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坂本龍一さんの訃報について

目次

坂本隆一さんの不法に対する感情
はい、今ですね、福岡市の北区から北九州市、極楽路、菅義偉県に向かって車を発車させております。時刻は10時51分でございます。
昨日なんですけども、各種SNSというかニュースで、不法が入りまして坂本隆一さんがガンで亡くなったということですよね。
実際亡くなったのは3月28日だったかな。一応昨日発表されたということなんですけど、
言葉にならない感情がいろいろあるので、どれだけ今の心と頭の感覚を言えるかどうかって感じなんですけど、
まずは率直に思ったのが、悲しいみたいな感情ですね。悲しさ寂しさというか、普通に人間が死ぬということに対する負の感情といったらいいんですかね。
嫌だなって思う気持ちですね。あんまり有名人とか芸能人とかが亡くなったという感情になることってそんなになかったような記憶があって、
最近で言うと、やっぱり下村健さんはかなりの衝撃ではあったんですが、
比べ物にならないくらい坂本隆一さんの不法というのは、どう言ったらいいんだろうな、リアルにくるものがあったんですよね。
これ何の違いかなとやっぱり考えたんですけど、なぜ彼だけ特別かですね。
たぶん自分の今の価値観だった人生みたいなものを作るみたいなところにやっぱり大部分影響してるんですね。
僕はヒット音楽を作る仕事をしていたんですけども、音楽を作る上でいろんな方に影響を受けて、僕の音楽人生というのはあると思うんですけども、
やっぱり下村強介、ボーイみたいなところから始まりですね。
ハイスターあって、いろいろボーネリアスとかシナリオとかいろいろあるんですけど、
坂本隆一っていうのがかなり僕の中のウェイトが高かったと。
だから、一言で言うととても人生の重要人物だったと、僕にとっての、という一言なんですけどね、そう言っちゃうとちょっと変なんですけど。
大西さん、お話しさせていただきたいと思います。
大西さん、お話しさせていただきたいと思います。
大西さん、お話しさせていただきたいと思います。
大西さん、お話しさせていただきたいと思います。
僕が経験を取っているのは、 アイドルと同じ時代に来たという感覚がとてもでかいと思っていて、
これが、坂本隆一と出会ったのは最近でここ1年ぐらいで、それで過去の本源からバーっと聞き直して、
僕が彼の音楽に出会ったのって、おそらく先行のメリークリスマスをピアノの先生が弾いた時なので、たぶん中学とかなんですよね。
その時になんじゃこりゃという衝撃を受けて、自分でレンタルCBショップに行ってアルバムを聴いて、
なんじゃこりゃの連続だったんですよね。それまでってポップスだったりロックだったり、そういうものでしか感動してなかった。
僕はピアノを習ってたんですけど、ピアノイコールクラシックみたいなものしか知らなくて。
同じピアノという楽器を使って、今まではバイエルだったり、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、クラシックしか知らなかったところで、
先行のメリークリスマスを聴いた時に、同じピアノという楽器がこんなに今の僕の中学生の感性を揺さぶるものができるんだって思ったのを覚えてるんですよね。
レッドイットBを先生に教えてもらった次ぐらいにサカンドル内に出会わせてもらったんですけど、
それくらい僕の音楽価値観みたいなものをある意味ぶっ壊してくれたんですよね、耳で。
という感覚があるんですね。言いたいことがいっぱいあるのが、
ジミー・ヘンドリックスがすごいじゃないですか、だけどジミー・ヘンドリックスが死んだということに僕は別に悲しみを覚えないんですね。
それは僕がジミー・ヘンドリックスを知った時にはもう亡くなってたからなんですよね。
当たり前なんですけど、もうすでに亡くなったということを知っている人に対して、亡くなってほしい、人を亡くしたなあ、みたいなことは思わないです。
坂本率に対して思うというのは、やっぱり同じ時代を生きてたからなんですね。
例えば震災の時に坂本率さんがインターネットを使って、
自分自身の活動だったり音楽だったりを発信しているということで、
当時としてはかなり前衛的で、ライブをやってすぐその数日後に配信として売り出すみたいなことって、
今考えたらまあまああり得るなと思いますけど、当時坂本率さんはそれをやってたと。
しかもiPhoneを一つでやってたみたいなところとかって、同じ時代を生きてる感があるんですよね。
もっというと、アップデートしている坂本率というものを見てきたからっていうのがあるような気がするんですよね。
なんか僕の中で、戦場のメリークリスマスの人、ラストエンペラーの人で終わるんじゃなくて、
坂本率がいろんなことをやっているっていう姿をずっと見てきているっていうのが結構重要で、
やっぱりゴツイ感じに出てアホアホマンをやってたりとか、
ダウンタウンと共演して、ボールペンを返しに行くみたいなトレーニングをやってたりとか、
あとはゲイシャガールズみたいな活動を見たときに、人間として生きていて、
ずっと変わりゆく存在である坂本率っていうのを見ているからだと思うんですよね。
