最初にですね、この本どんな本なん?みたいなのをざっくりご紹介させていただこうかなと思ってます。
これ、もともと作者の方がですね、映画研究者とか批評家という職業でして、
著作にはですね、死位なリンゴ論、乱丁の音楽。
面白いよね。24フレームの映画学とか。
メディアとか映画とかそういう側の方なんです、もともと。
映画研究者って言ってるしね。
という方が、そのあそびっていうもの、このあそびっていうのは本当にこう、
ゲームとかっていうよりはもっとプリミティブというか、子供たちのあそびみたいなものをイメージして、
あそびと思ってください。
なので実際この本もですね、最近の公演ってこうだよねとか、
全部で6章くらいあるんですけど、3章くらいかけて、
実際の公演とか幼稚園のあそび場で素敵なものはこういうのがあるよねみたいな実例を、
社会学者的な観察をがっつり文章にしているというか。
これがどうあそび的にいいのかみたいなのを紹介していくみたいなのをやっています。
なるほど。面白い。
6章のうち3つぐらいがそういう感じで、残りの3つがそもそも理工って何かっていうのと、
あとは公演論っていう話と、
あとは留学論、あそびを学ぶ論って書いてあります。留学論。
と、まあ実例3つみたいな構成になってますと。
これ、すいません今7章と終章を見つけたので全8章ありました。
7章が学びと娯楽の環境なんで、
学びとか娯楽とかそういうものにもつながっていくっていう、
エンタメの話とかもしてます。
面白い。
あそびと理他って言ってるんですけど、
これは大きく2要素あって、それが最終的にくっつくみたいなイメージをしてもらえばいいんだけど、
そもそもあそびって何みたいなところから、
僕はあんまり実はピンときていなかったので、
これ読んで面白かったなと思っていて、
結構2人とも過去のラジオで、最近のあそび場って遊戯が減っているとか、
結構そのあそぶ場が少なくなってるよねみたいな話はしたけど、
それがこう理屈としてどういう事象につながってるんだっけっていうのは結構曖昧だったんですけど、
僕の理解の中では。
なんとなく遊び場減ってて子供たちに良くない影響かもねと言いつつ、
僕は割とその事故で子供が亡くなってしまうリスクを考えみたらしょうがなくね、
ぐらいの気持ちだったんですよ。
そうだな。
なんだけど、まずあそびっていうものが、
これはこのカタノッテより古典的に4分類されますっていう話があって、
シロ先生は聞いたことあるかな、あそびの4分類みたいなもの。
あそびの4分類。
ちょっと難しいかも、これめちゃくちゃ概念的というか多分、
この概念実は海外で出てるからカタカナ語なんだけど。
なんだろうな、発達の順序しかわかんない。
カイオワっていう人がいまして、
社会医学者のロジェ・カイオワですね。
人の名前か、カイオワさん。
カイオワさんがですね、1958年にあそびと人間っていう本をずっと出してて、
ここであそびの分類っていうのがあるよっていうのがあったんですよ。
この分類がちょっと面白くて、
あそびがアゴン、アレア、ミミクリ、リリンクス。
わかるわけないんだけど。
わかるわけないね。
厚耳だな。
日本語でわかりやすく言うと、アゴンっていうのが競争ですと。
なるほど。
で、アレアっていうのが運。
ミミクリっていうのが模擬。
アレア、運。運勢の運ね。
ミミクリっていうのが模擬。
模擬点の模擬ですね。
リリンクスっていうのはめまい。
あそびっていうのは競争っぽさとか、運の要素とか、
あとは模擬。これは要するにおままごと真似する。
模倣だね。
リリンクス、めまいってのはすごい危ないものを乗るジェットコースターとかだよね。
防水艦とか混沌を体験することもある種のあそびだよねっていう。
もっと物理的にというか、感覚的にめまいを起こすぐらいのイメージなのか。
