1. 拝啓、3000年の人類へ
  2. #9 卒業式を思い出したい人たち
2022-03-29 25:02

#9 卒業式を思い出したい人たち

Anchor 3月のトークテーマ【卒業式の思い出】回です。


今週のキーワード

卒業生、起立ッ!/ 卒業式で名前を間違えられる/ バタフライ効果/ 世の中の常識・正しさは曖昧/ やるべきことをこなせる人は本質に気づけない/ 学校の先生は大変/ やりたくない・やらない・やれないは別/ いつどこで生徒の名言になってしまうかわからない/ イスラエルの教育/ サークルの思い出/


西暦3000年の人類に向けて、日々感じたことをゆるく垂れ流している二人。果たして、未来に届けることができるのか。


BGM素材:魔王魂

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拝啓、3000年の人類へ。私はこう考えます。
卒業式を思い出したい。
ということで、今回はアンカーの3月のトークテーマである、卒業式の思い出っていうのがあるんですけど、それについて今回伺っていこうかなと思います。
2022年現在、卒業式というものがあって、学校を卒業するとか、サークルを卒業するとか、いろいろ部活を卒業するとかありますけど、
そういったものの節目に、みんなで今までありがとう、さよならというところで卒業式をやってるわけですけど、
卒業式独特の緊張感ってあるよね。そういう空間でやらかしそうになるのが怖いというか、
自分もそうだし、怖いことが起きるんじゃないかみたいなのはすごくあるよね。
よくある話でさ、卒業生、期日っていう時にさ、卒業生じゃない、僕ら側もさ、気を引き締めるじゃん。
卒業生じゃないのに立っちゃうみたいな。
ぼーっとしてるのかわかんないけど、卒業生がブンって立つので、目開けてるからわかんないけど、
自分も立たなきゃっていうのがあるのかわかんないけど立っちゃうみたいな人いるんだよたまに。
そういう独特の緊張感みたいなのがさ、卒業式であるなって個人的には思ってますね。
僕は逆にそれで脱力した話が一個あって、何かというと、僕が高校生の時に卒業式があって、自分の卒業式があったわけですよ。
高校3年生なので前に並んでいて、一人一人卒業証書を受け取っていくわけじゃないですか。
僕らの学校は一人一人名前を呼ばれたら進むみたいな感じだったわけなんですけど、
僕の担任の先生が、高校2年生の時から2年間面倒を見ていただいたんですけど、
その卒業式の名前を呼ぶところで、僕の名前を間違えたんですよ。
噛んだのかわかんないんですけど、名前を間違えてすぐ訂正したんですけど、
何年の付き合い?
2年間かな。1年生の時からいらっしゃった先生だから、3年間面倒を見てもらったわけじゃないけど、
長い付き合いというところなんですけど、下の名前をちょっと間違えたと。
すぐに言い直していたんですけど、それで僕はちょっと、「ん?」ってなるじゃないですか。
それでちょっと緊張がほぐれて、証書を受け取ったっていうのがありましたね。
悲しくもあり、ある意味ではすごく印象的な出来事で、
卒業証書を受け取って、卒業式が終わって、教室でまたホームルームがあるんですけど、
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その時にめちゃくちゃ謝られました。
名前ってそういう意味では呼ばないんですか?
