2021-11-29 41:23

#01 “先生の先生” 中楯浩太さん(前編)「自力で歩める子を育むには?」

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はじめまして!ほぼ教育最前線=ほぼ教です / 学びの“ほぼ”最前線に迫ります / つぼけんと大ちゃん / 1回目のテーマは「自力で歩める子を育むには?」/ “厳しさ”は必要?? / ゲストは中楯浩太さん / “ダテさん”は問いを投げかけてくれる / Q.学校って何のためにあるんだろうね? / “先生の先生”って? / 現場の先生を心の面で支えたい=伴走している / Q.大ちゃんのとなりにいる先生は幸せですか? / スペシャリストとして“尖った”先生たち / Q.つぼけんさんは自力で歩めてますか? / 父性原理と母性原理 / テレビマンとして、役割としての“べき”論 / 学校教育では明らかに「問い直し」が起こっている / 「前へ直れ」は時代遅れ!? / 「なぜ」を明確に言えないものは、一度問い直すべき / 漢字の徹底反復は本当に必要? / 無邪気に発動していいんですか? / 「Q.学校って本当に来る必要あるんですか?」ともしも子どもに問われたら、あなたならどうする???


《 つぼけん 》

1982年生まれ。東京都出身。
大学の自主映画サークルで映像制作の面白さを知り、2005年に映像の制作会社に入社。カメラマンディレクターとして多くのテレビ番組に携わる。
子どもが小学校に入ったことがきっかけで、日本の学校教育に関心を持つ。人生の目標は「Happiness Creactor」(=自分も他人もしあわせにできる創造力をつくる)


《 大ちゃん:大野大輔 》

1991年生まれ。東京都出身。
学校と自分が嫌いだった小学生時代を、当時の恩師が幸せに変えてくれたことがきっかけで教師の道を志す。
現在は東京都北区立赤羽小学校の研究主任として、児童に自己決定のある授業や、みんなが幸せで働きやすい職員室づくりに挑戦中。
人生の目標は「全国の共育者と子どもを幸せにすること」
座右の銘は「最高のNo.2」「認任」

○ともはぐ(共育)代表
○教育の窓口 共同運営
○REACHER BASE 共同運営
○先生の幸せ研究所 第3期
○オンライン市役所 東京都会幹部


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【つぼけんTwitter : @tsuboken_mol】

00:09
こんばんは、ほぼ教育最前線あなたにかわって、私が聞きます。始まりました。よろしくお願いします。
はじめまして、ビデオグラファーのつぼけんです。
こんばんは、公立小学校教師の大ちゃんです。
はい、というわけで始まりましたね、大ちゃん先生。
始まりましたね、記念すべき第一回。
第一回。
楽しみですね。
はい。もう打ち合わせ終わればね、もう済んでますから。
思いだけは。
だいぶ話し込んでもいますけどね、まだ足らないっていう。
まだまだ。
はい、いよいよ始まったということで、ドキドキですけれども、ちょっと番組説明をさせていただきます。
はい。
ほぼ教育最前線あなたにかわって、私が聞きます。ということで、学校教育だけじゃなくって、学びですね。
学びの最前線にいるゲストを呼んで、僕たち2人がじっくり話を聞いた上で、ほぼ最前線に迫っていこうという番組です。
ほぼ教育最前線で略してほぼ教ということで、名前を覚えてくださればと思います。
というわけで、じゃあまずは僕たちの自己紹介からちょっとしようかなと思うんですけれども、まず僕、つぼけんはですね、
普段は東京のテレビ局で、テレビのカメラマンであったりとか、ディレクターを務めています。
なぜそんなものが教育の話をということなんですけど、息子が2人おりまして、上が小学生なもので、
自分の子供が受けている公立小学校の教育が、あれな、どうしちゃったのって思ったことが結構ありまして、
今はそういった講演から、他の私立学校の映像を作らせてもらったりとかもしているんですけれども、
そういう形で学校教育に関わらせてもらってます。そんな中で、公立教育をもっと良くしたいという情熱を持った大ちゃんに出会えたということで、
