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元プロテニスプレーヤー
デビスカップ日本代表
全日本選手権優勝

輝かしい戦歴を持つ武鑓コーチ!
真面目で一本気で誰よりもテニスが大好きなことがレッスンを受ければわかります!

1000分の4秒。
この一瞬で全てが決まる!

会話から人柄が滲み出る
熱く心が湧くお話です!






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ライフスタイルウィズスポーツ
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いつもご清聴いただきありがとうございます。GODAIの石崎です。
本日のインタビューゲストは、竹谷里正芳コーチです。
ご存知の方も多いと思いますが、元プロテニスプレーヤーでらっしゃいます。
この方、経歴がすごいんです。
全国高校総体、これはインターハイといいますが、シングルスで優勝。
全日本学生選手権、こちらはインカレーと呼ばれてますね。ダブルス優勝。
全日本選手権シングルス優勝。
デビスカップ日本代表出場。
全日本ランキング最高7位。
もうさらっと読み上げましたが、これは本当にすごい経歴でいらっしゃいます。
もう僕からしたら雲の上の存在でいらっしゃいますが、
その竹谷里プロ、竹谷里コーチのテニスヒストリーをぜひお聞きください。
第88回ポッドキャストスポキャス。
本日のゲストは博楽支店のコーチ、竹谷里コーチです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
竹谷里コーチとお呼びしていいのか、竹谷里プロと呼んだ方がいいのか?
いやいや、コーチで。
竹谷里コーチで、これはですね、冒頭にもご説明させていただきましたが、
いわゆるレジェンドといいますか、テニス人としてはですね、
どうしてもお話をしたかったというところで、
こういった出会いに僕は個人的には非常に感謝しているんですけど、
竹谷里プロ、竹谷里コーチに今日いろんなお話を聞きたいと思いますのでよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
まずですね、どこからお話すればというところなんですけど、
竹谷里コーチがですね、テニスに出会ったきっかけというところからかなり遡るんですけど、
ちょっとそんなところから。
小学校の低学年から剣道をやってたんですね。
そうなんですね。
結構熱心に道場に通って、一生懸命剣道をやってたんですけど、
5年生の時に家の近くにゴルフ場とテニスクラブができて、
最初は親父がゴルフをやらせたかったみたいで、
つったってゴルフを真似事をしてたんですけど、
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体が動いて打たないんで、ゴルフの場合は。
横のテニス場でやってるのも面白そうで、
そこで遊びで壁打ちをしてたら、
コーチの方に僕やってみるかなんて声をかけられて。
それがきっかけで、最初だから4年生から5年生にかけては、
月水金剣道行って川目堂テニスやってみたいな。
それがきっかけだったんですね。
剣道もされてたんですね。
僕は本当に見るだけなんですけど、
剣道ってなると市内と防具と完全武装した形で、
でも対峙するってなると1対1で、
テニスと通ずるところが出てくるのかなって感じはするんですけど。
ありますよね。
やっぱりありますか。
勝負かけるところとか、間とかね。
だから勝負感っていうのは剣道やってても好きでしたから。
そうなんですよね。
そこのところでそういったきっかけがテニス。
ご出身が岡山県でしたよね。
岡山市で。
岡山市でテニスを始め。
ゴルフはそこまで興味がわからなかったんですね。
そうですね。まだ面白みがわからないっていう。
その当時。そうですよね。
なるほど。
ちなみにゴルフは。
ツアーを回ってるときは海外で午前中練習して、
午後気晴らしにラウンドするとか、
その程度のことはやってました。
腕前はいかがですか。
いいときで90ちょっと。
すごい。
そんな感じですか。
気晴らしにやる程度で。
やっぱりプロの方ってやると、
ちょっと話飛んでるんですけど、
ゴルフうまい方多いですよね。
結構似たような飛ばす感じってあるかもしれないですね。
そうですね。
僕は大体テニスでプロの方はゴルフのスコア聞くと
なんかとんでもないなって。
大体90は聞いてるって言ってますね。
やってらっしゃる方もいるんですけど。
話を戻させていただきました。
そういったきっかけで始められたというところで。
小学校から始めて、
その後、プロセスをこれからお聞きしたいんですけど、
大体どれくらいから自分自身で
テニスいけるなっていう感覚を得たんですか。
ちょうどテニスを始めた頃に
テニスがオープン化になって
プロ選手が海外どんどん出始めたんですね。
走りも本当に走り屋ですよね。
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日本でもプロの選手が出始めて、
景気も良かったんでしょうけど、
プロ選手がだんだん華やかな活躍をするようになって、
やっぱり憧れていきましたね、どんどんね。
中学になる頃はもうプロになるんだぐらいの気持ちで。
目標はね。
それはそういったプロになっていく方達を見ていて、
メンタル的には、
俺ももうそういうところに行くんだっていう、
それは例えばですけど、
すでに小学生から始めて、
すぐに結果が出てしまってたのか、
それともそういった結果が出ずに、
もう自分はそこに行くんだと思ってらっしゃったんですか?
