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スポーツを通じて人々の健康生活の実現を目指す
スポーツポッドキャスト、すぽきゃす。
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スポーツを通じて人々の健康生活の実現を目指す
スポーツポッドキャスト、すぽきゃす。
スポーツを通じて人々の健康生活の実現を目指す
白楽支店
スポーツを通じて人々の健康生活の実現を目指す
では本日は博楽支店 レジェンド黒田昌吾コーチですよろしくお願いします
よろしくお願いしますお願いします さあのトークですね
30回目を超えてですね 後代のコーチのインタビュアーとしてもですね
僕も後半戦に差し掛かったところではいとうとう レジェンド黒田コーチを
まあレジェンドっていわゆる年になったんだなぁという感じですね もう62になりましたね
今オンコートで現役で レッスンをされているコーチで
最年長ですね もう数年前からずっと最年長で来て
まあ62になってまあこれから 自分自身もどこまでやるのかなぁなんて
よく考えるんですよね
まあ瀬戸さんは70までやってくんだけ困るよなんて言われる方もいらっしゃいますけど
70はまあそこまではちょっとっていう感じはあるんですけど まあとりあえず65を目指して
まああと3年ぐらいですかね最低でもやりたいなと ニーズがあるうちはやりたいな
やりたいなっていうかやんなきゃいけないんじゃないかなっていう感じはしてますね あの僕個人なんか本当にまあみんなだいたい思ってるんですけど
今62歳で あのご自身も
多分感じてないと思うんですけど年取ってないですよね 気持ち的にはまだね40代とか気持ちでやってるんですけど
まあどうでしょうねあの 60には見えないとおかげさまで言われることが多いですね見えないですよね
まあいろいろだったら来てるとかあるんですけどね来てますか お酒はまあそこそこ
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お酒は存じてますけど いつもセンターちょっとあの戦術ちょっとケガしてしまいます
そんなことがありましたねもう完全復活というところでおかずです じゃあもうあのある程度のあのお酒も解禁されたという
まあ解禁されたというかしてるとしてるというか 変わらずというところですね
まずはもう健康の証拠なので何よりというところなんですがはい あの黒田コーチですねいろいろとあのお話を改めていきたいところがまずはその
お年に62歳というところでまずはその コーチ歴も去るところながらテニス歴ってなると
もうどれぐらいになるそうですね 12歳の頃からやってるんではい50年ですかね50年50年ですね
何式中学3年間は何式ですけどはいその何式を入れると50年50年 公式だと47
じゃあね47年 じゃあこの12歳の時というのは何式なんですね何式ですね違う
その何式の8期始めたきっかけっていうのはちょっとカード良かったんですよ 私ですよね
4位は弱くなった弱かった弱かったんですけどちょっとねそんな丈夫じゃなかった えーうちの姉がテニスをやっててじゃあまあその
そんなに キツくない
スポーツは何だと思った時にテニスなんじゃないかなと思って始めたんですけど キツかったですね
で中学の時初めて中学の時に福岡 僕福岡出身な福岡出身はい
福岡県で優勝しちゃったんですね12歳で初めてですか そうですね中3の時に優勝しちゃったんですよ
福岡県大会でそこで全国全国大会っていうのは東京で日比谷公演で行ったんですけど ベスト16ぐらい
そこで 当時の柳川高校というのがありまして柳川高校
柳川高校からスカートに来たんですね あの当時は中学から公式やってる人ってほとんどいなくて
中学で公式テニス部があるところってほとんどなかったんですね 例えば東京のおぼっちゃま学校
