前回に引き続き、本日のご来店者は、NPO法人PIECES代表の斎さんです。
2025年3月に再来店いただいた今回は、近況のほかご自身のコラムにまつわる思いを斎さんの朗読とともにお送りします。
はい、じゃあ斎さん、今日もですね、小野さんからリクエストのありました事務局長からのお便り、ボリューム13ということで、これは2024年の3月30日に出されたお便りということなんですが、こちらまたお聞かせいただいてもよろしいでしょうか。
はい、緩めることから始まる市民性の醸成。
今日のテーマは冒頭でも触れた通り、緩める。
今仮に、街の中に市民性を育む実践をする上で最も意識することは何かと問われたら、緩めるというキーワードを挙げるかなと思います。
それほどまでに今のPCSや私にとって重要なキーワードですが、1年ほど前まではほとんど使っていなかったように記憶しています。
それどころか時間軸をさらに遡り、例えばC4Cの取り組みを始めた7、8年前のことを思い返すと、その正反対の締めるや張るという感覚すら持っていたかもしれません。
冒頭からだいぶ抽象的な感じになってしまったので、ここから主に今期のC4Cについて他のメンバーと一緒に振り返っていた際の対話を思い返しながら、できるだけ具体的にこの緩めるとはどういうことか、何がどう重要なのかという話をしていければと思います。
その振り返りの対話の時間では、今期C4Cに参加していた人たちの終了後のアンケートや、終了時の面談記録を眺めながら、スタッフ同士でそれぞれに気づいたことや感じたことを共有し合っていました。
スタッフといっても、C4Cの運営はプロのメンバーもいれば、前年までの修了制メンバーもいるので、常に多様な視点で対話が広がっていきます。
その日もいろんな視点が置かれていく中で、あるメンバーが、今期は特にプログラムに参加したことで肩の力が抜けたというような声が多いよね、という気づきを共有してくれました。
確かにアンケート全体を見渡してみると、何か今ないものを獲得するというより、自然体な自分でいることが大事だと思えた。
何かをしようとしすぎていた自分にとって、支援者になろうとしなくていい、という言葉が刺さった、というような声が多くあることに気づきました。
これらが何を意味するのか、という話になった時に行き着いたのが、C4Cのプログラムがもたらしている一つ大きな要素として緩めるがあるのではないか、という話でした。
ともすると、C4Cに参加してくださるような方々、つまり地域のために社会のためにという思いを持った人たちの中には、その思いがあるがゆえに自分に足りない何かや、かっこたる何かを手に入れようとしようとしすぎてしまっている。
あるいは、課題の当事者の方にどうにか近づこうとしすぎてしまっているのかもしれない。
それゆえに余白のようなものを持ちにくくなってしまっていたり、緊張感のようなものを漂わせてしまっていたりするのかもしれません。
だからこそ、C4Cの場での対話や内省を通じて、正しさや正解を手放すこと、評価すること、ジャッジすることを手放すことをしていくプロセスで、少しずつ緩んでいく。
一人一人が安全にその場にいられ、安心して応答しあえる時間が重なることで、つながりや創造力を持つための余裕や余白が生まれているとも言えるのかもしれません。
あくまで感覚的でしかありませんが、知らず知らずのうちに社会全体が緊張している、あるいは怖がった状態に陥っているというのは、生活実感としても持っているところです。
あちこちで社会課題が高高に叫ばれる現状では、その課題に胸を痛めれば痛めるほど課題を解決したい、解決せねばという思いになってしまうのも無理はありません。
そして強くあること、正しくあることが求められていきます。
改めてですね、沢山こちらを振り返ってみて当時のお気持ちとかいかがでしたか。
そうですね、1年前なので割と最近の話ではありますし、今のこの緩めるっていうのはすごく大事な概念かなというふうには思っています。
で、三段C4Cっていうのを言ってたんですけど、Citizenship for Childrenというプログラムの名前で、2016年ぐらいからずっと取り組んでいるプログラムなんですね。
子供とか若者の周りに関わる人たち向けのプログラムで、あまりスキルとかいうことを学ぶんじゃなくて、どっちかというとマインドセットの方なんですよね。
市民の人たちが一人の人として関わっていく、親とか先生とか支援者とかではなくて、肩書きの役割立場とかではなく本当に一人の人として関わっていくってどういうことなのかっていうのは学んでいったりするプログラムなんですよね。
当初はどっちかというと、そうは言いながらもちょっとマッチョなプログラムというか、どっちかというとなんとか力に近いものを求めていたところがあって、
スーパー市民というか、
強そうですね。
