そうそうそうそう。今日お伝えしたい話で言うと、先に結論っていうほどでもないけど、こんなところがあるよねっていうので言うと、ちょっと想像してほしいんですが、お散歩の途中に子供が一人っ子しゃがみ込んでずっとダンゴムシを見てるみたいなシーンってあるんじゃないかなと。
もう3分でも5分でもずっと見てて、そろそろ行くよって声かけてるんだけど、なかなか来ないみたいな。すごく集中してこっちどこやか届かないみたいな状態ってありますか、長先生。子供によっては。
ちょっとあの散歩、歩いてる道中だったらごめんねって言って歩いてっちゃうかもしれないけど、そういう瞬間を大事にしたいなとは思ってます。
まさにそういう瞬間って、実はこの本から言わせれば、まさにこのお坊さんとかが何年も修行してやっと辿り着く境地みたいなところにいるかもしれないよねっていう本です。
なるほど。面白い導入だ。
もちろんね、ダンゴムシ見てるだけでショットも捉えられるんだけど、ちょっとこの本を読んでみると、そこの視点が変わってくるみたいなところがあるかなと思っていますので、今日はその話をしたいと思っております。
楽しみにしております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
とりあえず最初にどんな本なのかっていうのを簡単にご説明しておくと、硬そうな東洋哲学とか言ってるんだけど、結構普通に面白いです。笑い的な意味合いで。
確かに。
洋史はかなりポップな感じですね、これは。
そうです。かなりポップで読みやすい。何より著者の方、しんめいぴーさんっていうのかな。読め方も分かんないですけど。
自己紹介がすごくて、この人は東大に受かったのが人生のピークで、その後無職になって離婚して実家の布団から出られなくなったってかなり冒頭に書いてて。
なるほどなるほど。
これ、客観的に言えば結構ヘビーなんだけど、めちゃくちゃ面白おかしいこととして話してる。自虐的というか。
うんうん。
一定、仕事とかは成功していて、お金もあるっていう人のはずなんだけど、仕事も成功もお金も欲しくないみたいな虚無感に襲われていたと。離婚した後に。
へえ。
で、その時に自己啓発書とか色々読んだり、西洋哲学とかを勉強してたんだけどあんまりピンとこなくて、最後にたどり着いたのが東洋哲学だったっていう流れだったみたいなんですね。
面白いね。東洋哲学か。
どういうのっていうと、ブッダとか禅とか空海とか、そういう仏教系のやつもあるし、あとは中国系の思想とかもあったりして。
道教思想とかありそう。
そうですね。そんな感じでですね、この本の中では7人ほど具体的に例を挙げて紹介してくれていて、
人ベースで公開するんだ。
そうそうそう。
なるほどね。
リュウジュ、ロウシソウシ、ダルマ、神学空海。
ダルマ。
なるほど。ダルマってあれじゃなくてね、ダルマさん。
ちょっと川崎大使名物のダルマではない。
ダルマではない。大元と言うべきなのかわからないけどね。
そうだね。
その元ネタか。
元ネタですね。
リュウジュっていうのはナーガールージュナとか言ったりする、竜に木と書くリュウジュなんですね。
そう聞くとなんか聞き覚えがあるな。
空の思想の人ですね。空の思想の人。
その人たちをこうザーッと紹介しながら、
正直それをですね、7人の哲学みたいなものを勉強した結果、無職のおじさんが功を受け取ったよっていう経験的な。
いいね。なんかハードルだいぶ低く感じるね。
そうそうそう。なんだけど、ちゃんと監修で京都大学の名誉教授の方とかが入ったりするので、一定の参考文献とかも結構いろいろ載ってたりするので、ちゃんとしていつつも肩の力が抜けているみたいな。
めちゃくちゃいいじゃん。面白そう。
そうなんです。バランスだし、何よりとにかく楽になるための哲学だっていうのをポイントとして。
いいですね。苦しむための哲学ではなくてね。
難しい話を楽になるために使うっていうのが本の気持ちなんですかなっていうところです。
いいね。
はい。まあ千尋先生どっちかっていうとやっぱ西洋哲学より東洋哲学の方が好きそうだしなと思って。
そうだな。それはそうだな。
なんか字で言ってるところが少なかったので。言っても、うんそうだよねとしか言えない場面がある。むしろ違ったのぐらい。
僕は割と西洋哲学好きなんですよ。難しいどうでもよいと思えるようなことをうじうじと悩み続けるみたいなこと結構好きなんですよ。