テニスを始めて1年ちょっと小学校6年ぐらいに、
東京に全国大会に出てきたんですよ。
岡山からね。
その時に12歳以下で準決勝まで勝ったんですよ。
勝ち上がっていったんですよ。
業界の方はご存知かもしれないですけど、
丸山香織選手と準決勝で当たって、
スコーンってやられたんですけど、
でも来年にはあいつに勝つんだって、
あれぐらいだったらどうにかなるんじゃないかぐらいに、
思い始めて、
だからちょっと頑張ろうみたいな、
当時からそういう気持ちは出てきてましたね。
ここで丸山香織さんという名前が出てきましたけど、
同年代で一番最初に出会いに出たんですよね。
やはり12歳以下っていうその時から、
戦ってらっしゃったんですね。
そうですね。
デビスカップもちろん冒頭にも申し上げましたが、
竹やりプロもデビスカップの選手でしたので、
やはりそういう12歳以下、
小学校高学年ぐらいから、
その当時から一番下で12歳以下でしたか?
もっと下があったの?10歳以下ってのあったんですか?
いや、当時は10歳以下もあったかもしれないですね。
12歳以下っていうことは大体小学校高学年になってきて、
中1までは早生まれが入ってきて、
そうなるとちょっとした差が大きいですよね。
そうですね。
1、2年の差っていうのは。
早生まれでも大きいですしね。
なるほど。
その頃から、12歳以下の時は全国大会に出てっていうところで、
そういった経験を重ねて、
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全国大会でタイトルを獲ったのは初めての時はいつ?
それがね、結局高校に入ってからなんですよ。
中学まではランキングは日本で5番とか6番までしか行けなかったんですよ。
で、なんとか1番になりたいっていうのもあって、
で、結局私は柳川高校に進んだんですけども、
最初に全国優勝したのは柳川高校の3年の夏ですね、インターハイ。
そうなんですね。
だからシングルスで優勝はそこが初めてですね。
初めてなんですね。
そうなんですね。
勝手に結構ジュニアのタイトルは取ってらっしゃるのかなって思い込んでたんですけど、
そういうところではなかったんですよね。
ご自身ではそのインターハイのタイトルはどうなんでしょう?
初めてのタイトルなんで、やっと取れたっていう感じの感覚だったんですか?
高校のインターハイで柳川の15連覇団体ができなかったんですよ。
私の台で止めちゃったんですよ。
そんなことがあったんですね。
私が勝ったんですよ。
一応ね。
一応ちゃんと言っておかなきゃ。
ただ私がキャプテンだったんで、その台で15連覇できなかったっていう、
柳川ではその汚名を背負ったキャプテンなんですよ。
なるほど。
その後に個人戦なんで、個人戦はなんとか支出しないとっていう、
使命感の方が強かったんですからね。
そうですよね。
プレッシャーというのはちょっと想像ができませんけど、
想像するだけでゾッとしますね。
もう絶対に負けられないっていう。
僕も高校生の時に柳川高校とは2回対戦したことがあるんですけど、
やはり団体戦での気迫と、また応援もすごいですから、
やはり対戦相手としては、今思えばそこに対する思いとかかけ方がちょっと、
もはや違いますよね。尋常じゃないですよね。
そうなったんですね。
でも団体戦先あって個人戦じゃないですか。
そこの、よく団体戦の連覇が途切れて個人戦に入るっていうところで、
ちょっと気持ちの切り替えって言うんですか。
そこ結構大変だったんじゃないですか。
そうですね。ただやっぱり、ちょっとお面を晴らさないとっていうかね。
一つのタイトルはちゃんと収拾しないとっていう。
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そっちの指名家の方が強かったように競技してますよね。
すごいな。15連覇っていうのもまた。
そうですね。当時まではね。
そうすると、これ聞いていただいてる方ご存知の方も多いと思うんですけど、
竹谷コーチには黒田コーチがいて、千田コーチがいてっていうところで、
そうするとお二人とも竹谷コーチより先輩になられるんですね。
黒田コーチと竹谷コーチはその15連覇の最中にいらっしゃったっていうことになる。
連覇されて。
黒田コーチも千田コーチも連覇を続けた歴代の。
そういった意味でもやはり先輩方にはいろいろといろんな目で厳しい目で見られるわけです。
かといって何か言われるわけじゃないですけどね。やっぱり先輩が築き上げたものですからね。
そうですね。想像をするところなんですけど、そういった中でインターファイをしっかりと優勝されて、