今言ったアゴン、競争、アレア、運、ミミクリ、模擬、リリンクス、めまいの4つがあるよねって話をしていて。
ハイヨワさんによると、人類が文明化するっていうのは、今言ったアゴン、競争とアレア、運のあそびによっていくことだよね。
先ほどミミクリとリリンクスを減らしていくことだよねって言われてる。
おままごととかめまいのような危ない体験みたいなものを減らして、競争で勝つとか、運的要素でやるみたいな。
これなんでかって言うと、計算でなんとかなるよねみたいな要素にどんどん寄っていこうみたいな。
これが近代社会の道筋だっていう整理をしてました。
これある種優遇的なものをなくして、もっとルールを決めて、ルールにのっとったゲームをやろうねみたいなイメージです。
なんかすげー司法主義的な。
もう一段階抽象化していくと、結局近代化が何かっていうと、管理できるものになっていくことぐらいに捉えておいてくださいと。
本来遊びって、多分きそくんとかちろんは本能的にわかっているんだけど、もっと自由で腹っ端1個あれば自分たちで遊びを作り出せるみたいなのが根源的な遊びだったんですよね。
なんだけどこの本にも紹介されている通り、最近の公演って優遇側が子供の遊びを規定しているよね。
めちゃめちゃわかります。
デザインされた遊びってことだよね。
例えば大きい公演だと、これは何歳から何歳までの優遇です。
大人は一緒に行けませんなのか、大人は絶対目を離さないでくださいね。
ルールがいっぱいあるんだね。
あとこれ、世田谷区の絹田地区って書いてあったから、ちろん知ってるんじゃないかなと思ったんだけど、インクルーシブ公演。
そんな優遇がいっぱいあるもんね。
そうそう。車椅子の方でも楽しめるスナバがありますよとか。
なんだけどこれも結構ルールがあって、ブランコは20回来いだら交代しましょう。
なるほどね。もう書いてくれてるんだ。
これはかなり、さっき言ったアゴンとか競争というかルール化された遊びになっていって、
イリンクスがめっちゃないと。めまいとかない。危険とかない。
方向にどんどん寄っていってるよね。
これが近代化都市の流れだよね。っていう話がありましたと。
で、実際今の公演これがすごいと。
今言った通り、優遇側が子どもを規定する。これは公演側が子どもの遊び方を規定する。
これって効率化だし、管理だし、リスクを低減しているよね。
っていう意味では近代化。
なんだけど、これって利己的じゃない?っていう話をこの本ではしてるんですよ。
へー、なるほど。
誰にとっての利国家?
とかが、子どもを怪我させないという思いでやっている。
子どものためというより、子どもが怪我をすることによって、誰かの責任になるわけじゃないですか。
そこを避けるためにやっているよね、みたいな論調なんですね。
これ利己的だと。
かなり管理化するとか効率化するっていうものは、利己的な要素が強いと。
なぜなら効率化するのは何で?って言ったら、誰かのためっていうより、その人がもっと良くするため。
どちらかというと、個人、己に対してのリズムが強いよね。
っていうものがあるから、かなり今の遊び場って利己的になっている。
排他的だし、遊び側が人間を規定しているし。
そういうのがあるのは利己的だから、子どもの発達を促さないよね、みたいな話がある。
子どもの遊びってもっといろいろ発展できるはずなのに、利己性のせいでそこのチャンスを失ってるんじゃないかっていう論調です。
めちゃめちゃ、もう保育園で講演してほしいね。
めちゃ大事だ。
これは初めて僕がちょっと納得した。
リスクより、子どもの遊具が減ることの生命的リスクではなく、文明的、文化的リスクっていうところがここにあるんだなっていうか。
それを言われるとちょっとわかるなと僕は思いました。
だから、これ何で聞いて欲しいかに先ちょっと繋がっちゃうんだけど、読んで欲しいかっていうと、
