Ayo! by Genesia
皆さん、こんにちは。Genesia Ventures ジェネシアルパートナーの中事、鈴木貴弘です。
この番組では、プレスリリースなどのオフィシャルな情報の裏側に光を当てて、
企業家と投資家、それぞれの思いや葛藤をありのままにさらけ出します。
Ayo! はインドネシア語でCome on! Let's go! という意味、スタートアップのチャレンジをリアルにお届けしていきます。
私たちGenesia Venturesは、日本、インドネシア、ベトナム、インドの4カ国に拠点を構えるベンチャーキャピタリーです。
日本のスタートアップのみならず、アジア新興国の最新トレンドや、
現地で挑戦されている日本人企業家、スタートアップも取り上げていきたいと考えています。
本日、ゲストとしてお迎えするのは、インドネシアで事業を展開し業績を伸ばしている、
私たちの投資先でもある、ムーブステクノロジーの共同創業者で代表取締役を務めている、坂井たけとさんです。
こんにちは、坂井たけとです。今日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。今回は前編後編にわたる収録になっているんですけども、
前編となる今回は、まずは企業家としての坂井さん自身に迫っていきたいなというふうに考えていますので、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
まずは簡単にですね、ムーブステクノロジーとはどんな会社なのかというところと、
あと坂井さんがやられている仕事内容みたいなところを教えていただければなというふうに思いますので、お願いします。
はい、ありがとうございます。
そうですね、弊社はですね、インドネシアでモビリティレスとか、あるいは金融のインフラを構築する会社を目指しておりまして、
具体的には会社アプリであるグラブゴジェックになりたいドライバーさんに対してですね、車のファイナンスサービスを届けるようなことを行っております。
今私のロールなんですけれども、採用ですとか、あるいは資金調達であったり、最近ですと新規事業の仕込みなどを行っております。
ありがとうございます。確か2022年とかに私と出会ったのかなって記憶してるんですけども。
そうですね。
ちなみにそのグラブゴジェックってライドシェアで東南アジアとすごく一般的になっていて、日本だとまだね、どれぐらいインフラになってるかっていうちょっとイメージがつかない方もいるかなと思うので、
タクシーとかと比較だったりとか、なぜライドシェアがここまで伸びているのかみたいなのをさらっと話してもらえると理解が進むかなと思ったんですけど、どうでしょうか。
それでいきますとジャカルタ首都圏の人口が約3000万人いるんですけれども、本当に関東圏と同じぐらいなんですが、
ジャカルタの公共交通機関の分担率っていうのが25%ぐらいになってまして、東京で行くと60%ぐらいなので大きな差になっているんですけれども、
そういった中でやはり公共交通機関の代わりとなっているのがグラブゴジェックみたいなライドシェアになっておりますので、そういった意味では本当に日々皆様が生活する上ではなくてはならないようなサービスにはなっております。
そうですね。僕もグラブゴジェックもよく使ってますし、タクシーもね、昔はメータータクシーがなかったりとかした時代が2011年とかあったんで、すごく苦労したのを今でも思い出しますけど、やっぱりグラブゴジェックができたことによって生活がね、あと移動が格段に良くなったっていうのはすごく、
日本に住んでいると感じづらいところであるとは思うんですけど、かなりインフラとして成立しているところの、そこで働く方たちのサポートをしているのがMOOVSテクノロジーというような、そんな理解をしております。
実際に坂井さん、いきなり東南アジアで起業されてるっていうふうに思うんですけど、そもそも東南アジアに至った、アジア侵攻国に至ったっていうところの経緯みたいなところの、青年期から学生時代ってどんな形で過ごしていて、起業の道に進んでいったのかっていうところをぜひね、掘り下げていきたいなというふうに思うんですけども、実際どんな少年時代だったのかみたいなところをお聞かせいただいてもよろしいでしょうか。
坂井 正直、ずっと野球をやってきたので、青年期がどうだったみたいな話ではないんですけれども、将来的な夢といいますか、みたいなところでいくと、当時は政治家になって日本を変えていきたい、社会を良くしていきたいみたいなところがありましたので、そうしたら企業っていうよりはソフトサイドで、何かしら自分で旗を掲げてやっていきたいなというふうには考えておりました。
