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2026/03/12 暮らしの羅針盤(池田政子 #80)
2026-03-14 42:09

2026/03/12 暮らしの羅針盤(池田政子 #80)

ゲスト:坂東眞理子さん(昭和女子大学総長)

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サマリー

本放送では、昭和女子大学総長の坂東眞理子さんをゲストに迎え、半世紀にわたる日本の女性政策の変遷と、男女共同参画社会の実現に向けた取り組みについて深く掘り下げました。1975年の国際婦人年を機に始まった国内行動計画策定から、女性の政策決定への参加促進、婦人白書の作成、そして女性差別撤廃条約の批准に至るまでの道のりを、具体的なエピソードと共に振り返ります。さらに、男女共同参画社会基本法の制定や、現代社会におけるアンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)の問題、そして若い世代への教育の重要性についても語られました。

日本の女性政策の黎明期:国際婦人年と国内行動計画
FM八ヶ岳 Day in Life 暮らしの羅針盤の時間です。池田政子が担当する第80回です。
このコーナーは、身近な暮らしの中にある男女共同参画やジェンダーの問題を取り上げてお話ししています。
今日も前回に続いて、昭和女子大学総長の坂東麻里子さんがゲストです。
坂東さん、今日もよろしくお願いいたします。
坂東さんは、1946年生まれ、東大卒の女性官僚として、戦後の日本の女性政策、男女平等政策に関わりました。
1969年に総理府に入って、1975年に婦人問題担当室が設置されたときに、そこに配属されました。
当時はまだ婦人問題と呼ばれて、また担当室でした。
1975年は、第一回の国際婦人年、世界会議がメキシコで開かれた年で、世界行動計画が採択され、国連婦人の10年が宣言されて、世界の女性たちの動きがとても活発になりました。
そして、1977年には、日本の国内行動計画が策定されています。
半世紀前、日本国憲法施行から30年経って初めて、具体的な女性政策が形になったわけです。
その目標として、次のように掲げられています。
国内行動計画は、憲法の定める男女平等の原則及び世界行動計画をはじめとする国際文書の趣旨に基づき、
政治、教育、労働、健康、家族生活等に関して、憲法が保障する一切の国民的権利を、婦人が実際に男性と等しく享受し、
かつ、国民生活のあらゆる領域に男女両性が共に参加、貢献することが必要であるという基本的考え方に立って、
それを可能とする社会環境を形成することを全体的な目標とする。
そして、そのための方策として、婦人の社会参加や不平等な観光の是正が挙げられていて、
生涯の生き方を主体性を持って選択し設計する、事故の実現、固定的な男女の役割分担を見直すなどの言葉が使われています。
半世紀前の女性たちの置かれていた状況が見えると同時に、社会は良くなるんだという希望も感じることができるわけです。
総理府婦人問題担当室の挑戦:政策決定への女性参加
そして50年経とうとしているわけですけれども、当時の婦人問題担当室が特に力を入れたのはどんな点だったでしょうか。
そうですね、それまでは女性に関わる政策というのはそれぞれの省庁ごとに行われていたわけですね。
例えば女性の教育は文部省、労働は労働省、農村女性に関わる仕事は農政省、それから医療や福祉は厚生省というのを、総理府の婦人問題担当室はそれぞれの省庁に特に属さない仕事、
そして総理府だからできる仕事というのは何なんだろうかというのを考えて一生懸命推進したのが、女性の政策決定への参加ということです。
政策決定というのは、いわゆる国会議員だとか、いろいろな役所のトップもそうなんですけれども、まず一番役所としてやりやすいのは、審議会の女性の委員の割合を増やすことだと。
こういうことで、実は昭和50年の国の審議会で女性の委員を占める割合は2.4%だったの。それを10年で10%にしましょうという目標を立てて、各省庁にお願いしてもらったんですね。
審議会の委員というのは、いろいろな分野とトップの方たちだと。女性でそういう人いないでしょと言われたんですけど、でも女性は人口の半分なのに2.4%はあまりにも少なすぎませんかと。
政府としてやれることをやりましょうというのが、当時の藤本担当室の姿勢でしたね。総理府というのはあまり力も予算もない役所なんですけれども、官房長官あるいは総理大臣ととても近いんですね。
各省庁にご礼をかけてもらうということを示していたら、各省庁も渋と女性を入れるようになってくださいました。3割を超えて4割に近いですよ。
他にどんなご苦労がありましたか。