多分保育士さんとかも危ないからやめようみたいなことしちゃいがちじゃないですか。
人の子預かってるからなおさらそうだよね。
そう、否定せざるを得ない。
仕事なんて一定しょうがない。当然怪我させるわけにはいかない。
そう思いつつ、これってちょっと利己的なんですよ、管理するみたいなものっていうのは。
いいですね。めちゃめちゃいいですね。
もう長年保育やってきた変異者と同じようなこと言っちゃった。
この本で一番面白いなって思ったのは、利己的って管理とか効率とかってあるから結構目的思考的なんですよね。
遊びっていうものは、例えばブランコであれば、乗っかって力を入れたら漕ぎ出せる。
これを20回やろうみたいなものが。
あとは最近の公演って、地域のもの。昔は子供のものだったんだけど、今は地域のものだから。
老人用のぶら下がり棒を作ろうとか。
あれで遊ぶなって書いてあるんだよ。
そうそうそうそう。これはだから老人を健康にしようって目的なんだよ。
これはかなり利己的だよね。
利己的なものはむしろ逆で、プロセスをもっと試行させようよって。
子供たちが自発的に遊びを作れるような、そんな場所を設計することこそが、真の利己性を持った遊び場なんじゃないかっていう提案をしているのがこの本です。
素晴らしい。一緒に作ろう、公演。
で、これの無駄を省くっていうところをもう一段階解釈を上げると、大人にも適応できて。
僕たちも一言じゃないのは、ファスト教養とか。
はいはい、ファスト教養。
結果だけを効率的に得ようとしちゃうよね、みたいなのがありますと。
これもかなり利己的なんですよ。
僕たちは時間をできるだけ使わずに結果だけ一定手に入れたいって思っているっていうのは、かなり利己性が高いんですね。
己のためなので。
なんだけど、これってなんとなくの知識は得ても、知性は身につかないよねっていうことがこの本に書いてあります。
だからなんとなく使えそうな知識、明日話せるかもしれないけど、ちょっと同じような、でもちょっと違う、転用できる知恵みたいなものになっているかっていうと、そんなことはないよね。
なるほどね。
だから実は遊びという子供だけの空間かと思いきや、そこをそのまま論を進めていくと、今の大人たちのエンターテイメントの楽し方も利己的すぎるよねっていうところまで発展していきます。
めちゃめちゃ面白いじゃん。
だからもっと利他的なプロセスを楽しむとか、難しい話を難しく聞くとか、意見を交わすとか、議論をするとか、そういったところにこそ利他性を持ってこれからはやっていかないといけないんじゃないかなーみたいな話が書いてあると僕は解釈しました。
なるほど。
素晴らしい。いい話だ。
そうだね。利己的って言ってるのがさっきケイトさんが言ってた目的思考的な感じがするっていうのと、逆的なことって何だろうと思ったら、やっぱりこれなんか自分の心情としてやっぱ無駄なことをさ、いかにやるかって思うんだけど、無駄ってさコスパと真逆じゃん。コスパ悪すぎて。
無駄だもんね。
無駄だから。何かパフォーマンスを得るものではないけど、ある種のそういう無駄なことっていうのが、何だろう、利他的な環境になり得るのかなと思ってて、無駄が生じ得る環境がそういう利他的な環境になるのかなって聞いててちょっと。
面白い。
無駄がないってことは目的思考的だと思っていて、何かこれをやるためにこれをするみたいな。で、突き詰めるとそういうコスパが良い悪い、タイパーが良い悪いみたいな話になると思うんだけど。
何かもっと無駄なこといっぱいしたいなっていう。
高須はね、これ十分してる方で。
してるね。
ふわきそ君の整理はかなり俺の感覚とも近くて、いろいろまだちょっと遊びではなくて、利他の方にちょっと話がやるんだけど。
