はじめに:女性参政権行使80周年と山梨の女性の挑戦
FM八ヶ岳 デイ・イン・ライフ 暮らしの羅針盤の時間です。池田政子が担当する第86回です。
この番組は、身近な暮らしの中にある男女共同参画やジェンダーの問題についてお話ししています。
今年は、日本の女性たちが初めて賛成権を行使してから80年という年ですので、それにちなんだお話を何回かしてきました。
その初めての1946年4月10日の衆議院議員選挙、山梨では3人の女性が立候補しましたが落選。
翌年の1947年には、新しい憲法の下での初の統一地方選挙が行われて、参議院議員、都道府県知事などの首長や市町村議員が選ばれました。
そして山梨でもこれまで多くの女性たちが選挙に挑戦してきました。
ではクイズ、山梨の女性発はいつ? いくつか出しますので、ちょっと考えてみてください。
まず第1問、初めての女性の衆議院議員はいつ誕生したでしょう。
その答え、2012年の選挙で宮川範子さんと堀内範子さんの2人が自民党から立候補して当選し、
女性参政権行使から66年目にやっと女性の衆議院議員誕生となりました。
では第2問、初めての女性の参議院議員はいつ誕生したでしょうか。
答えは1947年です。平野茂子という女性が社会党から立候補し当選しました。
参政権行使の翌年ですから、これは早かったですね。
この方は明治32年生まれ、夫は有名な農民動家の平野力造で、その前年の衆議院議員選挙で社会党から立候補してトップ当選しています。
夫婦揃って国会議員となったので、当時押し取り議員と呼ばれたそうです。
平野茂子は1950年まで参議院議員を務めました。
ではその後は、というのが第3問です。
その後山梨で女性が参議院議員になったのは、それから66年も経って2016年に当選した宮沢由加さんで一期務めました。
で、第4問です。
女性で初めて県議会議員になったのは、いつ誰だかご存知ですか。
答えは、1988年の県議会議員補欠選挙で当選した小渕沢長の宮沢由加さんです。
女性参政権行使から42年も経って、初めて女性の県議が誕生したんですね。
続いて第5問。
山梨で女性が初めて首長、首長選挙に立候補したのは、どの市町村だと思いますか。
実は、押の村なんです。
しかも1947年、戦後初の統一地方選挙の時です。
久保田一さんという女性の意思が、村長選挙に挑みました。
それも夫の父親との一騎打ちでした。
なぜそんなことになったのでしょう。
ということで、今日は山梨の女性発というテーマで、
初めての女性県議、宮沢由加さんと、初めて首長選に挑戦した久保田和石のお二人を取り上げます。
宮沢栄子:初の女性県議会議員への道
最初に宮沢由加さんについてお話しします。
まず、宮沢さんについては、2007年に私の歩みという辞典が刊行されていますが、
私たち女性子研究のグループでも、宮沢さんが亡くなられた後、
夫の潤太郎さんから聞き取りをして、聞き書き証言集、伝えたい山梨の女性たち、第2週に載せました。
宮沢さんは大正12年生まれ、教師になり、北駒郡で初めて女性の教頭になった後、
新垣小学校へ転勤する予定だったのですが、
夫が八ヶ岳少年自然の家の所長に内定したために、
県の教育委員会から、山梨県は貧乏な県なので、友稼ぎは困る。
夫婦揃って管理職というのも例がない。どちらかが職を退いてもらいたいと言われました。
1973年のことで、当時は教員や公務員にはこういう理不尽な勧告が普通に行われていました。
いわゆる肩たたきですね。
50歳になろうとしていた宮沢さんは、息通りを感じながらも退職を決意し、
その後、仲間たちと国際婦人年について勉強しました。
1972年の国連の総会で、世界の女性たちの地位向上を目指して、
1975年を国際婦人年とすることが採択されていました。
その勉強をする中で、政策決定の場に是非とも女性を送り出そうということで、
宮沢さんが押されて、小淵沢懲議会の選挙に女性として初めて立候補することになりました。
夫や子どもたちは賛成してくれたけれど、ご自分の実家の親戚は大反対で、
立候補を思いとどまってほしいと親戚一同が自宅に押しかけてきたそうです。
で、その時、黙って聞いていた自分の父親の言った言葉が辞伝に書かれています。
