今日はですね、本題が著者と語る英語という選択、アイルランドの今part3島田珠美先生との対談ということで、3週間にわたってお届けしてきました、明海大学島田珠美先生とのトーク、最後の締めくくり会となります。
岩波書店より2016年に出版されております英語という選択、アイルランドの今、こちらの本が在庫が復活しておりまして、今入手可能になっております。ぜひですね、この対談会を通じまして、アイルランドに関心を持った方、あるいは言語交代に関心を持った方ですね。
いろいろな観点からですね、言語研究の魅力というのが感じられるシリーズとなったのではないかと思いますね。これからお聞きいただくお話もですね、かなり濃密です。私もですね、感激しっぱなしと言いますか、話していながら思いつくことが多い、インスピレーションが多いという、そういう会だったんですよね。楽しみに聞いていただければと思います。
特に言語交代、language shiftの話がありましたね。言語というのがこのHeldioの話題でもありますので、ちょっと強引なんですけれども、英語語源ハンドブックの話題をですね、毎日一つ何か出さなければならないという課題を自身に課しておりますので、language、これをですね、金冠の英語語源ハンドブックで引いてみると、結構驚きがあるんですね。
英語でですね、言語のことをlanguageっていうのが普通なんですけれども、もう一つ、例えばmother tongueという時のtongue、舌を意味するベロですよね。これを意味する単語がそのまま言語としても用いられるっていうことありますよね。
このtongueなんですが、これは本来の英語です。一方languageというのはフランス語から借りたものです。大元にはlinguaというラテン語があるんですが、このlinguaとかlanguageとtongue、なんと同語源なんですよ。結局舌という意味なんですね。
どうしてこれが同語源と言えるの?というところはですね、英語語源ハンドブック、Lの項目をお楽しみにしていただければと思います。ということで、じらして終わりということになりますが、今日の本題は島田珠美先生との対談会、最終回です。ぜひ楽しんでお聞きいただければと思います。それではどうぞお聞きください。
おはようございます。
本日はですね、3回目となりますが、明海大学の島田珠美先生にお越しいただきまして、改めてですね、英語という選択という本であるとか、アイルランドの現状、その他、アフタートークの回ですので、自由にいきたいと思います。本日もよろしくお願いいたします。
過去2回ですね、1回目に英語という選択、この本の概要をお話ししました。あの回だけでも、概要といってもね、かなりお話ししましたね。全然足りなかったですよね。なので、読んでいただければということでですね、皆さんすでに手に取っていただいたのではないかと思われますけれども。
そして先日の第2回では、最近アイルランドに行かれて、現状ですよね。特にアイルランド後がどのような状況であるかということを中心にお話し伺いました。2回でですね、それぞれ2、3チャプターだったんですが、全く話足りずにといいますか、お聞きしたいことがたくさんありまして、おそらくリスナーの皆さんもですね、
これ聞いてみたいということがあるかと思いますので、ぜひですね、コメント欄等で質問等を投げていただきますと、もしかしたらいつかですね、答えていただけるかもしれないということもありますので。
よろしくお願いします。本当今日は自由トークなんですが、この2回で言い残したことはたくさんあると思うんですけれども、その中でもこれ触れていなかったかな、みたいなことってありますかね。
本と直接というよりは、もしかしたら最近の動向として知っておかなければならない、言っておかないといけないのは、かなり多様化している人々のエスニシティの意味でですね、いわゆるその、そうですね、喫水のというか、いわゆる私たちがアイルランド英語話者として想像する人たちに加えて
ニュースピーカーズとでも言えるような、よその国から来て移り住んでアイルランドに長く住んで、それももう一世だけじゃなく、今度その人たちが結婚して新しい世代が生まれてくるっていうようなこと、人口構成ですね。