向いてるよね。
ある種合理的思想の背景っぽいもんなあいうのって。
そうそうそう。
なんだけど、だから東洋哲学の方がやっぱ僕は概念とか抽象度があって難しいなって思うけど、それはちょっとある種わかりやすくしてくれてるっていうのかな。
はいはいはい。
まずちょっと冒頭に話した団子虫をずっと見ている子供がなんである種たどり着いたのっていうところいきなり行くんだけど、
まずこの本で紹介されてる哲学者たちって何千年もかけてある種これが答えだってたどり着いた境地みたいなものがいくつか当然人ごとにあったりするんですけど、
ざっくり言うと一つ大事なことがありのままに見ようね。
うんうん。
ありのままに見よう。
そう。で、もう一つが世界の不思議さを不思議なまま感じようね。
あ、センスオブワンダーだ。
分かるー。
分かるーなんだから。
そんなあるあるネタを話した人もいなかったんだよ。
そんなあるあるだよねーみたいなテンションで聞き返されるとびっくりしちゃった。
そうだよなーっていうね。だよなーって思うなー。
不思議を不思議があるというか不思議なままね。
そうだね。で、これを実際に全という思想がありますね。全という哲学においては言葉を捨てるっていう言い方をするそうです。
なんかある種不思議は不思議なままで、不思議だなーっていう感覚だけで素敵だなとも思っているというか。
僕らって大人になるとなんとなくラベリングというかカテゴライズするようなのが得意になっていくじゃないですか。
なりますね。
例えば団子虫を見たらもう団子虫だな。これは丸々とか丸々ないとか確認せずもうそれっぽかったら全部団子虫だみたいな。
団子虫の中に何かとか一切なく見ちゃうとか。ただの石とかいつもの公園みたいな。
それで張っちゃうともうそういう場所としか見れない。なんだけど子供の方がこういうラベルがないよね。団子虫を初めて見た子供っていうのはなんだこれはっていう。
ただそれありのままで見ている。触ったら丸まったりするみたいなことってすごいじゃないですか。みたいなことを素直に感じれる。
っていうのはすごいある種善の思想の言葉を捨てるに近いものがあるよね。っていう説明をしてましたね。
なるほど。言葉を捨てる、そうか。そうだよな。
言葉をまだ獲得する前の段階の方が、そこに全てが詰まって、それが全てじゃん。
言葉にしない状態、言葉で細分化していかない、それがもう完全体の状態だよなっていう認識がずっとあって。
それをもう成長発達の過程でどんどん分解して細かく細かく切っていくみたいな感じがあるから。
最後もう一度その統合させたい、統合していくマスターたちがそういうふうに統合させていったっていうのはなんか面白いなって思って聞いてます。
いやでも僕はこの話を読んだり今話していてやっぱ思うのは、逆のベクトルの方がやっぱ僕は好きだなと思って。
断言虫をあれも見ようじゃなくて、断言虫が何の断言虫だか、もっと具体のラベルを。
細分化していこうっていう。
そうそう。雑草という草はないわけじゃないですか。
ないですね。
なるほどね。
なんかただの石と思いきや石にも当然種類があったり、なぜこの形になりうるのかみたいな、というか背景が存在するよね。
公演ってなんでここに作ったんだろうとか、僕はそっちの方がやっぱ好きなんだよね。考える余地があるというか。
実にらしいよね。
どうだね、確かにありのまま受け取るともう終わるもんね。
うん。
そうそうそう。
そこで。
だからどうしたったらいろいろ考えた方が楽しいなって思っちゃうなっていうのを逆の目線でなんか感じた。
俺が自分にないものだなっていうのを感じた。それはそれで面白かった。
ありのまま受け止めて勝つでも不思議があるはできそうだよね。
そうだね。
うん。なんで?みたいな。
まあ別に対立する概念でもないだろうしね。
ないね。
ちょっとアプローチが違うだけで、みたいなことはある。
そうだね。
うん。
だけど僕は結構そのありのままというか分類をいかに解像度上げるかみたいな方が好きだなっていう。
知識で解決したいみたいなタイプだなってすごく感じました。
ますます理系っぽい感じよね。
うん。
分かるでも。
うん。
分かるよね。
ベースはなんかハイブリッドな感じするよな。
そうね。
どっちもあるわ。
めちゃくちゃ。
そうだね。
まあちょっと本に戻るとその空海っていうね。
うん。
ちょろくん空海は何種?
