えらいためましたね。仏はいない。
いなかったね、あそこにはね。
それって、もちろん物としてはね、そこにあるんだけど、
なんていうんですか、その中身が感じられない。
中身って言うとまたさ、いろいろな語弊があるんだけど、いろいろ回りましたよ。
でね、いっぱい人もいらっしゃってましたが、
どの仏様の前でも、拝んでる人一回も見なかったもん。
要は皆さんね、ものすごく熱心に見てるのよ。
覗き込むようにして、あそこはすごいね、とか、こんな風にね、丸々の柵だもんね、みたいな感じでね。
見てはいるよね、真に。
でもね、神戸を垂れてね、拝む、祈るっていう人にね、一人も会わなかった。
だからね、いないなと思っちゃった。
それは、多分海外の方もいっぱいいたでしょうね。
でも日本人も、海外の人は多分そうだし、日本人もあまりそういう人はいなかった。
大抵の場合がさ、配管料っていうのを入口で払うわけよ。
配管料を払います。そうすると、なんかこうペロンというチケットっていうか、配管券みたいなものをもらいます。
で、その時点で何かがポロンと一個かけるんだろうね、ポロンと。
つまり、美術館とかさ、そういうような時に入場料払ってみる、みたいな感じのイメージになっちゃう。
じゃないかと思う。それで今度片手にさ、配管券持ちながらさ、行くわけじゃない。
それでそうすると、ガイドの人がいるんだよね。結構な割合で。
で、ご説明しましょう。これは何々の柵で、何々時代のもので、何々で、何々でって。
ありがたいよ。ありがたいんだけど、聞けば聞くほど、また何かがポロンポロンポロンポロン落ちていくのよ。
あーすごい立派だね。仏様なんだな、仏像なんだなって。そうね、仏像になっちゃうのよ。
だからその仏像の先にね、本当は見えるものがあるはずなんだよね。
それがさ、もしかすると先に言った親の顔だったりね、それから先に言ったお友達の顔だったりね、
それから自分自身のことを考える時の不安だったり、またもしくは希望だったりね。
そういうものが、その仏像という形の向こう側に見える、だと思うのよ。
でもね、そのね、余地がなくなっちゃう。配管料払って、見学に、見物に入る。
それから説明があって、何時代のものですって、要は仏像に対して聞いてるわけじゃん。
その後ろにあるさ、仏法のさ、考え方とか教えとかにまでさ、行かないのよ。
だから当然、祈らないよね。拝まないよ。
そうですね。美術館だ、本当に。巨大な美術館と化してるんですね。
なんかね、そんな気がしちゃったの。
なんかそれはあれですか、妙優さん的には立場的にね、僧侶であるという立場から見ると、仏像ってそういうもんじゃないんだけどなーっていう思いがちょっとあるってことですか。
ここで私がね、僧侶としてとか言うとね、それはもうね、そんなこと言える立場じゃない。そんなこと言える立場じゃないから、
一人の人間としてね、一人の、なんていうのかな、物好きなおばさんとしてね、言うとね、言うとね、違うんじゃないかなって思うのよ。
っていうのはね、台湾によく行くんだけど、台湾にもお寺あるんだよ、もちろんね。
その台湾のお寺ってね、もちろん配管料なんか絶対取らない。そしてね、配管の時間も決まってないよ。
要は朝開いて、夜日が暮れるまでは門が開いてて、もうどなたでも誰でも入っていいし、一回入ったらそこに朝から晩までいてもいいの。
だから、言うなれば座っちゃって、座っちゃって、なんか日がない一日ここにいるんだろうななんて人もいっぱいいるのよ。
で、そこでさ、どんどんどんどん人が来て、そしてみんな、もうその仏がいつ作られたかと全然関係なくて、とにかく拝んでる。
とにかく、もう自分の心配事なのかもしれないし、今日どうしたらいいのかもしれないし、とにかく必死で拝んでるの。
で、その様を見た時にね、この場は生きてるなと思ったのね。で、この仏様も生きてると思ったの。
みんなのその、もう混沌とした祈りを一手に聞いてるわけよ。
それを、なんていうのかな、こうじゃなきゃいけないって言ってまたちょっと偉そうだけど、
ここにこそ本当の人の苦しさだったり、また、だからこその救われる道だったりがあるなって思えたんだよね。
なんか意味がない、まあ別に意義悪いじゃないんだけど、
そうやって仏像、美術品のように崇めて、はいはいって言って見て、すごい綺麗だねって言って去るのが、意味がないんでしょうね。
本当はさっきほら、ちょっとアクセスポイントみたいなこと言ってたからね、ちょっと別の会話の時に。
要は、大いなる心理じゃないけど、悩みっていうのはね、誰でも持つんだけど、幸せになるにはこういう方向で考えていこうよみたいな、
そういうものがクラウドにあるとして、それにちょっとでもアクスしたいから祈りましょう。
そのための目印としての仏像であるとか、寺っていう場所があって、そこの形とかものにはそんなに意味はなかったりするのかもしれない。
そこに行って、自分の中でどうなんだろうって自分で問うたりとか、考えることをする行為があるので、
だから言ったら今って、逆に現代の技術を例えると、
ワイファイルーターを置いてですね、これがね素晴らしいんですよ、これが何時点に作られたルーターでね、