この番組がスタートしたという形です。というわけで、大ちゃん先生、簡単に自己紹介をお願いします。
大ちゃんです。東京都北区の小学校で教師をしています。僕は夢がありまして、とにかく子供が自分大好きとか幸せって思ってもらいたい。
そのためにはまず先生たちが幸せにならないといけないなっていうのに気づいたのが、実は今日のゲストの伊達さんのおかげだということで、
ますます今日楽しみです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。子供たちの幸せ、いいですね。
実際のこの小学校の現役先生の声を聞けるのも多分この番組ならではだと思うので、
大ちゃん先生本人にも迫れる番組になっていけばいいなというふうに思っています。
03:03
というわけで、ゲストをお呼びする前に我々2人で1回テーマをもんでみようと思いまして、
第1回のテーマを発表いたします。第1回のテーマはこちら。
自力で歩める子を育むには。
はい、自力で歩める子を育むにはということで、このテーマを設定したのはまずは僕が今回させてもらったんですけど、
僕は会社の育成とか採用を担当しているんですよ。
他にもちろん仕事もしてるんですけど、傍ら育成採用も力を入れていまして、
インターンとかもいろいろやらせてもらってるんですけど、
どんなスタッフが欲しいですかって先輩スタッフに聞くと、
必ず言われることとしては強い人材が欲しいんだよねっていうふうに言われるんですよ。
強いって悩むところなんですけど、やっぱり僕たちテレビ業界で、
特にニュースの現場に行くので、一発勝負の世界なんですよね。
暑かったり寒かったりっていう中で、プロカメラマン、技術者でもあるので、
何か不足の事態に陥ったとしても、自分の頭で判断して何とかする。
対応力みたいなのが求められてます。
プロとしての対応力がある人っていうのを強さとしているのかなっていうふうにある程度理解してるんですよ。
それを育てるためにやっぱり厳しさっていうのがある程度必要だなっていうふうに思っていて、
自分自身も先輩たちにある程度厳しく育ってもらってきたことに感謝している世代ではありますよ。
良い面も悪い面もあって、今時代に合わないとかっていうことも分かるんですけれども、
やっぱり一人前になるまでの自分に関しては厳しくて当たり前だなというふうに思っていたし、
特に災害現場に行ったりすることもあるので、危険なことは危険、そこからは動いちゃダメ、
はっきり言っちゃダメ、はっきり言うべきだなというふうに思っていて、厳しさもある程度は、
ですけど愛情の裏返しだよねって思ってる部分があります。
ただですね、やっぱり時代が変わってくる中で、
ふと厳しく1から10までこうするべきだっていうことを言うことって、
自分で考えるスタッフを育てたい強いスタッフって思ってるのに、
その自分の歩み、自力の歩みを阻害してる部分もちょっとあるんじゃないかなって思うこともあって、
昭和から続いている厳しい方法は変えなければいけないと思いつつ、
でも厳しさって必要だし、どんな塩梅にしたらいいのか、
どう育ってあげたらいいのか悩むところっていうのがあるんですけど、
基本的には厳しさもある程度は必要っていうのが僕の意見なんですけども、
自力で歩める項を育むには、さやちゃん先生はどう思いますか。
06:04
さやちゃん その厳しさの、どんな厳しさかっていうのもあるんですけど、
結論から言うと、私はほぼ厳しさはいらないと思ってるんですよ。
これ語弊がないように言いたいんですけど、厳しさがあることによって、
実は自力で歩める項から遠ざけているものもあると思うんですね。
なので私としてはほぼって言葉を使ったんですけど、いらないんじゃないかなって思ってます。
子供が例えばやりたいことがあって、それを追求するときに、
子供自身が責任を持つっていうのはすごい大事だと思うんですよ。
その責任を持つっていうのは大事っていうのが、例えば厳しさとして捉えられるのであれば必要なんですけど、
同調圧力とか、やれよっていう、その圧力みたいなのが厳しさだとすると、
私はほぼいらないんじゃないかなと思いますね。
なるほど。