あれですよ。
今ね、さっきまでここにまで出てたんですけどね。
あの空海はね。
遠略寺?
遠略寺は。
遠略寺はなんだっけ。
遠略寺はなんだっけ。
遠略寺はなんだっけ気がするな。
野球教えたとこだよね遠略寺。
そうだね。
比叡山だね。
うん。
えー。
比叡山だから違うね。
信号宗じゃなくて。
最澄で。
あ、そうそうそうそう。
信号宗。
信号宗だね。
信号宗だね。
合ってるね。
うん。
偉い。
偉い。
偉いね確かに。
偉い。
あのこの辺りはあれですね。
アウンという漫画を読んでいただくと。
うん。
あの最澄と空海が主人公なんですよ。
そうそう。あれ面白いよね。
ああそうなんだ。
うん。
えー。
最澄と空海が主人公の漫画なんてこの世にあるんだってすごい感動したんですけど。
日本の凄さを感じるね。
うん。
あれは面白かった。
結構有名な漫画家さんが書いてあるんですね。岡崎万里先生っていう。
うーん。
はい。なので。
面白い。
ちょっと好きだと思う。
もう完結してる。
うんうん。
好きだと思う。内容的に。
後で買います。
はい。
まあその真後、すみません、空海の章。
では結構その子供みたいな純粋さってバカにされがちだけど、実はすごいパワーなんだよみたいな話とかも書いてあって。
うんうん。面白そう。
大人ってその、なんていうか、いつもと同じ部屋で、いつもと同じ道で、いつもと同じ仕事みたいな。
うんうん。
自分の中で勝手に閉じていっちゃって、世界をつまらなくしちゃう横で、子供って常に不思議を浴びてるよね、みたいな話とかがあって。
うんうん。
正直この感覚がちょっと、ある大人を見るなという感じがする。いつもと同じ風に自分でしちゃってるなというか。
うんうん。
その、わざわざ世界自分でつまらなくしなくていいのになとは思うというか。
うんうん。確かに。
今こう話しながらふと思ってたんだけど、自分小学生の頃に通学してる時に、同じ道を歩いてるようだけど、分子というレベル、一番ちっちゃいところで言ったら100%重なることって多分ないんだよなって思いながら、なんか歩いてた記憶があるんだよね。
天才かもね。
全く同じ道を歩くってことは多分理論じゃありえないのではみたいな。
わかる。
原始のやっぱり1個分は絶対ずれるだろうみたいな。
それで言うとなんか人間が同じ細胞じゃねえだろうっていう感覚というか、機能統計みたいな感覚はすげえわかるわ。
なるほどね。
確かにね。
すごいね。そんなん考えて歩いたことない。
まあケータの場合それを小学校の頃に思いながら歩いてるのがねやっぱり。
あの時通学路荒れてた思い出はね、ちょうどハリーポッターの秘密の部屋が公開された時ぐらいに、空飛ぶ車があるじゃないですか。
ロンド家の青い車。
あれがシャーペンの上についてる、なんかそういうペンを買ってもらって車が通れるのよ。
はいはい。
でその車を右手に持ってひたすらそれを飛ばしながら小学校まで歩くっていうのを結構やってましたよ。
いいね。
いいじゃん。
わくわくそういう世界観。
ファンタジーな世界観で生きてたね。
永遠と。
今の僕らの動作や今の必殺なエピソード子供から聞いたとしてどっちが子供らしいって思うかって言ったら絶対一応だからね。
そうだな。
分子のレベルで考えちゃダメだよ小学生。
そんなこと考えるなって。
分子とか思ったことなかったな。
いいね。
面白いよね。
世界の視点の話もそうだし、あとよく言われるのが子供っぽい絵って子供しか実は描けないすごい絵なのかよみたいな話とかね。
確かに。
未熟な感じをする絵ってさ、狙って描こうとするとああはならないみたいな。
絶妙な味がやっぱあるよね。
そうそうそう。子供の伸び伸びとした感性だから描ける、狙ってはできないみたいな。
それと同じように哲学者たちがそういうありのままで世界を見たいって目指してる場所にはある種子供は最初から立ってるかもねとも言える。
なるほどね。
いい話なのかなと。
なるほどね。
ということは今すごく子供はすでにある種悟ってるようなもんだと、この本の言うところ。
そうしたときに保育士の皆さんってその悟ってる人たちの一番近くで働いてる人かもねとも言えるかなと。
確かに。
入児保育なんて最たるもんだよな。
うん。ある種こう世界を一番ありのままで見れる人たちのそばにいてその姿を守っている。