栄養とか整形とかあの辺が成長とかあの辺があったんですけど ほとんどなくて当時の柳川も中学で男子である程度活躍した人を
こう引き抜いてきて そこで
公式に変更させて そこの3年間で優勝させるという
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ハラレ技をやってたんですよ だから半端じゃなかったんですよ
一から握りも変えられましたからね ウエスタンをコンチネンタルぐらいに変えられましたから
どうやって打ってるかわかんない最初に そうですよね 僕のはちゃこちゃこ打ってたし
だってラケットは違うんですからね ラケットは全然違いますよ
もちろん木でしたけどね こういうちっちゃい木でした
だからあの当時は苦労しましたね まともに打てるのに
やっぱり2年ぐらいかかりましたから 2年とその3年目の夏でインターハイ優勝しなきゃいけないんですよ
優勝しなきゃいけないんですね しなきゃいけないんですよ 僕らがちょうど8連覇の時でした
負けたら切腹ですよ 切腹ですよ本当に
まあ14連覇まで行きましたよ 14連覇の時が松岡修造の年だったんですよ
修造は3年の時にアメリカに行っちゃったんですね 修造抜きで戦って15連覇を逃したんです
その連中はもうずっと言われています
それも辛いですね 辛いですね
すごい歴史があるんですよ
インターハイは僕が3年の時は福岡インターハイだったんですよ 地元でインターハイ
地元で3年生の時ですか? その時の準決勝で同社、同社小売ってある高校があるんですけど
そこで僕は今の皇太皇下の前で
まあ4月までの天皇陛下の前で展覧試合をしたんです その当時は皇太子でしたけどね
うちの小川監督が解説しながら 僕と福井とかが
その前で 2階から見てくるんですよ
天皇陛下の前で撮ったんです すごいですね
僕知ってる限りでは長島監督ぐらい知ってます あの当時はすごかったですね
私たちが8連覇した時に 普通全国大会で連覇したら感動して涙ぐらい流すじゃないですか
感動がないわけですよ ほっとしたわけなくてよかった
そういう勝って泣いたという記憶がないですね
勝つことが 至上命令で
勝って当たり前に連覇を守ると それから僕らが8で福井たちが9で10、11、12、13、14、15で守らなかった
奇跡的な連覇ですよ その8連覇そして14連覇っていうところがそこからがやはり
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上昇柳川軍団っていう僕らの世代まで 柳川イコール
競合じゃないですか そういうのが気づかれた
時代があったからこそそうなったんですかね 基礎というか
柳川のすごいところは現在に至るまでベスト4とか準優勝とかたまに優勝することもあるし
全然弱くなってないんですよね キープできてる
それがやっぱすごいですね
その時代のですね
あえてその時代のことを教えてもらいたいんですけど柳川時代の黒田幸治の
いわゆる後輩にあたる
一個下の後輩ですかね 福井強さん
そして上田実前監督ですね
もうなんて言うんでしょうその僕らからしたらその お二人のプロでその後活躍されているわけなんですよね
そうね特に福井は全日本で一番今勝っているじゃないですか そうですよね7回優勝
その7回優勝している福井強さんが一つ下の後輩に いらっしゃったわけじゃないですか
そういう時のお話とかエピソードとか
福井に関してはねとにかく
とにかくすごいプレイヤー の一言
一言ですねそれそうですよね もうね
特にストローカーなんですけど ストロークの性格向きっていうか
あれは今まで見た中で一番すごい しかも
今みたいにこういうテニスじゃなくて
まあウェスターンじゃなくてインスタングリップの 綺麗なあたりのフラットで打つ選手っていうのはもういないと思います
もともとそういうあのグリップ厚いグリップではなくてあの薄めの あの当時はもうトップスで打つ選手ってほとんどいなかったので
バックの両手打ちがない時代だったんで
両手打ちってその後なんですか?
