議会だった衆議院議員の選挙が行われました。
この4月にちょうど80年が過ぎたわけですね。
先月4月11日の山梨日日新聞に、80年前、日本初の女性参加選挙、大森さん、かっこ会市出身、人生の出発点という見出しで、
1926年、玉旗村、現在の会市に生まれた大森香織さんのことが紹介されていました。
これは共同通信社の配信記事のようで、東京新聞、琉球新報など、地方紙にも同じ内容の記事が掲載されています。
女性参政権行使から80年の記念の記事として、山梨県出身の女性が取り上げられて、全国に発信されたわけですね。
大森さんは旧姓田中、父親の田中雅則は、大正期から農民運動に関わって、戦後は社会党の県議会議員となりました。
弟の田中勝彦も、流王朝議2期、山梨県議4期を務めた後、昭和58年に衆議院選挙、山梨選挙区の社会党公認候補として立候補し、当選しています。
覚えていらっしゃる方もいるかもしれませんね。
また、大森さんの母親も、夫が地域の農民運動のリーダーだったという立場で、夫の活動を支えながら、農村の婦人運動に尽力しています。
このように日常的に農民運動や政治に触れる環境の中で育った大森さんは、当時としては珍しい女性の応援弁士としてマイクを握ったりしました。
戦後は、市川夫妻が設立した夫戦会館や日本夫人有権者同盟に入って、市川夫妻の選挙を手伝った大森さんは、「市川夫妻と夫戦運動の歩み」という本を1993年に出版しています。
また、大森さんは山梨の女性の歴史という点で、とても貴重な本を2冊書いています。
1つは、1984年刊行の「母の肖像」という本で、明治32年に龍王村で生まれた自分の母親の生涯をたどっています。
大正デモクラシーの時代、当時の農民運動の中で、山梨の貧しい農村の女性たちが参加した農民組合夫人部の活動の様子が詳細に描かれています。
例えば、上英村、現在は昭和町でしょうか、その地域の農民組合夫人部のリーダーである女性が、民衆夫人という中央の機関史に昭和4年に投稿した文章が紹介されています。
山梨県下における夫人運動、それはお話にならんほど幼稚なものであります。
キリスト教夫人会だとか、日蓮主義夫人会だとか、夫人共風会だとか、主事の夫人会などもありますが、どれもこれも勇敢階級の夫人の人々が遊び用に困って、時々のお集まりや講演会を催すのでありますが、勤労階級の夫人にとりましては別の出来事であります。
彼女たちの集会は、お召し物の教員会でもするような場所柄ですから、もとより意気揚々もないのであります。とまって厳しいです。
さらに勤労夫人と申しましても、助教員や看護婦や事務員の人々は、現在の山梨の状態では、ブルジョア意識でおらなければ支配階級の受けが悪いからかもしれませんが、
これらの夫人の人たちは、農村の勤労夫人や工場に働く夫人たちと共同して夫人運動を起こすという積極的な考えを持つ人々ではないのであります。とも言っています。
昭和の初期、まだ戦時体制一触になる前の働く女性たちの間でのこのような対立について、大森さんは次のように分析しています。
人々は妨げられた逆境でなお、自分たちよりも惨めな人々に対して、あの人たちよりはまだマシとする自己満足というやつかによって救われたいという差別構造に気づかない。
その差別構造こそが、無意識のうちに支配者層に巧みに利用され、弱い立場の者同士を結束どころか分断してしまう罠の正体なのである。
私自身は、明治からの山梨の女性たちが社会変革に向けて活動した歴史の中で、夫人共風界も女性教員もそれなりの実績を残したと考えています。
でも、今から100年近く前の山梨の農村に生きる女性の立場からは、この指摘も最もであり、また現代の私たちが抱えている様々な差別の問題にも当てはまることだろうと思っています。
大森さんのもう一冊は、2001年、21世紀の始まりの年に刊行された「女たちの模索の時代 山梨喧嘩の政治三角」という本です。
以前にもこの番組で紹介しましたが、大森さんは初めての女性賛成権行使の昭和21年4月には、ちょうど20歳になっていて、母親と祖母と3人で村役場の投票所に行った時の様子も描かれています。
70代の祖母は明治生まれで読み書きができなかったけれど、孫の大森さんに自分の支持する農民代表の候補者のカタカナの書き方を教えてもらって、一生懸命練習したそうです。