今時女が政治活動に出て何がいけない。
お前たちは市川夫妻さんという人を知っているか。
女性の国会議員として実に素晴らしい働きをしている。
これからは市川さんのように女性もどんどん議会に出ていって、男性と肩を並べて仕事をすべきだと思う。
やっと日本にもそんな時代が来たのだから、みんなでA子の活動を応援してやってほしい。
宮沢さん自身も思いがけない人の名前が父親の口から出て、その言葉に反論できる人はいなくて、みんな黙って帰っていったとのことです。
前回のゲストの小野さんもそうでしたが、女性が立候補しようとする時、大きなハードルになるのは家族の反対です。
それは今でもそうですね。
そして宮沢さんが選挙説明会に出かけた時、会場に入った途端、男性の候補者から入り口を間違えたのではないか、あっちの部屋で女性が集まっていると言われ、
いえ、私は選挙説明会を聞きに来ましたと答えました。
そしたらその男性は何と言ったと思いますか。
女の考えは甘い、票の行方はみんな決まっていると言ったそうです。
一層投資を燃やした宮沢さんは、今までの長期選挙で誰もやったことのなかった、というのもびっくりなんですけれども、
郵政、街頭演説、個人演説会など公職選挙法で許されていることすべてをやったそうです。
それを見ていた男性候補者も渋々ながら同調して立会演説会に参加する人も出てきて、これまでになく活気のある選挙運動が展開された、とのことです。
それまではまさに公約などどうでもいい、票の行方は決まっている、という選挙だったんでしょうね。
この初めての選挙で宮沢さんは上位当選をしました。
女性の声が正しいレールに乗り、行政に届けられ、それが政策として取り上げられる、これこそ長年女性たちが待ち望んできたことでした。
まさにそれが実現したのです。嬉しかったですね。
そう、宮沢さんは書いています。
1975年、ちょうど国際婦人年、今から半世紀以上も前のことです。
そして、自分の議会活動について市川夫妻に指導してもらったとも述べています。
長議会議員になった時、議会での質問はどのように作ればいいのかを教えてくださったのは市川夫妻先生でした。
先生のアドバイスは次のようでした。
議会での質問原稿を作るときは、まず初めに国はどんな政策を取っているか、それが県にはどういう形で降りてきているか、
そしてもっと大切なのは、現場でどうなっているかをよく調べることです。
市川はその頃、全国に無所属の女性議員がかなりいたけれど、お手本になる女性もいないまま、議会活動のやり方もわからず途方に暮れている現状を痛感し、
全国無所属議員の会というのを立ち上げて、各地で研究集会を開き、女性議員のために勉強の場を設けてくれたとのことです。
宮沢さんは議会で質問する前には、自分で調べた資料を持って市川夫妻を訪ねました。
すると、先生はいつも私が調べた以上の資料を準備して待ってくださっていた。
そのおかげで、私は毎回自信を持って議会での質問に立つことができました。
困った時にはいつでも親身になって相談に乗ってくださいました。と振り返っています。
市川夫妻は1981年に亡くなっています。
山梨の女性議員で付箋会館に通って勉強した方は何人もいますが、市川夫妻自身から直接教えを受けたのは、宮沢さんが最後かもしれません。
そうして長期を2期8年間勤めた後、宮沢さんは県会議員への立候補を要請されました。
その結果、宮沢さんは1988年12月の県議選、北駒選挙区補欠選挙でトップ当選し、
選後初めての県議選から41年も経って、ようやく女性県議が誕生しました。
その直後、12月19日の山梨日日新聞は、「はれやか母さん県議」と読み出して、女性議員の誕生を報じました。
3教祖が、山梨県教育組合ですね、組織をフル回転して運動を展開、
婦人の声を県政に、初の女性県議誕生と訴え、婦人層の支持を集めた。
女性候補という話題性が有利に働き、不動票を取り込んだ。
県内の女性県議はこれまでゼロ。市町村議を見ても現在は候補で2人、市川大門で1人の3人だけ。」と書かれています。
また、12月26日の写説では、「山梨県議会初の女性県議が誕生した。