その後ビョンボルグとかあの辺クリスエバードとか
両手打ちが始まってそれまではほぼ片手スライス
彼に関してのエピソードがいっぱいあるんですけど
とにかくすごいの一言
で僕も3年の時にダブルスは決勝で福井に負けて
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シングルは準決勝で福井に負けて
前40年は福井に負けてます
決勝でダブルスのタウン決勝で負けたのかな
全部福井さんに負けてるんですよ
ぶらつきしないんだ
せいぜい取って2個とか3個取れたらいい
そんなレベルだったんですね
ただその1回だけ僕も今鮮明に覚えてるのは
練習試合で1回勝ったことがあるんですよ
それ柳川高校の4番コートで
ワンセットマッチちょっと福井とお前やれって言われて
元気に3年終わって引退した時に
6-4で1回勝ったそれを未だに福井は覚えてる
あいつ負けたことないから練習試合でも
俺に1回だけ負けたっていうのが残ってるんです
黒山には1回負けましたよね
覚えてるなお前はそういう感じで
聞いたらあいつ言うと思うんですよ
1回だけ負けました
やはりずっと勝ち続けてる方だから
練習試合でも負けない
個人戦で公式戦で148連勝か何かしたんですよ
148連勝
1つの大会が4つか5つか6つの優勝だとすると
ずーっと優勝してるわけですね
多分日本新記録じゃないですか
全力入れてるですからね
強烈な柳川高校で過ごされた後に
その後また次は大学へ進学されて
中央大学に入ってっていうところで
そこでは4年間どんな
すごく緩く感じましたね
もうね柳川卒業できることが嬉しくて嬉しくて
地獄のような日々がそれから一転して
天国のような日々に変わるわけです
しかも東京の田舎から東京に出てきて
最初はホームシックになってしたんですけど
やっぱ楽しかったですよね
自分たちで練習も考えて全部できるということで
柳川の時はもうこれやれこれやれって
先生から一方的に言われて
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そういう世界だったんで
やっぱ楽しかったですよね
僕は一番中央大学の中で
一番すごい経験してるんじゃないかなって
ちょっとした自負があって
僕が入った時は3部で
当時は一部4校制でやってたんですけど
あの当時東能大とか東大とか
あの辺が3部でやってた
それで戦ってたんです
1年の時僕もレギュラーでも出たんですけど
その時は3部残留だったんです
2年の時に3部で戦って
2部に上がったんですね
あ、2部に上がったよ
3年の時に2部で戦って
2部の2位になったんですね
4年に移る時に6校制になったんです
6校制になったんですか
4校制になったんで
2部の2位までが一部に移行したんです
中部までが一部になったんです
そこで4年で一部で戦えた
なるほど
で一部で優勝して王座に優勝した
すごいですよね
すごいですね
王座っていうのは大学王座って言って
大学のナンバーワンを決める
一部の1位で行って
あの時和歌山でやったのかな
和歌山県でやったんですか
決勝は宿敵の江南大学
吉田信男とか中西一郎とか
あの辺の有名どころかとか
5年のメインプレイヤーですね
4年の時に一部に中央に福井が転入してきたんですよ
そっかそっか
彼は当時筑波に行ったんです
筑波に1年ぐらいいたのかな
そうでした
そこからアメリカに行ったんです
アメリカに行って2年間修行してきて
こっち帰ってきた時に中央が受け入れて
で僕は4年の時のキャプテンの時に
福井が入ってきてくれた
またすごいタイミングで入ってくれて
でナンバーもちろんナンバーワンで
彼もダブルスでいっぱいしてるんです
一回巻かれてる
エンドと組んで
だから彼ら15勝いっぱいなんです
王座も含めて
私は16勝で入った
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そこでも勝ってるんですね
私いっぱいしてますからね
福井がいいんですからね
あれはね本当にラッキーでしたね
いやーすごいですね
今ね現オリンピックの球技委員長でらっしゃいますもんね
あの福井強さん
専務理事かな
専務理事になって
ナンバー2ですね
ほぼナンバーワンじゃないですかね