かつてはこれでアクセスしてインターネットの情報をいっぱい見てみんな役に立ってたらしいですよ、きれいなルーターですね、みたいな、
そういうことだね、それ使ってちゃんと何かを得て、自分の中で内観があったり、悩みをどうこうしようっていう。
内観よ、つまり仏の前で祈るんだけど、祈ってる時って意識って絶対うちに向いてるはずじゃない?じゃないかと思うのね。
いろんな思いだったり、悩みだったり、苦しみだったり、それを見ている時間。
だから仏の前でひざまずいてはいるけれども、でもその仏を通して矢印は仏を見ているようで自分に戻ってきてる。
そんな面もあると思うんだけど、この間行った時はさ、もうみんなの矢印が仏にしか行ってない。
仏の向こうにも行ってなければ、仏から戻って自分にも来てない。
なんかそんな感じがしちゃってね、なんかいないなって思っちゃったんだよね。
昔の人はその仏様がほとんど当たり前だけど仏像ってほとんど目を閉じているか、半分目を薄く開けてるかみたいなほとんどじゃないですか。
その姿を見て、仏様がそうしているなら自分も内側を見ようっていう風になって向き合ったけど、
別に仏様に見られているわけでもなく、ただ一緒にその空間にいて、自分もじゃああの方がそうなっているんだったら自分も内側を見ようみたいにして、
自分との会話をしたりとか、なんかそういうことだったのかなぁともちょっと思うんですけどね。
今は美術品として、特に京都なんかは、当時の異性者が派手に明かせて豪華にしたりとかしたから、
ものとしての派手さの方が際立っちゃってるって面はあるのかもしれないですけどね。
あんまりね、あんまりほらさ、言ってもあれだけど素晴らしいとこなんだよ、素晴らしいとこだし、仏像の一つ一つも本当に絵がたい、見ごたいのある、いいものなんだけど、
でもなんか一末のこうなんていうかなぁ、寂しさっていうかなぁ、なんか無駄しさというか、なんかね本当そんな感じだった。
で、に対して台湾のお寺ってのを生きてるなって、だからさ、なんていうんだろう、祈るためにある場なんだよね。
見るところじゃなくてね。そしてお寺側も一切拒絶してない。
例えば日本のお寺ってさ、ここで瞑想してはいけませんとか、ここで座らないでくださいとかっていうのを時々書いてあったりするんだよね。
だからそうすると、まあ本当はそこで座ってちょっと心を落ち着けたいなって思う人がいたとしてもできないわけじゃない。
でもそれは何でかというと、次々に観光客だったり参拝客が来て迷惑だから、そんなとこに座られたら。
でもそれをフルオープンでさせてくれてる。座りたい人は一日中座ってていいよみたいなね。
なんかそういうのの懐の広さというか、感じるんだよね、台湾はね。
そもそもね、そのブッダが、やめてよ自分の像なんか作らないでよ、気持ち悪いみたいなことを言ってたわけでしょ。
自分の像を作って、それをちゃんと安置するための建物を建ててとか、やめろよそういうのみたいな。
僕はそういうのいいから、多くの人に教えたいだけで、教団作るとか、像を作ってどうこうとか、やめてよみたいなじゃなかったでしたっけ?
まあね、そもそも一番最初教えたくもなかったしね。
もともと何かを信じれば上手いこといくっていうことはないよって。
世の中の真理っていうか、ダルマをきちんと、法を信じなさいとね。
そうするとできるようになる。しかも信じるのはやみこもにじゃなくて試してみて、自分でやってみて、
そしてなるほどなって納得していかないとダメだよっていうようなおっしゃるようだと思うんだよね。
だからもともと仏像に手を合わせて拝めばなんとかなるって言うんではなかったんじゃないかなっていうのは私の浅い理解だけど、
でもそれですらない。今はもうもはや。拝みすらしない。
形もない。
そうそう。っていう感じがね、してもうた。
事実としてね、そういうふうになっちゃってる。
言ったら悪気は誰もないんでしょうけど、観光地になっちゃっていてしまっている以上はそうはならんですよね。
でもこれもね、京都に住んでるわけでもなくね、
ただ一日日に一日が空いたからと言って歩き回った私のしがない感想でございます。
だからもっと毎日毎日言っていれば、いやそんなことはないとちゃんと拝んでる人もいるし、
ちゃんと祈りというもの、そしてその先に見える世界、その先にあるダルマ、真理っていうものがね、ちゃんと感じられるんだと。
感じられなくてそんなことを言うとお前があかんということかもしれませんからね。
だから一感想として聞いていただければいいんだけどね。
そういえばダルマって、真理っていう。
ダルマって言うとダルマさんみたいな、ダルマ。
ダルマね。ダルマって言ったらダルマさんになっちゃうけど、ダルマっていうのはまた向こうの言葉で。
法っていう意味ですね。
仏法祖の法。
法っていうのはさらにかびくたいて言うと、世の中の。
世の中の真理、仕組みというか、ありようというか、だと私は理解してるけど。
法則って言葉も法ってつきますもんね。
確かにね。
こうなるとこうなるよっていう。
そうかそうか。
ダルマね。
ダルマね。
そういう、ダルマさんのダルマはそっから来てるっていうことですかね。
そうなのかな。
別の言葉?