それをできれば、さっきチョロ先生も言ってたけど、体を守りつつもできればそのまま伸ばしてあげるっていう立場で見てるわけじゃないですか。
っていうのを考えるとちょっと自分の仕事があるし、その哲学的な部分をどう起こしてあげられるかとか、
そこをどう伸ばしてあげられるかって思うとすごく面白い仕事なのかもなともちょっと思ってたっていうところですね。
面白いね。
確かに。現場にそういう哲学感というか、もしかしたら仏教系のね、なんていうか幼稚園とか保育園とかもあるから。
あるね。
そういうところだともっと職員の考え方とか保育官にもっと出てくるのかもしれないけど、
まあなんか良くも悪くも忙しい日々だからもう寝かしつけてご飯食べさせておむつかえてなんなりしてみたいなのにもう手一杯で、
そういう子供の姿が哲学的に見て思想的に見てすごくなんていうか感性された状態なんだっていう目線で落ち着いてみるみたいな瞬間がとてもないだろうな、ほとんどの保育者は。
ある種もったいないよね、今の話聞いてると。これが完璧だっていうのをね。
そこもまさにで、今僕ちょっと子供はすごいんだ、だからその近くにいてできればそれを伸ばしてあげた方がいいよねと言いつつも、まさにいやそんなのできないよっていうの多いと思うんですよ。
子供がそんなにすごいんだったらそれを伸ばしてあげる側の大人、僕に一番近くの大人はちゃんとしなきゃって思いがちなんですけど、
それはやっぱ難しいよねっていうのは、ある種この本の解釈としては、それもそれでいいんだよっていう話があって、本の中で辛乱、読めるけど書けない。
分かる、何の字分かんねんだよな。
辛乱ね、辛は書けるよね。
糸っぽいのが入るのが覚えてるんだけどね。上が糸、糸に下が鳥っていう。
難しいね。
これ以外見たことない、何の字なんだっていう。
難しいね。
辛乱。
辛乱さん。
まあ、低人の指標で辛乱が言ってた言葉として、すごくざっくり言うと、ダメな人ほど救われるみたいな言葉が出てくるんですね。
基本的にこの本って、著者の方がさっき言った通り、結構東大とか出て、エリートとして頑張ったけど離婚しちゃったところから一気にどんどんダメになっちゃってみたいな感じで、
頑張れば頑張るほどちょっとハマる罠みたいなものがあるよねっていう話をしてる。
なるほど、仕掛けね。
例えば仏教において言えば、すごく真面目に修行して、自分ってちゃんとできてるなって思った瞬間に、そのちゃんとできてる自分っていう塊みたいなもの、それを守る方に意識が向きすぎちゃって、逆に良くないよねっていう。
なるほどね。人間だね、めちゃめちゃ人間。
そう、寺畑さんがやっぱりそういう思想が、特に真男のところではそういう思想が出てくる。
この本自体がそういう部分を引っ張って試してくれてるっていうのもありますけどね。
っていうのがあるので、まさに今一郎先生が言った通り、子供ってすごいから頑張れるようにしなきゃっていうのも今言ったような、まさにいい先生でいなきゃ。
いい先生の自分を演じるっていう、ある種固まりというか、しんどさみたいな。
それができてないっていうことがよりしんどさになっちゃうみたいな。
いやー、あるだろうなー。
わかるなー。全然、もうそれこそ、そういった意味じゃ完璧とは程遠い生活をしてるなって自分でも思う。
でも、
いろいろ、保育の現場ではあだこーだ言いながら働いて、帰ってきて、子供たちにケツ叩きながら早く寝ろ、早く風呂入れて早く寝ろっつって、今こんな状況になってますけど。
そうだよねー。
自分としてありたいマインドと、本来こうだろうと思っているその状態と、現実こう振る舞っている自分の表現していることとのギャップが日に日に差が開いていて、
こりゃいかんこりゃいかんと思いながら、終わっていく一日が。そこに多分ストレス耐性が低い人はこれで病むだろうなぐらいのギャップがあるよね。
まして今、千朗先生のお子さんもね、普段見ている子供たちと近いからより二重でというか。僕の両親も先生だったんですけど、両親中学生とかの先生だったんで、中学生の時三者面談で、僕があまりにも提出物とかを出さない人間だったので、
その提出物が出てなくてみたいな話を、僕の保存担任から母親にされて、その話を受けて、母親は自分は自分で、先生が三者面談ではなんで提出物出さないのみたいな怒る側だったのに、自分の息子も出してないんかいみたいな。