それぞれの役所の仕事は自分たちの縄張りという言葉は良くないんですけど、権限であるこれ口出しするなと。総理府は国連の窓口として国際的な動向について情報提供してるわけですけれども、
実行するのが自分たちの役所なんだという考え方でしたね。
その縦割りを破っていくということがとても大変だったということですよね。
民間運動の活発化と婦人白書の意義
この国内行動計画ですけれども、今振り返ってご覧になるとどんなふうに評価されますか。
世界行動計画、メキシコ会議で採択された世界行動計画のうち、
大きな課題となっていく性別役割分担ですとか、政策決定の参画というのは、日本でもやらなきゃという感じで、
精進したと思います。
当時は女性の国会議員2%くらいで、それもとても少なかったんですけれども、
国会の女性議員の方たちですとか、あるいは女性団体の方たちが、これを機会に声を上げようということで、とても活動が活発になりまして、
例えば国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会議が開かれてまして、
43の女性団体が加入してらっしゃったんですが、その方たちのお一人が秀一恵子さんだったんですが、
秀一恵子さん、当時のインスタントラーメンのコマーシャルが、私作る人、僕食べる人というのに、
それはそれこそ性別役割分担を象徴しているコマーシャルで、けしかなんと言って文句をつけたりですね。
それから、どこかの人口で、でかした、また男の子というコマーシャルだったんです。
男の子を産むのはでかした、おめでとうという感覚が当時まだまだ、誰もおかしいと思わなかったんですが、秀一恵子さんが、それこそ私は女の子しかいません。
実は私も四人姉妹の4番目で、また女の子と言われた人ですから、それはもう本当に共感しましたけど、そういうように、
政府の行動計画、役所が何を行うかだけではなしに、これをきっかけとして民間の方たちも動き出されたというのが、とてもインパクトがあったかなと思います。
そういうきっかけになったということですよね。国内行動計画の策定の翌年に、1978年に日本で初めての婦人白書、婦人の現状と施策第1回ですよね。
報告書という位置づけです。これは政府が何をするかということを書いているんですけど、関係となる今現在の女性たちがどういう状況に置かれているかということを書いて、その後でこの行動計画に関わる政府がどういう政策を行っているかということを述べた、二部たちになっています。
これ本当に日本の女性の地位と実態を総合的にまとめた、初めての国の報告書ということですよね。私持ってますけれども、女性の社会的地位をデータによって可視化した、そのことが本当にとても重要な意味があったと思います。
女性差別撤廃条約批准への道のり
先生はこの執筆中心になって担われたというふうに伺ってますけれど、執筆に当たってどんな点に重きを置いて考えられましたか。
私は実は白紙を書くのは、僕4回目、その藤森担当室に来るまでは青少年対策本部というところにいました。青少年白紙を何度も何度も書いていて、白紙というのはこういうふうにして書くのかという経験があったんですけれども、
できるだけ自分の意見を言うと叩かれる。各省庁から。それはお前の意見だろうと通らないので、客観的なデータでデータを押して語らしめる。今の日本の女性は地位が低い、何とかしなくちゃっていう以前に、こんなに労働力率、総理はM字番の単位がとても深いところですけれども、仕事を続けることができないんだよ。
あるいは女性たちは農業を一生懸命やってても、遺産相続の権利がないのを何とか大衆相続を認めようとかね。当時のそれぞれの施策の背景になっている現実、データで示す。それだったらお前の意見だろうと言われないわけです。
今であれば、データを根拠にして次のことを考えるっていうのは普通のことでしたけれども、そういうことを最初に女性政策としておやりになったということですね。
そうですね。新年だけど十分なデータがなかったんですね。私たちは男女平等に扱ってますから、女性だけのデータを取る必要がありません。
という理屈だったんですね。
現実では男女別にいろいろなデータを取れば、そんなに違うのに。女性のデータを取ろうという意欲がそもそもない、女性のデータがそもそも存在していないという分野が結構ありましたね。
こういう動きが背景にあって、1979年に国連で女性差別撤廃条約が採択されたときに、日本も賛成意を投じました。そして翌年の条約の署名につながったわけなんですけれども、
バンド先生はこの一連の現場を経験していらして、こういうプロセスを語れる初任のお一人だと思っています。当時ご自身は、この女性差別撤廃条約についてどういうふうに捉えて、日本の女性たちにとってどんな意味があるというふうにお考えでしたでしょうか。
そうですね。単なる世界行動計画や宣言など、法則力のない国連文書ではなくて、女子に対するあらゆる差別の撤廃に関する条約というのは、法則力のある際条約がついに採択されたんだなと。