まあでもだいちゃん先生がそうおっしゃってもわかるんですけど、
100%そうでもないのかなって思う部分もあり、ある程度やれよから育っていって、
できるようになる未来もあるんじゃないかななんて思ったりしますが、
じゃあ自力で歩める項を育むにはどうすればいいか。
ゲストを交えてですね、2人の意見も掴めてまいりたいと思います。
それではほぼ最前線に行ってみましょう。
はい、というわけで今回のゲストは中畑幸太さんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
では簡単に自己紹介をお願いいたします。
はい、私は中畑幸太と言います。
元小学校の教師で東京の方で約20年間勤めていました。
今はちょっとした理由で教師の仕事は1回離れて、東京から長野県に移住して、
今寒さにこう震えながら生活をしていると、そんな感じです。
今1回年教師辞めたと言いましたけども、
先生たちもしくは教育は本当にこの国にとって大切だなっていうのは今も変わりません。
むしろ強くなっているぐらいです。
なので教育もしくは先生たちを支えるそんな活動を今はしているところです。
今日はよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
だいちゃん先生が喜んでおりますね。
大好きな人がゲストで来てくれるたまんないですよね。
いいですね。
すみません。
というわけで今回のテーマは自力で歩めるコーハン組みには何ですか。
09:04
今だいちゃん先生がたまんないとおっしゃった通り、
もう1回目のゲストはどうしても中畑さんがいいということだったんですけれども、
その理由から教えてもらってもいいですか。
いいです。
だてさんって僕呼んでるんですけど、
出会ってガラッと自分の教育が変わったんですね。
その変わったきっかけは、
だてさん毎回私に問いを投げかけてくるんですよ。
学びって何なんだろうねとか、
学校って何のためにあるんだろうねとか、
そういうのを投げかけられるたびに私は考えるわけですよ。
問い直して。
その結果今すごく楽しく過ごせているなと思うんですね。
私の教員人生を変えてくれただてさんってことです。
一言で言うと先生の先生なんですよ。
だてさんは。
今日いろいろ深掘りしていけるのも楽しみにしています。
すごく気になるキーワードがたくさんあって、
元小学校の20年間教師をやっていらして、
今先生の先生で、
しかも大チャン先生の恩師でもあるっていうようなのが、
一体どういうことなのって思ってるんですけど、
どういう役回りというか立場でいらっしゃるんですか。
今の立場ですか。
はい。
先生の先生って話ありましたけど、
もう先生っていうつもりは全くないです。
全くないです。
いかに日本の教育が良くなるのかなっていうことを、
本当に結構大真面目にずっと考えています。
それで立場とか経験によって、
いい教育とか自分が目指したこととか、
きっといろいろあると思います。
いろんな方々がその自分の信じる道に向かって、
多分教育を少しでも良くするっていう動きをしていると思うんですよね。
私の場合は、
本当に自分がやりたいことって何なんだろうって考えた時に、
やっぱりこの国の教育を今よりもより良くしたいっていうのは変わらない。
その中身なんですけど、
より良くしていくって別に学校教育だけに限った話では全然ないですよね。
自分は学校から出たので、なおさら学校外のところとうまくつながりながら、
じゃあ何するかというと、
私は現場の先生を心の面で支えることが一番大切なんじゃないのかなと。
例えば今コーチングですとか、
カウンセリングですとか、
自己肯定感の講師として、
現場の先生方の心の面をサポートしているっていう、
12:02
伴奏しているとも言えるかもしれないですね。
そんな今活動をしています。
なるほど。
心の面のサポートということなんですね。
先生に何か教え方を教えるとかではなくて、
あくまでも伴奏とおっしゃってましたけれども、
サポートするというお立場なんですね。
そうです。
実はですね、
僕があえてこの先生の先生って言葉を使った理由がそこにグッと凝縮されてて、
先生の在り方を変えてくれたんですよね。