もうすごいところの存在になってる方が
そういった方を後輩に持ち
そして12歳からソフトテニスから始めた形で
大学チャンピオンまでになったっていうところなんですけど
そこで普通はですね
テニスここまでやり遂げた方って
大体そのテニスから離れたくなったりですとか
っていうところがあったんじゃないのかなと思うんですけど
その当時22歳ですよ
23歳になるぐらいの時ですよね
なんかそのテニスっていうところに関しては
色々ね企業からも誘われたし
プロ的な活動しないかっていうことも言われたんですけど
なんか燃え尽きてたっていうかね
なんかもう試合はいいかなーなんて思って
実家に1回帰って
実家九州なんで福岡なんで
そこで実家の手伝いしながらやってたんですけど
5代の今の理事長吉田
吉田先輩になるんですけど
ちょっと理事長が吉田さんに
黒田九州でくすぐってるみたいだから
絶対連れてこいって
連れてくるまで帰ってくるなって言われて
吉田さんが来たんですよ
福岡までですか
家にまで来た
どうなんだって
じゃあ行きますっていうことで来たんですね
それが27歳の時でした
27歳の時ですか
大学を卒業してから
卒業してすぐは帰れなくて
23ぐらいの時に帰って
4,5,6,7
4年目に来たんですね
5に結婚したんで
早かったんですね
昔はみんな早かった
昔は5ぐらいまでに結婚しないと
女性も男性もね
今は遅くなってるので
行きますってことで27で来たんです
学生時代も5代でもちろんアルバイトはしてたんですけど
27で来てそこから5代一筋で
現代に至ってるという感じですね
学生の時にアルバイトをしていたんですか
してましたよ
ここでですか
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結構適当でした
学生の時にもうすでに
22歳の時
その出会いをちょっと確認したかったんですけど
そのもう
引退してからですか
引退してから
リーグ戦終わった後にやってましたね
4年生の時にすでに旧横浜テニスカレッジに
その時に教えてたのが
本山さんとか森さんとか
今もフルカブの40年
40年通っていただいてるお客さん
その方を未だに教えてるっていうね
すごいですね40年
40年教えてる
なるほどですね
今のお話だけで
ワンカット分かなりお話取れちゃったんですけど
そのいわゆる今までこういった形で
今5代博楽
横浜テニスカレッジが始まってですね
もう40年間
この前も40周年のお客様のおかげで
パーティーを開催できるまでですね
こういった形でやって
来れたスクールなんですけど
まあそういった40年間を支えてきた
そして言い方を変えると
40年間のコーチという仕事をですね
ずっと続けてきた
そういったの
なぜそういった40年間続けてこれたのか
そうですね
まあいろいろあると思うんですけど
まずはその皆さんのレッスン中は
笑顔ですかね
笑顔
笑顔がね
やっぱり楽しそうにやってるんですよね
で私と一週間一回会って
やっぱり楽しい
嬉しいということは分かんないですけど
ニコニコしていただけるし
あと終わった時の
その満足感のある顔をですね
今日動けて汗をかいてよかったっていうような
すごく満足感のある顔を見るだけでね
なんかこっちもやっててよかったなぁ
っていうような気持ちになるし
でもう一つは私たちがやることによって
まあ多少きついこともあるじゃないですか
でやっぱりね体力がどんどんついていくんですよ
分かるんです
こっちらが
あの人健康になってるなって実感がね
あるんですね
私たちはすごい良い仕事してるんだっていう
本当に実感としてそれをね感じるんですね
現場にいて
あの人のために私は
すごく貢献してるんじゃないかなって
口に言っちゃいけないですけど
言っちゃいけないんだけど
そういうことも少しはあるのかなって思いますね
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だからストレスの発散をさせてあげたり
気持ちの健康と心の健康と
体の健康のために貢献してるんじゃないかな
という気持ちがあるわけですね
だからやめられないというか
これからも続けていきたいなっていう仕事ではあります