利他って、政府には仏教的利他とフランスで生まれた利他主義っていう概念とみたいのがあって、ちょっと複数概念を一つの単語に入れているので、ちょっとブレはあるんですよ。意味合いとして。
なんですけど、一つの意義として利他っていうものは、本人が利他的行動をしようとした時点で利他ではないっていう論があって。
情けは人のためならずとか言ったりするじゃないですか。人のためにやるっていうのは自分に返ってくるんだよっていう。この結果的に自分への変法を期待している利他行為は純粋な利他行為ではないよね。
本当の利他行為っていうものは、自分がやるぞっていうよりやらざるを得ないと心から思うような行動だよねみたいな。
自分の中からではなく環境から生み出されるものだっていう論があって、これは面白いなと思った。
なるほどね。
純粋な利他、難しいね。
これも、利他の話突き詰めていくと造詣論とかに行き着くんだよね。
そうだよね、いや聞いてって思う。
純粋な造詣をたり得るものは存在するのかっていう話があって。
みんな節税と脱税と。
純粋な造詣。
造詣って、自己犠牲とかではないし、ただ挙げてるってわけじゃなくて、あれって無意識的に変法を期待している。
そう、関係性だよね、あれはね。
みたいなものがあったりする。これちょっと利他の話になっちゃうのでちょっとだけ引き戻すんですが。
こういう精神みたいなものっていうのが、実は人間の思想というか知恵というか考える力みたいなものには必要なんじゃないかみたいな話としてまとまってますね。
遊びと利他みたいなところは。
利他ね、遊びは結構個人的にも一時期すごく興味を持っていろいろ調べてたけど、利他って概念が一緒になっているのが面白いなと思う。
遊びって言うと最初に出てくるのはホイ神話のホモルーデンスって。
それもあったよ、この本の中に。
人間が遊ぶ存在であるみたいな話。
っていうのがパッと出てくるんだけど、利他と絡まるんだっていうびっくり感。
純粋な利他、日常的な行為として利他で全く意識しないから難しいね。
なんか一個、合ってるかどうかわかんないけどちょっと思ったとこが。
最近ね、僕お茶好きなんですよ。緑茶、煎茶。
なんか思えば自分のおばあちゃんが受験中とか浪人中とかにたまに入れてくれたお茶がすごい美味しかったのを最近思い出して、
自分で入れたいなと思って急須買ってもらって、入れれば美味しくって。
お茶とか茶道ってああいう道がつくものだし、書作とかを含めて一連の空間がすごく洗礼されたものがあって、
それが海外でも評価されて日本の文化としてすごくあるわけじゃないですか。
ちょっとそこから派生するかもしれないけど、
なんかそういう日本の庭園とか庭とか空間とか、石をさ、いいとこのお寺さんみたいにさ、
あれさ、見立てるってことでしょ。
そうそう、綺麗に文様を描いていくじゃない。
だからちょっと違うかもしれないけど、あれって別に無駄と言えば無駄じゃないですか。
あるがままでもいいわけだし、あれより目的はあるとは思うんだけど。
でもなんかそれを修行家のごとくみんなやるじゃない、お寺の人たちが。
それってどうしてやるのか、なぜやるのかみたいなところからきっと抜けていった先に、
人の心に感じるものがあるんだろうなっていう気もちょっとするし、
なんかそれって何とか利短につながっていく話になっていくのかなってちょっと思ったのと、
なんか純粋にお茶を入れるとか、それもほらもうタイパーとかコスパとか考えたら粉でもあるしさ、
わざわざお湯の温度を100度から70度ぐらいまで下げて、
1分、2分濡らして注ぎ切ってみたいな、ああいうのをしなくても同じような味をいくらでも味わえる中で、
あえてお茶を入れて飲むっていう行為そのものにすごく充足感だったり満足感が最近は感じられるんだけど。
そこのそのプロセスに意義を見出してるっていう。
