ギャップトマッチ。年齢も性格も趣味も異なる石玉と和音の2人が、日常のあちこちからギャップや共通点を見つけ出す番組です。
というわけで、10月18日、25日、26日に糸島市で行われる野木口のプレイベントということで、
美しさと可愛さ、そしてそれを求める心の自由というテーマで公開収録していきたいと思います。第2本目、よろしくお願いします。
はい、ありがとうございました。
1本目の野木口とはというのをちょっと簡単にお話ししたんですけど、ここからですよ。
そうですよ。1本目。
なんかちょっと謎の緊張して私、あんまり突っ込みができませんでした。
会場の皆さんしかわからないけど、ちょっと席を入れ替えてみて、ちょっと調子が良くなるんじゃないかと思いますけど、いいですか、早速。
行きましょう、行きましょう、早速。すごい落ち着いてきました。
なんで皆さんに集まってもらったかというと、美しさについて話そうということなんですけど、いきなり聞いていいですか、ケンジさんに。
会場の皆さん、普段何かを見て美しいなって感じること多いですか。
結構うなずいてる。
結構うなずいてますね。でも多分ね、何を見て美しいと感じるかとか、この美しいの感覚って多分ね、それぞれ違うんじゃないかと思うんですけど、
まずちょっと日々と花のお二人に、お二人が思う美しいって、どういう時に思うとか聞きたい。いいですか、ケンジさんから。
はい。花を育ててますから、当然花を見て美しいと思うんですけど、どのタイミングで美しいと思ってるかっていうのが。
タイミング。
やっぱり咲くときってまず美しいなと思います。
花びらにどんどんどんどん水が供給されてて、開き切って満ちてるような、今、盛りですみたいな状態はもちろん美しい。
それが今度、しぼみ始める。その瞬間にも美しさがあると思うんですね。
で、なんかちょっと変化球的な答えになっちゃうんですけど、変化してるところが美しいんじゃないかなって最近思うようになってきたんです。
で、ちょっと前までは、美しいものが好きなはずなのに美しいものをちゃんと見れてないなって思ってたんですよ。
それはなんかこう、大人恐怖症の大物、大美恐怖症版みたいな感じで、本当に好きな憧れるものをなんかちゃんと見る勇気がないっていうか、そんなことかなと思ってたんですよね。
見たつもりでも、次の瞬間もう忘れてる。あれ見たかなみたいなね。
でもよくよく、最近またずっとそのこと考えてたら、変化していくから、覚えてなくていいのかなという。
開き直りじゃなくて、なんとなくそうなんじゃないかなと、今の私は思うようになってます。
確かに美しさのピークみたいなのがあって、ここを見なきゃいけないみたいな何かがあるんじゃなくて、
常々変化していくそれぞれが美しいし、ここを覚えとかなきゃいけないみたいな、これ見逃したらダメだがあるわけじゃないと思うようになった。
なんか今の話を聞いて、ちょっと思い出したことがあって、私、美しすぎて記憶に残ってないっていうことがあるんですよ。かつて、過去に。
なんかその、私のことよくご存知じゃないですか。かずねもさとみさんもけんじさんも。
私、ほら結構かなりじっくり見ちゃう。その対象を。なのですごく見てるはずなのに、後から思い出すと、
なんか美しすぎるのか眩しすぎるのか、ちゃんと見れてなかったみたいな感じで、記憶にそれが残ってない、あんまりみたいなことが起きたことがあって。
さっきのけんじさんが言ってた美しいものっていうのを直視するっていうのが、ちょっとあれだなみたいな感じなのと、
イコールじゃないかもしれないけど、美しさみたいなものってちょっとそういうところあるなっていうのと、
あとやっぱりその美しさもやっぱりすごく多面体で、そういうけんじさんが言ってたみたいなところと、
今みたいなそのもの、美しさっていうもの自体が固定されないみたいなことって、すごい両立するのかもみたいなことを今話し聞いてて、すごい思いました。
固定されないっていうのを聞いて、たぶん時間とともに変化しますよね。
時間で微分するっていうんですかね、この瞬間っていうところで美しさっていうのを捉えられるのかなと思うんですけど、それは常に変化していく。