まあでもそれはお客さんからも
やっぱり70歳までやってほしいと
まずはやらなきゃダメだって声はね
なんか聞こえてくるのがすごい分かるような気がしますね
そこまで考えてやっぱり
コーチってのはやるべきかなと思いますね
ただ打たして上達ももちろんですよ
上達が一番か二番なんのかな
プラスその人の心も体も健康にしてあげるという
そういうことも非常に大切なことであるので
そのそういうところで
私たちが貢献してるんだっていう気持ちで
やっぱりやるのとやらないのでは全然違うと思います
そうですよねやりがいということで
誇りにもってできる仕事だと思うし
みんなにもそういう気持ちを持ってやってもらいたいですね
今黒田コーチにはもう一つの顔として
元々はですね
現場を見ていただきながら
こういった歴今までのスクール視点のですね
博楽視点と広告視点
今回改めて出てきたのが
亀戸と新しくできて
その前には船橋と今四視点あってですね
各視点の支配人
そしてそういった拠点をですね
エリア的なマネージャーのことも
兼任されながら
あの場でやってきたわけじゃないですか
その中で新しくまた生まれたのが
今もう一つの顔として
後代スポーツアカデミーというテニスコーチ科のですね
講師という形で
未来のテニスコーチを育てていただいてるんですけど
そういったこれからのテニスコーチを目指す人たちにおいてですね
どんなコーチになってもらいたい
またどんなテニスの将来になってもらいたいという思いで
ただ技術とか
そういう知識を教えるだけじゃないんですよね
だけだったら誰でもできるじゃないですか
誰もできるって言ったんですけど
そういう知識ある人だったら
教えることはできると思うんですけど
やはり自分が今まで40年間やってきた中での
コーチとしてのいろんな経験
これが話せるわけですね
27:00
それをみんなにはいろいろ話してるし
それを聞けるみんなは幸せだと思います
僕の40年間のあれを全部言ってますからね
そうですよね
結局なってほしいのは
信頼されるコーチになってほしいということですね
信用じゃなくて信頼
そういう信頼関係を築けるコーチって言うんですよね
信頼されるっていうことは
ずっとついてきてくれるんです
生徒が
あのコーチは信頼できるなと思ったら
ずっとついてくるんです
そういう信頼されるコーチ
信頼されるためにはいろんな要素が必要ですよ
コミュニケーション能力とか
プレーもある程度上手くなきゃいけないと思うし
そういう知識もいっぱい持ってなきゃいけないですね
そういう総合的な力を持つ信頼されるコーチになってほしいなと思って
日々授業はやってると思うんです
そういったところになると
そういった人間力というか
そういったところですね
もっと生まれたものがあるんで
なかなかこういう力を身につけなさいって言っても
なかなか難しい部分はある子もいますけど
それは一生懸命さでカバーしたりとかね
いろんな勉強することによってカバーしたりとか
そういうことをやってほしいし
うちの卒業式を見ると大体わかるんですけど
みんな泣くしね
そうですよね
それだけのことは
僕らも一生懸命教えてるし与えてるし
無垢もそれに応えようと一生懸命やってくれるし
まあ手前見せるんですけど
いい学校じゃないですかね
と思いますよ
こんな一生懸命やってるところはないと思います
そうですね
卒業式で今まで5回やって4回か
4,5回
今のこれ6期目ですもんね
5回卒業式をやっている中で泣かなかった子っていないですよね
いないですよね
僕も全部泣きました
感動的な
感動してる姿顔を見てるとこっちも感動しますね
やはりそういった学生に対してもそうですけど
先ほど話が出たお客様の楽しそうにしている笑顔
満足感のそういった表情っていうところが
あるからこそやり続けられたっていうところが大きい
ただ若い時っていうか
こちらで裸一貫で出てきてね
子供も2人出てきて家も買いましたし
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必死だったっていうのはありますよ
生活しなきゃいけないんでね
でも一生懸命やってることがやっぱり
お金にも通じたし
生徒さんにも通じたし
それがそういうもんじゃないかなと思いました