昭和21年に70代といえば、明治10年代に学齢期を迎えた世代ですが、山梨県の女の子の小学校修学率は明治30年にやっと4割を超えるという状態でした。
なので、選挙権は得たけれど、高齢の女性たちの中には、候補者の名前が書けない人もかなりいたと思われます。
手のひらにカタカナで候補者名を家族に書いてもらって、それを見て投票した人や、字が書けないと思われたくないために書くふりをして白票を投じた人もいたようです。
大森さんの祖母は、投票所で行列の整理をしている役場の職員に、
ご隠居さん、よくおいでやしたね、と声をかけられると、子供のようにはにかんだ笑顔で、
今日は何としてもお勤めを果たさねばね、と胸を張ったそうです。
投票するときには、祖母の緊張を心配して、母が先に立ち、祖母を真ん中に、私が後に従った。
けれど、思いのほか、祖母は落ち着いて平然と行動した。
そして、帰宅してから女3人は興奮して感想を語り合った。
特に祖母は、初めて公式の場で字を書いた体験に深い思いを味わったようだった。
私が生まれて初めて一人前として通じた日だ、としみじみつぶやいた。
その言葉には、女性たちの閉ざされてきた生き方や、
男性たちの支配下で犯人前にしか扱われなかった女性たちの長い歴史が封じ込められていて、
母と私は感無量で頷いた。
そして、祖母を限りなく愛おしいと思った。
1926年生まれの大森さんは、私の母の1歳上、
そして、多摩畑村の農民組合婦人部のリーダーだった大森さんの母親は、
明治32年生まれで、私の祖母の1歳下にあたります。
明治初期生まれの祖母から続く3代の女性たちが、初めての一票を投ずるという行為に、
どれだけの思いを持っていたか、重く受け止めたいと思いました。
女性参政権獲得の歴史的背景
では、今日の1曲目です。中島美雪のヘッドライト・テールライトです。
NHKのプロジェクトXのエンディングテーマにも使われています。
その初めての女性参政権行使ですが、なぜそれが実現したのでしょうか。
それは、前年の1945年12月17日に衆議院議員選挙法が改正されたからです。
この選挙法の中の、衆議院議員の選挙権は、
帝国新民の男子にして年齢満20年以上の者にこれを与うという条文の男子にしてという限定が削除されました。
また、衆議院議員たることを得る者は、年齢満25年以上の帝国新民とされて、
非選挙権が男性限定ではなく、女性も立候補が可能になりました。
この改正が行われたのは、まだ大日本帝国議会です。
帝国議会は任意制で、衆議院は国民の代表として選挙で選ばれますが、
はじめは高額納税者、つまりお金持ちの男性のみでした。
それが1925年、対象14年に、いわゆる普通選挙となって、
25歳以上の日本国籍を持つ全ての男性に選挙権が与えられることになりました。
ちょうど100年ほど前ですね。
でも、女性はこの時にもその対象になっていません。
つまり、女性は普通という枠組みからも排除される存在だったわけです。
大日本帝国議会のもう一つは、貴族院です。
この議員は天皇を補佐する皇族や皇爵というような、
独権階級の人々で、解散はありませんでした。
そして、女性にも賛成権を持たせるというこの改正案は、
衆議院では賛成多数で可決されましたが、貴族院では議論になりました。
例えば、賛成の立場からは、
今日の民主主義の時代において、国民の半数を占める婦人に対して、
選挙権を認めないということは、到底正当とは言えない。
とか、婦人に賛成権を与えることは、我が国政治の殺身の上において必要な一歩だ。
というように、民主主義を掲げた新しい時代に女性を排除するのはおかしい、
戦後の改革の一環として必要だという意見が出されています。
一方で、慎重な意見もあったようです。
その理想は理解できるけれど、急激に実施することが果たして適当であるかについては、
なお慎重なる考慮を要する。
とか、婦人は家庭において重要な任務を有するものであり、
政治参加がこれにいかなる影響を及ぼすかは、慎重に考慮すべき問題である。
というようなものです。
でも、最終的には貴族院でも可決されました。
貴族院という戦前の体制を担ってきた人々から、