例えばアジア、それからポーランドなんて、ヨーロッパからだとポーランドが一番多いんですけれども、そういったところ、それからブラジルなんかも増えてますし、アフリカからもたくさん来て、今あるダブリンの学校では80何カ国語喋られている、80何言語話してるんだということが、もう普通にキッチンでそこの人と喋ってたら、今ダブリンでこうらしいよって。
私たちのところも結構な学生がいろいろいて、アラブの子もいるよねとかっていうふうに、非常に多様化しているということがあります。
いろいろな事業、人口が増えているんですね、今。そういうこともあって、およそ2割が今、いわゆる外からの人たち、出身シップとかそういうカテゴリーの中で、外からというふうに考えていいんじゃないかって言われてます。
【佐藤】移民受入れに積極的というか寛容な国で、人口も増えているということですよね。
出ていく人も非常に多いんですけど、アイリッシュダイアスフォラというか、いろんなところにありますね。それで、3月はセントパトリックがあって、3月17日ですけれどもあって、アメリカ、あと日本でも各地でいろんなパレードが行われたり、もちろん本国でもそれぞれの都市で、私も今回、広区のセントパトリックに参加していたんですけれども、そういった形で、まず外に出ていくのもあり、
自分たちのアイデンティティを、そういうふうに表現する場を持っているので、3月17日のセントパトリックパレードというね。それで、例えば広区なんかでも、人種というかいろんな国のオリジナリティあるいはルーツを持つ人たちがパレードに参加して、というようなことで、本当にいろんなものが見れましたね。
【佐藤】なるほどね。国の在り方としても、その多様性とか、受け入れるし、自分たちも出ていくという、これ歴史的にもね、新大陸に渡ったりであるとか、この辺が非常に活力があると言いますかね。お隣、イギリスとはまたやっぱりだいぶ雰囲気が異なるというところかと思いますよね。
【森】イギリスとなんかも非常にですね、いろんな難言語も話す人がいて、というのが小学校、中学校なんかの様子であると思うんですけど、割と同じようにして多様化しているよね、という。それからアイルランドは非常に、例えばこの間のウクライナのああいった紛争の場合でも、そこの難民の人を、計算したらアイルランド語、話者が1点何%って言ってましたけど、同じぐらいの数をウクライナの難民を受け入れて、ホテルを開放してですね、その人たちを、
受け入れたり、あるいは学生寮を開放して、学生が後戻ってこれなくてヨーロッパに帰ったりしないといけないようないざこざも後で起こるんですけれども、そんな風にして一旦を受け入れてしまうっていうような、あるいはそのウクライナの方のペットをどうするか、女性を出したりですね、ウクライナの人の1人当たり、忘れましたけど家族1世帯、1犬っていうんですかね、1つの犬の、そういうことも女性を出してとかっていうようなことが、
いろいろ議論に上がったりするような国です。
【佐藤】すごいですね、それもまた。
アイリッシュイングリッシュというのも、一枚岩ではなくて、今はその国際化とか移民による変形を受けて、第2世代、第3世代の新たなアイリッシュイングリッシュが生まれている。
そこで面白いのが、彼らもやっぱり何を持ってアイリッシュとするかというか、そこのところ、今それが私の研究の半分というか、少しこれの選択には書いていない、今現在の研究の一部であるところなんですけれども、
新しくアイルランド英語を話している人が引き継いでいる特徴とか、あるいは彼らの思うアイリッシュネスですね、アイルランドらしさっていうのが、やっぱり習得する方だから、そこは強化されたり、あるいは彼らなりのイメージができたりしていて、そこら辺も見ていて面白いですね。
おだしょー 今のお話で思い出したのは、隣イギリスとは違うと今言ったばかりなんですが、やっぱりコックニーなんかも移民受け入れで、いわゆるロンドンの下町地域に色々な国際的な雰囲気が出てきて、コックニーも従来認識されているようなものではなくなって、バリエーションが出てきたというのと、かなり似ていますね。
何をもってコックニーというのか、みたいな議論も起きてきているので、かなり瓜二つですね、むしろそのあたりでは。
そうですね、ある程度似たような傾向をとるものかもしれませんね。従来の伝統的なところから、それが多様化していくときに生まれることというのは共通する部分があると思いますね。