そうそうそうそう、なんかちょうど高谷さんさ、カメラで写真を撮ることをさ、
そういう無駄的なね、あえて面倒くさいことをやる楽しさみたいなものに原点回帰的に入ってきましたね。
なんかでも面白くて、今その利他っていう単語自体がいろんな宗派があるみたいな話をしたじゃないですか、
仏教的なその利他っていう概念がやっぱあって、それにおける他っていうのが他人ではなくて、
もっと広い概念なんだよね、世間、いやもっとじゃない、仏とか自分以外とかに利することをするぐらいのことだから、
もう他人のためとかでもないんだよね、もはや。
その自分がそれ自体に何かこう楽しさを見出せるっていうのがある種利他的なんだなっていうのは、そこはちょっとありそうだなと。
自分がプロセスを楽しんでたら結果として利他になるみたいなこと。
そうそう、だしなんか究極、いろんな修行というか、それこそお坊さんとかそういった人たちの修行全般もそうかもしれないけど、
なんかそういうふうにいっていくということが最終的にそういうふうに生かされているということに感じるみたいな話もさ、いっぱいあるじゃない。
何というか、自分が生かされているんだとか、それこそそういった環境というか、世界が自分にそういうふうにさせているみたいな見方もできるんだろうし、
それってさっき冒頭に言ってたその公園が、遊びがその行動を決めているみたいなのもっと大きい話にもつながるのかな、
だからすごいその生き方とか、何ていうか、なぜ人は存在するのかみたいなとこまで発展し得るのか。
すごい広い、荘厳なものが見えた気がしまして。
そうだね。
遊びもそこにつながっていく、本当に大切な活動だよなっていうのはね、日々感じるとこなんで。
この本の帯の文章がやっぱりちょっといいなと思って、遊び取り団ついてる帯にキャッチフレーズ的なものがついてるんだけど、
それがコスパと管理から自由になるためにっていう方法のがあって、結構やっぱりコスパ、タイパー、管理、効率化、数値化みたいなもの。
僕も嫌いではなかったんだけど。
どっちかちょっと得意なイメージだね。
最近ちょっと鼻につくようになった感覚があって。
ちょっとずれる話なんだけど、リタ主義にも多様性がちょっとあって、
合理的リタ主義とか効果的リタ主義っていうものがアメリカの一部で検証されてるんですね。
これが何かっていうと、リタ的なものをちゃんと数値化して、一番誰にとってもいいリタをしようっていう。
ストイックな気がするね。
だから一例で言うと、これは実例らしいんだけど、アメリカのめちゃくちゃリタ主義を生き切った学生、超優秀な学生は何をするかっていうと、
貧困国に行ってボランティアをするんじゃなくて、ウォール街でめちゃくちゃ金を儲けて、その資産の半分を寄付する方が多くの人を助けることになるから、それをやる。
めっちゃ頑張るんだ。
そうだね、自分で作れる。子供って原来みんなそれを持ってるはずなので、
環境のせいでやってきてないだけでやらせた方がいいよみたいな話は、あーなるほどなーってすごい思ったね。
確かに。
子供たちも結局コンテンツ型なところで、すごくインプットはすごい我々子供世代でも何十倍何百倍とあるからさ。
ある種イメージはできるはずなんだよ、我々以上に。
イメージするだけの材料をたくさん持ってるんだけど、アウトプットする先が確かに減っていたり、
アウトプットができないみたいな状況だったり環境になってるのは間違いなくて。
我々、我々の世代でもゲームがあるぐらいだから、
燃やせないと暗くないよほどインプットの量があると思うんだけど。
まだ僕たちが子供の時の方が、自分たちでさらにそれを想像力をさらに膨らましてあそびに消化するみたいな。
それが許される環境だったり状況だったと思うんだよね。
今の公園で遊ぶひとつとってもさ、ちょっと高いところ登ったら怒られる。
ちょっとその遊具の使い方間違えたら怒られる。