この後プロに変身されるということなんでしょうけど、
これは僕個人的にもお聞きしたかったのが、高校生のその3年間で、
やはりプロになるにはそういったタイトルっていうものは欲しいじゃないですか。
その時に1年生2年生3年生でステップしていくところで、
ご自身の中で今思えばっていうところとかで、戦略的なこととか、
いわゆる自分で目標設定をされてとか、いろいろあったんじゃないのかなと思うんですけど、
インターファイを絶対に取るっていうところで、どんな高校生の生活または考え方をされていたのかなと。
物心をついてプロになりたいっていう意識は結構強かったんで、
高校の時も柳川ですから、大先輩の福井さんとか、
練習につけに来てくださってましたから、
結局練習マッチとかもしていただいて、
これぐらいであればちょっとずつ頑張っていけば戦えるんじゃないかとか、
そういう感触っていうか、そういう目標がありましたから、
ツアープロになるためにちょっとトライしていきたいなっていうのは高校時代からは思ってましたから、
そのためには、本当はアメリカでナノキャンプとかに行くとか、
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ハリウッドファンとか当時もありましたけど、
そっちに行ってみたいなっていう気持ちもあったんですけど、
進学は親との相談もあって、たまたま力を入れ始めた東海大に進学しながら、
プロを目指すっていうスタンスに変わったんですよね。
そこでインターハイを取られて、そこでのところでプロっていうところをなる前に進学をされたということなんですね。
そこでのご自身の今でいうとキャリアプランっていうことにもつながってくると思うんですけど、
同時期にプロに転校された方もいらっしゃるんですか?
そうですね。丸山君なんか早かったですからね。
さっき出てきた丸山君、カオル君とか。
もうじゃあ先にプロになられて、その中でそういったいろんなご相談をされて考えて進学というところで、
例えばですけど、今振り返ってみて、進学っていうのは良かったなとか、
あの時にもっと早めにプロになっておけば良かったなとかっていうのは思ったりされたことあるんですか?
ありますね。やっぱりどうしても日本の場合は、18から20歳過ぎまでは大学生みたいな固定観念が、
大学に行って当たり前みたいな感覚があるんで、
海外のプレーヤーは一回トライして、それでダメだったらもう一回大学に行き直すとか、
そういう思い切ってトライしても良かったのかなっていうのは先でも思ってましたけどね。
どこかで保険をかけるじゃないけど、テニスでもしダメだったら、
やっぱり仕事をしないとっていうような、頭もどうしても働いたり、
親にもそういう風に言われたり、
慣れるって言って慣れる保証なんてないんだからっていうような、そういう葛藤はありましたね。
これは非常に興味深い方たちもいるし、これは竹谷さんの時代でも、
これは僕の時代でも、今のこれから道を選択するっていう中で、
結構今の子たちの方が、僕は見ててプロになる子たち、パンとプロに転向する子多いなっていう感じはすごいするんですよね。
ありますよね。
あれも見ていて、どうですか。
もちろんその方たちはすごい色々と考えてっていうところがあると思うんですけど、
ご自身の時代から今のこれから18歳、これまでプロに転向して活躍されている方たちを見てて、
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どんなことを感じられたりするのかなと思って。
あんまり一般論になるかはちょっと疑問ですけど、
テニスの場合のプロっていうのは、本当は国際ランキング、ATPとかWTAとか、
上位で初めてツアープロっていうことになるんで、
日本のプロ登録制っていうのはちょっと異質なところがあるんで、
本当の競技力を考えたら国際的に考えないと。
ある意味プロになっても国際的に通じないと、ちょっとこれは無意味になっていくんじゃないかというのも感じますから、
もうちょっと国際的なプロがどういったものかとか、
そういった情報公開というか、ちゃんとみんな周知できるような状態の中で取り組まないと、
中途半端な結果になるケースが多いんじゃないかって気はしてますけどね。
その当時先ほどお名前が出てた先輩でいらっしゃる福井強さんですとか、
また同期の方々でプロになったりとか、
その当時プロのATPの世界ですとか、
情報というのはテニス界にいてどうだったんですか?
結構入ってくるものだったんですか?
まだ情報的にはなかなかすぐに入ってこない情報の時代だったんですか?