人間の死生観について
この辺ぐらいからちょっと僕の死生感みたいなものもあるんですが、
僕は人間っていうものが死ぬっていうことを、よくカンパケ納品って言ってですね、
これは完全パッケージを作って、
完全パッケージ、つまりもうこれで完成ですよと、これ以上動かすことはないですと、
完成しましたみたいなものをクライアントに納品することをカンパケ納品って言ったりするんですけど、
完全パッケージっていうのは、
完全パッケージというのは、
完全パッケージ、つまりもうこれで完成ですよと、これ以上動かすことはないですと、
完成しましたみたいなものをクライアントに納品することをカンパケ納品って言ったりするんですけど、
僕は人間が死ぬってそういうもんだなって捉えてるんです。
今ウェブサービスみたいなものができてますけど、
例えばカンパケ納品と思われていたゲームの世界ですよね、
当時ゲームカセットですけども、これって地上に出たらもう変えれないわけです。
基本的にバグがあっても、それから新しく生産するロットについては変えられますけども、
アップデートできたりとかバグ修正できたりするんですけども、
基本的にはそのカセットが世の中に出た時点でもそのカセットは変えられないわけじゃないですか。
これはもう本当にカンパケを納品したという形だったんですね。
アップデート可能という感覚
でも今ってオンラインで色々とアップデートができると、
例えば素仕上げみたいなスマホゲームとか、
スマホゲームはいわゆるガナなんですけども、
例えばNintendo Switchとかのいわゆるソフトですよね、
カートリッジ版とかも刺してプレイしてそれで終わりじゃなくて、
どんどんインターネットを通じてアップデートができる仕様になってるじゃないですか。
こんな感じで完成したと思っていてもまだまだずっと続いていく、
つまりベータ版みたいな言い方、ベータ版はちょっと違うか、
試作版みたいな言い方なんでちょっと違うんですけど、
つまりアップデートをずっと続けることができる、アップデート可能みたいなものが出てきてですね、
インターネットとかデジタルの世界ではそれが当たり前になってきたりみたいなことがあると思うんですよね。
僕は人間が生きているってそういう感覚で捉えているんですよ。
製品としてバン、終わりじゃなくてずっとアップデートし続けることができると。
ってことは死ぬっていうことは、もうアップデートが不可能っていうことを確定する。
この人の人生っていうものが、この人の人格、この人のこの世界に生きた証みたいなものが、
この瞬間に確定するっていうことだと思うんですね。
あとはその人自身がアップデートできないところで解釈によって、
その人の人生が何だったのかっていうことを認識の上でアップデートすることはできるんですけどもちろん。
解釈を周りがアップデートすることはできるんですけど、
その人そのものの素材みたいなものはアップデートできないということが確定する。
そういったことだと思うんですね。
坂本リッチと寂しさ
だからそれはとても寂しいことですよね。
開発終了っていうことなので。
開発終了すると、そこになんで寂しさを覚えるのかっていうのはちょっとわからないんですよね。
実際開発終了しても、とてもいまだに残るものはあって、
例えばクラシック音楽だってそうだと思うんですね。
バッハやモーツァルトが残した音楽って開発終了してるんですけども、
それはずっといまだに残っているから、開発終了したからといって、消えるものではないと思ってるので、
坂本リッチというものが残した、もちろん作品は消えないですし、
人格だったりとか世の中の影響は消えないんですけども、
なんなんですかね。
なんで人がアップデートできなくなって、
カンパケ納品をすると寂しさや悲しさを覚えるのかっていうのはちょっとわからないんですけども、
サインをできないからなのかな。
坂本リッチさんに僕がサインをしてるとは思ってないので、ちょっと違うか。
身近な人は特にそうかもしれないですね。
自分がサインをすることができないからっていうのがとても強いような気がするんですけど、
その人のカンパケ納品に向けて自分がサインをできないから悲しいのかもしれないなと思うんですけどね。
サインをできると勘違いしてる可能性があるかもしれないですね。
実際には坂本リッチさんに僕が影響を与えるっていうのはできないんですけども、
身近な人だったらできると。
身近な人と勘違いしてる可能性がありますね、坂本リッチさんに関しては。
ずっといろんなことを教わったっていう感覚だからね。
脳がバグを起こしてる可能性がありますね、そこに。
実際ではサインをできないけどサインをできてると勘違いしているっていうことですね。
それは現実に同じ空間にいないのに、
テレビやSNSやインターネットや諸々のデバイスというか科学技術によってさも同じ空間にいるように錯覚させられているから、
そこにある意味、錯覚というか脳がバグを起こしてるっていう可能性があるなと思うんですけども。
考えればそういうことではあるんですけどね。
ただ、いくら錯覚とはいえど、この悲しみという気持ちはとてもありますね。
戦場のメリークリスマス
悲しいですよね。
