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気に入らない鉛筆、小川美名。 二郎さんは、鞄を下げて時計を見上げながら、
「ああ、もう遅くなった。 早くそう言ってくれればいいのになあ。」
と、お母さんや女中に小言を言いました。
「毎朝行けと注意されなくても、自分で気をつけるものですよ。」 と、お母さんはおっしゃったきり、何とも言われませんでした。
すると二郎さんは、ぶつぶつ言っていましたが、
「紀夫、僕が学校から帰ってくるまでに、これと同じ鉛筆を買っておいてくれね。」
と言いながら、鞄の中の鉛筆を出してちょっと見せて、 銭をそこへ投げ出しました。
「自分のことは自分でなさい。」 と、お母さんがおっしゃったけれど、二郎さんは聞きませんでした。
「紀夫、買っておくのだよ。」 と、二郎さんは念を押しました。
「ぼっちゃん、どこに売っているのでございますか。」 この春田舎から出てきたばかりの女中の紀夫は、
たまげたように赤い頬をして尋ねました。 「本屋にもあれば、角の文房具屋にだってあるだろう。」
二郎さんはそう言うと、慌てて靴を履いて、 「行って参ります。」
と言って、駆け出して行ってしまいました。 「自分のことは自分でするものだと言っても、聞かないのだから。
かまわんで置いておくといいよ。」 と、お母さんはおっしゃいましたけど、紀夫は仕事が済むと鉛筆を買いに行ってまいりました。
午後になると、妹の光子さんが先に帰ってきました。 それから間もなく二郎さんの靴の音がして、
元気よく、 ただいまと言って帰ってきました。
ちょうどお母さんは外出なされて、お留守番でありました。 二郎さんは机が上にあった鉛筆を取り上げて見ていましたが、
「僕の言ったのと違っているけど、 よく書けるのかしら。」
こう言って小刀で鉛筆を削り始めました。 芯が柔らかいと見えて、じきに折れてしまうのです。
「こんな鉛筆で何が書けるもんか。」 二郎さんは感触を起こして女中を呼びました。
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「紀夫、なんでこんな鉛筆を買ってきたんだい。 柔らかくて書けないじゃないか。違っているから返しておいでよ。」
と鉛筆を投げて無理を言いました。 二郎さんが怒って出て行ってしまった後で、
紀夫はどうしていいかわからないので、 鉛筆を手に持ってお勝手元で泣いていました。
こんな時は田舎が思い出されて、 どんなに自分の家が恋しかったかもしれません。
今頃麦の青々とした畑では、 日針が冴えずっているだろう。
また野道を行くと白い野原の花が咲いて、 ぷんぷんと匂っていることなどがしみじみと考え出されて、
一層ふるさとが懐かしかったのです。
「どうしたの?」 この時三子さんがやってきて優しく訪ねてくださいました。
紀夫は泣いたりして恥ずかしいと思ったので、 前田れで涙をふきました。
「私が間違って違った鉛筆を買ってきましたので、 申し訳ありません。」
と言いました。
「どうしてこの鉛筆がいけないの?」 と三子さんは聞きました。
「柔らかくて折れるのです。」 紀夫は悲しそうに答えました。
「兄さんが悪いんだわ。」 「いえ、私が悪かったのでございます。」
と紀夫はうつむきました。
「自分のことは自分でせえと、 いつもお母さんがおっしゃっているのですもの。」
と三子さんは言って、走って自分の筆入れの中から 新しい鉛筆を持ってきました。
「これお兄さんにあげるといいわ。 私、柔らかいのをもらっておくから。」
と紀夫に鉛筆を渡しました。 紀夫は本当にうれしく思いました。
「紀夫の田舎は山ゆりがたくさん咲くの?」 「山をよくとたくさんございます。」
「うちの花壇のが咲いたから行ってみましょうよ。」 と三子さんは紀夫を連れてお庭へ出ました。
山ゆりの花がせい高く見事に開きました。
金銭花や茄子の花も美しく咲いていました。 紀夫はやさしいお嬢さんのことを国の妹に書いて送る中へと思って、
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散った赤い茄子の花びらを拾ったのであります。 風に葉が光って、
ひらひらと蝶々が飛んでいました。