必死でやってきましたから
まあ必死で何十年かかな
後代歴が35年です
35年です
後代歴35年です
今年の6月で35年です
35年
いやもう本当によくやってきたなって思います
さらにここから5年10年という形で
引き続き是非とも我々を
まだまだいろんな意味で
引っ張っていただきたいというところなんですけども
やっぱり僕が元気で頑張っている姿を
年下の社員に見せることは
一つ私の義勇かなとは思っています
65歳になってもあんなに元気でできるんだ
70歳近くになってもできるんだな
というそういう
みんなに勇気を与えるというか
ペニスコーチってこんな長くできるんだ
ということを示すのも
一つの私の仕事なのかなって気はしてます
もう本当にまさに今までの後代を
こうやって引っ張ってきた黒田コーチですから
引き続きこれからも我々の道しるべになっていただきたいなと
改めて今日はお話を聞いて思った次第なんですけど
できるだけ頑張ろうとは思ってます
引退とかそういうのは必ずあるんじゃないですか
スポーツ選手もあるしね
どの辺で着地するかっていうのは
ちょっとまだちょっと悩んでるところなんですけど
人生50過ぎぐらいが頂点とすると
だんだん私の下り坂を下ってて
どの辺で着地するかっていうのは
自分なりに今考えてるところです
引退の美学じゃないですから
その辺も考えてます
まだ悩んでます
まだそういったお客さんからの声もあり
更新からのですね
そういった声もあり
それはもう本当に非常に
誰もが悩めるところはないんですが
悩んでしまうっていうところだと思うんですよね
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その中で今年とかそういった
近い未来っていうところではないので
まだまだ来年再来年ってあるわけなんですけども
最後にお客様に今担当されているお客様
そして担当されてるお客様だけじゃないんです
今まですごい数のお客さんと
出会ってきてるのが何万人ですよね
そういったテニス愛好家の方たちに
最後また改めてメッセージを頂きたいんですけど
そうですね
今担当してるのは100人ぐらいいるんですかね
担当してる方にというわけではないんですけど
テニスはね僕は素晴らしいスポーツだと思うんですよ
それなりに年取ったら年取ったなりの楽しみ方があるし
初級なら初級の楽しみ方もあるし
上級なら上級の楽しみ方
試合に出る
だんだん1回戦2回戦勝っていく
またレベルの高い試合にまた出るとか
そんないろんな楽しみ方あるので
私はその中にはね
僕一番悲しいのはそろそろテニス引退かなっていう人がいるんですよ
えって私は思うんだけど
まあそれはそれでその人の考え方だからしょうがないとは思うんですけど
やっぱりね足腰立たなくなるまで
やっぱりスポンジテニスとかっていうのはもちろんあるんですけどね
できるだけやって長生きするためにも
テニスは長生きスポーツのナンバーワンって言いますから
そうですね
できるだけやってほしいですね
そのために我々はいろんな
スポンジテニスもその一つなんですけど
足が動かなくなっても
力がなくなっても筋力が衰えても楽しめるような
そういう何かを作っていかなきゃいけないかなっては思います
ありがとうございます
本当に僕も改めてこういった話を聞いて
すごい仕事をしているんだなっていう気にもなれましたし
引き続きこれをですね
また僕らも改めて聞き直して目指せ
黒田コーチをね
掲げてやっていきたいと思います
まあそういうである程度の日本になり続けるように
私の体をやっぱり絞ったり
お酒あんまり減らしてないんですけど
なかなか減らせないです
まあ努力はしてます
やるからにはやっぱりブクブクにはなりたくないし
そんなコーチから教えてもらいたくないだろうし
それなりの努力はしながらやるつもりです
これからの
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分かりました
では引き続きですね
リスナーの皆さんには
黒田コーチが68、70
超えてもですね
レッスンができるってことですね
立ってられればいいですよね
これからもやっていただきたいと思いますので
はいありがとうございます
ありがとうございました