最近の活動とかをずっと追ってるわけじゃなかったんですよ、僕は。
坂本隆一さん最近どういう活動をしていたのかみたいなことを改めて調べたりしたんですね。
ガンが大変ということはもちろん知っていて、
アルバムというか作品を最後に残すということをやってたんですね。
実際これは配信されているんですけど、最後にアルバムを作るということで。
そのアルバムはライブによって作るので、
アルバム1枚分全部演奏しきるというのは難しいから、分けて録音すると。
今日1日は1曲弾く、次の日に別に1曲弾くみたいなことで、
別にライブをしてそれを1曲にするみたいなことをやってるっていうのは知っていて。
そのメイキングみたいなものは動画で見つかったんですね。
坂本隆一さんのYouTubeのチャンネルの上がってた動画の
最近の動画から並べ替えるみたいなことをやったんですけど、
戦場のメリークリスマスを弾いてたんですね、ライブで。
その同じ環境で、アルバムを作るときと同じ環境で戦場のメリークリスマスを弾いてる動画があって、
これ見てなかったなと思って聞いたんですよね。
顔はもちろん、やつれてますよね。
もうがんがかなり進行してる状態なので。
戦場のメリークリスマスを弾くわけですけども、
正直、曲としては聞き飽きてると言ってもいいくらいずっと聴いてきているんですよね、曲としては。
で、実際にバージョンもめちゃくちゃあって、
オリジナルバージョン、ライブバージョンで○○とやったバージョンみたいな、○○バージョンみたいなものって、
もうめちゃくちゃ出ていて、YouTubeで検索したらもうありとあらゆる戦場のメリークリスマス出てるんで、
まあなんか、どう言ったらいいんだろうなあ、
まあまあ、その中の1個かぐらいの感じで再生をしたんですよね。
そしたら弾き始めるわけですけど、
どう言ったらいいんだろうなあ、ちょっとこう、
どう言ったらいいんだろう、これ難しいな、言葉で伝えるの。
強く弾く音が1個もないんですよね。
こう、バンって弾くみたいな音が1個もなくて、
なんかこう、全ての音が弱いと言ったら弱いわけですよ。
弱いと言う言葉で意味があるかなあ、
まあ物理的には弱いわけです。
千秋のメリークリスマス最後のバージョン
鍵盤を叩くスピードは明らかに遅いわけですよね、弱い。
なんかね、弱々しいとも取られることができるような弾き方なんですけども、
と同時にものすごく丁寧で、ものすごく繊細で、
一音一音こう、とても大事に弾いていると捉えることもできるし、
これはもう完全に今なくなったということを知って
僕から捉えることができる情報で、
僕が勝手にストーリー付けをしているんだと思います。
僕からそういうストーリーを、
僕がそういうストーリー付けたっていうことで言うと、
今まで何千回おそらく弾いてきたと思うんですよ、
何百回何千回弾いてきたその曲が、
おそらくあと何回弾いているのか分からない。
そして自分が残す音源として、
これがもしかしたら最後かもしれないという意識が必ずあったと。
この曲を弾くのは最後かもしれないという感覚で、
一音一音を噛み締めて弾いているような、
そういう印象を受けたんですよ。
もちろんバイアスかもしれないです。
何も考えずに普通に本人は力がないから
弱く弾いているだけかもしれないですけど、
僕にはそう捉えられたんですね。
それがたまらない気持ちになったんですよね。
という印象でしたね。
もうさっき言いました通りに、
完璧なお金をしたわけです、坂本玉さんは。
ということはもう今人際に、
二度と本人の手で新しい千秋のメリークリスマスというものが
アップデートされることはもうなくなったということになりますね。
もう千秋のメリークリスマスという曲は、本人の手によっては
アップデートはできないということが確定したということになりますね。
だから最後のバージョンだったということになりますね。
僕がYouTubeで見たそれが、ということになります。
何十年もかけてアップデートして、最後のバージョン。
もちろんね、アップデートした最後のものが
必ずしも優れているとかいいものかどうかはもちろん分からないですよ。
前のバージョンのほうが良かったなみたいなことって普通にあり得るわけですから
アップデートを進めていると。
ただ、最後のバージョンだっていうことは
客観的事実としてあるわけです。
ご冥福をお祈りします
その最後のバージョンということが確定したものは
やっぱり最後のバージョンにふさわしいものだったなと
改めて思いましたね。
あまりご冥福をお祈りしますみたいなことって
どう言ったらいいんだろうな。
影響力がある人以外が言ったところで別に意味ないなと思っていて
SNSでよく書くわけで、ご冥福をお祈りしますみたいなことを書くんですが
あまり僕は書かないようにしてるというか
ご冥福をお祈りしますと
言いたいから言ってる人もいるなっていう印象なんだよね。
本当に思ってる人もいるけど言いたいから言ってるなみたいなことがあるじゃないですか。
それは判断不能だから僕はあんまり言わないんですけど
ご冥福をお祈りします。
今までありがとうございました。
22:35

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