自分が思ったその美しさは、隣の人はまた別のものを見ている、みたいなね。
その多層性というか、世界の広がりみたいな、そんなものも野木久市のお店のつらなりにつながっているのかな、さっき話した話にちょっと追加したいなと今思いましたね。
私が野木久市を、ある意味こういう携帯で色々やっているものの中でも結構最先端の部類に入るかもって、
去年も結構ずっと言ってて、主催の2人は巨頓みたいな感じをずっとしているにもかかわらず何回も言ってるみたいな状態になったんですけど、
本当に今ケンジさんが言ったようなことが、私はやっぱりすごい美しいと思うし、これは今の時代のマジで、やっぱり1年経っても最先端だと思うわ、すごい。
さとみさんにも聞いていいですか。さとみさんはですね、今日1個考えてきてくれたことがあるって言ってて。
野木久市のコンセプトに美しさと可愛さってあるじゃないですか。
美しいだけじゃなくて可愛さって言葉も入ってて、この2つは両方多分必要な言葉で、多分違う意味なんだと思うんですけど、
ちょっと考えてきてくれたんですよね。美しさと可愛さの違いって何だろう。聞きたい。
その話の出番はないんじゃないかって言われたから。
はい、出番きました。
忘れてたのに。
これを話すことはないと思ってたので。
私、可愛いって畑で花を見てて、美しいっていう言葉はなかなか出なくて、
可愛いってなんか口から出るな、心になるなって思って。
でも、美しい、綺麗、綺麗だなって思うのは、
えーっと、もう忘れちゃったな。
思わず出てくるのは可愛いが多い。
えーっと、可愛い。
なんだったっけな、可愛い。
思い出させちゃってるって。
ちなみにね、これけんじさんにも前聞いたんですよね。
思い出したらぜひ言ってください。けんじさんとしてはどうですか。美しいと可愛いどっちも入れてますけど。
僕は、可愛いは、なんかちょっと本能に突き動かされてる部分が大きいのかなと思う。
僕の中の可愛いはですね、やはりちょっとちっちゃなもの。
人間で言えば子供とか、あと小動物とかですね。
猫とか。
思わず可愛いって。
これはなんかその、やっぱり本能的に人間、その生まれ落ちて、そのままもう一人で生きていくトカゲとは違うんですね。
やっぱり育てて。
トカゲはたくましいですね。
ある程度大きくしてあげるっていうところの、本能に基づく部分がやっぱり可愛いっていうこの感情にはあるんではないかなというふうに思ったりしていますね。
なんか守ってあげなきゃいけない存在みたいな。
なんか本能的に可愛いって感じ。
で、その一方で美しいって思う気持ちっていうのは、その美しいって思う仕組みはもう本能的に持ってるんだけど、
何を美しいって思うかは、割と生まれてから学習して身につけていく部分が割と大きいんじゃないかなというふうに思ったりもしていますね。
これが美しいんだよっていう情報をいっぱい持ってるから、何かときにこれって美しいやつだって認識してるんじゃないか。
どうですか石田さん。
これすごく最近私自分なりの美しいのを、
考えた?
考えがちょっと明確になったばっかりで、
で、けんじさんが言ってた可愛いがものすごくその、我々がその生き抜いていくこの体の仕組みの中でっていうときにすごく重要だっていうのをすごくわかるんですよ。
なんか思い出したっぽいぞこれ。思い出したっぽい。
思い出したっぽいよね。
え、もうよくない?この話。
続けてください。
聞こうよ。
いやいや、そんな。
そんな。
じゃ、先にしゃべったほうがいいかな。
うん、そうしよう。
絶対しゃべってる間に忘れる気がするもんな。
忘れないうちにいきましょう。
一言、美しいは、えっと、
忘れた?今?
美しいはなんか、えっと、なんかジワーンってくる。
感動する。
可愛いはワクワクする。
だと思った。のを今思い出しました。
ワクワクとジワーってくる感じ。
感動する。
ジワーはもうちょっと深掘りしてもいいんですか?
わかんない。
はい、どうぞ。
忘れました。
ごめん。
いや、ごめんくないごめんくない。
いやーね、でもなんかその、美しいはジワーン、可愛いはワクワク。
重ねはどうなんですか?
