自由に生きるための訓練
こんにちは、英語指導メンタリストのはじめ先生です。
このチャンネルでは、思考を変えることによって、英語力と人生を劇的に肯定させる秘訣についてお伝えしています。
今日のテーマは、「自由で主体的に生きるのは訓練が必要だ。」というお話です。
昨日、安景塾の占い師のリッピーさんと、またまた一話対談をさせていただきました。
今回のお悩みは、パンさんという方が来ていただきまして、
お仕事のこととか、友達関係のこととか、あるいは奥様との関係性のことなんかについてお話が出たんですけれども、
その話の中で、奥様が、パンさんがとても自由にしているのを見たときに、
ちょっと寂しそうにしているというか、なんか羨ましそうにしているみたいなところがあって、みたいなお話が出てきてたんですけれども、
その話の中で、人が主体的に生きるとか自由に生きるというのは、めちゃめちゃ実は訓練がいる話なんですということをお話をしました。
詳しくは、昨日の放送のURLを貼っておきますので、また時間を見て聞いていただければと思うんですけれども、
長い間、もう30何年、教育の場に身を置いていて思うんですけれども、
やっぱり主体的に生きるって多くの人にとってすごく難しいんだな、これ自分もそうですけど、常々感じさせられます。
教育と主体性の関係
本当にちっちゃい子供のときっていうのは、主体的であるとかないとかということを考えずに自分の欲求のままに生きているんですけれども、
そこにだんだん教育をされていくわけですよね。
もちろんそれをしなければ、ノフォーズな子供になってしまうので、あれをしてはいけません、これをしてはいけませんという様々なしつけがされるわけなんですけれども、
これが大人になってきたときに自由に生きるのを非常に阻害している場合もあるわけですよね。
要するにいい子ちゃんになってしまっていたり、
自分のいろんな選択肢がある中でそれを主体的に考えられずに、周りで決められているこれがいいものだとか、こうあるべきものみたいなものに従わされるというか、
それがいいよねというふうなすり込みをされて、そこから発想がなかなか出ていかないというふうになっちゃっている人というのは相当いるんじゃないかなと思います。
そもそも日本の教育というのがどちらかというと他人志向なんですよね。
おかげさまでとかいうふうに言ったり、他人の目を規範にしていくところが結構あるので、そんなことをやっていると怒られるよみたいな、人に怒られるよみたいな、そういう言葉かけを子供にしちゃったりというところもあると思うんですけど、
社会の規範に自分を合わせて生きるというのは、もちろん大事なことなんですけど、それが生きすぎてしまって自分を失ってしまうということも往々にしてあるわけなんですよね。
例えば、英検の指導なんかをやっていると、やっぱり意見論述というのをやるわけですね。これも何度かお話ししているんですけど、ちょっと社会的な問題に対してあなたはどう思いますかとか。
例えばで言うと、企業は環境負荷を考えた製品をもっと作るべきかみたいなものが出てくるわけですよ。英検の上の級とかになるとね。
そういったときにどういうふうな意見を言うというふうになったときに、多くの高校生くらいが僕が教えている子が多いんですけど、何かどこかで聞いたことがあるようなことを言いたくなる子が多いんですよね。
模範回答的に言えば、環境負荷がない製品を作るべきです。なぜかというと、CO2が地球温暖化をどんどん進めているから、自動車であればCO2を排出しないようなものをもっと作るべきだみたいなね。
それが、いわゆる優等生的な意見ですよ。言ってみれば、環境活動家のグレータさんみたいなね。グレータさんっていうのを僕はどっちかというと、あまりよくない例で言っちゃったりするんですけど。
それは正論なんだけど、それって本当にあなたの意見なんですか?みたいなところを僕は常につくようにしていて、なぜかというと、借りてきた意見って続かないんですよ。
つっこんでいったときに、それってどこかで植えてきた知識だから、知識の範囲でしか答えられなくて、どうしても一般論になっちゃって、説得力とかそういったふうになると、誰でも言うような意見になっちゃうわけですよね。
これ面白いのが、元トヨタ自動車の社長で、今は会長なのかな、トヨタなんとかさんという人がいますよね。
あの人が面白いことを言っていて、トヨタ社長は会長はどんな車が好きなんですか?みたいなことを言ったときに、
実は環境とかなんとか言ってるけど、本当はガソリン臭くて燃費が悪くて、めちゃめちゃエンジン音もうるさくて、そういう車が好きなんですね、みたいなことを言っていて、
