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2026/09/10 暮らしの羅針盤(池田政子 #91)
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2026/09/10 暮らしの羅針盤(池田政子 #91)

「戦後81年 沖縄の女性史編纂に取り組んで」 第2回 米軍基地と性暴力 ゲスト:宮城晴美さん(沖縄女性史研究家)

感想

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サマリー

本放送では、沖縄の女性史研究者である宮城晴美さんをゲストに迎え、沖縄戦における集団自決と「家制度」の関連性、そして戦後の米軍基地と性暴力の問題について掘り下げていく。特に、沖縄独自の「門中制度」や明治民法の影響が、女性の抑圧や集団自決の背景にあった可能性を指摘。さらに、米兵による性暴力が戦後も続き、被害者が声を上げにくい社会構造があったこと、そしてそれが基地問題と結びつき、女性の人権問題として大きく取り上げられるようになるまでの道のりを詳述する。

沖縄戦と家制度の影響
FM八ヶ岳 デイ・イン・ライフ 暮らしの羅針盤の時間です。池田政子が担当する第91回です。
このコーナーは、身近な暮らしの中にある男女共同参画やジェンダーの問題を取り上げてお話ししています。
今日も沖縄の女性史研究に取り組んでこられた宮城晴美さんをゲストにお迎えしています。
宮城さんが講師をされた沖縄における軍隊と性暴力と題する講座を私が受講して、ぜひこのお話を多くの方に聞いていただきたいと思ったからです。
前回は沖縄戦でなぜ集団自決ということが起こったのか、それを考えるとき
過不調性という視点が欠落していたと気づいたというところまでお話していただきました。
今日もオンラインでお話を伺います。宮城さんどうぞよろしくお願いします。
宮城さん よろしくお願いします。
集団自決と過不調性、どういう関係があるのか。この場合の過不調性は沖縄の過不調性ということですね。
沖縄の過不調性というのは、琉球王国以来、中国との交流が琉球国はありましたので、その影響で自居思想が入ってきたことによるものなんです。
日本の場合の規制の身分制度は首脳交渉だったんですけども、琉球の場合は死という侍、侍と言います。
それと百姓という二つの身分だったんですけども、この侍という身分の中だけに、団結結束のですね、この過不調性をベースにした門中組織、門の中といいますけども、門中組織っていうのが出来上がったんです。
その門中組織そのものが非常に自居思想の影響を受けてまして、それで女性は排除されていたんですね。
それが明治10年に琉球が沖縄県になりますと、侍が私族になります。百姓は平民になるわけですね。
これが明治31年の民法が出来たことによって、実は民法の過不調性っていうのが、非常に沖縄の門中制度と内容がとても似てるんです。
ですので沖縄では非常に子子を中心とした家制度ですよね。それが沖縄の門中制度と似てるものですから、沖縄の人にとっては明治民法っていうのはとても受け入れやすかったと思うんです。
そういったことが戦争にまで影響していると思いますけれども、不倫は絶対許されないとかですね。
女性は結婚して夫の家を継承するための子供を生まなければならないとか、日本も一緒ですよね。そういった形が沖縄の場合には、わりと強く出てたと思います。
その民法っていうのが、新しい民法が日本は1948年に施行されますけれども、沖縄の場合は1957年、戦後になってということですので、それまではずっと続いているということですね。
新しい民法っていうのは、過不調整を否定することに土台があったわけですけれども、意識の上では今でも家制度の影響が強く残っているっていうことでしょうか。
そうなんです。これはとっても根深くてですね。民法、法律では新しくなっても、改修自体が変わらないというのがありますので、まだやはりこの戦前の民法が、この民法のシステムっていうのが、それぞれの家族制度の中でまだ生きてるっていうのがあります。
ですので、特に財産を継ぐ、あるいはその遺肺を継承する。遺肺ですね。長男ということになってますけれども、娘には継がせていけないというふうになるんです。娘に継がせると、交通事故があったりとか病気になったりした場合に、その娘のせいでたたりが来てるっていうふうなですね。