それはとても画期的で、日本は総論賛成で、採択には賛成したんですが、いざ批准する、その条約を批准するためには、国内の制度や法律を上げてなければならない、変更しなければならないんですが、そのときに3つ課題があると言われていたんです。
1つは国籍法、あと2つ目は公教育においてカリキュラムの男女差をなっているということで、高校で男の子にも家庭科を教えなければいけないということで、その2つも役者の手続きとしては少し時間がかかったんですけれども、
一番大変だったのが、国家における男女の平等を保障する効率がないのではないかと。実はそれまでは労働基準法、同じ仕事をした人は同一賃金、男女と差別をしてはいけないと言うものの、女性が働く場合は3前3後の休暇、あるいは生理休暇、
危険有害業務の禁止、深夜業務禁止というように女性労働を保護されていたんですね。それが保護されるから、男性と女性は平等に扱わなくてもいいんだということで、とても差が大きかったんですが、
それに対して経済界が反対すると自民党も反対したんですけれども、女性たちと男性と結果を平等にするのは大反対だ。能力が違う、働き方が違う。
せいぜい機械均等なんだ。これから日本の企業の人事権、誰を昇進させるか誰を採用するかというのは、企業の人事権に関わる問題を法律で規制されては事業の自主的な活動ができなくなる。日本的経営の根幹が緩むということで、大変反対が大きかったです。
ところどころ労働省の当時、赤松さんが局長でいらしたんですけれども、本当に大変で頑張られました。労働企業の方からは、女性が働けるのは深夜上禁止とか、危険有名業務とかという法があるから働けるので、女性の方をなくしたらとても働けないよと。
こういう反対がとてもありました。両方から責められて、赤松さんは今でも人口に感謝されての小さな分で大きく育てる。最初のこの雇用機械均等法は、実は罰則なし。採用や昇進は努力義務。
差別してはいけないのではなし、差別しないように均等な機械を与えるものとするという、とてもまぬるいというか柔らかいという法律を作った。それでも1985年にこの法律ができたおかげで、女子差別展開条約を批准することができました。
それが72番目ということだったわけですけれども、でもこれを受けて1999年に性別に関わりなく、その個性と能力を十分に発揮することができる男女共同三角社会の実現ということを謳った男女共同三角社会基本法が制定されました。
その後の2001年に坂野先生は内閣府の男女共同三角局の初代局長を務められたわけですけれど、この時のお仕事というのはどういう仕事が中心だったんでしょうか。
実はですね、その前がありまして、1995年に北京で第4回の国連が主催した女性会議があったんですね。
その前に私は1993年に藤本大担当室長に任命されました。ずっと室長は労働省出身の方だったんです。初めて総理府出身で藤本大担当室長を議員になりました。
その時に1978年から時間が経っている中で、婦人問題はないんじゃないかと。男性と女性が共に力を合わせて責任を分担して社会を支えるんだという新しいコンセプトの男女共同三角室。
という部署をつくって、私はそこの初代の室長に任命になったんです。男女共同三角というのは、男性と女性が共に三角するということなんです。
世界行動計画の時も、社会参加が大事だと言ってたんですけれども、参加だけではなしに、企画から実行、あるいはその結果に責任を持つところまで、フルに関わっていかなければならないんだということで、参加から三角へと考え方を変えたんですね。
総理府の正式な部署として男女共同三角室ができた。そしてそこが中心になって、北京会議第4回世界会議で北京交流、北京プラットフォームができて、十字の重要分野等を挙げられているんですけれども、
それを実現することが必要だということで、男女共同三角社会基本法が成立する。またその法律を推進する上で、内閣府に男女共同三角局を置くことが決まりました。
それはやっぱり、90年代の後半、北京会議に日本から5000人の女性が参加しているんですけれども、地方からもたくさんの女性が参加してくださって、これからは女性たちが社会を支えるんだという感覚が、本当に盛り上がってましたね。
その流れの中で、基本法もできたし、男女共同三角局もできたんだなと、今になっては本当にしみじみ思います。
ご質問の三角局でどういう仕事を取り上げたかというと、一つは、仕事と家庭の両立支援ということで、そのときの一番の根っこが、保育所が足りない、それをもっと増やそうということで、待機児童ゼロ作戦を推進しました。
それから、これは少し時間がかかったんですけれども、2020年までに、あらゆる分野の指導的な地位に、女性を30%、何で30%かというと、クリティカルマシンとなる少数者ではなしに、30%もいれば無視できない存在として、
意見が尊重されるだろうということで、こういうことを決定しました。
