ジャッジと序列の問題
こんにちは、英語指導メンタリストのはじめ先生です。
このチャンネルでは、気候を変えることによって、英語力と人生を劇的に好転させる決定についてお伝えしています。
今日のテーマは、親や指導者の仕事はジャッジしたり序列をつけることではない、というお話です。
今日のお話はですね、長年教育現場に自分の自己反省的なところも含めてお話をさせていただくんですけれども、
皆さん、教育とか、あるいは指導といったときに、やっぱりどこかで自分がジャッジされる。
ジャッジというのは、例えば点数をつけられるとか、これは良いだ、これは悪いだ、みたいに言われるという経験は当たり前のようにしてきたと思うんですよね。
そしてまた同時に序列をつけられるということも多分されてきたんじゃないかと思います。
順位を出されるとかね、誰が誰が一番で誰が誰がビリみたいな。
これは厳然たる事実で、世の中に出れば、そういった序列みたいなものは明らかにあるわけです。
収入の序列みたいなものもあったりするじゃないですか。
それは収入という尺度に関して言えば序列が出てしまう。これは事実だったりします。
そして同時にジャッジも我々は常にされています。
服装でもジャッジをされ、話し方でもジャッジをされ、そして仕事ぶりもジャッジされるじゃないですか。
昇給とかね、昇進にあたっては。
これはね、あるのは事実です。
テストもやれば0点の子もいれば100点の子もいる。
こういった序列ができるのはね、これも仕方のないことです。
なんですが、それを目的みたいにしちゃうといけないよねっていう話をね、僕は今日はしたいんですよね。
親や指導者がそれを目的や手段にしてはいけないと。
結果としての序列が生まれたり、結果としてのジャッジというものは点数であるとか成績であるとかそういうふうに生まれてしまうものなんですけれども、そこにフォーカスしちゃいけないと思うんですよね。
SNSと教育の影響
これはね、誤解されがちなのは、じゃあそういうことをやらないんだったらみんなが平等になればいいんじゃないかみたいなね。
そういうふうな発想で、例えばかけっこで序列をつけないみたいなね。
もうみんな手をつないで一緒にゴールみたいな一時期ね、ありましたけども、それはもうそれでやっぱりどう考えても不自然じゃないですか。
これ皆さん、この序列をつけることあるいはジャッジすることがなんか問題あるの?とかっていうふうに思うかもしれないですよね。
だって当たり前にあるものだからと。
一方でね、1ヶ月ぐらい前のニュースかな。
昨年の児童生徒の自殺者数が過去一になったという話があったんですが、これご存知でしょうかね。
ここの話、これがなんでそうなっているか、皆さん考えたことありますか?
子供の数はどんどんどんどん減っているのに、死者数が過去一になっているということは、それだけ人口対自殺者数の比率はどんどんどんどん上昇しているということになるわけですよね。
さて、これで昨日言った点と点をつないで読み取るということになるわけですが、皆さんちょっとこれを考えてみてください。
何が変化の原因になっているのか。
はい、皆さん考えてくださいね。授業みたいだね。
このね、ジャッジとか序列っていう、それがねやっぱり顕在化してきたのはSNSの普及って間違いなくあると思うんですよね。
我々大人でもそうじゃないですか。SNS見て、人のキラキラしたものを見て、自分と比べてがっかりしちゃったり、みんなこれやってるから私もやらなきゃみたいな思ったり。
例えば、みんな副業やってるから私もやらなきゃみたいな思ったりとかね、それもそうなんですけど。
これは国際的に見ても多分、どこの国でもそういうふうな傾向って出てきてると思うんですが、特に僕、日本で強いと思うんですよ。
伝統的に日本の教育って割と格一化していこうっていう流れありますよね。
全員の同じ制服を着させて、同じようなルールを守らせて、
そして社会に出た時にはちゃんとはみ出さずに働けるような人に育てているわけで、
これが日本の非常に規範意識の高い日本人というキャラクターを作り上げているわけなんですけど、一方でそこには息苦しさもあるわけです。
その息苦しさというのは特にSNSとかが発達したことによって一層加速してきている部分もあると思うんですよね。
誰々ちゃんちの子は塾にいくつも行ってる、じゃあうちの子も行かせなきゃとかね、思いがちじゃないですか。
お隣の誰々さんの子はどこどこの大学行ったとかね、普通に話にしますよね。
それはまあ人それぞれ当然東大に行く人もいればそうでない人もいるわけですよ。
問題はそこにね、ジャッジが入るわけです。東大イコール素晴らしいっていうね。