そういった傾向がまだ残ってますけれども、戦争中っていうのは、そういったことが非常にまだ強烈にあった時代ですよね。伝統的な家族制度が残ってますので、もし敵に襲われて、敵の子供を見守ったら、もうこの集落で生きていけないという、そういった時代ですので、そのことが集団自決と非常につながりを持ったということは、これは非常に重視すべきだというふうに、
私は思っています。
だけれども、その集団自決の原因の中では、過不調整という視点が欠けていたと。男性の歴史研究者だけで書いた沖縄県史では、そういう背景を考えもしなかったということなんですね。
そうなんです。私自身も、女性史を研究していく中で、やっと見えてきたという、そういった感じなんですね。
米軍による救助と性暴力
前回の放送で、米軍が迫ってきた防空壕で、おばあさまが夫に頼んで、髪剃りで喉を切ってもらったけれど、死にきれなくて、米兵に助けられたというお話を伺いました。
アメリカ兵はなぜ助けたのかということ、それから、そういう過不調整度の下で生きてきたおばあさまとかご家族にとって、アメリカ兵に助けられて生き残ったということは、どんな影響があったと思われますか。
非常にですね、私の祖母の場合は、もうアメリカさん助けてもらってありがたいっていうことを盛んに言ってました。
米軍はですね、これ米軍が資料で知ったんですけれども、もちろん民間人を救助するのは人道的な行為としてはもちろんではあるけれども、それ以上に、この沖縄の人たちを手名付けないといけない。
つまり日本軍が残したプロパガンダをどうにか払拭しないと、この沖縄の占領がうまくいかないという、そういったことがですね、資料の中に出てきます。
ですので米軍側としては、一方では助けながら、一方ではレイプ事件を引き起こしているわけですね。
ただこのザマミ島の場合には、米軍はもう早々に沖縄本島に移動しましたので、実害を受けていない、あまり受けていない。もちろんレイプ事件あります。
ありますけれども、生き残った祖母の家族にとっては、とってもいい人たちで終わってしまったんですね。
ですけれども、やっぱりこの祖母の場合には、自分自身は生き残っても、やはり息子一人を死なせてしまったわけですね。
その怒りっていうのは、本当は自分にも無欠つつではあるんですけれども、直接手を下した夫に、この怒りをぶつけていたということなんですね。
ですから、今でも時々思うんですけれども、やっぱりこのザマミ島、沖縄の人たちっていうのは、この戦争、なぜこういった事件が起こったのかという、戦争の本質的なことよりも、直接誰が手を下したのか。
身近な人たちに戦争責任を押し付けるというですね。そういった非常に、今でもそういったことは感じられます。
ですので、祖母の場合もですね、非常に自分の怒りとか苦しみっていうのを、結局は家族の中でそのことを吐き出しているという、そういった状況なんですね。
直接にはそのおじいさま、夫に対する怒りになっていたっていうことなんでしょうか。
そうなんです。非常に人殺しとかって私も聞いたことありますけれども、とってもなじってましてですね。
おばあさまがですか。
そうです。それを言った後の祖母の表情、言われた祖父の表情、2人とも決して、晴れ焼けではない、晴れ焼けじゃないですけれども、とにかくお互いもそれ以上言わないです。
ずっと黙り込んでいます。
そういった夫に向けることによって、結局息子の供養にはならないと思うんですけれども、それによって自分自身が気持ちが落ち着けたのかなという、そういったことが何度もありました。
本当にそのご家族の間でのそういう感情のあり方って、うかがっててもとても悲しいですね。
国家責任と慰霊の日
そうなんですよね。かがい、かっこつきですけれども、かがいとひがい。この関係性というのが家族の中に閉じ込められて、あるいは集落の中に閉じ込められている。
そういったお互い同士が傷つけ合っているという、非常に悲劇の歴史といいますかね、戦争の無業さというのを考えさせられます。
6月23日ですか、慰霊の日、沖縄全戦没者追悼式での高市総理の挨拶には、避難の矢字がすごく飛びましたよね。
私もテレビで見ていて、国を守ろうと戦ったとかから、特に尊い犠牲というような言葉に、本当に強い違和感を感じました。