そうですよね。
そうですよね。
先生の言葉を使った理由がそこにグッと凝縮されてて、
先生の在り方を変えてくれたんですよ、僕の中で。
なるほど。
先生ってやっぱり教えるとか、指導するみたいなイメージが前まで僕はあったんです。
でもそうじゃなくて伴奏をしたりとか、
一緒に学ぶとか、一緒に喜ぶとか、
横に並んで共にっていう視点に変えてくれたんですよね。
まさにそれが先生だと私は捉え直したんですよ。
だてさんは僕のその人なんですよ。
その先生なんですよね。
なるほど。
教師っては言わないですよ。
先生ってことでだてさんは解釈を変えてくれたというか。
そうなんですよ。
これだけで1時間いけますね。
具体的にはどんな問いを受けたとか、どんなハッとした体験があったんですかね。
一番衝撃だったのは、学校って何のためにあるんだろうねっていうのは、
未だに答え出ないですね。
毎日考えちゃいます。
出会った時はお立場としては教師、先生同士だったってことですか。
そうです。
どういうところで出会ったんですかね。
教科横断の会っていう。
勉強会みたいな。
なんかもう一個一個の教科じゃなくて、もうみんなでそろそろみんなで変えてこうよっていう。
そういう思いの持った先生が集まる場に呼んでもらって。
そこで出会ったんですよね。
そこのちょっと飲んでる時に問いをバンバンバンと投げかけられて。
それがきっかけでした。
じゃあ初めて出会った時にもう食事に行こうかっていう時にもう問いがやってきたわけですね。
やってきました。
学校って何だろうね。
きっかけは一番最初の問いは、大ちゃんの隣にいる先生は幸せですかって聞かれたんですよ。
うわーお。
なるほど。
これはね本当に衝撃でしたね。
なんか全体のことを考えてるつもりが、自分はより良い教育をしようとしてるつもりが、
結果近くの人を苦しめてるかもしれないっていうのを気づいた時に本当にこう、結構ダメージを受けました。
15:05
その時は。
果たしてこうできてるんだろうかってことですよね。
そうですね。
中立さんはどういう意図でその問いを発したんですか。
その場でそれを聞いたっていう記憶はあまりないのは正直なんですけど、
でも確かにね思い出すと多分言ってるんですよね。
で、そもそもその教科横断のプロジェクトなんですけど、何のプロジェクトかっていうと、
多分どこの世界も一緒だと思うんですけど、
あるものを専門的に突き詰めていけばいくほど、専門家になって尖ってくると思うんですよね。
で、尖れば尖るほど刺さりやすいけど、一部の人にしか刺さらないっていう、そんな気がして、
それぞれの世界で尖ってる人はいっぱいいるんですよ。小学校の世界でも中学校の世界でも。
それこそ体育のスペシャリストって言われる。達人と言われる人。
それが各所に、東京都中にブワーって散らかってるんです。
だけど彼らのそのスペシャリストっぷりは、
僕ら違う棘の世界の人たちにはさっぱり見えてこないし、伝わってこないんですね。刺さらないんですよ。
だけどそこには確かにいるんですよ。そういう達人たちがゴロゴロ。
で、この達人たちが集まったら、これは面白いこと起きるだろうと思って、
各教科のスペシャリストたちをグワッと集めて、
そのスペシャリストと一緒に研究してる仲間たちがグワッと集まったんです。東京都中から。
違うな、全国からかな。
うん、すごい。
それでね、結局でもそういう人たちって、
遠く広い人たちには影響力あるんですよ、割と。
すごい力持ってるんですよ。
とがってる人って、そのとがったのが好きな世界。
例えば体育にしましょうか。
体育のスペシャリストは体育という世界の中では、ものすごく吸心力があるんですけど、
でもそれって、
じゃあふと自分の足元を見たときに、
本当にその吸心力あるこの人の隣にいる人が幸せかどうかっていうのが分かるんですよ。
そういう人たちって、
自分の足元を見た時に、
本当にその吸心力あるこの人の隣にいる人が幸せかどうかっていうのが分かるんですよ。
その人の隣にいる人が幸せかどうかって、
それがその人のやってることに実は全てだったりするのかなって僕は思うんですよね。
例えば隣で泣き叫んでる子供を蹴飛ばして、
遠くの人に手を差し伸べるって、