当時、これは今もまだ尾を引いているんですけれども、民法の改正、法制審議会で、今、夫婦が結婚したら同一の性を名乗ることとするとされているのを、別種を選択することもできるという答申が出たんですけれども、
男女共同参画社会の実現へ:基本法制定と内閣府男女共同参画局
言葉のセットをするかということで、統一した意見ではなしに、いくつかの案をABCと出したというようなこともあって、こんなに条件されていない。
しかも、今の高市さんもそうですけれども、大変反対の意見を持つ人が多い。これはなかなか法律を改正して、民法を改正するのは難しいなと。
でも現実には、救世を使用できなくて困っている人たちがいるというので、職場で通称として救世を使用することを可能にしようということを、これは法律改正ではなしに、各省庁の人事課長の申し合わせという形で決めていただいて、
国民に対しては、救世を職場で通称として使用することができる。名刺はどうだ、座席表はどうだ、人事発令はどうするんだ、事例はどうするんだとか、いろいろ細かいことがあったんですけれども、だんだん拡充されましたけれども、それが最初の一歩でしたね。
では今日のリクエスト曲です。プッチーニのオペラトスカから星は光るんです。ではこの曲ルチアーノパパロッティの歌でどうぞ。
その後、2003年に昭和女子大学に招かれて理事にお成りになって、2007年には学長になって、そこから若い女性たちの教育に関わってこられたわけですけれども、女性の教育という場を選ばれたというのはどうしてですか。
公務員の仕事っていうのは法律だとか制度とか、その舞台作り、幕間に作りの仕事で、やっぱり社会が変わるかどうかというのは、その舞台の上で演じる人が主体的に自分の人生の責任者としていけるかどうか、こういうことが一番大事なんだと。
教育の中でも、若い大学生、若い人たちに、しっかりと自分の人生の責任者なんだよ、ということを使い抜ければいけないと思いました。
実は、当時、私が昭和女子大学に参りましたときは、短大に進学する女性に徹底して、短大が手に割れをするというような時期でした。
それまでの女性の、結婚するまでお仕事をすればいいんだって、結婚したら家庭に入って温かい家庭を作る、良いお母さんになることをきちんと支えることができる、そういう力を持てばいいんだと考えられていたんですけれども、
自分の人生の責任者として生きていくためには、女性のちゃんとした職業に尽くす力を身につけなければいけないのではないか、ということで、教養だけではなしに、社会で必要とされる力を身につけなければいけないということを強く感じました。
男性が常に有り余っている分野に、後から女性がのぞもぞと出ていっても、競争に勝つのはなかなか難しい。しかし、男性が少ない分野、男性が不特異な分野に行けば、比較的ブルーオーシャンというか、競争を行けば少ないのではないか。
ということで、国際的な力を持って、なおかつ男性の経営に関わるような専門的な知識を持つ人材を育てるというのが、強みになるのではないかということで、
学長になった年から準備をして、2009年に国際学科を設置して、2013年にグローバルビジネス学部を設置しました。
その他にもいろいろな新しい学科や学部を作りましたし、卒業した後、きちんと就職するのを応援しようということで、キャリア支援センターという新しい部署を作りました。
教員の方たちにも、キャリア支援部委員になっていただいて、それぞれの学科でキャリアデザインコリシーというのを作っていただく。そして1年生の時から、女性にとって資本をする社会と関わるためには、どういうことを考えなければいけないか、どういう作業が必要かということを設定しました。
大学の教育というのは、教師の中で先生が知識を伝えるだけではなしに、その知識をどういうふうに活用して社会的課題に関わっていくのか、こういうことを考える必要があるのではないかということで、自治体あるいは企業と協力をしてプロジェクトを行うということを推進しまして、
仕事と家庭の両立支援とアンコンシャス・バイアス
グローバル教育、キャリア教育、プロジェクト学習の少女次第では、3つの柱として推進してきました。
はい、いろいろな改革をなさってきて、多分そのことと関係があると思うんですけれども、最近、なぜ人は無意識に偏見を持つのか、あなたを縛るアンコーシアスバイアスという本をポプラ社というところから出されました。
アンコーシアスバイアス、この番組でも何度か取り上げてきたんですけれども、どうして今この本を書こうと思われたのでしょうか。
そうですね、今、日本の女性たちが活躍しているんですけれども、ジェンダーギャップでは146カ国中118位と、大変低い、それこそ雇用機械均等法もあります。育児企業もあります。保育所も随分整備されていて、手入れが出てきているような状況です。
にもかかわらず、女性たちが、それこそ政策決定の場にはあまりついていない。人員格差も非常に大きい。