そもそもなんで政治家になってみたいなっていうふうに思ったんですか。
坂井 もともとですね、私が中学生時代に、私の中学校が熊本県なんですけれども、税金を学ぶ指定校みたいなものに選ばれまして、そこで色々と社会構造みたいなものを勉強させてもらって、そこで格差ですとか、そういったところで苦労してらっしゃる方がいらっしゃるということで、そういった発表をしたときにアナウンサーの方から、君みたいな人が将来政治家になってくれると世の中変わるのにね、良くなるのにね、みたいなことを言っていただいて。
たしかにそういった職業であれば、世の中の人を救っていけるなですとか、社会より良くしていけるなっていうふうに思いまして、政治家を目指しました。
なるほど、指定校ってすごい特殊な指定校だなっていうふうに聞いてて思ったんですけど。なんかまあ、社会課題っていうとちょっとね、中学生の時ってそこまで考えてないことのほうが、僕自身もそうなんですけど。
坂井 そうです、確かに。
あれですけど、なんか大きく世の中に興味があったりとか、なんかそういうのってあったんですか。
たしかに、具体的にっていうわけではないんですけれども、結構身の回りのものに対して課題感を感じると言いますか、これってもっと良くなるといいのになーみたいなことは日々思うような学生というか、青年期だったかなっていうふうには。
なるほど。
たしかに、振り返るとそういうふうには思ってます。
なるほど。ずっと野球をし続けられていて、少しそういったきっかけがあって、政治っていうところにもぼんやりと興味があったっていう話だと思うんですけど。
今は企業家として、代表取締役として組織をリードされてたりとか、政治家に関しても世の中を地域をリードしていくっていう役割だと思うんですけど、学生時代とかってリーダータイプの学生だったのかとか、どういう学生だったんですか。
そうですね、まさにそういった何かしらのリーダーを任される機会っていうのは多くてですね、例えば中学校で行きますと野球部のキャプテンしながら生徒会長をやったりですとか、あるいは小学校の頃も児童会会長みたいなことをやっていたりしたので、何かしらそういった形でリーダーを任されやすいような機質みたいなところはあったのかなと思っています。
なるほど、リーダー任されるって言ってもやりたくないとやんないじゃないですか。僕は基本的にリーダーできればやりたくないってタイプの学生だったんですけど、その辺って興味があったりとかしたんですか。
チームを束ねてみんなで一緒にやっていって、何か成し遂げた時にそれを一緒に喜びを分かち合いたいみたいなところが一つモチベーションとしてはあったので、僕はそこを嫌うというよりは自分自身がやっていってみんなをよりまとめ上げてやっていくことが一番最適解なのかなっていうふうには当時思ってましたね。
逆に鈴木さん、幼少期とかはどんな感じだったんですか。
とにかく多数決とかそういうのが大嫌いな学生でした。大して考えてもいない中でみんなが手を挙げるより、例えば学芸会何かやるって言っても、一番思いを持っている複数の集団、熱を持ってやってる人たちにフォローした方が絶対いいじゃないですか。
なんだけど、大部分がちょっとそれは難しくないみたいな感じの空気出て、却下されるみたいな横目で見ている中で、民主主義的ではあるものの違和感を感じるみたいな、変わった学生ではありましたね。
なるほど。じゃあ、あんまり鈴木さんとかはリーダーとかを自分から率先するタイプではなかったみたいな感じなんですか。
鈴木 率先するタイプではなかったんですけど、そうやって思いを持っている友人たちグループがこういうのをやりたいってところを率先してフォロワーシップを持って盛り上げるみたいなのはやってるタイプで。
なるほど。そんな中で、なんで日本からスタートするではなくて、あえて東南アジアで起業しようっていうふうに考えていかれたんですか。
そもそもなぜ海外なのかっていうところと、あとはなぜ東南アジア、インドネシアだったのかっていうところで2つ順を追ってご説明できればと思うんですが、そもそも海外っていうところでいきますと、ちっちゃい頃からずっと海外で何かやりたいなみたいなところはありまして、
例えば山崎豊子さんの雲地帯ですとか、あるいは柴良太郎さんの坂の上の雲であったり龍馬が行くみたいなものを読んで、やっぱり何かしら成し遂げていくために日本というところから出て海外で新しいものを生み出していくですとか、みたいな文脈っていうところには非常に敷かれているものがありまして、なので最終的には海外でやっていきたいなっていうところと、