それって嘘ですよね。
偽言ですよね。
そんな意味もあって、
隣の人ってどういう顔してるって、笑ってるって、
そんなことを聞いた気がしました。
その通りです。
その通りです。
スペシャリストって聞くと、
素晴らしいように僕は聞こえますし、
それに突き詰めてやってらっしゃる先生方は、
18:00
感謝するなって思うんですけど、
実際問題、
近くの泣いてる子をケアできてないっていう現状があるってことなんですね。
今のは例えば子供って例えましたけど、
子供もそうですし、
近くの先生も一緒です。
だからその人の先生の横にいる先生、職場の先生、
つまり一番身近な他者ですよね。
またその先生の目の前にいる子供もそうですけど、
そこの様子がどうなのかっていうのを、
抜きにしては語れないよなっていうね、
たところだったかと思います。
そうですね。
その問いから私は本当に考え直して、
自分の隣にいる人が毎日笑顔で幸せに働けるようにしようと思ったんですよ。
それがだんだんできるようになってくると、
やっぱり職場の人全員っていうか、
まずは他の学校ももちろん大事だし、
日本っていう規模も大事だと思うんですけど、
まずは自分の職場でみんなが幸せに働けるようにしようって慣れたんですよ。
で、それがだんだん広がって、
じゃあもう全国の職員室の先生が幸せになった。
最初は言った冒頭に言った、
みんなが幸せになればきっと子供たちも幸せになるだろうっていう風になっていったっていう経緯の
本当に一番初めのところです。
たてさんの問いかけでした。
なるほど。
それ多分大ちゃんがこういうタイプだったから、
そういう言葉になったと思うんですね。
どういうことかっていうと、
ガツガツガツガツ攻めて積極的ですごい学ぼうとして、
外に学びを求めているからこそ、
多分大ちゃんにはそういう言葉だったと思うんです。
だけどじゃあ身近に隣にいる先生には同じことを言うかっていうと、
多分僕問わないと思うんです。
むしろ隣の人には外の世界ってさあって、
こういう世界なんだよとかっていう話になったりするかなと思います。
大ちゃんだからこその言葉でした。
なるほど。
後づけで嬉しい。
後づけで嬉しいやつだこれ。
要はどっちも大切ってことですよね。
外を見ることも大切だし、
隣の先生なり子供たちを見ることも大切だし、
両方とも、
本当に今までお話聞いていて、
大ちゃん先生からも幸せって言葉が出てきますし、
中田さんからも伴奏っていう言葉が出てきて、
何か教えるとかではなくて、
共に歩んでいくっていうような感じがあって、
とっても素敵だなあ、
こんな先生だったらいいなあっていうのを思いつつ、
大ちゃん先生の言葉が出てきて、
大ちゃん先生の言葉が出てきて、
大ちゃん先生の言葉が出てきて、
大ちゃん先生の言葉が出てきて、
一方でちょっとテーマに戻らせていただきますと、
21:00
自力で歩める子を育むにはということで、
確かに伴奏してくださる先生がいて、
本当にいいなあ、子供の頃、
こんな先生がいたらいいなあっていうふうに思うんですけれども、
一方で社会に出てくると、
社会はやはり厳しいという原授業がありますと、
それもどうしたってありますという中で、
ある程度の厳しさ、
自力で考えることに繋がるためには、
厳しい期間、いわゆる修行期間のようなものが、
厳しい期間、いわゆる修行期間のようなものが、
必要なんじゃないか、
あって然るべきなんじゃないかっていうふうに、
テレビで働いてきた僕なんかは思っている部分もあるんですけども、
中谷さん、そう聞いてどう受け止めになりますか。
中谷さん、そう聞いてどう受け止めになりますか。
中谷 なるほど、その点について
中谷 なるほど、その点について、
ありがたいことに今考えさせてもらおうかなと思うんですけど
ちょっと大変申し訳ないんですけど
ツボケンさんにちょっと
一回だけごめんなさいね
質問を返しちゃったら申し訳ないんですけど
ツボケンさん自身は
自力で歩めていると実感してますか?
そうですね
ある面ではっていう感じですか
自力で
そもそものテーマの自力が何かを考えますね
自力で歩める後歯を組むにはい歩めていると思います
どこら辺でそう感じられますか?