女性の社会進出、男女平等の社会づくりが叫ばれている折、初の女性県議の誕生は象徴的であり喜ばしい出来事と言えるだろう。」という書き出しで、
働く女性が増えてきているにも関わらず、男は仕事、女は家庭という性別役割分業意識が根強く、
女性が仕事を持つには外での仕事と家での家事・育児という二重の労働をしなければならない現状を指摘し、
日本の社会環境は女性が家庭に留まっている専業主婦を前提になりたっている。
女も仕事をし、社会に出ていくためには、どのような社会システムの在り方が良いのか問い直さなければならない。」と結んでいます。
では、今日の1曲目です。宮沢栄子さんがお好きだったという四季の歌。
1976年にミリオンセラーになったセリ・ヨーコの歌でどうぞ。
女性初の県議会議員になった宮沢さんは、女性が議会に入ったことで、今まで男性のみで進められていた議会も改革的な雰囲気に変わっていった。
自分が質問に立つ日は、傍聴席が埋まるほど大勢が傍聴に来てくれた。
人体気味と言われた議会にも新しい風が吹き込み始めた。と語っています。
県議会で初めての質問に立った宮沢さんは、
私は過去の生活における母親、主婦、そして働く婦人として、また社会参加活動を通しての経験などを踏まえ、これからの福祉や地域づくり、教育、婦人問題など細かい点に質問いたします。
と前置きして、高齢人口の増加に伴う在宅サービスの提供体制、非正規雇用が多い母子家庭への経済的援助など、現在にも通じる課題について質問して、さらに1981年に策定された山梨県婦人行動計画の改定に関して、次のように述べています。
婦人問題の原点は、個人の尊重と基本的人権として男女平等を確保することであります。
女性も一人の人間として、限られたかけがえのない人生を生き生きと豊かに生きるための自由な選択を確保していくためには、女性も男性も共存し、共に変わっていかなければならないと思うものであります。
従来、政策決定や社会活動は、男性中心に進められてきた傾向があります。
しかし、社会は男女共存、男女協調の中で存立していると認識し、半数を占める女性が社会のあらゆる分野に参加することが、社会をなお一層活力あるものにし、県民生活のさらなる発展と向上につながるものと思う次第です。
県民の暮らしや地域社会に関わりのある政策や方針の決定の場、すなわち県の各種審議会等への女性の参画等については、20%程度とすることを目標としていますが、その進捗状況についてお伺いします。
当時は県の審議会員に女性は2割もいなかったということですね。初めての女性議員が質問で取り上げてから、40年近く経っています。
現在の第5次山梨県男女共同参画計画が掲げた目標値は40%ですが、昨年9月の年次報告書では31.9%にとどまっていて、全国で46位と情けない状況です。
県議会議員に女性が非常に少なく、ジェンダーの視点で政策がチェックされる機会があまりないことも関係があるでしょう。宮沢さんが初当選してから、一時は女性県議が5人にまで増え、全国トップクラスになったこともありましたが、現在は2人、全国45位に甘んじています。
さて、宮沢恵子さんは1997年に県議会副議長になりました。当時、全国の議長会に出席しても、女性は1人だけだったそうです。その後、2003年に小林永子さん、2006年に木村福子さんが副議長になっているだけで、女性の県議会議長はまだ出ていません。
1991年に県議に当選した中岡晴恵さんのお話によれば、宮沢さん、中岡さんが中心となって、1996年に県市町村の女性議員に呼びかけて、超党派の山梨女性議員の会という団体を立ち上げ、年1回ずつ議員としての経験を話し合う交流会と学習会を開いたり、
選挙の際、女性候補の応援をしたとのことです。だんだん女性の議員が増えてきた頃のことですね。
そして、宮沢恵子さんは県議を4期15年務めて、2003年に後進に道を譲りました。
その翌年、宮沢さんはネパールにエイコスクールと名付けられた学校を寄付しました。
夫の順太郎さんは、性情が不安定なので直接お金を届けた方がいいということになって、81歳という年齢、しかも病があるのを顧みずに現地に行った。
電気もガスも水道もない貧しい村ですが、300人くらいの人が出迎えて歓迎してくれたようです。