確かにね。ギャップがあるんだよね。
当時マジで知ったこっちゃねえわって思ったけど、俺には関係ないだろって思った。今でも思ってるんだけど。時短の区別をつけてくれって思ってるんだけど。
時短の区別。
知ったこっちゃねえ、俺は悪くねえと思ってるんだけど。だけどそういうよりしんどくなりやすいよね。まして人に言ってることが自分ができてるんじゃなくなっちゃうだろうから。
そうそうそう。本当、それこそさっきの修行僧の話みたいに、これがいい、これが完璧だみたいな、自分できてるみたいなところから、なんとかそこをキープしようとするっていう感覚が、少なからず子育てとかね、そういう業務に当たっていると、あの状態に到達させなきゃいけない。計画があることって大概そうだとは思うけどね。
そうだね。目標とのずれというものがあるからね。
そうそうそう。そこに決してなんかこう、なんか絶対そうではならないわけじゃないんだけど、なんだろうね、難しいよね、そこの塩梅というか、心の持ちようというか。
そうじゃない、自分を許せないみたいな感じになってる。
いやでも、ブッダの章がまさにそれに近いことが書いてあって、ブッダの章で僕らが苦しいのは、変わらないちゃんとした自分みたいなものを作ろうとするからだ、これが書いてあって。
本当そう。
なんだけど、世界ってずっと変わっていくし、それこそ自分も変わっていく。
なのに、その流れる川を石でせき止めようとする、みたいなことをするから苦しいんだよ。
そうなんだよね。
で、分かっちゃいても、みたいなところもあるじゃん。
そうなんだよ、いや、本当に。そうしたらね、実生活が成り立たないんだよな。
まあ、じゃないね、成り立たないって思っちゃってるから成り立たないんだろうけどね。
それもあるかもね。
何とでもなる、最終的にはどうにでもなるんだろうけど、そこをこう、じゃあもう仕事も辞めて、何もかもほっぽへ出して自由奔放に行きます、なんて無責任なことができるほど度量が深くないというか。
うん。
そんな自分を感じますね。
そうだね。実際その、昔多分このラジオで話したんだけど、不完全主義っていう本を読んだときに、
この子供の育ててるときにどうしても部屋が汚れていくのが耐えられなくて、ずっと一生懸命掃除をしていたんだけど、もう大変すぎるから、
なんかちゃんとするのやめよってしたらめちゃくちゃ楽になった、みたいな例が出てて。
やっぱそうなんだよね、どこかでちゃんとしなきゃっていうラインを低くしてるつもりでもやっぱ一定あるんだろうね。
あるね、それこそこうなんつーの、おしゃれなさ、あのインスタグラムとかで出てくるような、ああいう雰囲気の部屋が好きとかさ、
家具とか空間とかさ、自分が好きなものってあるじゃないですか、なんとなく感覚的に。でなんとかそれに寄せようと思ってやるんだけど現実ぐっちゃぐちゃな部屋を目の前にすると、
なんか別になんつーの、それって自分の想像の中で組み立てていた世界なのに、その想像との現実とのギャップでただただ疲れるみたいなのって、
往々にしてあるよね。本当にね、意味ないなと思いながら繰り返しちゃうんですね。
そうですね。でもこの本のメッセージを究極的に集約すると、やっぱりこう、資産的に伝えたい文脈で言うと、
子供がありのままで見ているっていうすごい存在だっていうのもありつつ、だからといってそこにいる人たちが、そばにいる人が完璧である人は当然なくて、
ちゃんとしすぎなくていいし、完璧な先生じゃない方が、なんなら肩の力が抜けてる先生の方がもしかしたら子供を満身してあるままでいられるみたいなことはあるかもしれないねっていうメッセージなのかなと。
それはでも本当にある。見透かされるよ、子供には。ある種、どんだけ自分のキャラクターを完璧に作って、
一保育者として目の前にいても、なんというか、その演じたキャラクターを信用はしないというか、
やっぱもっとコアな部分に訴えかけてくるのよね、なんとなくこれは本当なんとなくだけど、だからある種着飾った自分じゃない状態で対峙しているような気もする、僕個人としては。
大人とか保護者とかに対して取り繕って、ある種演じてやっている保育園看護師のジェロ先生みたいな顔じゃない、