人間味があって可愛らしい人だなと思ったんですけど、そういう本当の自分の欲求みたいなものを出すのに躊躇して、
正論だけに縛られている人というのも少なからずいると思うんですよね。
これは極端な例というか、このくらいのレベルだったら本音を言えるかもしれないんですけど、
もっともっと細かい点において、いろんなところで無意識に自分が今まで受けた教育であるとか、
自分の声を聞く重要性
擦り込みであるとか、そういったもので、それってそういうもんだよね、そうあるべきだよね、とべきべきべきべきで考えてしまっていて、
本当にそれって自分でそう思っているんですか?みたいなところにまで考えていないということが大にしてあると思うんです、いろんなところで。
ぶっちゃけて言えば、例えば朝歯を磨きましょうみたいな、それも当たり前だと思っているんだけど、そこだって別に疑ったっていいと思うんですよね。
もちろん普通に言えば歯を磨いたほうがいいっていうのはありますよ。だけど、そこだって疑って考えたほうがいいわけじゃないですか。
シャンプーだってね、今は普通に毎日やるのが当たり前になっていますけど、昭和の世代はですね、
毎日シャンプーをするっていうのは、僕らがちっちゃい頃だったら、どっちかと言えばレアだった。
80年代になって朝シャンプーするって、朝シャンみたいなのが出てきて、それが当たり前になってきたけれども、
でもそれって意外と外国人にしてみると毎日髪洗いませんみたいな人も意外と多いんですよね。
多いんですよ、本当に。ちょっとピンとこないかもしれないですけど。
そういう我々の中の当たり前っていうのは、たまたま社会の中でそれが一般的だとされているだけのことであって、
他の社会に行ったら全然違ったりする場合もあるわけですよね。
それは多数決みたいになって、多数がやっている人のことが正解っていうふうになりがちなんだけど、果たして本当にそうなんだろうかと。
多数の人が思っていることが本当に正解ですかっていう。
そこすらもやっぱり疑って、自分が本当にどう思うのかっていうことを問うていかないと、
本当に主体的に自分の思ったように自由に生きるっていうのは難しいことだと思っているんです。
なので、よく僕の英語の指導においては、やっぱり生徒さんにこれってどうだと思うとか、
どうしてそう思うのっていうことをめちゃめちゃ聞くようにしているんですけれども、
そういうことって訓練しないとやっぱりできるようにならないんですよね。
特に日本人はそういったところの訓練をされていなくて、
周りに従う、周りの空気を読んで周りに従って周りに自分を合わせていくっていうメンタリティーが重視される社会なので、
それが悪だとは言ってないですけれども、
だからこそ、自分の心の本当の声っていうのをより耳を傾けられないで苦しんでしまっている人っていうのが多いような気がするんですよね。
なので、僕が英語指導を通じて、子どもたちは子どもたちだけじゃないんですけど、
何を伝えたいかというと、そういった本当に自分がどう考えているのかっていうことを、
自分の考えていることが必ずしも正義ではないかもしれないっていうその視点を持ってもらって、
じゃあ改めてあなたはどう感じるんですかっていう、本当に自分がどう感じるのかっていうところまで掘り下げていきたいと思っていて、
それすらも最初はやっぱりできないんですよ。本当にできないんです。
中学生とかに聞いても、やっぱりどこかで借りたような意見になってしまうし、
年齢が上がってくると逆に、年取ると無敵になるみたいな人もいるじゃないですか。
暴走老人みたいな。それはある種主体的なんだけれども、
人生の最満年で主体的になっても、そんなにもう主体的な人生を楽しめる時間ってないので、
もっと早くから自分の自分力で主体的に生きるっていうところを自分に許してあげるっていうことが重要なんじゃないかなというふうに思って、
普段英語も指導しているし、こういったところでもお話をさせていただいています。
本当にこれって訓練なんですよ、ある種。
皆さんも今自分がしようとしているこのことって、本当は自分はどう思っているのかなっていう、
自分の心に問うてみるということをしてみていただくと良いのではないかなということを感じました。
同時に自分も常に自分に問うていきたいなというふうに思っております。
ということで、今日は聞いていただいてありがとうございました。
今日のお話が良かったという方は、いいねやコメントなどよろしくお願い致します。
オッケー、Thank you for listening and have a great day.