行く時はもう腹水が溜まり厳しい状態でしたが、県議会議員を引退したらやりたいと心に決めていたことだったのです。
恵子は最後の力を振り絞って、発展途上国の子どもたちのために学校を建てたいという切なる願いを叶えたのです。
2006年2月に入院、3月6日帰らぬ人となりました。と語っています。
息子で北都市にお住まいの宮沢博夫さんにお願いして、お母様の思い出を綴っていただきました。
県議1期目の1990年に湾岸戦争の際の自衛隊派遣について、県議会が県民から派遣反対の意見書を国に出すよう求められたことがありました。
母は平和への思いは強いものがありました。
向川村の実家は7人兄弟でしたが、一番上の兄と母を可愛がってくれた叔父が戦死しています。
そのお知らせを受けた叔父の妻は出産間近でしたが、ショックで女の子を産むと同時に亡くなり、生まれたばかりのその子も母親の後を追うように亡くなりました。
実際に戦争の悲惨さを経験し、子を産み育む女性の立ち位置と教師時代からの教え子を戦場に送るなといった思いから、絶対に自衛隊の派遣は許さないと話していました。
ネパールのエイコスクールも、平和な社会の中で健やかに安らかに生きる活動の一環であったと思います。
宮沢恵子さんが教師になったのは、戦時中の昭和18年でした。
20歳で南鶴郡火星村の青年学校に赴任しています。
青年学校というのは、当時小学校を卒業した後、働いているいわゆる勤労青年の職業訓練などのために小学校に併設されていて、女子には裁縫の授業なども組まれていました。
でも、宮沢恵子さんの言葉によれば、太平洋戦争の戦局が厳しさを増してきた時期ですから、体育の授業も竹やり訓練やバケツリレーで焼夷弾を消す訓練ばかりでした、とのことです。
しかも、その火星小学校では、教頭も校長も次々と招集をされ、新米教師の宮沢さんが校長代理に任命されてしまいました。
そして、女子低身体の隊長として50人の女子生徒を引率して、川崎のアモニア肥料を作る工場へ勤労奉仕に行くという経験もしています。
昭和20年8月15日の敗戦の時には、丸野青年学校の教師でした。現在の新崎市丸野町です。
この学校でも、勉強ではなく立派な軍人になるための教育ばかり、学校の行事も授業も何もかも軍事職一職の時代だったということで、
敗戦後の教え子を再び戦場に送るなという教師たちのスローガンは、宮沢さんの強い思いでもあったのでしょう。
また、働く女性たちについての思いも、宮沢さん自身の経験に根差すものだったと思います。
辞典には、戦後すぐに結婚してからの教師をしながらの子育てについて、次のように語られています。
受入時間になると、義母が子どもを学校まで連れてきてくれましてね、宿直室を借りて受入しました。
今日のように少子化対策として様々な子育て支援があったわけではありませんから、私のお仲間にも子育てのために余儀なく退職する人がありましたね。
ありがたいことに、私の勤務する学校は子育てにとても理解があり、宿直室に寝かせていた子どもが泣き出すと、校長先生がお守りをしてくれたこともありました。
そして、この頃使っていたノートの端に書いてあったという短歌が紹介されています。
むずかりて、眠りに入りし幼子の、手より落ちたる柿のぬくもり。
むずかりて、眠りに入りし幼子の、手より落ちたる柿のぬくもり。
えいこ。
いい歌ですね。柿のぬくもりという言葉に万感が込められていると思います。
久保田和子:初の女性町長選挙候補者、地域医療への貢献
では、後半は初めての市長選挙に挑んだ久保田和さんについてお話ししましょう。
私たち女性誌のグループは、聞き書き証言集第1週に、
「お城の赤ひげ先生と慕われた土作子の遺志」というタイトルで、久保田さんの息子、和氏さんからの聞き書きを掲載しました。
さらに、聞き書き証言集第2週では、グループのメンバーであり、星野村の議員でもある桜井紗美さんが、
山梨で初めて市長選挙に立候補した女性としての久保田医師について書いています。
どんな人生を歩んだ女性だったのでしょうか。
その前に、桜井さんのリクエストで、坂本急の「上を向いて歩こう」をお聴きください。
