だからさ、お母さんの前ではさ、僕って言ったりさ、なんか私はなんて言わないでしょ。でも会社行ったら上司の前では私はって言うじゃない。
そうですね。
それから小人の前ではさ、俺って言ったりさ、なんかさ、違うのよね一人称が。ほんとないと思う。他のところには。
まあ珍しい言語でしょうね。
中国語全部ウォーだもん。
最近習ってる中国語。
最近習ってるわけじゃないのよ。
ずっとね。
ずっとね。
ウォー、ウォーですか。だからやっぱウォー、ウォーアイニーみたいなやつのウォーですね。
ウォーアイニーのウォーしかないもん。
それが普通ですよね。
そうだよ。
英語は愛だけでしょ。
愛だけですよ。聞いたことない他に。
だからそういう、何ですかね、日本人ってその場所によって役割を演じる、立場を演じるっていうことが。
アイデンティティがさ、変わるっていうの。だから絶対的にこうだっていうものがあるんじゃなくて、関係性によって自分が出演芸してるんだよね。
面白い。即興のお芝居やってると、やっぱりそこも日本語の面白さだなってよく思っていて。
一人の主人公が真ん中に立ってるだけで、周りの他の役者たちがえりかりたしかりその人に関わるっていう。
そういうやり方があるんですよ。真ん中の人は自分の役を決めずにただ立ってて、外から入ってきた他の脇から入った人が
お父さんって話しかけたら、おーどうしたどうしたってリアクションして、その瞬間その人はお父さんになっていって、
でその脇から入った人が人しきり1、2分やったら、別の脇から入ってきた人が入ってきたら、その人は抜けて、主人公は残って。
加藤くんさ、この間の書類さ、って言われたら部下になるわけですよ。
そうやって一人の主人公はずっと一人の人物を演じるんだけど、周りの人との関わり方はそれぞれ違うっていう。
即興のゲームのやり方が、そういう見せ物があって、そうやるときにやっぱり一人称変わりますからね。
そうだよ。実生活でもまさにそのままだよね。そのままじゃない。だって自分もお父さんであり、役者であり。
そして仕事してれば仕事している仕事人でありってことでしょ?
そうですね。みんなそうですよね。
だからさ、日本人に対してさ、アイデンティティをね、確固とした自分の存在理由を持ってって難しいと思うよ。
日本人が特有なのかわかんないけど、でも僕もよく自分って一体誰なんだろうっていう感覚になる瞬間ってやっぱり多々あって。
なんか理人感っていうのかな。なんか自分ってふと考えるとバタバタ日々忙しくしてるけど、はたと誰なんだろうってなるし、
なんかこう、いろんな人のために時間を使ったりとか、誰々のために何しよう、誰々に会いに行こう、仕事行こう、いろんなことがある中で、
じゃあ本当に自分軸で動いている瞬間ってどれだけなのかって思うと、うーんってなりますよね。
でさ、そこでまた迷っちゃうと、じゃあ本当の私って何?とか言い出しちゃってさ、若い子たちなんかさ、自分探しの旅とかに行っちゃうじゃない。
自分っていうものがもう揺るぎのない決まった何かがどっかにあるはず。
でもそうやっていろんな人に影響を受けて、なんか自分がなんだかわからなくなっちゃう。
それで自分探しに行くってなるんだろうけど、ないんだと思うよ。
人はないですよね、たぶんね。本当にそうだと思う。
自分探しするだけしんどいよね。
なんかね、名前、自分の固有の名前があって、肉体という器があるからこそ、生じる自分っていうものが形で見えてるから、
自分って誰なんだろうって思いたくはなるけど、それこそイクラですよ。
僕よく言うんですけど、お寿司でイクラあるじゃないですか。
イクラ見ると、あれ一個一個魚卵の粒でしょ。
粒粒見てると、人間から見るとみんな同じ粒じゃんみたいな。
粒一個一個は、私はこの世に生まれてきて生を授かってって思ってる生命体かもしれないけど、
お前らみんな一緒じゃんって思うんですよ、僕。
イクラ見た時に、自分も宇宙から見たら、ものすごい数のイクラの粒の一個なんだろうなって思ったら、
自分なんてないんじゃない?って思っちゃう時があって、イクラを見ると楽になるって話なんですけど。
ものすごいね、すごいねそれはね。イクラでそこまで深く行ったことはなかったな。
僕は思います。たまにイクラで悟るという。
でもほんとそうだと思う。だからね、自分が分からないとか言って悩むのは具の骨頂だよね。
それもいろんなトラブルのある種の元になってるかもしれないと思っていて、
自分という器があって、自分大事にしなきゃとか、自分を傷つけられたから腹が立つとか、
すべての苦しみの元だったりするんですよ。
こんなのは私らしくないとかね。もともとないんだって私なんて。
だから流れるように変わっていけばいいんだよ。
ゆずむげにね。だからもっと自分をしっかり持てよとか言っても、ないないないっていうのも一種のあり方としてありなんでしょうね。