人間、人間佐藤博人とコミュニケートしているような感覚が特にニュージーはあるな、なんだろうね、あれは赤ちゃんの力だよなと思いながらやってるけど。
人間の話してたけど、前にペットを飼ってたからすると犬とか猫でもそうだよな、肩が必要しないし。
感覚としては近いかもしれない。
対人間に対するアプローチとか、夏かどうかとかも含めて、別に肩書き関係ないじゃん。
まして言語が通用しない、言葉のやり取りで、言葉のコミュニケーションではない、その前の段階のコミュニケーションだから。
確かにね、あれの時は肩書きのある自分じゃなくて、普通に一人間として接してる感覚みたいなのはすごい。
みんなこんなはずじゃなかったみたいなギャップのところで苦しんでる人は多いんだろうね。
まあそうだよね。逆に言うとこういうものになりたかったっていうことがね、性のエネルギーというか。
そうだね、目指すべきところとして、向かう先としてね。
きっかけにはなることもあるので、僕はその目標を持ってちゃんとしたいっていうエネルギー自体はすごくいいことというか、
それがなくてちょっとある種、丁寧というか諦めみたいになっちゃってるというか、もったいないなって思うので、
っていうタイプなんだけど、それに囚われて辛くなるみたいなのは、裏表だよね。
そうだね。
本当、難しいよね。両方ないと、とてもじゃないけど世界は成り立たないから、止まない程度にちょっとね。
分かるね。
簡単に言うとはそういうことなんだけど、そこが一番難しいし、だからこそ東洋哲学はずっとこんな何千年も同じような話と言ったらすごくざっくりしすぎだけど。
面白いよね、確かにね。
みんな悩んでることなんだと思うんだよね。
なんでなんだろうね。
面白いなあ。
でも基本なんかこんなはずじゃなかったっていうのを考えるときってさ、なんでこんなはずじゃないことになってんのかって考えると、他者との関係があるなって感じがしていて。
本当に一人、例えば自分とかも独身だけど、独身の場合は何かに責任を負うってことが自分に対してだけじゃん。仕事じゃなければ、生活においては。
ってなると、もう割と自分の好きなのにできるわけよ。
予定外の荒らされることもないしっていう、犬とか猫飼って別だけどね。
だけどそうじゃなくて、例えばチロみたいに子供がいる家庭があるみたいなところになってくると、自分が子供に対する家族に対する責任を負っている状態。
それはある種アンコントローラブルな自分じゃない他者が存在している状態になると、どうしてもその自分個人が持ってたこうあるはずなのにっていうのと、
なんかノイズって言ったらすげえ言い方悪いけど、別の影響を与える何かが入ってくるわけじゃん。
そうなるよねっていう感じがすると思う。
仕事でもそうだもんね。
そう、しかもそのなんというか、自分が自分、それこそ自分と家族だけならどうでもいいんだけど、もうそれが社会ともう地続きで、社会からのね、その地域住民からの泣き声がうるさいみたいな。
親としてそんなんどうなんだみたいな目線みたいなものが、僕はそこまでなんというかSNSにずっと入りっぱなしってわけではないから、ある種なんとか感じずにいられる部分たくさんあるけど、
こうやっぱチラッと見てると、この保護者の振る舞いがそんなのおかしいだろうみたいな声がいっぱい出てきたりとか、逆にそれを擁護する声が上がったりとかでバズったり炎上したりとか、いろんなことがあるわけじゃない。
なんかそういうちょっと自分と自分の隣にいる家族たちとさらにその外側、ましいては社会全体の空気感みたいなものが、より一層そのギャップで苦しめる要素になってるというか。
まあそうだろうね。他者の目線だったりっていうところがあるってことでしょ。 よりこの時代を経るごとに強まってるような感じがなんとなくある。何と戦ってんだろうなみたいな。
それはソーシャルな世界だからね。その他者の目線を意識せざるを得なくなってるっていうのはめちゃくちゃありそうだよね。昔もその人数少ないけど密な他者の目線に晒されてはいたと思うんだけど。
そう、でもなんとなく子育てっていう一点において考えると、やっぱり地域で育てる、子供がその村社会の中で言えば村全体で育てるような感覚が今よりもずっとあっただろうから、子供を見る目線とか子供に接する視点みたいなものが今はすごく閉ざされているからさ。