もちろん東大に入った子っていうのはそれなりの努力をして入ったんだろうから、それはそれで素晴らしいと思うんだけど、
勉強なんか全然できないけど、笑わせることになったら天下一男みたいな人もいるわけじゃないですか、お笑い芸人みたいにね。
ジャッジの問題点というのは、そのジャッジの観点が非常にその人のパーソナリティのごくごくごくごくごく一部を切り取ったもののところだけでジャッジされがちだという点だと思うんですよね。
未来の教育の可能性
もう一つね、日本の教育のあり方で問題っていうかあまりよろしくないなぁと思っているのは、ある特定の尺度で子どもや生徒を競わせるみたいなことをやったりしますよね。
これはね、それをやることによって全体のパフォーマンスというか成績は上がっていく可能性は高いと思います。
それによって子どもたちが、あるいは競争の中に放り込まれた人がモチベーションを持って目標を達成するという目標達成型のマインドを育てるという意味ではいいんでしょうと思います。
ただ、これの問題点というのは、そのゴールがある競争が終わったところで一旦終わっちゃうことなんですよね。
わかりやすく言えば、大学入試まで、ほら勉強しろ、何々大学に入れ偏差値持ってあげろみたいなことでいって、追い立てていくと、そこの目標を達成するまでには一生懸命頑張るんだけど、
だけど大学に入ってから完全に盛りつき症候群というか、もう学習意欲がなくなってしまって、せっかく大学に入ったのに、ろくに勉強しないと。最近はそうでもないのかもしれないですけどね。
あと例えば、ちょっと今オワコン化してますけど、秋元康のようなAKBとか48系のランキング形式で競わせて、センターを競わせるようなやり方ですかね。
そういうやり方やると周りも盛り上がるし、そして集団の中での競争が生まれて、お互いに競い合って、その集団の熱量が上がっていって、ある種の強い波動とか、見る人に感動を与えるというのはあるとは思うんですけれども、
非常に面白いことにですね、そういうグループから脱退した人がほぼほぼ誰も残らないと思いません。特にAKBとか思い出してみても、センターを張ってたような人で残ってる人って本当に少ないじゃないですか。
残ってるのはむしろちょっとはみ出てたような人。センター争いにあんまり肯定しないというか、そんなにこだわらなかった人が残ってたりする傾向ってありません?
これはやっぱりなんでかというとね、そういう尺度とか情熱の中で生き残っていく人っていうのは基本やっぱり他人軸にならざるを得ないんですよね。その評価基準に合わせた、どれだけ合わせていくかとかね、どれだけ気に入られるかとか、そういう風な感じになっていっちゃうから、そこから離れた時に私は何をしたかったんだっけとか、私は本当に何をすべきなのかとかね、そこは自分で判断できないっていう風になっちゃうと思うんですよ。
ところがね、これって日本人の精神構造にはあまりにも深くハマり込んでいるので、じゃあどうしたらいいの?っていう風に思うかもしれないんですけれども、そんな話をしていたらもうお時間になってしまったので、今日はこれくらいにしますけど、実はそうでない、こういう考え方ではない教育というか、人の指導の仕方っていうのをやっている国もあるんですよね。
それちょっとまた続きを明日お話ししたいと思います。
最後の最後に告知なんですけど、易を通じて自らの意思で人生を切り開いていく私提応学ですね。
未来デザインアカデミーとも名前をつけて、どれが講座の名前なのかと思っている感じなんですけど、そちらのね、今生徒さん募集しております。
易がどんなときに必要になるか。それは自分の意思で未来を切り開こうとするときに、自分の今の状態に気づくであるとか、あるいはその今の状態の先に見えるものを知るであるとか、そういった役割があるんですよね。
他人に言われることでもなく、世間の評価でもなく、あくまで自己との対話によって道を切り開いていく。そのための羅針盤が僕は易だと思っているんです。
で、それを通じて皆さんが主体的に未来を開いていくことができるような、自分の未来をデザインできるような、そんなお手伝いをしていけたらいいなと思っておりますので、
この講座に興味がある方は、内容欄のURLから説明会にお越しいただければと思います。随時日程追加しています。
全然人が入らないこともありますけれども、のんびりやってますので、ぜひお申し込みください。
というわけでね、今日も聞いていただいてありがとうございました。
今日のお話が良かったという方は、いいねやコメントなどよろしくお願いいたします。
OK, Thank you for listening and have a great day.