今は民主主義の時代とか、我が国の政治の挿進という言葉が出てきたことについては驚かされます。
衆議院議員も1942年の総選挙の当選者で、ほとんどは戦争遂行に協力した人たちでした。
でも、この国会が日本の民主化を準備したわけですね。
それは一つには、占領下の日本にあって、GHQ、連合国軍総司令部の示した5項目の改革案というものの影響が大きかったようです。
労働組合の合法化、教育の機械均等、秘密警察や治安維持法の廃止、財閥の解体などが並んでいる改革案のトップに挙げられていたのが、選挙権付与による日本婦人の解放というものでした。
この改革案は、1945年10月11日に、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーが、10月9日に新しい首相となったばかりのシデハラ・キジュウロと会談して、口頭で指示したとのことです。
日本の占領政策、日本の民主化の象徴として、それまで法的には無能力者とされてきた女性を、男性と同じく国民という地位に引き上げたということですよね。
ただ、この女性賛成権は、占領軍から一方的に与えられたわけではありません。それまで、婦人賛成権獲得のために、平塚雷長や市川夫妻などが長年取り組んできた積み重ねがあったからこその女性賛成権の実現でした。
実際、市川夫妻は、敗戦後すぐに以前の仲間たちに呼びかけて、当時の東国内閣に婦人賛成権の要望をなすなどの働きかけをしています。
そして、10月9日に、市ではら内閣が成立すると、翌日10日には、内務大臣である堀切善二郎の提案によって、婦人賛成権が閣議決定されました。
当時の内務省は、警察、治安維持、地方行政、選挙管理などを担う非常に重要な役割を担っていました。
市ではら首相が、その翌日に行われたマッカーサとの会談で、もう閣議決定したということを報告したら、マッカーサに褒められたということです。
堀切大臣は、婦人賛成権はマッカーサ減衰の贈り物ではないと言ったそうです。
大森香織さんは、このような市川裁の積極的な動きを、
34年の歳月にわたって茨の道を歩んできた婦人賛成権運動家市川の意地と自負が、占領軍によって与えられることを許さず、先手を打って閣議を動かしたのであろうと記しています。
山梨県における初の女性参政権行使
さて、女性にとって初めての選挙、山梨ではどんな様子だったでしょう。
その時の山梨県の有権者の数ですが、女性は23万9151人。では男性はどのくらいだったと思いますか。
男性は17万4910人だったそうです。
男性の方が6万人以上少なかったんですね。なぜでしょう。
敗戦からまだ8ヶ月しかたっていないこの時期、徴兵されて戦争で亡くなった男性が多かったでしょうし、まだ日本へ帰国できていない男性もいたでしょう。
県との交付は前年の七夕空襲でやけの原になっていて、復興には程遠い状態でした。
日本中がそんな中での選挙ですので、GHQも危険防止ということに力を注いだようです。
選挙前の2月、3月には女性の商工が各地に派遣されて、女性たちに民主主義と賛成権についての講演を行ったとのことです。
しではら氏省も、投票日前日の4月9日、ラジオで、この選挙で選ばれた代表は、憲法の改正案をはじめとして、国政の運営に重大な発言権を持つことになる。男も女も投票を、というふうに呼び掛けました。
初めて非選挙権も得て、全国では82名の女性が立候補して、39名の女性の衆議院議員が誕生しました。
では、山梨県で女性の立候補者はいたでしょうか。
これも以前この番組でお話ししましたが、3人の女性が立候補して、全体で32名の候補者が、5つの議席を争うこととなりました。
医師であった笠井智子さんは、明治22年生まれ、旧中富町出身の夫と夫婦揃って立候補しました。
それから大久保松代さん、明治31年生まれ、旧栄川村出身で、日本で初めての女性の自秘院校科の医師でした。
そして明治30年生まれ、旧山梨村出身で、短歌や小説で名前を知られて、山梨民謡新聞の記者もしていた餅月俊乃さんです。
3人とも当時のエリート女性と言えますね。
それぞれの公約ですが、笠井さんは、正面男女に医学的性教育を徹底して性病を断つ。
大久保さんは、男女共学の場で性教育を。
