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2025-07-23 09:33

医療において正しい判断は可能なのか?「医療とは何か」行岡哲男著の本を読んで

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サマリー

医療における正しい判断の可能性について、行岡哲男の「医療とは何か」という本を基に探究しています。医療者としての立場と患者としての立場からの視点を交え、正しい判断がいかに難しいかを議論しています。

医療の正しい判断とは
はい、どうもゆうとです。今回はですね、医療において正しい判断はできるのかというテーマで 喋ってみようかなと思うんですけども
ちょっと最近読んでいる本から学んだことというか、そこからですね、ちょっと考えながら喋るので いろいろ言ったり来たりするかもしれないですけども
ちょっと頭の整理にお付き合いいただくというかね、そんな感じで配信していこうかなと思うんですが
自分はですね、理学療法士とアスリティックトレーナーという資格を持っていて、もともと整形外科の病院で働いていた経験もありますし
それ以外でもですね、身体の不調のある人と関わるとか、そういう経験はしてきたんですけども
最近読んでいる本でですね、雪岡哲夫さんという救急医療の専門家というかお医者さんが書かれている医療とは何かっていう本があってですね
これがなかなか深い話というか、ちょっと難しいところではあるんですけども
最近自分が考えていることとか、これまで感じてきたことを結構言語化されている本だなということを思ったんで、ちょっと取り上げて喋ってみようかなと思いますが
やっぱりですね、自分も病院に例えば患者さんという立場で行ったりとかすると、何かしらはっきり診断をつけてもらって
薬を処方してもらうなりとか、治療してもらって、すっきり解決したいというのはあるかなと思うんですけども
逆に医療者の立場からするとですね、やっぱり目の前の人に対して正しい判断というのができるのかというと
結構難しいなぁという感じる場面もあるんですよね
その本の今回の取り上げた本の中でも、医療における正しい判断は不可能であるというか、そういう言い方をしていて
ただ、減少学という考え方をちょっと元にすると、正しいと確信する判断はできるみたいな言い方
ちょっと回りくどい言い方なんですけど、そういうふうに言われたりするんですよね
ここでですね、何か病気とか疾患とか、例に挙げて考えていくと
例えば風邪をひいてますとか、インフルエンザですとか、そういうところの判断をして治療を施すみたいなことっていうのは
例えばそういう病院で行われるかなと思うんですけど、例えばこういう内科的な疾患というのは
風邪って一言言っても、いろんな菌とかウイルスが関わってくる
単一のこれっていうパターンもあれば、やっぱりいろいろ混ざってくることもあるかなと思うんで
医療者側からするとですね、確実にこれが病気の原因だから、こう対処するっていうのはなかなか難しいこともあるかなと思うんですよね
自分の場合だと理学療法士とかという立場だと、腰痛のある人とかに関わったりすることもあるんですけど
この腰痛っていうのは一言とっても、いろんな原因があったりとか混ざっている場合があって
あなたの腰痛っていうのはこれが原因で、これをこういう運動したら治りますよって
クライアントというか受け手側はそういうものを求めることもあるかなと思うんですけど
こちら側からするとですね、どうしても確立論になっちゃうというか
いろんなエビデンスとか研究で言われているものはあるし
これは正しそうなんだけど、やってみてもらって効果が出れば正しかったっていう判断ですし
そうじゃなかったらやっぱり元々違う原因も考えられるから、じゃあこれをしましょうみたいな
こういう感じなんですよね
なので、例えば何か不調がある時とかに病院にかかったりして
その医者から正しい判断がもしされなかったとしても、あんまり責めないでほしいかなというか
もちろんですね、その時考える最善の策は講じるとは思うんですけど
100%っていうのはなくて、あくまでその時の判断は後付けで見ると正しかったというか過去形になるかなと思うんで
その何か疾患があった時とか不調がある時に、そういう専門家にかかった時に正しい判断がされるかどうかっていうのは100%じゃないっていう感じですね
減少学の視点
そこでまた正しいと確信できる判断はできるみたいな、この言い方がちょっと難しいところなんですけど