あとは新卒で入社した会社でインドネシアに行かせてもらう機会があって、やはり新興国の熱気ですとか、あるいはインドネシアの方々のポジティブさであったり優しさみたいなところに惹かれて、自分自身将来的にはこういったところで事業をやっていきたいなっていうふうに思ってインドネシアを選びました。
はい、ありがとうございます。確かに。
熱はすごいですよね。
逆に鈴木さんは何でインドネシアに辿り着いたんですか。
私、2011年から前職サイバーエージェントの投資部門でインドネシアに赴任しているので、今年で15年目なんですけど。
すごいっすね。
当時で言うと、正直インドネシアは行ったことがない国だったんですよね。
行ったこともない国に突然赴任することになったんですけど、もちろん自分から希望して赴任をしたんですけど、もともと学生時代にサンボジアとかベトナムの支援をしていて、2004年とかから大学2年生から通ってたんですよね、あっちに。
それで将来的にアジア新興国、どちらかというとNGOとかでインターンさせてもらってたので、
ビジネスビジネスというよりは社会課題に寄り添いたいみたいな思いが結構強めの学生だったんですけど、
その中でNGOの草の根の活動ももちろん重要なので、そこの支援というのも重要だと思って、今も思っているんですけど、
私自身で言うと、より大きく社会の仕組みを変える側に回ったほうが自分の特性に合うんじゃないかみたいなふうに思って、
企業家になって大成功してみたいな。それで資金も得て、ネットワークだったりとかビジネスノウハウとかも経て、またそういった社会課題に還元していくみたいな。
そんな大人になりたいみたいなのがざくっとあって、当時は。
企業するにはいろんな事業を立ち上げられる会社に行って、サイバーエージェント行ってたんですけど、そういうのもあって、
当時、藤田進社長だったりとか、あと当時の僕の上長であって、今副社長で藤田さんと一緒に共同創業されている日高さんが上司だったんで、
私がアジア新興国に興味があるっていうのはずっと知っていたっていうのがあったので、一回退職をほのめかす相談をしに行ったら、
いや、そんなの今やめるぐらいだったら東南アジアでファンド作ったりするみたいだから、投資部門で行けばいいじゃないかみたいな感じでインドネシアに行ったっていうのが聞いてます。
そうなんです。でも、鈴木さんの場合、新興国に関心があったのは、どういった時にヒンセンに触れてみたいな感じだったんですか。
鈴木 まあなんかシンプルに言うと、あんまり興味がもともとはなかったというか、ずっと私もサッカーだったりとか、大学1年生の時ラクロス部だったりってところで、体育会だったんですよね。
小中高とか家族は旅行行ってるけど、僕はサッカーの遠征でサッカーしかやってないみたいな感じだったので、あんまりスポーツ以外のこと見てこなかったっていうのがあって。
とはいえ、ニュースとかそういうのは、あとドキュメンタリーとか見るの好きだったんで、ゴミ山で生活しているフィリピンのドキュメンタリーとか、そういうのは結構見ていて、
こういう世界もあるんだみたいなのをざくっと中高生の時に感じていたっていうのは下地としてはあったんですけど、いざ部活ばっかりやってる自分に疑問を初めて感じたので、ちょっとやめようと思ってやめたのが大学1年生の頭で。
それで、やめてみたものの、結局部活以外やることないっていうか、要は趣味も持ってなかったので、どうしようってなってた時にきっかけがあって、父の知人から紹介を受けて、ベトナムの個人院に2週間くらい滞在させてもらう機会があったんですよね。
そこで、昔テレビとか、あとは世界史の近現代史とかで見ていた、新興国の貧困課題みたいなのとか、そういうのを肌で感じた時に、同じ空の下で同じ人間なのにっていうところと、あとは僕自身すごく恵まれてるなみたいなのに気づいて、そこが気づかされたのはアジア新興国だったので、
気づかされたってことは、アジア新興国の人たちのために何かやったほうがいいなっていうふうに思うようになっていって、今になるみたいなそんな感じです。
そこででも、お相様のつながりでベトナムに行けるっていうのもすごいことですよね。
そうですね。そこはたまたま運が良かったっていうのはあるかなと思うので。運を拾い続けてたら、15年もインドネシアにいることになってしまってるっていうとこが思いがありますけど、いたくているのであれですけど。
すごいな。私たちはまだまだインドネシアに来て4年ぐらいなので、鈴木さんと同じぐらいしっかりと長く張っていけるように頑張っていきたいと思います。