法律は女性も男性も同じに、幹線道路、高速電車、耐震耐火の高層ビルに共同農民住宅、電化生活、農業と工業を両立し、田園都市山梨を作る。
餅月さんは、家庭生活を合理化し、大衆の住みよい、暮らしよい、民主的にして文化国家の建設を、というものでした。
2人の医師が性教育を公約に掲げたのは、まだ誘拐があった時代で、夫から性病を診されることが女性にとってとても大きな問題だったからです。
投票日翌日、4月11日の山梨日日新聞は、「新日本の占領を当たれ、国民審判、投票終わる。」という見出しで、県下の投票所の様子、特に女性たちの動きを報じています。
初風景、婦人長蛇の投票。近所、誘い合い、効果がある。として、定庁も伝えられた今回の選挙が投票日に至り、好調を示したことは、婦人有権者が後日、文房だから投票にも行けなかった、など噂の対象となるを恐れて誘い合い、どっと繰り出したための特殊事情もあるものとみられるが。
当初、心配されていた投票率が思いのほか高かったことを伝えています。
また、抗体で赤ちゃん抱っこ、家族総出の賑やかさ、という見出しで、桜の季節、朝から花曇りだったという甲府市内の投票所の風景を何箇所か紹介しています。
例えば、武田神社近くの投票所では、病人の子供と老婆が汗びっしょりかえて、はせつけ一票を投じた。
せがれが出生しており、世話をしている病人の孫を家に置いておくわけにもいかず、女に与えられた尊い一票、しかも初物を。危険したらマッカーサー司令部に申し訳がないからね、と言った。
また、戦地から戻らない息子を待つ大変な生活の中で、女に与えられた尊い一票だからと、高齢の女性が病気の孫を連れてまで投票に来たわけですね。
また、別の投票所では、長い行列にしびれを切らして、もっと早くできないものだろうか、と悲鳴をあげている女性たちの姿が紹介されています。
そして、「無理もない、子供がむずかり出したのだ。互いにあやしあう子連れの婦人らの賑わいにまじって、
みなさん、今日はもう少し辛抱しましょうよ。今日は投票が私たちの仕事ですから、暇がかかっても我慢して待っていましょう。」などという、一票を担う婦人の息が感じられた、とあります。
どちらも、取材した記者は、女性たちがこの選挙の意義をどう捉えているかを感じ取って伝えています。
投票率は全国で72%、女性も67%という高い数字になりました。
山梨の危険率は28%です。候補の危険率が38%と、県内では一番高かったようですが、これは空襲からの復興が進まないという大きな要因があったと思われます。
そして、山梨の女性候補の結果はどうだったでしょうか。
その前に、今日の2局目です。中島美雪の倒木の敗者復活戦。どうぞお聴きください。
このようにして行われた選挙ですが、3人の女性候補者たちはみな落選となりました。
笠井智子は37,721票で次転、大久保松代は16,951票で10位、餅月俊乃は5,384票で18位でした。
女性の候補者に投じられた票は合わせて6万56票となります。
当時の新聞の記事から投票数の合計を計算してみると、43万1581という数字になりました。
立候補者の9.3%にあたる3人の女性候補が、全体の得票の13.9%を取ったことになります。
この選挙は2名連起で行われたこともとても重要で、全国で39名の女性衆議院議員が誕生したのは、この2名連起という投票様式の影響があることも指摘されています。
4月14日の山梨日日新聞の社説では、歴史的な新日本建設と民主主義確立の重大使命を担って行われた総選挙の危険率が少なかったことは、婦人参政権の輝かしい画期的第一回であるだけに喜ばしい。
本県では旧勢力を抑えて社会党が2名当選し、無所属からも過歳し1名を出し、婦人も辞典を勝ち得たのは県政界にとって皮肉であるとし、
中央では自由党が第一党だけれど、本県の当選結果から判断すれば、保守勢力より進行勢力に政治を託したいとする選挙民の意向は否定できないとしています。
一方で、当選者が決まったことを報じる前日13日には、引きずられた婦人校長の出足に足らない自覚、思惑通りの進展というタイトルの論考を掲載しています。思惑通りというのはどういうことでしょうか。抜粋して紹介します。