A6助作詞、中村八代作曲、1961年のリリースです。
さて、久保田和さんは明治37年、1904年に高知県の現在の戸佐市で生まれました。
同時代の女性に林文子や金子美鈴がいます。
市川夫妻や平塚雷長はもう少し上の世代ですが、近代の日本で女性たちが声を上げ始めた時代に久保田さんは育っています。
特に戸佐は自由民権運動の盛んな土地でした。
学業優秀で高知県立高等女学校に入学しましたが、
高等女学校と男子の行く旧正中学校の教科書の内容が全然違うことにびっくりした。
バカにするなと思ったから一生懸命勉強したと言っています。
また、当時の女子教育に対しても、両妻憲法は好かんと反発したとのこと。
そして、社会主義に関心を持ち卒業後、友人たちと社会主義運動をしようと言って大阪に出て行ったのですが、
ある社会主義者の男性に、男と越してやっていくためには職業婦人にならなきゃダメだと悟されて戸佐へ戻りました。
そして久保田さんは、女性医師を養成する先駆けとなった東京女子医学専門学校、現在の東京女子医大を受験し合格しました。
入学後、社会新研究会に入って活動を続けていた久保田さんは、卒業して母校の医局に勤務したのですが、
病院で組合を作ろうとしたのが発覚して、クビになりました。
そういう時代だったわけですね。
その後、昭和6年、27歳の時、藤吉田へ来て、学六無産者診療所の医師となりました。
無産者とは貧しい労働者や農民のことです。
そして久保田医師は、当時無産者のための運動をして、この診療所の開設に関わった渡辺道晴さんと結婚し、昭和8年に息子の和氏さんを産みました。
でもその後久保田さんは、和氏さんを連れて戸佐に戻ってしまいます。
最初に生まれた女の子が死んだため、寒いお城ではなく、温かい戸佐で子どもを育てたいという理由でした。
夫とは別居生活をして戸佐で医師を続けていましたが、
夫が昭和12年に亡くなった後、昭和14年、35歳の時、夫の父の求めに応じてお城へ戻りました。
岐阜としては、亡くなった長男の道晴さんの代わりに、孫の和氏さんに家を継いでもらいたかったのかもしれません。
一方で、小学生の時にお城へ戻ってきた和氏さんは、戸佐とはあまりに違う、お城の暮らしの貧しさにびっくりしたそうです。
ある東大教授が、昭和22、23年頃、「お城村の調査をして書いた三村の構造」という本の中で、
お城を半ば共同体的、半ば奴隷性的な社会であり、封建制の段階にも達していなかったと表していたとのこと。
でも、そういう村人たちの状況こそ、母親である久保大使が、お城に帰ってくる最大の動機だったと振り返っています。
そして実際、お城へ戻った久保大使は、委員を始めただけでなく、
下草と内野に農民組合を設立して、その初期調をし、農村民主化の運動も開始しました。
そういう中で、1947年、昭和22年の村長選に立候補したわけですね。
選挙結果を報じた山梨日日新聞の見出しは、「嫁と衆党が一騎打ち」でした。
お城では村長渡辺立信氏が民主党から、上位久保田一さんが共産党から立候補して激しい一騎打ちの結果、渡辺氏1082票、久保田さん456票で渡辺氏が当選したとあります。
当時、岐阜は村長をしていたわけですが、区対立覚悟の立候補の理由を息子の和志さんは、「お城で最大の問題だった農地開放だと言っています。
愛戦後の日本の清漁政策の本気な柱だった農地改革は、地主から土地を取り上げ、戸作農民に払い下げるというものでした。
でも、山梨のように山間部の冷災な地主が多い地域では、地主も生活に困っていて、改革の実行は簡単には進まず、地主と戸作農民の対立が深刻化していました。
それからもう一つ和志さんが挙げたのは、煮滝に欠かせない薪の問題でした。
お城の煮滝では、地主たちが団結して農民組合の組合になっているものには、山へ薪を取りに行かせない。
木が少ない煮滝の農民にとっては大変な問題でした。
そこで一つは、煮滝にある孫有林を払い下げてもらいたい。
二つ目は、当時は北富士園集場に今より木がたくさんあったので、そこへ入って枝を切ることを認めてもらいたい。
この二つを地主側に要求したんです。
お袋が利口した背景には、そういう四木草の農民組合の動きがあったんです。