ありがとうございます。
私も考えてきたんですよ、実は。
友達と車に乗って運転してたんですね。
糸島市、ちょっとローカルな話になっちゃうんですけど、
高速道路の下を確か運転してたんですよ。
夕方だったんですね。
コフジって言われてる、通称コフジって言われてる山があるんですけど、
夕方、高速道路ぐらいの距離から見る、ちょっとちっちゃく見えたコフジを私、咄嗟に
見て、可愛いって言ったんですよ、友達に。
その友達結構都会生まれの子で、
あ、かずねちゃんって山見て可愛いって思うやーって言われた時に、
あ、そうか、これみんなじゃないんだって気づいたんですね。
私結構、でもこれもしかして学習してる可能性はあって、
子供の時私、熊本の麻生によく行ってたんで、山ってすごい身近な存在なんですよ。
子供の時に山に行って、山に滝があったんですよね。
夏休みの宿題で詩を書かなきゃいけなくて、
滝に会いに行ったよっていうタイトルの詩を書いたんですよ。
その時に明確に滝を擬人化したっていう思い出が私あるんですね。
で、山に対しても擬人化するっていうのをそこで一回経験してるから、
可愛いって思う。で、海は馴染みがないんですよ。
そこは経験の差で、海見てても、
いやちょっとかなわんなーみたいな気持ちになるんですよ、海って。
綺麗とか美しいとか可愛いっていうよりかなわんなっていう感じなんですけど、
海見てパッて帰ろうって振り返った時に、そっちに山があることがあって、
山を見ると、優しいって思うんですよね。
この感覚は何だろう。
親がそもそも山に連れて行っていたっていうこと自体が、
山はいいものなんだって学習してる可能性はあるし、
身近だから山に対しては可愛いと感じるのかもっていうのは思ってる。
生まれた場所です。
あなたが生まれて育った場所、山に囲まれてるでしょ。
そうなんですよ。
今私みんなの話聞いてて、やっぱ可愛いと美しいは距離が違うなってすごく思った。
可愛いはもっとすごく近い。本当に触ったりできる。
結構手触りとかテクスチャとか温度とか、そういう感じがすごくつきまとうけど、
美しいはすごく遠くて全く触れなくても感じることができる。
すごいね、会場の皆さんが天を仰いでますね。
みんなどっちの意味だろう、今のその天を仰いでるかわかんねーな。
考えてる感じでした。
だなーって今ちょっと話聞きながら思った。
原風景っていう言葉がありますよね。
原風景。
なので、かずねさんの話聞いてて、海よりか山がかずねさんの中で心にすごく住みついてるというか、
住みついてる。
なんか違いますね。
さっきの本能とか、好天的に学習したもののバランスの話になるんですけど、
人っていろんな感情とか体の反応すべてが自分自身のこの個体を生かすためでもあるし、
やっぱり種として続いていくためのものでもある。同時にね。
本来は私たち人間が生きたら周りの生き物も共に生きられるような
生態系の中での一つの役割を果たす存在だと思ってるんですね。
それを続けられるための心身の反応っていうのが本来はあるんじゃないかなというふうに思っていまして。
めっちゃわかる。
原風景を美しいと思うってことは、つまり守ろうっていう気持ちにもつながるかなと思うんです。
それを守ることで私も生きられる。人間という種も生きられる。
私が含まれる生態系もそのまま続いていく可能性が高まるみたいな。
そんなところのバランスがあるのかなと思います。
種を残していくために美しいと感じる心が必要なんじゃないか。
美しいと感じることができたら守ろうにつながるっていう。
大きな意味で私がさっき自分の中で答えが出たかもって思ってる美しいとケンジさんが言ってくれたことがかなり近くて。
結局私たちが、私っていう個体がここにいるっていう段階で
その脈々としてずっと続いてきた私に連なってきた人々っていうのがたくさんいて、
その人たちも同じようにこの世界の上で生きてきてるわけじゃないですか。
彼らの記憶もやっぱりこの体の中には全部入っていて、
私たちが美しいと思ってる瞬間とかって全部それを使ってるように私はいつも思うんですよね。
本当にこの夕日を見てこんなに美しい、何百回見てもこんなに美しいって思うっていうこの美しいが、
なんか自分のこの体一個とか生まれ落ちてからの時間だけっていう感じが全然しないんですよ。
あまりにも量が多くて。
なんか体いっぱいにっていうかもう本当に何なら毛穴からしみ出ちゃう、はみ出しちゃうぐらい美しいと思う。
でやっぱりその美しいっていうのがどこから来てるかって言ったら、
なんかやっぱりその続いていくこととか、
命がこう、やっぱり続いていくこととすごく深いとこで繋がってて、
私たちは美しいっていう感覚を作った気がすごいするんですよ。
石玉さんはですね、洗濯物が風に揺れてるのを見て美しいって。
日常でいっぱい思ってますもんね。
洗濯物をしたこともありますよね。
なんで声が小さくなるんですかね。
さとみさんどうですか?
