教育におけるプロセスの重要性
こんにちは、英語指導メンタリストのはじめ先生です。
このチャンネルでは、思考を変えることによって、英語力と人生を劇的に好転させる秘訣についてお伝えしています。
今日のテーマは、結果よりプロセス、ナンバーワンよりオンリーワンというお話です。
まず最初に告知をさせていただきます。
現在ですね、僕が始める今度は、易を使って自分の人生をいかに主体的に切り開いていくかという
未来デザインアカデミー、私、帝王学という講座があるんですけれども、そちらの説明会を今やっているんですが、
今まで一度も体験会に来られていない方の申し込みもちらほらあるので、
今後の日程に関して説明会だけではなくて、その体験会プラス説明会にしようかなというふうに思っております。
というわけで、今日の夜21時からも説明会があるんですけど、そこでもちょっと体験をやろうと思っています。
まだお席も空いてますので、こちらの方、もしご希望があればお申し込みいただければと思いますし、
あともう一回、日曜日の夜9時からも体験会&説明会をやろうと思っていますので、
易行ってどんなものか体験したことがない方もご応募いただければと思います。
概要欄にURLが貼ってありまして、そこのお申し込みリンクをタップしていただきますと、
追加した日程が出ておりますので、そちらの方からお申し込みください。
もし、今日の夜と日曜日の夜、21時からご都合をつく方は、お申し込みいただければと思います。
はい、ではここから今日の本題に入らせていただきます。
昨日放送した指導者の役割はジャッジしたり序列をしたり、序列をつけたりすることではないという放送が、
案外再生回数が多くて、皆さん関心があったのかななんて思うんですけれども、
昨日なかなか全部話し切れなかったので、今日はその続きの話になるんですけれども、
昨日の話を少し復習してみると、日本の児童生徒の自殺が過去最多になったという話からの、
やっぱり教育というものが何か点をつけたりとか、あるいは順位をつけたりとか、
そういったことで評価していくということに、意識が向けられてしまうということの問題点について語って、
それは子どもたちだけではなくて、私たち親世代、あるいはもっと前の世代から、
日本人というのは脈々と精神フードみたいなものを気づいてきたというか、気づかれてきたわけですね。
これは別に悪いことばかりではなく、日本人が世界から称賛される、
高い道徳心を持っているとか、公共の罠を持っているというのは、それによるものなのですよね。
世間様とかそういう言葉もあって、公共心みたいなものが非常に強いわけですけれども、
一方で自分軸とか、自分を思いっきり晒していくということが、なかなか難しい社会でもあって、
そういうところがグリッサーとして、その現象の一端として、児童生徒さんの自殺という悲しい結果が出てきているのかもしれないね、みたいな話をしたわけです。
こういう批判は今に始まったことではなくて、それを何とかしていこうじゃないかということで、
文科省もずっと教育改革ということで、学習指導要領の中には、
もっと多元的な視点で子どもたちを捉えていこうという、いわゆる新しい学力観みたいなものを打ち出しているんですけれども、
結局それって、なかなか浸透していっていないし、実効性を持つ指導体系というのが、
なかなか築き上げるのは難しい状態になっているんだと思うんですよね。
北欧教育の特徴
学校のことだけではなくて、親も自分たちの受けてきた教育の中で潜在的に擦り込まれている部分があって、
我々の常識の中に、やっぱりテストの点が来れば平均点が何点だったとかって気になるし、
学校で順位が出てくればそれは気になってしまうというところがあって、
なかなかそれが一体どういう問題なんだということが自覚しにくいということがあると思います。
これから話す内容というのは、以前にも触れたことがあるので、またかと思われる方もいるかもしれないんですけれども、
非常に対照的な考え方をしているものが、やっぱり北欧の国なんですよね。
例えばフィンランドとかオランダとかなんですけれども、
この北欧の学校というのは日本の常識と全く違うんですよね。
特にフィンランドとかだとテストがないという、テスト自体がない。
もちろん学校としては評価はするんだけれども、
多分日本と同じように成績を点数、数値化してただ単に出すというものではないのだろうなと思うんですよね。
そしてさらに宿題もないということも有名ですよね、フィンランドとかね。
学校なんかも3時ぐらいに終わってしまうと。
だけど教育大国として知られているフィンランドですね。