子供若者に伴走する市民みたいな、そういうことをちょっと思い描いていた節が。
だから市民の人たちにもっとこういうことができるよとか、こういうふうにしていったらいいんじゃないとか、そういうことを結構求めていたな。
でも年数を重ねていく中で、まさにこの時にあるスタッフの方が言葉にしてくれたんですけれども、
なんかふっと肩の力が抜けるとか、自分の大事なことに気づくとか、自分はこのままでも大丈夫だって思えたとか、自分が大事にしていることが見つかったとか、
なんかこう力を入れるというよりもむしろ力を抜くというか、なんかふっと自分の真のようなものを感じながらも全体としては力が抜けるっていう、なんかその感じの方が声としては多いよねっていう。
あ、これは面白いなというふうに思って。そういうのは思い返せば、なんか昔はもっとこう頑張ろう頑張ろうみたいな感じだったけども、むしろ抜く力を抜く方がなんかこうみんな必要としていることなんだなっていうことを思って。
やっぱその感覚がなんとなく感じていたことではありつつも、なんかこう改めて意識、認識することができた。
なんかそんなことだったなというふうに思って。で、このことは忘れずに書き留めておこうというか。
でも、もしかしたらこれC4Cのプログラムの中だけじゃなくて、なんか社会全体においてももしかしたらなんかそういうところあるのかもなみたいな。
なんかまあそれこそ美容だったり、社会全体として社会課題社会課題みたいなことを言うと、なんかこう頑張んなきゃいけないというか、課題解決しなきゃいけないみたいな。
なんかそういうこう力の入り方をしているかもしれなくて。
でもなんかその力が入るからこそ、なんか見落としてしまうものだったり、当たり前にある身近な日常みたいなものをなんかこう大事にできなかったりみたいなこともあるかもしれない。
もうちょっとこうみんなが緩むというか、緩むからこそなんか新しいものを取り入れていく、なんか余白が生まれるというか。
なんかそういうことでもあるのかなと思って。
ああ、なんかこの感覚っていうのはちゃんと忘れずに留めておこうというか。
はい、そんな気持ちで書いたものです。
なるほど。緩めるっていう感覚を留めておこうという感じ。自分の中に。
まあ、私でありPCsの中にちゃんとこう留めておく。緩めるっていうことがもしかしたら私たちの届けている価値なのかもしれないっていう。
なるほどですね。届ける価値が緩める。すごい段々ですね。
なんか、おはさん聞いてみていかがですか?
そうですね。私もメンタルヘルスの研修とかやらせてもらうときに、緩めるとか、どっちかっていうとそぎ落とす。
さっき力をつけるとか、マッチョな感じっていうのが特に研修とかでは求められるんですけど、多くは。
そうじゃなくて、そぎ落としてて、それこそ緩めたり、余白を生むためにどうしたらいいかを考えるような研修をしたいと思っていますっていうと、
それを分かってオーダーしてくれる人はいいんですけど、初めてそういう話をする人にしたら、なんか分からないって言われるし、
何が得られるんですかっていう人には全く刺さらない話だなっていうのがようやく私も理解できて、伝わらないということへの理解ができてなかったんですけど、
求められてるものがやっぱりパワフルっていうか、増強する筋肉をつけるみたいなイメージなんですよね。
人は多分何かをしたら得られるものだっていうのがセットなんだけど、そうではなくて、今あるものとかもともと持ってるものを取り戻すとか、
取り戻すって言ったらちょっと大げさだけど、気づく、それが緩めるっていうことと近いし、それによってホッとできる、気が楽になる、体も楽になるっていうのは、
同じことなんだろうって思うんだけど、それにはあまり価値が置かれてないんだよなっていうのはすごく共感しますね。
気づくっていうことは、もうほんとは目の前にあるけど気づいてないっていうことがいっぱいあるんですね。
足りないって思ってる人がすっごく多いから。
そうですね、だからそれは前のラジオのときにもちょっとしゃべったかもしれないですけど、なんかやっぱりこう、ドゥンやドゥンに囲まれている私たちの暮らしというか、
これも社会経済的な発展だったり、情報の渦だったり、いろんなものによって、何かをすることとか何かを持つこと、何ができるかとか何をすべきかみたいな、
そういうことに関する情報とかフィードバックみたいなものに私たちは囲まれている。
そういう中で、どんどんどんどん積み重なっていくというか、情報だったりいろんなものが積み重なっていく中で、
自分が本来大事に握りしめていたいものっていうのをちょっと立ち止まって振り返ったり見つめていたりとか、
そういうことをする、何て言うんでしょうね、ことがどうしてもおろそかになっているというか、それよりも何かこう、30代のうちにやっておくべき自由のこととか。
なんか書籍で平積みしてそうなの?