今悩んでいたのが本当に
いろんな方の力を借りながらっていう条件ではっていう意味では
歩めてるなっていうふうに思っていて
この年になってくると業界17年ぐらいなんですけど
できることできないことがあって
すいませんこれできないですって言いながら
何とか助けてもらってできているっていう面では
何とか自力で歩めている人間に慣れたな
っていうのが今のところの実感ですね
なるほどありがとうございます
今のに関連させてお話しさせてもらうと
結局自力と言った時に
たった一人でこの世で裸一貫で生きていくかっていうと
きっと昔は美学だったんだろうなって
裸一貫で生きていくみたいなね
それは確かにあるなって
今の話聞いてて僕もそうだろうなと思ったのは
結局自力と言った時に
人の繋がりを得ることももちろん自力だろうし
人に助けてっていうのはもちろんそれも自力だし
それは他力とは多分私は言わないんじゃないかなと思っていて
でもじゃあそれで繋がりを誰もが持てるかっていうと
それは持てない人も多分いるし残念ながらね
助けを求められない人も多分いると思うんですよね
ってなると自力で歩めるっていうのは
24:03
自分の強みとか良さを分かった上で
他の人の強みや良さを借りながら生きていくって考えると
なんか厳しさがじゃあそこに必要かどうかって考えると
別に厳しさではないんじゃないのかなとは思います
まず一点でもう一点は
その厳しさってどちらかというと
多分なんですが心理学的に言うと不正原理とかっていう言い方をして
不正原理はい別に父親だからって意味ではないんですけど
どういうことかっていうと切り分けるとか
客観的なルールを決めるとかっていうそういう原理で
つまりそれが厳しさってよく呼ばれると思うんですよね
それはダメこれはルールとしてはこの国では認められていないよって
そういうルールだったり客観的な判断
それを不正原理って呼ぶようなんですよね
父親の父のせいと書いて不正ですね
特に別にお父さんじゃなくてもいいんです
母親が不正的なものを持っていてももちろんありますしね
それに対して母性原理っていうのがあって
それは切り分けるに対して包み込むとか
不条件の愛で受け入れるっていうのは母性原理って言うそうなんですよね
そう考えると当然人の中には母性原理も不正原理も両方入ってるんですよね
その時に厳しさが必要かどうかっていうときっと必要でしょうね
だって世の中にルールありますもん
例えば私中田的ですけど中田的にはやっぱルールあります
そこは切り分けるというかそこを判断します
この時間まで起きてるのはどうなのって
不正だけでいいかっていうともちろん母性的なものも持っていて
じゃれながらねスキンシップ取ったりとか
一緒に遊んだりとかっていうそういう中で母性の中で関わりもありますから
不正はどう厳しさがどうって言われたらもちろんあるでしょうね
だけどそれは不正原理を抜きにしてはないだろうなって思います
なるほどなるほど
もっと言いたいこといっぱいありますけどちょっと置いておきます
これくらい置いておきますね
ありがとうございます
田井ちゃん先生不正原理という面では厳しさもありというご意見ですけどいかがですか
結構納得すると思うにちょっと自分の中では普段の具体的な場面で当てはめてみたんですけど
じゃあ例えば今うちでは学芸会練習真っ只中なんですよ
でそこでちょっと気持ちが高まらなかった子がいますと
27:02
その時にじゃあ先生が何やってんだってやる気出せよって言うと
これを厳しさだとしますと
僕は絶対いらないと思うんですよ
だったらじゃあどうすればいいのかって自分考えたんです今聞きながら
僕だったら聞きますねどうしたのとか
でそれなんか言ってきた時にそっかってこうで次ちょっとどう頑張れるかを導き出して一緒に考えて
じゃあ次こうやってやってみようよっていうことで十分なんじゃないかと思ってそこに厳しさという手段が全く僕はいらないと思うんですよ
でもちゃんとやったほうがいいっていうのは間違いないので
そこを別に完全に容認していい全然やらなくてもいいよってするわけでもないので
そこには不正原理っていうので呼んでいいのか何かあるんだけど
なんか厳しさっていう手段厳しく指導する手段はほとんどなんか自分の日常場面その教員としての日常場面で最近手段に用いられません
確かにパワハラっていう言葉を持ち出すまでもなく後輩なり子どもたちを指導するのに大きい声で抑えつけるみたいなのって
もう何を考えているのってすごく僕も思ったりもしますけども
不正原理という意味で言ってもやっぱりルールであったりルール以上に何かあるかな
僕らの仕事で言ったらお客さん商売というか相手がプロディレクターであって自分たちはプロの技術者としてサービスを提供するっていうのが僕たちの仕事なので