答えは与えられた。民主日本再建に対する県民の意思は表示された。問題は果たして選挙結果が世界の国を満足させられるに足るかどうかである。そのことは直ちに日本の死活に関係する。
ソ連もイギリスも、日本の民主主義は時期総称だと言っている。我々はまずこの自らの答案に対して司祭に検討してみなければならぬ。ことに全国的に見ても、圧倒的保守勢力の勝利に終わった今回の選挙戦の実態を知るためにも。
つまり、確かに進行勢力は検討したけれど、保守勢力に対抗するほどの結果ではなかったことを問題にしているわけで、女性の危険率が予想よりも低かったことと、実際の女性候補の得票等を比べています。
問題は、これら多数の婦人投票が何人に投ぜられたかである。婦人は婦人候補へのスローガンが必ずしもそうはいかなかったという点は大いに注目される。
加西、大久保、餅月、3女子の獲得数は約6万票であるが、むろんこの中には男からの投票もあろうし、1人で2名連起のものもあろう。だからその数はかなり割引されねばならない数字であるが、それを大雑把に1人1票としても、全女子投票者の3分の1に過ぎない。
結局その大半は男性へ投票されたものと見ねばならぬが、さてその男性が誰であったかである。危険が心配されていた女性たちがせっかく投票に行ったのに、これまで戦時体制を支えてきた同じ顔ぶれの保守層の男性たちもその投票先であったという事実について、女性自身もまた保守的であることを記者は指摘しています。
一方で、これらのことはむしろ男性こそその長本人で、下劣な常実や因縁や、鼻肌式に至っては選挙ブローカーの手先に踊らされて、買収や競合に応じたりするのは男の世界ではないかという反論も当然あるであろう。まさにしがりであると結論しています。
これが当時の地元新聞の総括ということですね。
農村女性の視点と参政権の多様性
一方、玉畑村を中心とする農民運動のリーダーを父に持った大森香織さんは、別の視点から次のように書いています。
かつては国会に代表を送る選挙にさえ、言論統制やいくたの干渉がつきまとった過去の苦い経験を持つ農民たちにとっては、心中深く抱えていた思いが頭をもたげ、自由に活動できる時代が訪れたことへの感慨と歓喜は限りないものであった。
貧しさを強いられてきた男や女にとって、それは夢の実現に等しかった。
農民代表を国会へというのは、村から村への合言葉となって全県下を駆け巡った。
そして農村の女性たちの投票先については、農民代表への期待は生活基盤に根差しており、新しい時代の到来によって農民は過去の搾取の圧力から解かれ、人並みの生活権を確保するための代表を国会に送る選挙である以上、賛成権を得た女性たちも、こぞって農民代表を選ぶことに迷いはなかった。
社会党の優勢ぶりは、かつて男たちの物心両面の支えとなり、自らも婦人部を結成して行動した農民組合の女性たちの階級的な熱い支持が結集した絶大な成果であった。
農村の女性たちにとっては、山梨から立候補した女性たちは、自分たちとは全く違う世界に生きているエリートであり、その公約も貧しさからの解放という視点からは遠いものと移ったのかもしれません。
今日は日本の女性たちが初めて賛成権を獲得し、それを行使したときのことをお話ししました。
さて、この日本の女性たちとは誰のことだったでしょうか。
実は、この中には沖縄の女性たちは含まれていませんでした。
沖縄では、1945年9月に女性が市議会議員の選挙に参加しています。
なぜか、それはその年の4月に沖縄本島にアメリカ軍が上陸して悲惨な地上戦が行われた後、占領下の統治の下での出来事でした。
つまり、日本本土の制度とはまた別の形で、選挙権を持った沖縄の女性たち。
どんな思いで一票を投じたのでしょうか。
女性初の賛成権行使といっても、その一票に込められた思いは決して一つではありません。
だからこそ、私たちはその歴史をたどりながら、今自分が持っている権利の意味を改めて考える必要があるのだと思います。
ではまた、FM八ヶ岳池田雅子がお送りする暮らしの羅針盤、きょうも聞いてくださってありがとうございました。
葉桜の並木駆けゆくランドセル
葉桜の並木駆けゆくランドセル
雅子
緑が眩しい季節になりました。新1年生も学校生活に慣れてきた頃でしょうか。
急な暑さ、どうぞご自愛くださいますよう。