だから何にもない、お菓子かない公園か、もうがっつりそういうインクルーシブというか、
ユニバーサルデザインの遊具の公園か。
はたまた、もうなんというかね、こういうふうに遊びましょうが、
決められているおもちゃたちで埋め尽くされている室内の遊び場みたいなのが増えていて。
やっぱ遊び方が何通りかしか思い浮かばないだろうなみたいな。
それで言うとね、分かりやすいのはママごとのグッズ。
フライパンとか包丁とか、お野菜とか。
なんとなく想像つくじゃん、プラスチックの人参が。
ビリビリでくっついててカットして遊ぶみたいな。
あれって一見すごく素敵なおもちゃのように思えるんだけど、
本当に保育を何とかやっていたりとか、そういう子供の想像力みたいなのと大切さが分かっている先生たちって、
別にそれじゃなくてもいいじゃんっていう考えがあるのよ。
それはやっぱ正しいなって今の話聞いてても思うんだけど、
本当何?お手玉1個でいいわけよ。
お手玉1個をどれだけそれを食材であり、違うものに見立てて遊べるかとか、
見立てる力っていうのがそこで培われていくし、
それってすなわちの想像力なわけじゃない。
想像に仮想性があるっていうのは、
お手玉1個が与える刺激の少なさ。
いかようにもそれを我々がクリエイティブに扱えるっていうそういうおもちゃって、
やっぱり時代とともにつかなくなってるんだなっていうのを感覚的に思う。
この本にもね、クリエイティビティを育てるのは暇と退屈だって書いてあったから。
もう完璧じゃん。
できるだけすぐ何かを子供に与えようとしすぎない方がいいと。
暇だって言ったらスマホを見せちゃうとか、本を読ませちゃうとかじゃなくて、
守る姿勢を持ちましょうねっていう。
現代の子供に限らずだけど、暇との付き合い方が下手な人が多いよね、多分。
わかんないと思うんだよね。
時間の持ち余しさ。
最近の大人たちとか、暇だと不安になっちゃうタイプもだんだん増えてきてるでしょ。
やっぱSNSに依存してる人たちの。
これは暇と退屈の倫理学の時間ですかね。
国文さんもね。
そう、国文さん。
ああ、あの、あれだね。
ダビンテみたいな顔のやつ。
教師ね。
そう。
なんかね、それはやっぱ子供たちにもその傾向はだんだん強まってきてるのかなと思うね。
そういう時間が耐えられないというか、何か与えられていないとやっぱりどうしたらいいかわかんない。
何でも自由にすればいいのにってこっちは思うのに、自由がやっぱり苦しいみたいな感覚がちょっと出てきちゃってるんだろうなと思うと。
なるほどね。
確かにな。人生で一番クリエイティビティだった瞬間ってやっぱ、一切解ける気がしない定期テストを毎日したら60分とかだったもんな。
毎日したら60分。暇な時間ね。退屈な時間。
ザーッと見たら1個もわかんねーなーってなって、よしって思って裏側にこう、何かやったこともないお絵かきとかをしてみるとか。
そのマルバツゲームの最適化が何かとか。
確かに確かに。
紙とペンだけでできる遊びみたいなものを見つけ出す50分間がやっぱね、みんなあるもんね。
あるあるある。
あるある。
もう何回、いかに綺麗にアが書けるかをずっとやってる。
あれは本当にね。
確かにね。
あと数学のテストとかで1個だけログの問題とか2の50乗は何でしょうみたいな。
敗数。
敗数を使って解くのをもう50乗マジでやる。
だんだん余白足りなくなってきてる。
10乗は1024、5回かみたいな、そういうのをやらせてみたいな。
ひたすらね。
筆算の跡が永遠と長くなる。
遊びだねそれは。
クリエイティビティを育てますからね。
これはでも本当現場の保育士さんたちもね。
が思ったほうがいいなとは思うね。
一部親として。
そうですね。
ちょっと時間もなるのでまとめていくと。
この本やっぱりそのなんとなく思う。