正社員と非正社員の差があり、女性が圧倒的に非正社員の割合が高い。
こういったようなことを見ていて、法律や制度だけではなく、行動を規制する、人のいろいろな習慣を形作っている意識、それも自分で意識して、女性を差別しようとか、女性の能力がないとかって、だからこうするんだと思っているのではなく、
無意識のうちに、女性にはこれ無理だよね。難しい商品をさせたらかわいそうだよね。あるいは、女性は人の世話をするのが女子力があるので、世話する力がない人は女性として魅力がない。
そういったような思い込みですよね。
それが、こうした社会で女性を活躍させることができない一番の理由なんじゃないか。
昭和女子大学での教育改革:グローバル化とキャリア支援
法律制度は一生懸命やってきました。教育も頑張りました。
でもまだ残る差別というのは、当たり前だと思ってやっていることを変えなければいけないんじゃないか。
アントアシアスバイアスについて書いたのですが、特に今日改めて思いましたのは、女性に対して男性が偏見を持つのはもちろん良くないのですが、
むしろそれは女性自身に反映して、私は女性だから無理しちゃいけない。あまり成功すると人から嫌われる。
自分で自分を規制してしまう。これも無意識の偏見ですが、
女性に向ける偏見を、女性たちの無力を発揮するのを求めているのではないかと思いました。
そして、差別している男性自身が、男性はこうあるべきだという無意識の思い込みに囚われているんじゃないか。
いろいろな形で、私たちはもう少し昔からの当たり前に囚われないで、どんどん変化していく現実の中で、自分の可能性をしっかりと見つけて発揮しなければならないなということを、
今日の時間にしました。ぜひ女性だけではなく、男性の方にも呼んでいただきたいと思います。
でも、社会が悪いからとか、おじさんたちが古いからと言っている場合ではないというふうにおっしゃっていらして、
私はとても共感したのは、若い女性が不足の事態があり得るということ。離婚とか、私別とか、病気などそういうことを考えていない。
だから自分で家族を養うことのできる経済力を身につける必要を感じていない。それは考えが甘いと思ってしまうというふうにおっしゃっているんです。
私も若い女性たちの教育に長く関わってきましたけれども、ジェンダーについての授業では、本当に必ずこのことを伝えようと思ってきました。
アンコンシャス・バイアスと現代社会の課題
【佐藤】それでは、子ども園から女子大学、大学院まである昭和学園のイメージソングですね。
For Our Dreamsという曲を聴いていただきます。この曲はどんな曲ですか。創立100周年。
昭和女子大学が1920年から2020年で100周年なので、イメージソングを作ろうということで、学生たちから募集をして、曲は専門の方につけていただいたんです。
歌詞は学生さんたちがいろいろ考えて作ったということなんですね。はい、聴いてください。
このミュージックビデオをホームページで拝見したんですけど、とっても楽しかったです。
学生さんだけじゃなくて、警備員の方とか事務局の方々、大学を支えている方々もぎこちなく踊ったりしていて、それがすごく楽しくて、思わずバンド先生もいるかなと思って探しちゃったんですけれども。
先生がもし今、男女共同参画局長という職責にあるとしたら、若い世代のためにどんな政策を打ち出そうと思われますか。
そうですね。大時代はAI等々で情報が山ほどあるんだけれども、その中で自分で判断をして、自分で社会的な課題を見つけて、スムースにいかなくても途中でいろいろな困難があるとしても最後までやり止める。
そういう力を身につけるということがとても大事だなというのを実感します。
政策として、局としてやるとした場合は、例えばもっともっと海外からの留学生を受け入れる、自分たちが海外に出ていくというような方法を促進する。
それから大きな組織の中でだんだん昇進していくという風な生き方だけではなしに、自分から企業を作る。自分の会社を作る。自分のNPOを作る。そういったような新しいことを自分で始める人たちを応援するようなファンドを作る。
それからもちろん基本的なことですけれど、選択肢、選択ですからいろいろな可能性があるということを、社会のいろいろなところで実現していく上での一つの資金積になるのではないかと思っています。
【佐藤】ありがとうございます。2回にわたって、昭和女子大学総長のバンド・マリコさんに、長年日本の女性政策に関わってこられたご経験の中から貴重なお話を伺いました。バンド先生は山梨に、葡萄の季節に時々おいでになることがあるというふうに伺いました。どうぞまたおいでください。どうもありがとうございました。
【バンド】ありがとうございます。
【佐藤】ではまた。
42:09

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