だからこんな大都会に住んでて、人だらけじゃない、周り。それからどこにでもアクセスできるツールがあるじゃない。だけど孤独ですっていうふうに感じる人は感じるじゃない。
だからその孤独っていうのは物理的システム的な孤立と違って、その人が主観的に感じているものが孤独ということなんだという話になって。
で、じゃあそれをサポートするっていうのはどういうことなのかって話になってくると、孤立の方は割と簡単なんだよね。
まあ解決しようがありますもんね。つながるとか。
だから島に住んでて橋がなかったら、まあ橋を架ければいいわけだよね。で、お二階に住んでて一人じゃ降りられないんだったら、エスカレーターとか家庭用エレベーターをつければいいとかさ、そういうふうに。
で、いろいろとサポートの仕方、解決するための手段っていうのはわかりやすくあるわけ。
でも対して孤独っていうのはどうするのかっていうと仲間を作ろうとか、それから友達を作ろうとか、それからあとふれあいのコミュニティね、ふれあいの場を作ろうとかっていうふうにして人と人とをつなごうとするような動きになってくるわけよ、サポートしようとすると。
だから出会いの場を作りましょうとか、それから地域、社会でも顔の見えるお互いにね、顔の見える関係性を作りましょうとかみたいになってさ、だから今周り見回すと結構コミュニティ作りとかいい場所作りとかそういうのって一生懸命やってるじゃない。
で、それは何をしようとしてるかっていうと、孤独をなんとかしようとしてるサポートだと思うんだよね。でも果たしてそれで解決するんですかって話なんですよ。
だからコミュニティとかを作ってみんなでつながろうよってやってても、孤独が本当の意味で孤立はしないかな、そういう話とは別。孤独も完全に消せるのかというとそういうものではなさそう。
だって、要はさ、橋を架けますよっていうのはこちら側も孤立を助けようと思ってやってるわけじゃない。だから橋を架けました。あ、よかった橋を渡ってこっちに来れるようになりました。だからこちら側がしようとサポート側がしようと思っている目標とそのサポート言うならばされる側がこうありたいというのが一致してるのよ。
橋を架けて行き来できるようにしようよ、孤立それで解消するわけよ。だけどコミュニティ作って孤独をなくしてほしいっていうサポート側の思いはあるけど、それのコミュニティに参加した人がその思い通りにこちら側がね、ギブする方が思っている通りに孤独を解消してくれるかどうかは本人次第だから。
だからそこで明らかなずれが生じちゃうわけよ。だからコミュニティ作りましょうとか仲間作りましょう学校仲良くしましょうとかどこのところでもさやってるんだけど結局孤独を感じている人がそれでも私は僕は孤独だって思えば孤独なんだよ。
そしたらそれはどうするのってどうもできないじゃないっていう話なんだけど。
そのいろいろとねサポートを受けた人がそれでも孤独って思っちゃう。私は孤独だ結局なんだかんだやってもらったけどもっていうのはなんていうのかな。本人が努力しないの問題。
じゃないじゃないじゃない。で、全然本人の努力とかじゃなくてね。で、じゃあどうしたらいいのかって時にさっき大さんが言ったことが出てくるんだけど、つまり人間はそもそも孤独なんですよと。
なんかそうじゃなくて誰かとつながれるんだとかね誰かと一緒にずっといけるんだ仲間ってなくちゃいけないんだっていうのがなんとなくすり込まれてるから自分が一人でいると不安になったりなんか寂しくなったり不安定になっちゃうけどそこのベースが違わないってことなんだ。
もともと人間ってものすごく徹底的に孤独であって、運良くものすごく運良く誰かとつながって心許せるような人がいるのがもうスペシャルに稀なことなんだよって。
だからそれがいないことが困ったことなんじゃなくて誰もいなくて友達もいなくて一人でいることがノーマルなのよ。
孤独でもともとってことですね。
そういうこと。だから大さんが冒頭におっしゃってたじゃない。孤独ってそんなに嫌いじゃないとかなんかみたいな。そういう考え方ができたら救われるのよ。
だからサポートの仕方が違う。つまり仲間作ってもらおう仲良くしてもらおうコミュニティ作ろうはすごく表面的な浮つらなサポートの仕方で、そうじゃなくてその人のベース自体を変えるようにそこを手こ入れしないと延々に孤独から出てこないよねっていう話。
なるほどね。なんか今聞いてて矛盾してるようだけどこんなコミュニティあったらいいのにって思ったのはみんなで孤独を楽しもうのかいみたいな。集まってるのにみんな孤独を楽しむんかいみたいな。
でも今の名前とか言い方を置いといても、今みたいな話を共有できることによって逆に繋がれるというか、みんな孤独なんだよね。それぞれの世界があってそれぞれの自分のプライベートな領域があったり自分だけの思いがあったりっていうのがありつつみんなそれぞれだよねってことを共有している。
だったらなんか逆その方がいい気がしていて、表面的になんかねみんな仲良し仲良しって言ってるよりはよっぽどその方がなんか繋がれるって言い方もちょっと違うんですけど。ちょっと面白いなって思いましたけどね。
ベースが同じ人としての繋がりってことね。
孤独でもともと今日みたいな。孤独でもともとポリシーの人たちみたいな。
そうだね。それが本当に分かり合えればそうだよね俺たちね、もともと一人だもんねみたいなのが分かり合っている人たち同士だったらそれはそれでそこでそのベースでもってベースレベルで繋がってるかもね。
なんていうかな、孤独じゃなくはならないんだろうけど、孤独じゃなくなるのかそれで。
なんかすごくそれこそ全問答みたいですけど、ただなんかいい意味でお互い承認し合える気がするんですよ。