普段はさ、もちろんその時は先生は多分生徒の名前の一覧表みたいなのを持ってると思うんだけど、
下の名前まで呼ぶことってさ、本当に先生によるじゃないですか。
先生によっては下の名前で呼ぶ先生もいるけど、上の名前で呼ぶ先生だったら、
あれ?これ何て言うんだっけみたいな。さすがにフリー柄ついてると信じたいけど、
そういう間違いをしたこともあるというところで。
先生も緊張してるというところですからね。
先生の話は言いたいことがたくさんあるな。
先生には絶対なりたくないっていう話があって。
小さければ小さいほどバタフライ効果っていうのかな。
ちょっとしたずれがその後の人生に広がっていく。
要は角度がちょっとでもついたら、どんどん…。
言いたいことはわかる。角度がどんどんずれるというか。
そうそう。ちょっとしたはじめの一度のずれが広がっていくみたいな。
そういう話ってあると思うんだけど。
先生の責任の重大さっていうのが大きすぎて、
正しさってすごく曖昧というか難しいもので、
例えば宿題やりなさいっていうのはすごい正しい話であると、
みんな思ってると思うし、
だからこそ先生もそこについては疑いなく宿題してない話せようと思うんやけども、
それでさえそうとも限らないなと正直思ってて。
例えば社会的な能力を身につけると、将来最終的に大企業に就職したいと思っているのであれば、
そこでそういうふうに教育するのはいいと思うけれども、
そもそも言ってしまえばその子が大企業に就きたいと言ってたとしても、
小学生に関しては絶対親の意思だし、
宿題をやらなければいけないことをできないっていうのって、
僕にとっては悪くない能力やと思ってて、
僕自身はそういう自精神のない人間やねんけれども、
やらなければいけないことをできる人って、
本質に気づけなくなってしまうんじゃないかと思ってます。
すごく素晴らしいことやと思うねんけれどもね。
やらないといけないことできるのは。
でもその自精神があるっていうのは、
例えばサービスを作ることに向いてない人間やと思ってて、僕はね。
それはどういうことかというと、
例えば僕爪切るのめちゃくちゃ嫌いで、
それに対して、「は?こいつ何言ってんの?」って今あっちゃんも思ったと思うんで、
思っててほしいねんけど、
世の中の多くの人がそう思ってると思ってて、
切ったら終わりやんと。
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伸びてきて切ったら終わりやんと。
で、それって、この家畜がというふうに僕は思うねんけれども、
別に思わないけど思うんですと。
それはどういうことかというと、
しかしながら本来そんな別に爪ってあるわけやん。
人間の仕組みとして。
爪という仕組みがあるから、
それはあるときには素晴らしい仕組みやねんけど、
基本的な我々現代の人類において別にそんな必要じゃないし、
爪が伸びてしまうからこそ切らないといけないわけやん。
そんなんなかったほうがいいやんっていう。
ここに多分多くの宿題ができる人間は気づかないの。
っていうのは、やらなければいけないことを、
あまりストレスを感じることなくできる人間やから。
でも例えば、うんこした後、
ケツ拭くのとかだるって思うわけよね。
でもそれは拭くやん、だって拭くねんからっていうふうに
多くの人が言っちゃうねんけど、
いや、だるいやんって。
ケツ拭かんでよかったらその方がいいやんっていうことに気づけないと、
それを解決するサービスを作ろうっていうふうに思えないし。
割と世の中のサービスって、
例えば買い物行くの面倒って初めに誰かが思って、
じゃあ家まで届けてくれたらいいやん。
あいつ走ってたら楽やんとかいうのがあって、
これをもっと仕組み化してもいいんじゃね?
例えばそのせいでお金が多くかかったとしても、
それでも家で受け取りたいわとか、
徐々にそれがサービスになっていくというか、
っていうふうに思ってて、
だからちょっと話が飛躍しちゃってんけども、
そういう意味で世の中の常識とか正しさとかって、
すごい曖昧なもので、
なんなら宿題をやらなければいけないっていうことさえ、
僕にとってすごいそうなのかなと、
割と疑っていることで、
でも先生っていうのは、
それをやらなければいけないし、
全てを認めるわけにはいかない職業、
そして点数をつけなければいけない職業っていうのって、
すごい苦痛というか、
そんなこと僕にはできないとすごい思うなと。
なるほどね、そこに来るわけね。
今の話で言うと、
生徒それぞれが判断ができれば一番いいと思うんだよね。
やりたくないと、やれないと、やらないって違うじゃん。
っていうのをちゃんとやらないと、
大人になってから大変だよっていうのが一つ、