ある程度のレベルまでに現場の中で常に達成しなければいけないっていうのが我々のプロとしての振る舞い方だと思うんですよね
なので当然遅刻はしちゃいけないしこの仕事ってつまんないよねとか言っちゃいけないし
プロとしての振る舞いをずっとし続けなければいけない少なくともディレクターの前ではっていうような振る舞い方っていうのがあるわけです
そこでなんだかプロとしてあるまじき振る舞いをするっていうことに対しては目の前で大きい声出さないにしても
それはなってないんじゃないかっていうような注意の仕方っていうのは当然すべきと思ってやっているところではあるんですけども
こんなふうにこのルールとはいえ独自の役割としてのべきみたいなのを守らせるみたいなことっていうのはどういうポジションに入るんですかね
30:02
なるほど例えばそれぞれの業界によってたぶんたくさんべきはありますよね
このテレビ業界ではこれがべきで金融ではとか教育界にも同じくべきは山ほどあって
ちょっとべき論の話しちゃうとねちょっと一般的な話は面白くなくなっちゃったら申し訳ないんですけど
結局もう本当にそのべきは相当問い直すいいきっかけが今やっぱりありがたいことに訪れてくれているのは事実ですよね
僕ら多分日本中の日本中の子どもたちが経験している
それこそ大ちゃんもよく言ってますけどいいか悪いか分かりません分かりませんけど
気をつけ前へ乗れ右向け右へってビシッとするべきだったんですよ昔までは
そうですね
それが良しとされてたんですよ
でも今相当それ問い直しが今学校現場で行われていますよね
そうなんですか
その通りです
そこらへんはあと大ちゃんにつなぐとして
例えばテレビ業界でのべきって暗黙の業界みたいなのがある
その暗黙だから言うまでもなく当たり前のようにやってきてるけど
僕他の業界のことは分からないですけど
でも教育界は相当そのべきの今整理に入ってる段階です
明らかに明らかです
そこもちょっと後で大ちゃんに他にどんな問い直しがあるかも聞くとして
そう考えるとテレビ業界のことは分からないけれども
もう誰もが譲らなかった社会人としてこうあるべきでしょ
ここはきっちり守るべきでしょ
テレビ業界で当たり前でしょっていう
そこって教育界は頑張って大ちゃんたちが中心になって
やっぱりそこを問い直すムーブメントが起きてるんですよね
そうしないとこの膨大な教員の仕事量って
こんなのは人間にはできない量ですよ
はっきり言ってだから次々苦しんでやっぱ倒れていっちゃう先生たちが
そう考えると昔ビジネスマンの中でも
24時間戦えほにゃららみたいなドリンク剤結構ありましたよね
とにかく24時間働けと戦えと強くあれと
それが本当に大前提で強くあれ
っていうイメージだったと思うんですけど
そこなら今笑われると思うんですよ
24時間戦えるかどうかなんて
そんな遠くと自体もおかしな話で
ってなるとどの業界も大きく問い直しになるんじゃないのかなと思うと
33:03
やっぱ厳しさは絶対必要だってことも
今回問い直す必要あるだろうなって
抽象的ですみません後は大地さんに
いやびっくりしたのが
気をつけ前習えを見直す期間に入ってるっていうのがすごくびっくりして
単純に子供の時はそういうもんだと思ってやってましたけど
親として例えば運動会とかでピシッとしてるところ
きっちり成立してるところを見たとして
先生方指導してくださって
綺麗に見えて動きも一定で
いいなって親としてはある程度思える部分のうちの一つだと思うんですよね
でもそこが見直すべきだっていうことに今なってるんですね
組体操危険な組体操って本来意味があるのっていうのとかはなんか分かるんですよ
だって危ないじゃないですか怪我とかして
そんなもうお母さんたちお父さんたちがいくらかっこいいからやってとはいえ
そんな別に怪我したら終わりなんでそれも良くないよねって分かるんですよ
気をつけ前習えはいいんじゃないですかって僕なんか思ってるんですけど
どういう改革なのか
なんでっていうのを答えられないものは要らないんじゃないですかって私は結構よく言うんですけど
なんで前習え必要なんですかって言われたときに本当にこれですっていうのを
子供に言えないものは私は問い直すべきだと思ってるんですよ
前習えできなくたって目でまっすぐできたり
自分で考えて今はこういう列になったほうがいいなとか
今はちょっとギュッと集まったほうがいいなって考えられる子供のほうが良くないですかって思う
この前ある公演で運動会が行われていたんですよ中学校で
その時に更新をやるんですね
やりますやります
15分ずっと見てたんですよ赤ちゃんと15分です
この15分の更新練習におそらく練習がたくさんあっただろうと