傷つけられたなんて言うけど、もともと自分がないんだから、その時に確かに嫌な思いはしたよ。
でももう今の自分っていうのは、傷つけられた時のその状態とは違うんだからさ。
もう過ぎちゃったことなんだよ。
一瞬一瞬変わりながら動いているような雲みたいにね。
なのにいつまでもあの時にやられたって思ってるから苦しいわ。
だから過去の過ち、自分が犯した過ちとかもずっと引きつけて自分を責め続けてるって、
特に日本人真面目だから、そうしなければならない。そうすることが正しい、道徳的だみたいに思うんだけど、
それも過去のことで今の自分とは生まれ変わってるんだからっていうふうになってこないと。
そこはやっぱり十分に吟味して反省もしてね。
もう同じことしないぞと思ってっていうのは必要だよ。
だけども、その何ていうのかな、
罪というかその時のことをいつまでもいつまでも抱えてなきゃいけないというのはちょっと違う気がする。
なんかその自分、行い、罪を憎んで人を憎ますっていう言葉もあるけど、
行いそのものはね、その批判、非難されるべきことを自分もしてしまったとかあるかもしれないんだけど、
それも含めて前に踏み出せるのがまた一つ人間だと思うので、
すごくそれだけ言うと言いこちゃんぷった言葉だけど本当だよ。
この間ね、チベット仏教ちょっと勉強してるんだけど、
その師匠から聞いたことがあってね。
今の話で結びついてるなと思ったんだけど、こんな話だったのよ。
ちっちゃい子とお母さんが公園に行きました。
ちょうど蝶々が飛んできて捕まえました。
可愛いね、綺麗だねってお母さんとちっちゃい子二人して蝶々を眺めてたわけ。
そしたらなんとそのちっちゃい子が急に蝶々の羽をむしろうとしたの。
お母さんが慌てて、
ダメ、そんなことをしたら。
可哀そうでしょ。蝶々死んじゃうじゃない。ダメって怒ったの。きつくね。
そしたらちっちゃい子は涙を浮かべてね、ごめんね、お母さんごめんなさいって謝ったの。
そんなことがあって公園から戻ってお家に着きました。
玄関のドアを開けました。そしたらなんと玄関にゴキブリがいたの。
そしたらお母さんが慌てて立てかけてあった砲器を取ってバシバシって叩いて、叩き殺した。
ゴキブリをね。そしたら子供が言いました。
お母さん、ゴキブリは殺してもいいの?蝶々は可哀そうで、ゴキブリは可哀そうじゃないの?
そう言われた時に、あなたがもしお母さんだったら何て子供に説明しますか?
なるほど。難しい。説明できないかもしれないし。
でも何て言う?
無理くり言うんだったら。
無理くり言って。
ゴキブリは人間の住まいに害を及ぼすから殺すべきで、蝶々は及ぼさないってことなの?
もう教科書みたいな答え。大体の人がそう言う。
ゴキブリは害虫だから、ゴキブリは病気を媒介するから、ゴキブリはうぬんかんぬん汚いからとかね。
もしそう言ったらね、今度子供がこう言ってきたらどうする?
そうなんだ。じゃあ汚いものは何でも殺していいんだね。
言われたら困るでしょ。今度はまた困って、いやそうじゃないって。
これね、なんでかって言うと、ゴキブリは汚いから、こうりゃこうだからって全部これは自分のやったことを正当化する言葉なんだよ。
自分をかばうための言葉なの。そこからは何の解決も浮かばないよ、結びつかないよ、問題が問題を生むよっていうお話。
じゃあお母さん何て言ったらよかったのか。
そうだね、ごめんねって言えばよかった。ごめんね、今気がついたって言えばよかった。
これが仏教の仕組みだよって教えてくれたの。
何をやっても、要するに間違っちゃったことをしても、気がつきましたごめんなさいって言ったら何度でも自ら救われてしまう。
それは仏教の仕組みだって。決して謝っても許さない。お前一回やったんだから絶対許さないと言わないんですよ。
ごめんなさい間違ってたって言ったら何回でも救われるっていうそういう仕組みなんだよって教わったんですよ。
なんかめちゃくちゃプリミティブな話ですね。
プリミティブが分からないよ。
原始的というか、すごくシンプルだけど重たいというか、言っちゃうわそういう風に。理由つけて言っちゃう。
言い訳じゃないけど正当化ね、正当化しちゃうわ。
そうか、だから自分がまず知りました。今一つまた知りましたよ。ごめんねって認識したよっていうことを言うことでOKというか。
勝手に救われてしまう。救われてしまうと先生が言ってた。自ら救われてしまうんだって。
仏様が救ってくれるとかそういうんじゃなくて、ごめんなさい気がついた今間違ってた。ごめんね間違ってたって言うだけで自ら救われてしまうんだって。
すごくない?でもそれをしないと自分がやったことがいかに正しいかってことを相手に分からせるために
散々パラ言葉を尽くさなければいけないわけよ。でもそれは真理じゃないから、真実じゃないから絶対にまたやられる。
だって汚いからよゴキブリは。じゃあ汚いのは何でも殺していいのって。あそこのおじいさん汚いけどって言われたらどうする?