今の話であると思うんだけど、
どうしても先生っていうのは、
宿題をやってきたかどうかとか、
テストの点数がどうかっていうような、
いわゆる点数化されたものでしか評価はしようがないから、
そういったところで盲目的に、
生徒にやらせなきゃいけないっていう部分が、
たぶんしゅんちゃんがつらいところなのかなって、
話を聞いていて思っていて、
今の話で言うと、
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確かに先生っていうのは大変な部分がすごくあるよね。
もちろんそういった部分もあるし、
どうしても先生っていうのは、
1対30とか40かなになるんだけど、
生徒側から見たら先生は1人というところもあるので、
40人とか30人分、
リソースが分散されてしまうわけなので、
大変っていうのもあるんだけど、
そういった意味では先生にはなりたくないっていうのは、
すごくわかります。
ただ一方で、
個人的に知っている先生とかの話を聞くと、
やっぱり先生をやってよかったっていう声ももちろんあって、
やっぱり無事に卒業して立派になってくれたときの、
達成感っていうのもあるし、
成長を見えるっていうところもあるかなと思いますし、
あとその後すごく優秀になられたりとか、
それぞれが自分の夢を叶えてるってところを聞くと、
やっぱりきちんと導けたんだなっていうところで、
すごく嬉しいって話も聞くので、
先生は先生で大変ではあるんですけど、
これも結構人によるのかな、性格とかも含めて。
すごい僕のひねくれた目で今の話を聞くと、
何をもって正しかったと言っているんだっていうふうに言っちゃいたくなるというか、
これは自分自身でこの話をしながら、
すごいひねくれた意見だというふうなことはわかっているけれども、
例えば自分の教え子が大谷翔平だったと、
これは自分の教育が良かったと少し寄与して、
結果としてあのような子が育ったというのを誇りに持つのはいいけれども、
本当にそれが正しかったんだろうかっていうふうに思ってほしいなというふうに僕は個人的には思うというか。
結果的に成功したけれど、
本当にその人にとっての成功がそれだったのかどうかっていうのは考えながらいてほしいっていうことなのかな?
考えても仕方がないから考える必要ないけれども、
僕自身がその職業に就くとそう感じてしまうだろうから、
だから僕には向いてない。
そういうことにはなるとは思いますけど。
でも確かに自分の言った言動で一度違っただけで、
将来野球選手になるはずだった人がパティシエになっちゃうっていう可能性は大いにしてあるので、
言動にすごく気を遣わなきゃいけないとか、
いつどこがその人にとっての名言になってしまうのかっていうところが変わってしまうので、
責任をすごく負うのが大変だというところなのかな?
他人に対する責任を負うのがすごく過ぎるのでちょっと厳しいと。
無責任だと。
いうところなのかな。
結局そのフラットになれないところかな。
今話していて一つついているのは、
例えばじゃああっちゃんと僕が話していて普通じゃないけれども、
僕が先生であって生徒に話すのは普通であるっていうのはなぜかというと、
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そこに力の差というか。
上下関係。
確かに、上下関係。
だからあっちゃんに僕が何かを言われたとしてもそれは一意見で、
それをどういうふうに用意するかは僕次第ですよね。
なるのに対して、
あともう一つ離れることもできる。
人ってどうしても一緒にいると影響を受けてしまうっていうのがあるから、
今みたいにどうやって料理しようかと言いつつも、
一部無意識に影響を受けてしまう部分はあるけれども、
これは悪い影響だと判断した時点で、
じゃあもう会うのやめましょうっていうのができる関係。
そうだね。
では、というふうには先生はなり得ないので、
そういうところがすごく大変というか。
確かに先生を選べないですし、
先生も生徒を選べないっていうところはすごくあって、
もちろんクラスメイトも含めてそうだけど、
もう1年間固定メンバーになった時に嫌な思いをした場合に、
先生に変えてもらう力がなかったらどうしようもない、
転校するしかないっていう話ももしかしたら以前からあったのかもしれないよね。
そういった意味で、我々というか先生との違いとしては、
自分の自由意志に基づいて色々選択ができるっていうところで、
ひとつそれも先生が難しい要因なのかな。
僕自身の経験を言うと、僕は成績すごく悪かったんですね。
やりたくない勉強をする理由がわからなくて、
そこで飛行停止になって、1位とったら褒められるとか、