やっぱりこう無理っくりね、この回はこういう回ですからみんなこれを守ってねとかやりすぎるとなんかその孤独をどんどん犯していくというか、いい意味での孤独を塗りつぶしていってしまうというような感覚があるので。
まあみおいさんの話とずれちゃったかもしれないけど僕は聞いててなんか孤独イコールネガティブみたいな、そもそも言葉を捉え方しなければそれだけでもね違う気がしているんですよね。
だからそれってなんかある意味こうなんだろう教育の賜物っていうかさ、なんかお友達作りましょうみたいな。
でた、悪しき教育の弊害ですね、また。
それでなんかお前友達もいねえのみたいな風になって、じゃあ友達って何よって言ったら、
それそれそれ。
学校に行って同じ教室にいて隣に座っただけで友達じゃないよって。
だけどなんか大人側が仲良くして同じクラスになったらみんな友達だからみたいなことを言っちゃうから、なんかそこでずれていくような気がするんだよな。
で、そうするとうまいことを馴染めなくて、あの給食とか休み時間も一人でいるよっていう子が俺なんかいつも一人だなって、
友達できないしダメだなみたいになってきちゃうけど、それは違うんだよなベースがって思ってて。
なんかそういう教育はもう今してないのかな。
どうなんでしょうね、あんまり無理くりこう友達同士仲良くしなさいっていうことはないけど、
学校ってたまたまそのエリアに住んでいた子たちが集まって同じ学年だからってギュってね、同じ教室入れられてるだけなので、
まあ社会に出たらそういうこともあるよっていうことのプレートレーニングみたいな位置づけならわかるけど、
強制しすぎるのはね、ここで仲良くできなかったらもう居場所ないから人生終わりだからみたいなことは絶対ないと思うし。
最近はほら若い子、若い子ってかもうちっちゃい子よね、ちっちゃい子もSNSやってるじゃない。
そんなに?ちっちゃい子も。
あのなんて言うんだろうあの人たちはインスタグラムか。
まあまあまあそうですね。
今もうツイッターも言わないのね。
Xとか。
そこへフォローしてくれるじゃない。フォローしたりしあったりして。
でフォローが100人いるとかさ。でそのフォローしてる100人を友達って言うからね。
LINEでしかつながってなくて、会ったこともないんだよ。
オンライン上にいる人なのに友達いっぱいいますよ100人いますみたいな。
そこもさあなんか教育の弊害な気がしてんのよ。
なんかこうあっさみたいに思っちゃうけど。
それは友達って言っていいのか?みたいな。
まあもう別の同音異議語だと思ってて僕は。
SNSという世界においてのお互いフォローしたりフォローされてる関係を友達と便宜上言ってるだけで。
なるほどね。
で友達って言葉さっき出てきましたけど、僕友達いるかって聞かれた時に今ね多分ほぼいないんですよ。
私もいないよ。
なかなか日々会えるような距離感とかの友達は今はいないし。
で友達がいないことがいけないかって言うとそんなことなくてですね。
友達がいるって結構奇跡的なことで何の利害関係もなくフィーリングが合うねっていう友達って例えば学校に1人もいたら実は結構運がいい方なんじゃないかって思うんです。
でいないことをね俺は友達がいなくてって言っちゃうんだけどそんなこと気にしなくてよくて。
なんかクラスメイトだからねたまたままあいても嫌じゃないね。
表面的には全然仲良くやっていけるよねって関係性の友達はその時はできるかもしれないけど年齢だって違ったっていい。
住んでる場所とか違ったっていいけど気が合う人ってこの世の中にいるかもしれない。
でもパッとは出会えないよねそんなもんっていうことでいいと思うんですよね。
いたら儲け者ぐらいの。
その代わりに仲間はいっぱいいると僕は思っていて仲間って友達とはまたちょっと違ってるイメージなんですよね。
何かこう利害関係でも違うんだけど何かしら例えばやりたいこととか心たちがちょっと共通点があるね。
今一時的に同じ方向に進むときに力貸し合えたらいいよねみたいな仲間はいる。
じゃあいるからそれでいいのかなって思ってますね。
その辺のそのベースになる考え方を整理すること。
分かること本当の意味を。
そこができないと孤独だって思っちゃう気がするんだよね。
そこのベース変えずしていくらコミュニティを作って集ったって孤独よその人は。
残念ながら助けるっていうのはちょっとおこがましいけれども変えることは難しいと思う。
楽にならないと思う、ご本人が。
だから今一生懸命やってる自治体とか各いろんな団体のその孤独をなんとかしようっていうそのサポートの仕方。
もうちょっとこうなんか方向先が変わるといいなって思いながらね。
孤立をなんとかしようっていう動きはしてるわけですよね。
物理的にサポートしましょうとかね声掛けしましょうっていうのは。
それはねあの社会制度だったりそれから何だろう様々なさサポート具体的なねいっぱいあるのよ。
それは本当にしなきゃダメ。
命レベルに関わることもありますからね。
それはしなきゃダメ。
でもそれを孤立をなくしたからといって孤独でなくなるわけではないから。
孤立と孤独の混同みたいなことが起きてるとどこかやっぱそこは形外化していくようなイメージですかね。
もしかするとだよ、孤立と孤独が両方起きてて、でもその孤独の方でその方の考え方のベースみたいなものを変えることができて、孤独が消えたら孤立は問題じゃなくなるかもしれないよね。
確かに確かに。
そうか、孤独って思ったより深い言葉ですよね。
だからそこで孤独なんだけど、でもそれが嫌な孤独ではなくて、で、孤立はしてても大丈夫みたいなことがありえるっていう。
どういう生活状態なんでしょうね、それってね。