そうなんですよね、私もそうだったんですけれども、結局、本当にこれまで歴代の総理が沖縄にやってきたんですけれども、今回もそうですけど、やっぱり国家責任、戦争に対するですね、国家責任というのが、
これまで総理たちの中には全く見えない。慰霊の日の沖縄の全戦没者追悼式に、高市総理が来た時にも、結局この矢字が飛んだんですけれども、この矢字というのは、
むしろ、もちろんいろいろ賛否がありますけれども、黙っていた人たちの中にも、この高市総理の挨拶に対する怒りというのはあったと思うんですね。これが声になって、矢字として私は出てきたと思っていますので、
その国家責任という戦争に対する、このことが非常に希薄であるというのがですね、私にはとても怒りとして受け止めています。
【佐藤】じゃあちょっと、宮城さんのリクエストで、石垣島出身の夏川リミさんの、なだそうそうです。
【宮城】なだそうそうって、沖縄の人はよく使いますけど、涙がボロボロ出てくるっていうのを、なだそうそうって言います。やはりこの曲を聴いて、歌詞を聴いてますと、
いろんなですね、亡くなった両親とか祖父母、友人とか、いろんな人たちが出てきて、この歌で再開させてもらえるような、そういった気持ちになります。
米兵による性暴力の実態と隠蔽
【佐藤】ではどうぞお聞きください。戦争中は日本軍が住民の投降を防ぐために、米軍に捕まれば女性は性暴力を受けるという恐怖を利用していたことは確かだけれども、
でも現実にも、占領下の沖縄でも、米兵による性暴力は起きていたということなんですね。
1955年に6歳の女の子が米兵に拉致された、上にレイプされて斬殺されたという事件が起こったというのがあります。それは私が大学の4年の頃だったと思いますけれども、1970年代初め頃ですね。
それを知ったんですけれども、それも私はこの事件だけ特殊なことだというふうに思っていたんです。
その後ですね、やはり女性死を調べていく中で、沖縄戦の中で米軍に捕まって、レイプ事件が多かったという女性たちが捕まったんですね、ということを知るようになります。
とにかく当時の沖縄というのは、できるだけ表に出さない。とにかく犠牲者が出たら、自分たち集落の恥というふうに考える人が多くて、集落の中でも観光霊を強いてしまうんですね。
観光霊っておっしゃるのは、正式な命令っていうんじゃなくて、性被害を口にできないような社会的な空気という意味なわけですね。
そうなんです。これは被害者のことを恥というふうに思う社会の問題だと思いますけれども、なぜそんなに隠す必要があるのかというですね、
訴えるべきじゃないかということも考えたり話したりもしましたけれども、結局その交換されたというだけでも、その人の人生そのものが終わってしまうような社会構造があるんだということに気がついたんです。
先ほどの家制度のような意識がかなり強く続いていたということなんですね。
まさにそうなんですね。ですから、その米英による事件が起こっても、女性たちは本当に運動することすらなかったんです。
ほとんど知らされないというか、知らされないこともありますし、やはり女性たちの感覚の中にも、被害者の日があるんじゃないかという、そういったイメージっていうのは多くの人が持ってたと思うんですね。
ですけれども、それと同時に沖縄でいろいろ反基地闘争と言いますかね、米軍基地に対するいろんな運動がありましたし、
人権を求めての運動もあったんですけれども、その運動の中に女性のこういった被害の問題というのは全く取り上げられなかった。そういう時代が続いてきたと思っています。
米英による女性の性暴力というのは、沖縄戦の時だけのことではなくて、その後もずっと続いてきた。
でもそれが長い間、沖縄社会全体の問題として大きく取り上げられることはなかった。なぜですか。
これやっぱり襲われた人が恥ずかしいというですね、そういったことと、あとやっぱり地域にとって不明眼なこと。
世界女性会議と調査の開始
これこそ本当に核強制の根幹だと思うんですけれども、こういったおかしいと考えるきっかけになったというのが、1995年の北京で開かれた世界女性会議ですね。
その世界女性会議の中で沖縄から71名が参加して、私の友人たちも参加したんですけれども、そこのNGOフォーラムで、沖縄における軍隊、その構造的暴力と女性というテーマでワークショップをしたんですね。