その練習を想像したんですよちゃんと揃ってないとやり直しとか
なんでお前腕がないんだとかこれはべきですよね
更新はやるべきっていうのが多分先生たちの中であったんだろうと
でも本当に更新っているのかっていうそのべきを問い直した時に
僕はちゃんとなぜを説明できませんね
だったらオリンピックパラリンピックみたいに楽しくワーって入ってきて
楽しく入ってきたほうが私はいいなってそっちのほうがなぜを説明できます
そんな具体を出すとそういうイメージなんですけど
なぜを説明できないようなものはもう一回問い直していくっていうのを考えた時に
さっき言った厳しさの前にそこがまずあるべきだと思います私は
36:04
なぜを問うて答えられないものは必要ないんじゃないかって確かにそうですね
そうですね
そう言われると
もう一個具体出していいですか
お願いします
この前先週職員室で話題になってすっごく楽しい対話だったんですけど
漢字って徹底反復いるのって話になったんですよ
これ多分ちょっと前に言ってたら怒られたと思うんですよ私は
でもそれを話せてるその環境がすごい楽しかったんですけど
確かに漢字って確かに必要だと思います
でもそんなに何千回も書く必要ありますか
今ってパソコン私も生活の中心を字はパソコンだなって考えた時に
読めるとなんとかなる部分もある書く時ももちろんあります
でも割合は変わってきてませんかって話になったんですよ
そしたら今徹底反復していた漢字の時間のいくつかを
子どもたちが今タイピング好きなのでその時間にしたほうがいいのではないか
って問い直しが職員室であったんですよ
これだって漢字できない子書けない子が徹底的に
べきだって厳しくされていったのすら
必要だったのかってなると思うんですよ
だから具体を出すとそういうことですね
反復は絶対必要だろうなって僕は思うんですけど
でも1000回書く中で多分なんか
記編から書いたりしますもんね多分ね
とりあえず記編を全部書いてその後作ることが目的になったりね
そうしたら意味ないなみたいには思ったりしますけど
確かにそうですね
例えば厳しさの話とさっきの前習いの話しますと
例えば前習いをしますよね並びますよね並べない
ずれちゃう子がいたらどうするかっていうと
厳しさで厳しくそこ並べって多分これまで言ってきましたよね
つまり厳しさがもし必要だっていうのは前提になってしまうんだったら
そもそも並ぶ必要があるかないか分からないものに対して
その価値さえ曖昧なものに対して
もしそれができないからといって
こちらが厳しさ不正原理を働かせてしまうと
それって分かんないけど誤った方向に厳しさで
強制的にそっちに持っていこうとする働きになるということですよね
でなるとちょっと大げさかもしれないですけど大真面目に
例えば戦争時代考えるとどちらの方向に向かせるかってものすごく厳しく進めましたよね
当時はそれが正しいと思って先生もやってたし
多くの周りもそう見てやってましたよね
そもそも前提がそれでいいのかっていうの
その当時はもしかしたら問い直しなんてもう全然できる余地がなかったと思うんですけど
39:03
でも今の時代ならばその前提だった怪しいものを厳しさで
そこに当てはめようとする動きは
その時のその教育と実は何ら変わらないんじゃないのかなっていう
そんな気もしますよね
その厳しさを発動するにしてはどなるどならない人
不正的な厳しさが本当に発動するのは
今この状況でそれを本当にさせる必要が本当にあるのかどうかっていうのは
問い直さなきゃいけないとこですよね
つまり子どもたちに何をやらせるかの前にまず問いがあって
その問いの前にそもそもの社会常識であったり
社会通念であったりベースがきっとあるはずで
そのベース自体が由来でいる今
じゃあそのゴールの不正的な共生っていうのも
一緒に由来でるんじゃないですかっていうことですかね
無邪気に発動していいんですかってことです
なるほど分かる分かる
今までこうだったからっていう理由だけではってことですよね
確かに
例えば今の関連でコロナの去年の話かな
私がまだ現場にいた頃コロナ明けで子どもたちがやってきたんですよね
2ヶ月ぐらいの休校を明けて
そうしたらもう子どもが来るなり私にもう本当に私もびっくりしたんですけど
来るなり私のところツカツカツカって来て
先生学校って本当に来る必要あるんですか
何のために学校来るんですか先生って問うんですよ
しかもその時私その学校に移動して1年目だったので
その子に初めて会ったんです
初めて会った子にそう聞かれたら都合研さん何て答えますか
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