今回の一連のお話の中でも、何度となく示唆はあったと思うんですけれども、私がこの英語という選択というお書きになった本を読んで、一番びっくりしたのは何かという、最初に読んだときですね、10年前ではないと思うんですけど、どこのページでしたかね。
要するにあなたの母語は何ですかっていうふうにアイルランド人に聞いたときに、英語モノリンガルだとしても、例えばMy native language is Irishみたいな答えが、かえって消えるということが、ネイティブラングウィッチって母語だよなって日本語で訳すと。
日本語の大きなズレがあると思いますね。まず彼らにとって、私のその中では、例えばさっきのアンケートなんかは自由回答形式なので、ズバリを聞いていないんですね。あなたのネイティブラングウィッチは何ですか。あなたのファーストラングウィッチは何ですか。
そういう聞き方じゃなくて、ただ書いてくれた回答を全部集めて見てみると、あるときに、それは司祭いただいてどこかで発表したときに、その先生にアイルランド語のことをどう言ってるか全部アワーとか入ってませんって言われて、確かにと思って調べたら全部アワー、アワーラングウィッチというふうに言われるのが、これはアイルランド語なんですね。英語に対してはアワーは使わない。
たまに100人いて、1人2人、My first language is English, but…みたいな感じで、そんなのは1人2人あるんだけれども、決してネイティブとは結びつかない。ネイティブと書くのは必ず英語であって、そうですね、Our native language, our own languageとか、そんな言い方でアイルランド語のことを言うと。
そうですよね。で、それが起こっているメカニズムは、ほぼほぼだから、親の心理とか、どっちの方が子供が育ちやすいかとか、選んでないとか、いちいち意識はしないうちに、そっちに偏っていくというような状況があるということとか、あるいはその時の親の心理とか、ある部分は非常に普遍的で、私たちがどういうふうに評価を下すか、ここの中では、
何だっけ、青ネギと、何て言ってたっけ、私。何か忘れましたね。半分。
おだしょー 本の中で。
そうでしたね。フランスパンと青ネギの例えがあったと思うんですけど、かっこいいとかかっこ悪いとかっていうようなジャッジメントですよね。それと記号なので言語もね、結びついていって、なのでかっこいいものが選ばれていくとか、そういうところは非常に普遍的なので、それは例えば言語感でもあっても、方言感であっても、あるいは例えばもう本当にバックを選ぶとかっていうところでも似たようなことは起こっている。
っていう話ですよね。だから何かすごく特別なことが起こったというふうに考えるよりも、いろんな条件が整ってしまえばこういうことは起こってしまうという。
おだしょー 個人の心理というところでは分かる一方で、その個人の心理っていうのは、その人を固有のものというよりは、やはりその社会の中の子ということなんで、社会からのプレッシャー、これは無言のプレッシャー、こういう場面では〇〇語を使うべきなのである。
社会の中でなんとなく共有されている常識感みたいなものが、やっぱり世代間でも変わってくるしということで、個人とその社会の間という、繋がざるを得ないということにはなってきますよね。
社会とコミュニティの雰囲気とか、だからある時に標準語化っていうのが正しい方向だ、あるいはみんなで統制しようという方向に赴くのであれば、例えば方言札みたいなものがあちこちで見られてますけれども、アイルランドでもやっぱり同じように罰札のようにアイルランド語を禁止された時代っていうのもあって、その時は社会はそういう雰囲気だからみんながそうで。
最近としてはアイルランド語もいやいや価値があるんだよということがわかっていると、それがまた奨励されるというような空調というんですかね、空気があるので、だからむしろ自分の子供がアイルランド語を習いに行ってるんだとか、今そういうイマージョン教育みたいなのもあるんですけれども、そういう合宿に行ってるよなんてことは自慢にもなったりすると。
だから社会の雰囲気が変われば、日本でも同じだと思うんですけれども、方言が例えば方言のいろんなドラマが人気が出たりですね、あるいはローカルな番組がちょっと流行ったりとかっていうのも、それが今はそういうものを良しとする多様性が重んじられたり、そういうものをクールだと思う空調というか空気ができてるからそういった方向に流れるということですね。