いや、わからないな。ちょっとそこまでお勉強足りなくて申し訳ない。
でもダルマ、だから日本の仏教から由来する文化ってめちゃくちゃ豊かなんだけど、我々よくわかんなくなってるなって思ってて。
僕たぶん平均的な人よりはちょこっとだけ関心がある方なんだけど、それでも全然知らないし。
だからそういう人が多いから、それはそうなるわなって京都に行ったらってちょっと思っちゃったんですけど。
でも確かに、あんなわちゃわちゃ人がいるところで、心を静かに落ち着けて、こうやって。
今祈ったけどね。
祈れるかって言うと、なかなか難しいところなんだろうなと。
だから別の言い方すれば仏像じゃなくてもいいわけよね。
別に何もなくてもいいわけよ。
ただ、祈るっていう、この宇宙全体を回している仕組みのようなもの、
私たち人間ごときではどうにもならない流れのようなものに思いを馳せて、
その中の一点であるんだなっていうことを考えるような時間が持てれば、
別にそれは仏像の前だろうが、チャブ台の前だろうが、いいってことよね。
いいってことよね。
そうですよ。だからものとしてね、
そういえば宇宙とつながるっていうこと大事だよなって思い出させるために仏像とか何やかんやがあってもいいんだけど、
結局なくたって一緒だから、逆にそれを過剰にありがたがってというのも違うなと思うし。
確かにね。
さっきの宇宙の中の、大きな宇宙の中の本当に一粒なんだという感覚って、
2回ぐらい前にしゃべった、自分が本当にピンチに陥った時にどうやって、
僕は一冊の本にイメージしましょうって言いましたけど、もっと言えば宇宙全体からしたら、
もうもう砂粒の砂粒の砂粒がどうしたこうしたって話じゃないですか。
そうだよね。
そう思うと、まあいっかってなれるので。
これは放棄ではなくて、定感なわけですよ。ある種の。
きちんとした諦めよね。
だから、もちろん現実問題で具体的なアクションをしたりはするんだけども、
でも一方で宇宙レベルまで引いて俯瞰でみた時に、そういうこともあるよねって思う。
立派な危機回避の方法なんではないかと思っていて。
そのために寺に行ってね、祈って、仏様に思い馳せたり、マンダラを眺めたりして、
宇宙の中の本当に僕は今、ごくごく狭い穴にカポッと今はまり込んでるだけなんですって思えたら、
それはそれでいいんじゃないかと思って。
だからその時に、別に寺に行かなくてもいいし、マンダラ書かなくてもいいのよ。
自分の中に。
そう、今いる自分の部屋で納豆ご飯食べてるだけでも行けるのよ、そこに。
納豆ご飯ね。安上がりですね。
大好き。
だから僕、タイに行った時に、タイのバンコク行った時に、タイの仏教ってまだ全然日本と違うのが面白いなと思って。
寝釈迦ですよ、寝釈迦。
寝釈迦。
噂の横にゴローンとなってるお釈迦様を見た時に、日本では絶対あり得ないわけですよ、あんな巨大なスケールの寝釈迦。
端っこから端っこまで多分何十メートルもあるような。
こういう解釈、やっぱりだから日本人ってある種、仏教に対してある種の厳粛さを求めちゃうというか。
そうね。
やらなきゃいけないみたいな。
罰が当たるし、真面目にやらなきゃみたいな。
向こうの寄室もあるのかもしれないけど、仏様がこんな堂々と寝っ転がってるんだったら、ちょっと気楽に考えてもいいよねって。
僕があそこに生まれたら仏教ってそう思いそうだなっていう感想を抱きましたけども。
ひなさんはいかがお考えになるでしょうか。
京都に住んでる方、これ聞いたらね、ちょっとどう思われるかわからないんですけど。
申し訳ございません。
いやいや、謝りそうだと思うんですよ。
現実に美容医さんが見た景色はそうだったということであるからね。
これからもね、どんどん京都に行って、どんどんどんどん拝見してですね、また新しい感覚を得ようと思います。