いや、情報はありましたよね。
ただ日本から海外にツアーに出ていくのがやっぱり大変、今も大変ですけど、
それはもう変わりなく大変は大変で、
当時は景気も高度経済成長とかバブルとか、
国内にツアーだけでの賞金というのも若干そこそこはありましたから、
だから国内だけのツアープロみたいな、
ゴルフでいうアジアゾーンとか、
そういう感じのツアーはありましたからね。
でもやっぱり当時からは世界基準で考えとかないと、
やっぱりどっちつかずっていうか中途半端で、
皆さん国内でいくら勝ってもご存じない方も多いですからね。
そうですよね。
やはり僕らの親の世代、そして祖父とか祖母の世代、
テニスっていうところで、
一時期はテニスブームっていうのがあったんですよね。
その時にやはりよく見てた方たちは、
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青年の世代のテニスプレーヤーの方たちの名前を、
テニスはしないけど知っているっていうこともよく、
なんで知っているんだろうって思ったら、
やはりそういったところでは、
日本国内でもしっかりとプロツアーというのがあったり、
すごい選手をフューチャーされている時があったんですよ。
僕らからすると、やはり今でいうと、
グランドスラムまでなかなか行かないと、
名前も知ってもらえないというか、
ある意味国内では食べていくのが、
賞金をもらっていくのが難しくはなっているけれども、
生きていくにはっていうところでは、
レベルがすごく高くなっているのかなって感じがするんですけど。
やはりテニスの場合は国際的なランキングを基準に考えておかないと、
やっぱりもうダメだと思いますね。
柳川高校を卒業されて、東海大学に就学されながら、
これはやはり大学でもそういった団体戦もあって、
そして個人戦であるインカレというものはありますけれども、
これはやはりプロの道をやっていくというところでは、
やはりそういった全日本学生、そしてあとは全日本選手権という大会が、
こちらもちろん全日本選手権というのは高校生でも出れるものだと思うんですけれども、
よりプレーがプロと近い世界で戦うようになられると思うんですけど、
先輩リュウダンの福井剛さんがいらっしゃる世界に入っていくというところで、
その大学生活というところはどういった時代を送ったんでしょうか。
一つ東海大はスカラシップをもらえたので、
その分経費的なことはテニスに費やせるという頭もあって、
東海大でお世話になったんですけど、
その分授業料とかが浮いた分をできるだけテニスに投資して、
ちょっとでもランキングが上がるようにトライはしてましたけどね。
これは本当にある意味そういったことを意識されて選択した大学だったんですね。
そうですね。経済的なことも含めて。
これはでもとても大きなことですよね。
大学によって特大制度とか、そういうところを設定しているところもあるでしょうし、
一生懸命やる学生にとっては一つの条件にはなりますよね。
大学生時代というのは、どういったところの環境で練習されていたんですか。
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東京に出てきてからは、ナショナルチームの教科メンバーには入れていただいてたんですよ。
だから私とか、当時の土橋君とか、村上武志君とか、今はうわううで。
ナショナルチームに入れていただいたので、
当然作業の福井さんとか、日本のトップの方と一緒に練習するような環境はあったんですね。
ヒーティングパートナーみたいな。
当時のナショナルチームメンバーが練習する場所はどちらでしたか。
結構西条のテニスクラブとか、あと田園ですよね。
今もある田園テニスクラブ。
田園テニスクラブを駆使いただいて。
そういったところでやってたんですね。
そうなんです。民間のクラブを借りて。
まだナショナルチームセンターみたいな施設はできてなかったんで。
今はすごいですよね。
僕の世代では、ナショナルチームメンバーは、朝日生命です。
熊山ですからね。
ありましたが、当時はまだなかったんですね。
熊山も使ってました。
いろんなところで場所は。
サーフェイスを選んで。
そういうことだったんですね。
そういった中では、ほぼプロと同じような。
そうですね。
学校の授業が終わってというところで、すぐにそういった環境に通じてらっしゃるという。
一応学校の条件が可能な範囲で大学の練習には参加して、
あとは実践に任せるということだったんで。
この中で進学というものを選択しながら、
でもやっていることはほとんどプロと近い形での生活になったと思うんですけど、
こういった中での葛藤といいますか、
何か苦しかったというか大変だったというエピソードは何かありますか?
そうですね。やっぱり今の学生さんもそうですけど、
授業との両立とか、単位を取ることとの両立とか。
当然私はスカラーシップもいただいたんで、
両立なんかするとそれが切られちゃうんで。
そうですよね。
だからやっぱり学業との両立というのはなかなか大変ではありませんね。
これは本当に危機感を持ってやってらっしゃったと思うんですけど、
僕も大学を経験して単位が取れないというのは非常にメンタルも追い込まれますし、
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僕の個人的な思い出になりますけど、
大阪に遠征に行って、同期から電話がかかってきて、
明日の授業が出ないと単位が取れないぞと。
一旦帰って授業を受けてまた大阪に帰ったという記憶があります。
これも結構大変なんですよね。
もしかしたらテニスあるあるのかもしれないですけど、
ある意味では比べちゃいけないんですが、
その単位も、その団体戦も、高校の時の団体戦も逃せないという、
いろんなプレッシャーにさえながらやっていたというところです。
この番組は提供、ご大グループ、プロデュースキクタスでお送りいたしました。
28:15

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