そのワークショップに提出するためのこれまでの事件について、私の方でちょっと新聞で主だった事件を調べていって、沖縄にはこんな事件があったのかということが、分かったきっかけになったということになります。
記録を作ってみて改めてということなんですね。
はい、そうなんです。それでずっと調査を進めていく中で、特に1950年代後半、この米軍基地の今度からの移転というのがありまして、沖縄に米兵が増えだします。
そしてさらに事件が増えていったということが分かったんですね。
そしてその後、ベトナム戦争が起こった60年代から米軍の出入りが非常に沖縄、頻繁になりますけれども、その頃から事件そのものがですね、凶悪になってくる。
この時期の性犯罪の被害者といいますのは、米兵相手のバーとかクラブで働いているホステさんたちが圧倒的に多かったんですね。
これが単にレイプ事件だけじゃなくて、殺人事件、レイプした後殺すというですね、こういった事件というのが相次いで起こっていったんです。
そのホステさんの中には、やっぱり借金を抱えてますので、この成敗祝いもセットで働いている女性たちが非常に多かったんです。
ですから多額の借金を抱えてて、それを返すためにですね、本当に命を張って働かざるを得なかったということなんですけれども、
それがあまりにも残念な事件だったんですけど、それでもですね、やっぱり沖縄の人たちにとっては、あまり声を荒げるような内容ではなかったみたいですね。
宮城さんの講座の中では、ベトナム戦争で戦った男性の証言が紹介されていたんですけれども、
例えば、昨日までベトナムで血みどろになって戦っていた者が、今日は飛行機で半日の距離の沖縄のバーで酒を飲んでいるということ、
それから殺人の訓練を受けた兵士が戦場と沖縄を往復する、そのこと自体が事件の根源にあるということでした。
でも当時は加害者である米兵ではなくて、被害を受けた女性に対してそんな仕事をしていたんだからと、責任をそちらに求める見方が一般的だったということなんですね。
そうなんですね。ですから、米兵にとっては沖縄に来ても戦場だという意識がやっぱり強いわけですね。
それはそうですよね。
そういった戦場が続いているわけですから、そういった記録を読んでいる中でわかったのは、結局こういった危険な人たち、危険な米兵を相手にしているんだから、
被害にあっても仕方ないんだろうという、そういった冷たい目線を向ける人たちが多いということもわかったんです。
差別構造と祖国復帰運動
ですので、米軍の事件に対しては、メディアでずっといろいろ記事はしますけれども、特に殺人事件については何日も記事にしていくんですね。
ですけれども、レイプされたという事件に対しては、ほとんど小さな記事でしかなくて、だから沖縄人たちの中の運動にさえならなかったということなんです。
そしてまたもう一つ、これはもうとても悲しい出来事であるんですけれども、この殺された女性たち、あるいは補助施設になっている女性たちというのが、ほとんどは離島出身の女性たちが多かったんですね。
沖縄本島の女性たちというよりは、周囲の島々の人たち、そういう離島の人たちに対する差別意識も感じられました。記録の中ではですね。
もともと沖縄本島とそのほかの離島の出身の方との間で、またその差別があったということなんですね。
そうなんですね。だから沖縄の人たち自身が結構、本島の人たちから差別されてきたという、そういった、何て言うんですかね、そういう腐食するためにまた差別する体操を見つけて差別するという、こういった差別の構造というのが非常にこの
米兵の事件の中に結構、はらんでるんじゃないかというような気がしました。
で、それがなかなか運動につながらなかった。でも1950年代後半から60年代、これ沖縄でいわゆるその祖国復帰運動というのが盛んになっていた時代ですよね。
そうなんですね。その祖国復帰運動と言ってますけれども、結局その運動の中では人権を取り戻したい、回復したいということですね。こういった人権を表に出して、スローガンにしてたと思うんですけれども、結局その女性の
人権については、この運動の中では増えてこなかったんですね。ただ先ほど言った55年の6歳の女の子の事件の場合には、子どもということですごい取り上げられたんですけれども、ただ子ども一人を
そこに一人で行かせた母親が悪いということで、結局母親を批判するという記事もあります。