美しいでも可愛いでも。
可愛いはよくあるって言ってましたけど、
例えばどういう時に思ってるんですか?
美しい。
美しいでも可愛いでも。
私空が好きなので、空とか月とか見て、
あー綺麗だなーって思うこと多いなーって思います。
確かに月って可愛いってならないですね。
綺麗だなーですね。
さとみさんの綺麗と私の美しいはちょっと違います。
声がね、ちっちゃいんだよな。
私に合わせてる?
さとみさんの綺麗の使い方と、
自分の美しいの使い方がちょっと似てるなーって話を聞きながら思ってる。
畑のことで言うと、花は可愛いで、
花のとこに朝露とかあると綺麗だなーってなるなーって。
わかる。
さっきの洗濯物じゃないけど、
風にこうなんかなびいてる全体の様子は綺麗だなーとか。
わかる。
すごい会場の皆さんもめっちゃうなずいてる。
風はじゃあ美しいと結構関係があるんですかね。
なんでしょうね。
なんかやっぱり、これはもう違えよって言われるかもしれない個人的な感覚ではあるけど、
やっぱり私たちっていうものたちが、
いかに自然の中にいたかの話なんだろうなってすごく思うんです。
めっちゃ綺麗にうなずいてる。
うなずいてますね。
だからやっぱそのいかに自然の中にいた時間が長くて、
それが私たちの体の中に入ってるか。
だからその風が吹くとか、夕凪がとか、
雨が降るとかみたいなものも、
例えばたった今どこかに行かないといけないのに雨が降ってみたいなところを全く置いていられるときって、
だいたい、
だいたいその、
なんていうんだろう、雨もすごく美しく見えることが多い気がするんですよ。
そうね。
だからやっぱりその、
それこそ命をつないでいくとか、
みたいなことを運び込んでくれる物事全てに、
本当は美しさを感じてるんじゃないかなって気がする。
なんか私結構石沢さんのキャップがあって、
私結構学習してる感覚があるんですね。
これって美しいんだってふと知るみたいな時があって、
今雨の話ありましたけど、
私雨の日そんな好きじゃなかったんですよ。
でもある時友達が、私雨が好きなんだよねって言ったんですね。
なんでって聞いたら、雨が降った翌日すごい空気が綺麗だと。
だから雨は世界を洗ってくれてる感じがするって言ったんですよ。
それを聞いた後から雨を見たり、雨の翌日、雨が止んだ日を見たときに、
なんか気持ちいいなって思うようになって、
人は変わっていくんだと思うんですよね。
さっきの話にまた戻りますけど、
その瞬間の和音さんはそれをそうだって思う。
この夜雨がある状態って言ってもいいんでしょうか。
何か人ってそうなのか。
でも一方でその変化していくところも受け入れられるというのが同時にあって、
やっぱりまた生きていけるみたいなところがあって。
で、そのときに雨が降った時に、
雨が降った時に、
雨が降った時に、
雨が降った時に、
雨が降った時に、
生きていけるみたいなところがあって。
で、そのと同時に石玉さんがさっきから話してくれたような、
人類として持っているようなものですかね。
ずっと上の世代からつながっているものもきっとどっかにある。
ただ現代人としては、
それが表に出にくいような状態に置かれている部分もあるのかなというふうにも思ったりもしますね。
表に出にくいっていうのは、
私ってこういうものを美しいと感じるんだなっていうのを味わう機会が少ない。