これはその減少学っていう考え方にのっとっていて、この減少学を説明するのも結構難しいところはあるんでなんですけど
例えばですね、よくある説明だとリンゴっていうのがありますと
一般的にはですね、この客観的にそのリンゴっていうのが存在していて、それが人がその認知してそこにリンゴがあるよねっていうのを理解するというか
そういう流れが一般的な認識っていうふうに考えるんですけど
逆に減少学的な認識の仕方っていうのは、その客観的にそのリンゴがあるからっていうよりは
人側がですね、主観的に見えちゃってるっていうか、その赤くてツヤツヤした硬そうな美味しそうなものが見えてるからそこにリンゴがあるっていう
逆の発想というかですね、主体と客体みたいな言い方もするんですけど
どっちかというと客観的なものがあるからそれを認識するっていうよりは
自分としては主観的にそれを確信を持ってそこにあると思ってるから存在するっていうかですかね
そういう見方をするっていう感じで
この病気みたいなものも客観的にこういう菌がいるとかウイルスがあるとか例えば骨が折れてるとか全部それもそうですけど
骨が折れてるとかは結構わかりやすいんですけどね
特にそういう内科的なものとかさっきの腰痛とかなかなか目に見えないものっていうのは客観的にどんな検査をしても
これが原因って見えないものがやっぱりあるんですよね
そういう時には主観的にですね、患者さんとかが不調を訴えているとか痛みを感じているみたいなところとか
より深く話をしていく中で普段こういう仕事をしているとか生活をしているとか
体の状況としてこういう硬さがあるとかですね
最近こういうところに出かけていったとかいろんな情報を集めていった中で
その客観的な例えば血液の数値のデータとかレントゲンとかCTとか
こういう客観的な情報とその主観的なストーリーというかですね
そういう話を聞く中でやっぱりこれはどう考えていっても今これが原因となっている可能性が高いみたいな
そういう正しいと確信する判断みたいなところまではできるんじゃないかなと
とはいえですねやっぱりそれが100%正しいかというとそうじゃなくて
その実際に何か治療とかを施した後に後付けでですね
効果があればそれが正しかったという形ですし
またその正しいと確信する判断みたいなところっていうのが
他の医療者とかですねスタッフとかとディスカッションしたりとか
多職種連携で医療が行われたりするっていうのもあるんですけど
そこでしっかり話し合った上でとかその患者さんとかとも話し合う中で
やっぱりこれが今の現状が正しいよねみたいなところが
みんなで合意が取れるとですねまあいい形で治療が進んでいくみたいなところがあったりするので
現実ですねこう何でしょう他社の体に対する治療とか関わり方をするっていうのは
正しい判断というのは結構難しくてですね
その正しいと確信する判断みたいなところまで突き詰めて考えていくのが必要だよね
言語ゲームと医療
みたいなことがその医療とは何かっていう本に書いてあったりしますね
これをもうちょっとまた深めていくとその言語ゲームとかっていう考え方があって
まあウィトゲンシュタインとかっていう哲学者ですかねが考えたというか
そのあたりから出てきている概念なんですけど
言語を通してやり取りする中でその正しいと確信する判断みたいなところに
うまく近づけていくときにそういう言語ゲームみたいな考え方もあるというところで
なかなかちょっとわけのわからないような話になるかもしれないですけど
まあやっぱり自分はこうセラピストとしていろんな方に関わったりとかしていってるんですけど
やっぱり全ての不調が自分の判断でなかなかよくできるとは全く思ってないですし
まあ専門性によっても違うと思いますし
また家族間とかですね身近な人の中でやり取りする中で何かケアが行われるみたいなこともあるかなと思うんで
こういう医療に関することとか健康に関する情報のやり取りというか何を信じるかみたいなところっていうのは
今後もちょっともうちょっと考えていきたいなと思いますし
結構何を信じるかみたいなところも結構時代によって変遷があるかなと思うんでね
こういう健康感の変遷とかどういう情報を信じる人が多くて
どういう科学的な考え方が浸透していってみたいな
こういうちょっと歴史的なところとかも考えていきたいなと思っているので
今回はまあちょっとそういうちょっと問い出しというかですかね
自分の今の頭の整理がてら
さっき読んでいる本をもとに喋ってみました
以上です
ありがとうございます
09:33

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