1位になったらかっこいいとか、
そこで動ける人間であればよかったけれども、
やりたくないと、どうしても、この宿題はやりたくないし、
このテストのために勉強したくないという、
強い意志のもと生きていたので、それは苦痛だったなと。
もっとたくさん楽しいことやるべきこともあると思うし、
しかしながらこれをやらなければいけないみたいな、
そういう環境はすごい苦痛だったなという経験から、
そういう考えになっているのかなと思う。
そういう考えもあるし、僕の場合だと、
やっぱり地方に住んでいるので、他の何か逃げ場がないというか、
学校と部活ぐらいしかないし、
新しく交流を得られる場所っていうのもないし、
そういった人生の先輩っていうのが周りにたくさんいる環境じゃなかったので、
勉強をすることでどうにかするしかなかったっていうのも一つあって、
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その時は勉強が楽しいと思えていた頃までは成績はよかったけれど、
勉強に対して難しいとか面白くないっていうところになってくると、
やっぱり成績が下がっていくっていうのはあったので、
そういった意味では、義務教育とか、いわゆる高校受験、大学受験のための勉強であったので、
今となってはもったいないことをしたかなというふうに思っています。
というのも、結局当時勉強をしていたけれど、受験勉強でしかなくて、
これが世の中のためにどう使われていて、
何のために役立っているのかっていうのをわからない状況で勉強をしていると、
使うわけでもないじゃん、その実践というか。
そういうのがなかったので、すごく当時は面白くなかったんですよね。
ただ一方で、例えば英語とか、
そういう実社会で使われているものをちゃんと実社会で使っていたりとか、
それを使って何かができるようになっていれば、
もう少し楽しく勉強できたのかなっていうのはすごく思いますね。
これはすごい未来に届けたい話というか、
そういう要素もすごいあるなと思っていて、
日本がすごく沈んだ時代の一つの教育の話を、
すごい箇所って話してしまったというか、
たぶん未来の教育の形が変わっているのであれば、
一体どういうことっていうふうになってしまっているのかっていう話し方ではあったんだけど、
決まったカリキュラムを決まった形の中で教育されて、
3ヶ月間とかで教科書通りに学んだことをテストで答案用紙に決まった答えを書くというところで成績が評価されて、
その成績がいい人が偉いというような社会が、
小中高かな。大学はわりと違うけれども、小中高の中で形成されているような時代でした。
その中でいろんな思いがあったっていうのを今まで語らせてもらったという感じだけど、
現代においてイスラエルの教育がわりと良いという話を聞いたことがあって、
イスラエルの教育っていうのはどういうふうな形になっているかというと、
小中高の段階からすごい自治のある教育になっている。
自治があるっていうのはどういうことかというと、
大学みたいな、現代における大学というか、
日本が学生運動とかが起こってたような時代の大学に近いような形なのかもしれないけれども、
何を学ぶかとか、そういうところを自分が提案する。
それは自分が周りに提案して、周りはそれを指示してもいいし、
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それ指示がどうかとか、別に民主主義なわけではないけれども、
例えば、俺ゲームめっちゃ好きだから、ゲームについてみんなに教えるわって言ったら、
それ聞きたいっていう人は聞いてもいいし、
自分はこんなことをやりましたっていうのを、自分の好きなことについてのレポートを先生に提出する。
たぶんそれって、先生自身がそこについての情報を知る必要はなくて、
先生もまた小学校の子が、今こんなゲームが流行ってるんですよっていうのを生徒から聞いて、
そこで深掘りしてコミュニケーションを取れば、十分にその子が頑張ったかどうかについても知ることができるし、
その分野は全然問わないっていう教育方針で、
実際にイスラエルってIT先進国になっているわけで、
やっぱりそういうところからオリジナリティというか、
小学校の時から社会人というか企業家やんな。
割と企業家のようなことを率先してしているような教育方法っていうのはすごく素晴らしいなと。
例えばゲームについて学んだことをそのままウェブメディアにしましたってなれば、
全然それでお金稼げるようなモデルになっていて、
一方で国語をやれって言われて、やったから何が埋めるんですかっていうのって、
もう次元が違うというか、全然やってるレイヤーが違う話だと思っていて、