非常に生徒の学力が高いということで知られているわけですよね。
いろいろな問題もないわけではないんだろうけれども、
一番のポイントはやっぱり子どもたちも大人たちも非常に幸せに生きているという点ですね。
これは英語力の高さと幸福感が比例しているという話を前にもお話ししたことがあると思うんですけど、
ここが本当にポイントになっているんじゃないかなと思うんですよね。
北欧のいろんな国の基本的な考え方というのは、今のあるがままでいいじゃんというのと、
今のあるがままの幸せを味わおうよみたいな感じがあるんですよね。
フィンランドではなくてデンマークなんかでヒュッゲという言葉があるんですけど、
それはいかに今この瞬間を心地よい空間で心地よく過ごすかみたいな考え方なんですけれども、
北欧の人たちというのは全般的にそういう感じですかね。
今この瞬間を楽しむ、今この瞬間を幸せに生きるということをすごく大事にするわけですよ。
なんだけど日本人ってやっぱり気まじめだから、幸せになるためにずっと努力をするんですよね。
今この瞬間の幸せじゃなくて、いつか来るための幸せのために今死ぬほど頑張るみたいな感じになって。
それってじゃあいつ幸せになるのみたいなところがあるわけですよ。
今努力しておかないと将来こうなっちゃうぞみたいな言い方ってよくすると思うんですけど、
その努力というものがいわゆる勉強を強いて勤めるというものではないんですよ。
北欧の教育というのは、いかに生徒が楽しく創造的に知性や感性を育てられるかということに重きを置いた教育をしているので、
基本的に主体的に自分で学んでいく問題解決型の教育であり、
そこの教育のプロセスで何を学び取っていくかということが大事であって、
学んだ結果、例えば何年大学に合格しましたとか、何になりましたということが重要ではないという考え方なんですよね。
自己価値観の再認識
ここが非常に日本人が学ぶべきところではないのかなと思うんですよね。
本来学びというのは自然に発生して自発的に行われるものだと僕は思っています。
やっぱり自分の好きなことだったら無限に吸収できちゃうと思いませんか。
自分で面白い興味本位でやっていけば、そこには何の努力もなくただの熱中があるだけなんですよね。
その熱中というのはやっぱりものすごいパワーがあって、
どんなちっちゃな子どもでもものすごい専門家になってしまったりするわけではないですか。
なので私たち親であるとか指導者というのは、
その人がどんな種を持っていて何に興味を持つだろうかというところに注意を置きながら、
いろんなものを与えていきながら、そしてそこのプロセス、
何か課題に対してどう興味を持たせるとか、どう関わらせるかという工夫をしていくことが仕事であって、
あれこれ、こっちから教え込むことだけが教育ではないと思うんですよね。
これも前にちょっと話したと思うんですけど、教育というのは有名なソクラテスはサンバ術だと言ったわけです。
自然に生まれてくる赤ちゃんをサポートするぐらいの役割であると。
無理やり引っ張り出してですね、帝王世界みたいに無理やり出しちゃうとかいうわけではないわけですよね。
例えば赤ちゃんも早く生まれてくる子もいれば、なかなかゆっくり生まれてくる子もいる。
それはやっぱり全ての人に時があって、全ての植物の種には咲く時期があって、咲く花も違うわけじゃないですか。
なので昔ね、スマップの歌にナンバーワンにならなくてもいい、本当にオンリーワンでいいんだみたいな話があったんだけど、
本当にそうだと思うんですよね。
なんだけど、特にSNSとかが普及してきたこともあって、より一層他人の性向とかそういったものに目がだらされてしまう機会が多いので、
一層何か他人軸になってしまうというところがあるんじゃないかなというふうに思います。
考えてみればですね、本当に私たち自身が外から植え付けられた諸々の価値観とか、
あるいは世間で正解とされている、あるいは理想とされている、何らかのイメージみたいなものに案外囚われていたりするんじゃないのかなと思います。
これはね、こうやって話している私とてそういう部分というのがあるわけなので、
まずはそういうところが自分の中にもあるかもしれないと、自ら問うということも大事になってくるんじゃないかなというふうに思いました。
というわけでね、今日も聞いていただいてありがとうございました。
今日のお話が良かったよという方は、いいねやコメントなどよろしくお願いいたします。
OK, thank you for listening, and have a great day.