その祖国復帰運動というのは、新しい日本国憲法が適用できれば沖縄でもその人権というのが確立できるから早く復帰したいというふうに思われたんだろうと思うんですけれども、基地に反対するとか沖縄の人権を守るという運動はあったけれど、
でもその中でも性暴力を受けた女性の人権というのは、長い間別の問題として外に置かれていたということなんでしょうか。
はい、そうなんですね。
山梨との共通点と女性運動
そういうお話を伺っていて、山梨にも重なるところがあると思いました。1950年代の後半ですよね、本土での反対運動などを背景にして、アメリカの海兵隊が沖縄へ移っていくわけですけれども、山梨県でも北富士ですね、戦後海兵隊が中途にしていました。
宮田さんは今回、山梨日新聞の連載をまとめた、富士と沖縄という本を読まれて、本土でも沖縄と変わらない出来事があったことを初めて具体的に知ったというふうにおっしゃっていましたよね。
そうなんです。本当に今回、宮田さんにご紹介いただいて、早速富士と沖縄を勝って読んだんですけれども、沖縄と本当に同じようなことが、本土でも北富士で具体的な反対運動が起こっていたという、そういったことを私は知らなかったんですね。ですから勉強になりました。
ただ、その記録を読んでも性暴力のことはほとんど出てこないと、その点も沖縄と共通しているというふうにおかじになったわけですよね。
はい、そうなんです。この性暴力というのが本当に、どこででもいかに隠されてきたかという、そういったことがこの本でも分かったんですけれども、非常に残念ですけど、どこも共通しているんだなというふうに思いました。
私はもう一つ共通しているのは、北富士で基地に反対して本当に熱心に運動していた女性たちの中にも、自分たち、私たちと、それから売春婦と呼ばれる女性たちと、全く別の存在として分けてみる見方があったということなんですよね。
ここにもやっぱり、性暴力の被害者である女性を孤立させてしまう、そういう構造があったと私は思っています。
それはやっぱり、過不調整の中で生きてきた女性たちの拭いきれない意識だと思います。特に、両性憲法というのを確認しながら、自分たちも学んで、そういうふうに指導してきた人たちも多いですので、その人たちの意識そのものを否定するということはもちろんやってはいけませんよね。
そういう話も聞きながら、私たちだったら、どう考えたかなというふうに思いますと、やっぱり簡単に切り捨てることはできないというふうに思っています。
沖縄女性の会と性暴力問題への取り組み
【森】証言を聞くという作業はきっとそういうことですもんね。でもとても切ないと思います。そういう中でも、女性の側から性暴力の問題を取り上げようという動きが、1980年代頃から沖縄で出てくるわけですね。
そのお話の前にリクエストの2曲目です。ご紹介くださいますか。
【森】浜辺の歌ですけれども、実はこの浜辺の歌ですね。私のざまみ島の集落の前が砂浜だったんですけど、戦争終わって私の父が帰ってきてですね、砂浜に小さなボートで降り立ったときに、大衆の面前で私の母が
ひざまずいて、ふかふかとお勤めご苦労様でしたというふうに父に言ったそうです。いかに軍国の女性だったかと思ったんですけど、それがですね、この浜辺の歌を聞くと、あの光景見たことないんですけども、すごい想像してて、すごいこの曲に惹かれるのがあるんです。
【佐藤】私も大好きですけれど、その大好きな理由はやっぱり全然違いますね。ではこの歌、売唱知恵子の歌でどうぞお聴きください。お話の続きですけれども、その性暴力に対する沖縄の女性たちの動きなんですけれども。
沖縄ではですね、復帰して売買衆の問題がいろいろ出てきますけれども、この1970年代の後半くらいからですね、フィリピンからエンターテイナーという形で、バートとキャバレーに大勢の女性たちが連れて来られたんです。
そしてその彼女たちが、その米兵相手の売買衆で利用されているということが、私も後で分かったんですけれども、店の経営者がですね、その彼女たちが、店の経営者は周りから誰かが侵入しないようにという言い訳があったんですけれども、実は窓には金属の格子を立てて、入り口は外から鍵を閉めている。
そういう中で火事が起こってですね、2人の女性が亡くなったという事件が起こったことがあります。
そういったことに対して、それまで女性の生意の問題というのは、沖縄女性たちの中でもなかなか運動の対象にはならなかったんです。