基本家庭で一歩外出て、なんかしたらすぐ虐待だって。もちろんそれがね、セフティネットにもなってるんだけど、公園で遊ばせるにも周りの親の気を使いながら、自分の子が他の子の手になんか手を出さないように引き止めながらみたいなのが、僕は割と疲れるんだよね。
だったら誰もいない森とかで自由に遊ばせたいというか。これは難しい課題だなと思いながらおりますが。
まあ子供を育てる上でね。でもこの本、そうだね、なんか楽になるために使うというか、楽になるための考え方を教えてくれるっていう意味では、なんかやっぱそういうギャップに苦しんでるというか、なんかしんどいなみたいな人ほど読んだ方がいいかもね。
そうだね。 考え方の枠組みを知れそうなのか、こう考えてもいいのかね。
最後にさらっとですけど、この各哲学者となってあげた7人、6章なんだけど、どんな話をしてるか本当に一言ずつぐらい紹介して、もし興味があったのが1個でもあったらちょっと読んでみてほしいなというのを紹介しておこうかなと思うんですが。
まず1章がブッダ。教えてるキーワードとしては無我。これは自分とかないよっていう話が書いてある章です、まさに。
確かに。言われてみたらそうだね。 ブッダは自分への執着を手放そうねっていう話を延々としているので。
で、ブッダが第1章。第2章がナーガルージュナ。これ空の思想ですね。この人の学びを一言で言うとこの世はフィクションだよっていうね。
うん、まさしく。 ブッダ だから基本的に相互依存で成り立つこの世はフィクションなので、自分の変わらない本質みたいなものが存在しなくて相互依存の中でしか成り立たないよっていう。
分かる。分かる。 それはそう。 ブッダ 関係性の中にしかないよって言うんですね。
自分を片付けられない。 ブッダ 片付けられない。で、3章がローシソーシ。
ローソーシ。あそこはセットなんだ。 ブッダ これはタオ。タオね。
道ね。 ブッダ タオの思想。道です。で、これを一言で言えばありのままが最強だよねっていう。
タオっていうのは基本的に現実世界での勝ち方とか、ちゃんと見ようみたいなところとか、そういうのをやっているっていうのがあるので。
で、この章、タオ自体も面白かったんだけど、著者はこれを婚活とか転職に応用した考え方。
4回目はそれ面白そうだね。 ブッダ いいじゃない。
タオを婚活転職に使おう。
いいね。なんかその、ある種族っぽいところに持ってくるっていう。
ブッダ 婚活、婚活極め切ったら何になるんだろうね。結婚じゃない気がするよね、そのゴールが。
タオ 軽く説明すると、普通なのになぜか上手く引く人っていうのがタオイストだよね。
タオに人間のイストを解けばタオイストっていうのがいるよねっていう話をしたりします。
ブッダ これはちょっと普通に面白いかなと思います。
で、第4章がダルマ。これは禅。 はい、ダルマ。
タオ そうか、ダルマは禅なんだ。 ブッダ そう、ダルマ大使のダルマですね。
で、これは、言葉はいらねえみたいなことでしたね。言葉を捨てよう。
タオ さっきの話ね。しゃらくせえよな。
ブッダ 不流文字って言うんだよね。
タオ 不流文字。
ブッダ もし不可能の不に立つに文字で不流文字の言葉を捨てよう。文字はいらないっていうのの思想です。
僕はでもこれはね、やっぱ文字好きだからちょっとね、ピンとこないよね。
タオ 確かにね。濃いなあ。
ブッダ で、5章目が神乱。これはさっき言ったダメなやつほど救われるっていうのがある。
たりきっていう、たりき本願の元ネタじゃないかな確か。
タオ そうだね、そうだね。
ブッダ っていう話があったりしました。だから修行という自力を頑張ると慢心が生まれちゃう。
だから自力を捨てて、ただ信じて念仏たりきしようっていう。
タオ そうだね。神乱が流行った理由がすげえわかるよね。
その昔の動画でさ、たりきで行こうぜって。
タオ いいバズリーだよなほんとに。
ブッダ いいバズリー。逆バリじゃない。
タオ 結局人間社会って逆バリがずっとバズってくるっていうのはあるよね。
ブッダ 修行しろ、修行しろの世界から。
タオ この時代から。やっぱり今がさ、ちょっとゆるいのから頑張ろうみたいな裏がまたちょっと盛り上がりつつあるし。
でも大きくやっぱホワイト。1個前の昭和平成初期の24時間働きましたからの今裏だから。
ブッダ 裏が盛り続けてる。
タオ 波だよね。