それはダメよ人間だから。じゃあ人間は殺してはいけないの?他のものはいいの?とかいろいろなっちゃうじゃん。
だから世の中はそうやってねどうにもならないことってあるよね。命奪っちゃいけませんだってお肉いただくしさ。
だけどその都度その都度間違ってたごめんなさいごめんねってやっぱり言い続ける気がついていく常に常に。
でまたやっちゃうんだけどさまたやっちゃうんだけどでも何度でも有効だから気がつかずにやり倒して
全く何も気がつかないでやりっぱなしにするじゃなくて気がつけよ攻めてっていうことなんだなって私はその時思った。
気がついて本当はやらなくなればいいんだろうけどそこまでさ行けないからさそこまで行けないから間違っちゃうんだけどいっぱいいっぱいねたくさんたくさん何回も何回も間違っちゃうんだけど
でも間違いっぱなしで気がつかないんじゃなくてごめん間違ったごめん間違ってたってその都度気がつく?
気がつかず無知でいること自体が大きな罪であるみたいなのって仏教の中でそんな話なかった。
それ自体がすごく大きな愚かなことである。
なんかねそんなことをね今ねちょっと思い出しました。
人を何で殺してはいけないのって言われた時にもなんかそういううってなるし。
殺しちゃいけないってことはないんだよだって殺して別にあのいいも悪いもない殺しちゃう人は殺しちゃうんですよ。
法律としてね表面的にそういうのはもちろんあるけどそういう話じゃなくて。
じゃあ何で今殺しちゃいけないかっていうとそれは殺さないよね人はっていう約束の中で私たちが生きようとしてるからですよ。
これはお互いの約束じゃない私たちは殺し合うのはやめようよってそれ約束破る人がいたらいるよねいくらでも世の中には。
そういうことがやりたいならそういう約束のところに行けばいいのよ。
でもここは違うよねそういう約束のとこじゃないよねって同じ約束ができる人が同じところにいるんじゃない?
これまたちょっと仏教の教え云々とは違う社会の約束の話だけどね。
なるほどね約束としてそういう場所ではない。
まあそうかなんかねちょっと前に事件というかあったけどね何て言うんでしょうそれこそほらさっきのちょっと前の話に戻るけど
自分があって自分というものがあって何か傷つけられた許せないってなって行動に出ちゃうということがあってああいう事件があったのかなっていうのも。
そうねあれでしょあの若い女性がね道路で刺されて亡くなった事件でしょ。
まあいろいろね報道だけでは知り得ない事情とかいろいろな思いのすれ違いとかあったんだろうけどもね。
でも本当そこからもし脱することができるとしたらうんしたらねそれがもしかすると自分なんていうものはそもそもなくて
いろいろなこの宇宙の全体の流れの中でその都度その都度いろいろなことに出会って離れていくんだぐらいな損をすることもあれば
得をすることもあるんだぐらいに思えばあそこまでは行かなかったかもね。
分からないけどね。
本当に分からないですけどね本当に外から見てしか言えないけど。
まあなんか思いもよらぬ方向に話をどんどん流れていきましたがこうやって毎回ゆるゆる話をしておりますので
皆様もね思ったこと感想など寄せていただければと思っております。
番組のホームページサイトからお便りフォームがございますのでお寄せいただければと思っておりますし
ハトグミホームルームということでオンラインでねズームでこういう話をまあこういう今日みたいな話まで
そんなあのこうなんて深い話にならなくても全然結構でございますのでね
なんかこう最近自分が思っていることを吐き出したいわーなんて方でもいいですし
そういうところに参加していただければと思いますのでぜひいつ頃やってほしいなどなどリアクションをいただければと思っております。
ということでハトグミホームルーム第17回目でございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
今週も最後までお聞きいただきありがとうございました。
お聞きのアプリで番組のフォローとレビューをお願いいたします。
概要欄にありますリンクからお便りやハトグミホームルームオンラインへの参加表明も受け付けております。
お気軽にご連絡ください。
それではまたお目見にかかりましょう。
ご機嫌よう。さようなら。
この番組は人生に花を咲かせるポッドキャスト番組をお届けするライフブルーム.ファンがお送りいたしました。