当時の感覚からいけば非常に破天荒なことだと思う。
勝てる見込みがあったわけではないでしょうね。
というのです。
その通り、久保田さんは落選しましたが、その翌年、このような農地改革絡みのトラブルが原因で、岐阜である村長は辞職してしまいます。
それに伴って実施された村長選挙にも久保田さんは再び立候補しました。
この二度の挑戦を、押野村で生まれ育った桜井紗美さんは次のように見ています。
久保田先生はいつも弱き者の味方であった。そして人間みんな平等の精神を持っていた。
当時、押野は前時代的な寒村で、故郷の土佐とは全く違っていた。
そのような状況を目の当たりにして黙っていられなかったというのが本音ではなかろうか。
翌年の再挑戦は三度萌えの時点に終わり、その後政治を志すことはなかったが、
現手に持っている弱い人の味方、みんな平等の精神は変わらず、
23年の長きにわたり、押野村民生委員を務め、人生相談からお嫁さんの世話まで村人の面倒を見た。
また、社会保険制度のない時代に村人の健康保持と人命を第一に、
保険衛生指導、的確な診断技術により数多くの人命を助けたことは村民の一人として忘れることができない。
医師としての母については、息子の和志さんは次のように言っています。
昔は入院させるにも、本家の主人に相談しなきゃいけない時代だったんですよ。
母は土作戸ですから、言い訳はいらんから入院させろってやる人間だった。
だから、若い頃は地元の人たちとあちこちで衝突事件を起こしているんです。
例えば、子供が溜め池に落ちて死んだ。
そしたらフロックコートを着た人が来て、病気で死んだことにして診断書を書いてやってくれって言うから、
書かない、書けるわけねえじゃねえかっていう喧嘩をやった。
だから、最初にこちらに来た時は大変なとこだという印象を持ったようですね。
でも、二度目に来た時は、ある決意を持ってきたようです。
貧しさの中に身を置けば何でもない。いい社会じゃないですか。
だから、それから後はずいぶん楽天的でのんきに医者をしていましたね。
また、桜井さんのお父様で、押の村の元女役だった桜井彦俊さんも次のように思い出を語っています。
先生は、いわ神術で患者を見て、夜中の2時でも3時でも行って起こせば気持ちよく応心してくれた。
当時は自動車はなく、村で自転車を持っているのは10軒くらい。
重い応心カバンを持ってほとんど歩きだったけれど、金のない家いく度行っても嫌な顔ひとつしなんで気持ちよく見てくれました。
また、先生には、がんなんかの初期がわかったらしくて、すぐ東京の病院を紹介してくれた。
その診断書を見て、病院の医者が、手と聴診器だけでわかるんだから大したもんだとびっくりしたそうだね。
それで、押の村の名誉村民になってもらおうということになったけど、
そういう地位や名誉を嫌がる人だから、発起人を作って説得して、名誉村民第1号になってもらったです。
そして、桜井おさみさんは、まっすぐに思ったことを口に出す久保大使と、
肩ぶつでどっつきにくそうに見えた桜井さんのおじいさま、まるで水と油のような2人が息統合して、
さまざまなことを熱心に語り合っていたのが、とても印象に残っているとのこと。
波乱万丈の人生を歩んだ久保田さんらしい一面とも思えます。
桜井さんは久保大使のことを、住民の中に身を投じ、一貫して自己に忠実に生き続けたと表し、
生涯を厳疫で過ごした、お城の赤ひげ先生は、平成3年、去年87歳で逝去されたと結んでいます。
まとめ:山梨の女性たちの功績と現代へのメッセージ
今日は、山梨の女性の政治参画に関する初めてをテーマに、
特に初めての女性権威である宮沢栄子さんと、戦後初めての主張戦に立候補した久保田和さんについてお話しました。
女性が声を出しにくかった時代に、強い意志を持って自分を生き、
そういう時代の壁に穴を開けてくれた先輩の女性たちが山梨にいることをお伝えしたいと思いました。
ではまた。
FM八津畑、池田真子がお送りする暮らしの羅針盤、
今日も聞いてくださってありがとうございました。
幼子の声混じり合う青葉風
幼子の声混じり合う青葉風
まさこ
今年の夏はこれまでにない国書が予想されているようですね。
どうぞ気をつけてお過ごしください。