ブッダ 本当にね。何やってんだろうな人間はな。
タオ それが生きるってことなんじゃないこの波。
ブッダ 本当にね。面白いよね。
タオ で最後の6章が空海ですね。密教。
タオ これが欲があってもよしっていう考え方で。
タオ その密教はそれまでの仏教って現実を避けたフィクション、ナーガルージュだから連なるようなフィクションっていうものから引きつながってきた考え方が、密教は一周回って現実とか生命みたいなものを丸ごと肯定しようみたいな装に引きつく。
タオ 性エネルギーとか怒りとか欲望とかも肯定して欲を大きくして大我になるみたいなことを説いたりするので。
タオ なのでこれも逆張りですね。
ブッダ そうそうそう。
タオ という6章。
ブッダ めちゃくちゃ面白そう。
タオ ナーガルージュな脳思想史、ダルマ、心乱、空海。
ブッダ 面白いな。
タオ いいね。6章からなりますので、今聞いた中でちょっとでもピンとくるものがあったらよかったら読んでみてもらえると、
ブッダ いいね。
タオ さすがです。ありがとうございます。好きだよ、そういう考え。
タオ シロはしよし、うんうんみたいな、発見というより再確認みたいな。
ブッダ そう言語化すればいいんだっていう発見が多いね。
タオ なるほど、視野が開くというより再確認だったもんな。
ブッダ 形が作られた感じ。
タオ 知ってはいたけど、どう言えばいいかわからなかった類のものだったっていうか。
ブッダ そうそう、これはすごい不思議なんだけど、そうだね、わりとそういうことの方が多いね。
タオ すごいね、全然いいよ、俺そんな。
ブッダ 逆に西洋哲学的な考えの方が多分全然ピンとこないんだと思う。あんまりわかんない気がする。
タオ われ思うゆえにわれありじゃん、やっぱり。
タオ デカルトだよな。
ブッダ だから、え、なに、どういうこと?って思っちゃうもん、いつも。
タオ オギとエル語、スムースじゃん。
タオ あれ何?ラテン語?何語あれ?
タオ ラテン語じゃないかな。
タオ あれ思うゆえにわれありっていう単語だけしか知らないけど、あれに至るまでってめちゃくちゃ複雑なこの。
ブッダ うーん。
タオ 論の展開がね。
タオ 非常に展開的なことをやった上であそこに立ってるから。
ブッダ 面白いよね。
タオ あれちゃんと説明するの、俺無理なんだよね、まだちょっと。
ブッダ あー。
タオ まあ哲学家の人じゃないと無理じゃない、ああいうやつ。
タオ なんか結構熱心に研究していかないと、うまく言葉にできない気がする。
タオ あれに至るためにはさ、プラトンとかソクラテスとかの文脈を。
ブッダ ソクラテス。
タオ なんだろうね、見えない世界が多いというか、翔さんの一角すぎて根本がデカすぎるんだよね。
タオ そこに至るまでの先行研究達の理解を進んだ上でやっていかないといけないっていう。
ブッダ ハードですわ。
タオ それだけで何千年たるって意味わかんなさがあるから。
タオ 本当にハードなお勉強を通じて、論理で悟っていくみたいな感じが。
ブッダ 面白いね。
タオ 人間って命短いのに暇だよなというか、代々そういうことを考えてきてると思うと面白いよねやっぱりね。
タオ 何だろうね。
ブッダ やっぱりね、僕どうでもいいこと考えるの好きなんだよね。
タオ どうでもいいことね。
タオ 哲学者の素養があるんじゃない、やっぱりそれこそ。
タオ なんか誰に聞いたのかちゃんと思い出せないんだけど、日本語で、日本語のこの文体というか話し言葉だとか書き言葉もそうだけど、
タオ この日本語でロジカルな部分、その論理、日本語の中で文章として悟っていくのはすごく難しいんだけど、
タオ ギリシャとかそれこそそっちのラテン系の言葉って言葉を突き詰めると悟れるんだって、っていうのはなんかで聞いたことがあって、
タオ 日本語ってなんか堂々巡りになっちゃうというか、奥の奥まで言葉としてはなんというか、
タオ 言葉じゃない自然と一体化するとか、それこそもう言葉なんていらないみたいな思想の方が悟れるらしいですよ。
タオ 悟れるらしい。
タオ ちょっと何のソースかも言えない、本当に、いつ誰に聞いたのかもわかんないようなあれなんだけど、っていうのをなんかあ、そうなんだって思った記憶があって。
ギリシャ 確かに、言語体系による何か違いがある。
タオ そうそうそう。