とにかく自分で何でもいいからこれをやってみようっていうのをどんどん深掘りしていくっていうのが、
すごくいい教育だなって思うし、
日本もそうなっていってるんじゃないかな、3000年はと。
そうだね、そうなっていってほしいね。
どうしても道具を使うのを覚えるというか、
どうしても記憶力に頼るような形でテストをしてるっていうイメージがあるんだよね、まだ現代でも。
だからこそ自分のやりたいことというか、
目標をまず持ってそれに向かって、それで自分でリリースして調べていったりすることで、
道具は後からついてくる、スキルは後からついてくるっていうのになるので、
そういった方向に教育が展示してほしいというところですよね。
まとめると、卒業式の話を今回メインにしようと思っていて、
先生の話になりの最後は教育がこれから良くなってほしいよねっていう話にはなったんですけど、
卒業式を終えた時に僕はすごくいいなと思うことは、
やっぱり無事に卒業できてよかったなとか、ここにいてよかったなっていうふうに思える学生生活であったりとか、
今の生活を積み重ねてほしいなっていうのはすごく思っていて、
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ちょっとまたまとめに入ろうと思ったんだけど話が伸びちゃうのが、
僕大学の時にサークルに入ってたんですよ。
どちらかというと学際実行委員会みたいなサークルに入っていて、
3年生の学際が終わった後に卒業式があるんですね。
自分たちでちょっとした舞台作って卒業する3年生のメンバーが前に座って、
1年生、2年生がそれを聞くみたいな感じで卒業式があるんですけど、
僕は普段全然泣かないんですけど、
もうその時に先輩を送る側でもそうだし、
自分が卒業する側もそうなんですけどボロ泣きをしていて、
本当にもうおえつ出るくらい泣いていて、
卒業式が終わってしばらく外に泣いてたんですよ。
その時に何で泣いてたかというと、
すごく全力でいろいろやってたっていうところなんですよね。
先輩と仲が良くなくていろいろ大変だった思い出もあるし、
このサークルをこれからもいいものにするために
きれいにしなきゃいけないところを生産するっていう処理もあったし、
もちろんこのサークルに入って自分がやりたかったこともやりたいっていうところがあって、
サークルに入ってた当時の夏休みっていうのはほぼほぼサークルの仕事というか、
そういうのもやっていて、その当時は何やってたかというと、
雑誌編集とかもやってたよね。
そういったところでいろいろ自分で作ったりもあったし、
そういうことをやっていく中で大変だったこととかすごく頭にちらついたりとか、
今後自分たちがいなくなって後輩がうまくやっていけるのかとか、
自分が今まで頑張ってきた場所から育たなきゃいけないっていう悲しさみたいなのがあふれてきて、
泣いてしまったというところがあったんですけど、
逆に一方でやっぱり中学生とか高校生の時っていうのは、
部活は頑張ってたりはしましたけど、
なんかこう開放感とかそういうのもなくて、
ただ過ぎていく時間を進んでいくだけみたいな、
なんか区切りにならなかったんですね。
そこが終わると世界が変わるっていう感覚がなくて、
すごく他人事みたいな感覚だったんだよね、卒業式が。
そういった経験もあって、やっぱり今後も、
僕らは社会人になってからも、もしかしたら社会人サークルとか、
何かしら所属が変わるとか、
いろいろある中で卒業式があると思うんですけど、
その時に、やっぱり泣けとは言わないけれど、
卒業式無事に迎えられてよかったなというか、
後悔なくこれまで頑張ってこれたなって思えるように、
今を生きてほしいなって思いますね。
そうですね。なんか割とぐちゃぐちゃ教育がどうとか、
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そういう話をしたが、
多分それを変えるのは結局大人側の仕事というか、
作る側の仕事で、実際いざそこにいる方っていうのは、
ただただ全力で、
辛いことがあったらそれは気にせんでええよっていう風に
受け取ってほしくて、さっきの話は。
でも楽しいところは全力でね。
楽しいものは楽しいですから、
全力で頑張って楽しいっていうのもいいですよね。
そうあるべきだなって思います。
これから4月が来て、
新生活が始まる方もいるかなとは思うんですけども、
無事に新しい時間を過ごしていただいてという感じかな。
そんな感じですかね。
1つ目おめでとうございます。
おめでとうございます。
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