その売買衆の、売買衆防止法を適用してほしいという復帰前からの運動はずっとあったんですけれども、
その売買衆をやっている女性たちに対する意識の向け方、目の向け方というか、それがほとんどなかったんですけれども、
特に外国から来た女性たちということでですね、この火事になったということもあまり問われなかったような、そういった感じがします。
その中で、80年に沖縄女の会というグループが作られまして、彼女たちが実態を調査しようということで動きが出てきたんですね。
その彼女たちの活動というのが、先ほどお話ししましたナイロビの第4回世界会議のときに、そこのワークショップで発表したものを、そのまま
ウナイフェスティバルの中で、彼女たちはこのテーマにして、みんなに紹介をしたんです。
こういったことがきっかけで、沖縄のグループのですね、いろいろつながりができて、
性の問題というのも、やはり女性たちが積極的に取り上げるようになっていくということなんですね。
その中心になったのが、当時那覇市の議会議員でした旗里鈴代さんという方が、こういうアジアから来た女性たちをどうにか救おうということで、
90年代にアジア手をつなぐ会というのを立ち上げまして、それで米軍の事件が起こるたびに、彼女たちは抗議の記者会見をしてきたんです。
ようやく米軍兵士による性暴力というのを、女性たち自身が公約に抗議する、そういう段階になったということですね。
少女暴行事件と日米地位協定
はい、そうなんです。ですけども、せっかく記者会見しても、メディアは取り上げなかったんです。
友人の記者に聞いたら、大人だから女性にも日があるだろうっていう、そういったことを言ってですね、取り上げない、記事にしないということを言われました。
1995年の9月に北京の世界女性会議で、高里さんたちが沖縄での米軍による性暴力を世界に向けて訴えていた。
その最中に沖縄では、3人のアメリカ軍兵士が12歳の少女を連れ去って、性的暴行を加える、そういう事件が起きていたというわけですね。
そうなんです。彼女たちは帰ってきて、この事件を知ってですね、翌日すぐに記者会見をしたんです。
すぐに行って急いだのは、実は2年前にもですね、19歳の女性がレイプされて、それで米軍は容疑者をですね、基地の中で保護するんですね。
要するに地域協定の問題ですけれども、保護している間にアメリカ本国に逃げ返ってしまった。
その件があったものですから、また同じことがあってはいけないということで、その容疑者を逃がさないために、すぐに記者会見をやった。
っていうのが彼女たちの行動だったんです。それがメディアにも大きく取り上げられまして、最初は沖縄のメディアはとても小さかったんです。
それを県外のメディアが大きく取り上げたものですから、沖縄でも大きく取り上げられて、これが非常に話題になっていったということなんですね。
これまでにも性暴力事件は何度も起きていたけれども、この事件はそれが初めて、大きく女性の人権という視点から、基地問題そのものと結びついていった、そういう転換点だったということでしょうか。
そうなんです。よく事件が起こったらですね、女性の人権の問題を女性たちは声を大きくするんですけれども、基地問題をやっている男性たちでさえですね、この基地問題を女性問題に賄賞化するなっていうふうに言ってた人たちもいろいろ。
賄賞化っていうことなんですね。基地問題っていうのは、もっと高尚な政治の問題であって、女子どもの問題ではないという、そういう見方でしょうか。
そうなんです。これが保守的な人たちだったら納得しますけれども、いわゆるリベラルと言われている人たちがそう言ってきてですね、ですから女性たちの運動っていうのがなかなか理解してもらえなかった。
でもこの95年の事件で、やっと女性の人権の問題っていうのが基地問題として捉えられるようになったということなんです。
この時は米軍が3人の身柄をすぐには日本側へ引き渡さなかったわけですけれど、その米軍基地が集中する沖縄で重大な犯罪が起きても、その日本の警察がすぐ被疑者を拘束できない、いわゆる日米地域協定の問題が明白になった事件だったと思います。
事件の翌月ですね、10月には超党派で米軍人による少女暴行事件を休断し、日米地域協定の見直しを要求する沖縄県民総決議大会というのが開催されて、この時にはその政治的な立場の違いを超えて、約8万5000人の県民が集まったっていうことですよね。