だからその評価のジャッジメントは時代において変わっていくということですね。
そうですね。同じ対象、似たような対象であっても、時代の雰囲気によって変わるという。この時代の雰囲気がどう作られるのかっていうのがまさに社会言語学の非常に重要なポイントかと思うんですよね。そのボトムアップ、一人の話者とか家庭という小さい単位から来るのか、上からの言語政策とか言語計画のように上からなのかというような古い議論がありますよね。
さらにそこに第三者と言いますか、例えば島先生は日本人として外から入っていってそれを眺めるみたいな構図もありますよね。
そうですね。そこら辺も非常に難しいところですね。研究者としてなのか、正直入っているととても距離が近くなりますので、友人となるとまた違う難しさというかもどかしさというかいろいろな難しい面もあったりするかもしれませんよね。
いやそれ絶対難しそうですよね。それこそ文化人類学者のフィールドワーカーっていうのも、だから外から来たんだけども中のような気がするし、だからどこまでもやっぱり外でしかありえないしみたいな葛藤とか。
基本自分の中では、何かあるときはやっぱり最後は自分は外だと思わないといけないと思ってます。だからまず属性が違うし、なのでそこはどんなに自分がそこに入り込んで分かろうとしても、どうせあなたは外の人でしょと。
例えば本当に真に迫ってね、アイルランド語を自分は本当に報じしたいんだという先生に会ってね、彼女なんかは、あなた言語学者だったら他にこんな例見てるでしょってそこでどんなことしてるか教えてよっていうか、あなたはこの自分たちのアイルランド語が戻ると思ってるって。
それって友達のレベルで私なんとなく答えて、そんなことないよねって、もう自分はその専門においてある程度考えられるとしたら、今アイルランド語がネイティブの状態で非常に盛んになるっていうことは難しいと考えているので。
やっぱりそういうことを言ったら、じゃああなた何のためにこんな調査してるのということになって、もう私はもうこんなので教えてよみたいな、それは真に迫ったような相手との対話ってなってくると、それはもう何というのかな、研究とか何とかということよりももう人として同士の付き合いというか、もう自分はどうするんだろうっていう、そういうことになりますね。
そうですね、誤聴症の中でも悩まれているってどうすればいいのかわからないというトロをね、されているっていう、わかりますね。
ありがとうございます。
いろいろとアフタートークも含めまして、お話しさせていただきましたが、今の最後の下りで島先生のこの本もそうですし、他のご研究なども読ませていただいて、関心は私も非常に近いなというのはずっと思っていたので、今回の対談シリーズ本当に楽しかったんですけれども、言語交代、言語接触、このあたり私もすごく注目していますので。
最後のところで多分逆に決定的に違うところがあるなと思ったのは、私は歴史をやっていて現在のことはやってないんですね。そうすると相手にする対象っていうのが文字で残されたものだけなんですよね。
なのでインフォーマントがもういないっていうか、アクセスできないところにいるので、例えばフィールドワークみたいなのも、私も若い時はやってみたいなみたいな、冒険心みたいな感じで入っていって、中に入ってどう見えてくるんだろうみたいな文化人類学的な興味みたいなのなくはなかったんですが、結果として私、文献学的なむしろ文字、過去から残されたものだけを見るっていうことになると、
これ全く対する相手が違うっていうか、私も和紙の真理に入り込めるならいいなと思いはするんだけれども、どうしても手が届かないっていうか、いないんでね。そこが対象している相手と言いますかね、対象にしている相手っていうのがかなり異なる、普通に言えば文献学っていうのはアームチェアの学問みたいなイメージ。
フィールドワークは本当に出かけていってということで、その姿もイメージもだいぶ違うと思うんですよね。ただ扱っていらっしゃるもの自体は言語交代、言語接触であるとか、そこで生まれてくる言語変化。
実際に見える人ができることっていうのがあると思うんですよね。そうすると、見えることによって微視的なところを見ていく。例えば歴史言語学とかで扱っている長いスパンのことでは、というよりは、私たちは逆に小さな教示的なと言いますか、今ここで起こっていることで、