とか、なんかこう、自分の上にどんどんどんどんいろんなものが積み重なっているけど、なんかやっぱ大事なのはもっともっと自分の中にある軸というか、
私たちはそれをこうビーングっていう表現をしてますけれども、そこにあることだと。
なんかそのことにやっぱりこう、みんなもしかしたらそこに触れられると何か少し安心するというか、
自分でこういうことを大事にしてたんだとか、自分で別にここにいるっていうことそれだけでも何か誰かにとっての意味のあることなんだとか、
なんかそういうことを感じられるとみんな、ああじゃあ明日も頑張るって思えるみたいな、なんかそんなことが起きているのかもしれない。
なんか知らずに、まあ僕も無自覚だったなと思うんですけど、課題を作ろうとしちゃう力格ってあるんだなっていうところに、
自覚的になるだけでもなんかすごくふっと緩める一歩になるなって感じがしました。
そうですね。
なんかね、やっぱ小学生なんだから何々ができなきゃいけないとか、親なんだからとか、上司なんだからとか、
で、なんかやっぱ知らず知らずのうちにDo、Have、なんかそういったものが必要ってなんかこう思い込まされてしまっている感じはあるのかもしれなくて、
でも大事なことってそれだけじゃないし、もちろんそれが大事なこともあるかもしれないけれども、
本当に大事なことって、もっともっとなんか身近にあるというか、手元にあるというか、
でもその手元が実はあまり見えにくくなっているのかもしれないなっていう、そんな感じですかね。
なんでこう手元がみんな見えなくなっちゃうんでしょうね。
手元が見えなくなっちゃう。まあでも、そうね。
遠い絵だね。
なんか動物的感みたいな、そういうものが人間の中にはあるはずじゃないですか。
ここの道通ったら、例えばですよ、初めて行く街でこっちじゃない気がするとか、
あ、なんか今のところで買った方がいい気がするとか、そういうちょっとした直感みたいな、簡単に言うと直感みたいなことに、
できるだけ頼らないように生きてるなって、私からは見る人が多くて、
それにはなんか、例えば評判だったり、あとは根拠だったりが、すごく誰からも求められてないんだけど、
なんとなく必要な感じを持ってる人が多いな。
ただなんとなくいいと思ったからとか、その時いいと思ったからっていうとなんか怒られるっていうか、
なんかそういう、その時の雰囲気とか気持ちはあんまり大事にされない。
そうですね。まさにその気持ちみたいなものっていうのが、実はあんまりこう目を向けられていないというか、
やっぱその思考の方が強くなっているっていうのもあるし、
あとはだからやっぱりこう、情報の多さというか、なんて言うんでしょうね、
SNSとかもそうですけれども、やっぱりなんか他者と比較しちゃうみたいなこととかによって手元が見えなくなったりとか、
あとこれは、それこそ小野田さんとかも言ってますけど、なんかこうノイズというか、
Bluetoothがやっぱり繋がっちゃったら、情報にアクセスできちゃうというか、わけじゃないですかね。
本当ですね。
Wi-Fi、Bluetoothみたいなものによって、我々は不要な情報、もしかしたら不要かもしれない情報もなんかこう得続けちゃってるというか、
本来見なくてもよかったものだったりとか、触れなくてよかったりするもの、
なんかそういうものによって、なんかこう脳みそのキャパシティが使われてしまっていて、
まあそうすると空を見たり、足元を見たり、手元を見たり、
なんかそういうことに時間を使いにくくなってるみたいなことはやっぱりあるんでしょうね。
情報って確かにすごくあふれてるかもしれないですね、言われてみれば。
それも結構今無資格だったなと思いました。
そう、だから実はこうPCsの競合は何かとかっていうふうに考えていったときに、
それはなんか他のNPOとか子供に関わるとかなんかそういうものではなくて、
Bluetoothとかなのかもしれないみたいな話を本野さんとかしていて、
やっぱどこかでこう静寂というか、自分と向き合うとか、自分の大事にしているものを大事にするとか、
っていうのはなんかある種なんか静寂の中に、生活の中にどこか静寂な時間というか、
ある種その孤独みたいなものも大事かもしれない。
だけどBluetoothとかWi-Fiが繋がると、やっぱ孤独でいさせてくれないというか、
誰かが関わってきちゃうみたいな、誰かや何かが関わってきちゃうみたいな。
できる限りやっぱりなんかそういうものとうまくやっぱり付き合っていくっていうことがすごく大事で、
みたいなことを考えると、ちょっとBluetoothとかなのかもしれないみたいな。