これすごいと思うんですけれども、そこまで行くにはやっぱり女性たちのそれまでの運動の積み重ねがあったということでしょうか。
はい、まさにそうなんですね。ですから、この集会の後ずっと運動が社会的にも容認されてきたというようなことが言えると思います。
課題と今後の展望
そういう意味でも転換点になったっていうことだと思いますけれども、この事件の後の日米協議で殺人とか強姦などの重大事件について、日本政府が要請した場合ということなんですけれども、
アメリカ側がひそまえの身柄引渡しを、これもういつ呼んでもおかしいと思うんですけど、好意的に考慮するという合意が結ばれました。これは日米地域協定の条文を改正したものではないわけですよね。
本当にまだまだいろんな問題があると思いますけれども、宮城さんが一番大きいと考える現在的な課題というのは何でしょうか。
この事件、95年の事件が起こったことで、運用改善という言葉が出てきまして、つまり、ひそまえに逮捕できないけれども、引渡しをすると運用改善が言われたんですけれども、
結局95年に始まったんですけれども、7年後の2002年でストップしてしまったんです。そしてもう復帰してあげて55年ですけれども、やはり日本の法律の問題もありまして、最初は110年続いた傍観罪が申告罪だったことと、
同性性交際、そして今は不同意性交等に変わったんですけれども、それでもやはり、なかなか法律変わっても不規則になるケースは今でも多いです。
【佐藤】2024年の10月に国連の女性差別撤廃委員会、日本にたくさんの勧告を出しましたけれども、沖縄の女性たちへの性暴力に関わる問題に対して適切な措置を取るということも、初めて勧告されたわけですよね。
【安藤】そうなんですね。政府は2015年にも、この性犯罪に対する対策をちゃんと考えるというふうに、ある文書に入れたんですけど、安倍総理のときにカットされてしまったんですね。
ですから今やっぱり一番問題なのが日米地位協定、そしてその根拠となるのが日米安保条約ですけれども、この問題はやはり日本の皆さんはどの程度意識されているのでしょうか。
【佐藤】今、日本の皆さんとおっしゃいましたけど、2022年ですよね、沖縄復帰の50年のときに、いくつかの新聞社が共同で行った調査があるんですけれども、安保条約を今後も維持することに賛成という意見は、沖縄県民では58%、全国では82%に上ります。
それから日米地位協定を抜本的に改定すべきだと答えた人は、沖縄県民では71%でしたけれど、全国では55%に減ります。やっぱり安保条約そのものについても、地位協定についても、沖縄県民の回答と全国調査の回答では、これだけ違いがあるということなんだと思います。
では、最後になりますけれども、山梨のリスナーの皆さんにメッセージをどうぞお願いします。
はい、私は池田さんとの出会いで、先ほども言いました富士と沖縄を紹介してもらったことで、やはり沖縄と同じような戦後史が山梨にもあったんだということを分かったというのは、非常に大きな功績でした。
最近、沖縄では自衛隊と米軍の合同訓練とか、自衛隊の基地の拡張も続いてますけれども、やはり山梨県も今ではなくても、基地がある以上は、やっぱり同じようなことが起きると思うんですね。
ですので、一言と思わずに、今の沖縄、日本の政治情勢、社会情勢というのは、沖縄も一緒に考えていければいいなというふうに私は思っております。
はい、ありがとうございます。
リスナーへのメッセージ
今月は2回にわたって沖縄県の女性史を研究してこられた宮城晴美さんから、私自身がこれまで知らなかったことをたくさん伺いました。
皆さんはいかがお感じになったでしょうか。
宮城さんの沖縄からの言葉を受け止めていただけると嬉しいです。
宮城さん、本当に2回にわたってどうもありがとうございました。
こちらこそありがとうございました。
FMイナツガタケ池田雅子がお送りする暮らしの羅針盤、きょうも聞いてくださってありがとうございました。
秋すむや沖縄の声届きより
秋すむや沖縄の声届きより
まさこ
オンラインで確かに宮城さんの声は聞けました。
でも本当の意味で届いたか、改めて自分自身の立ち位置を確認しなければと思いました。
ではまた。
39:14

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