バランスの考察
はい、どうもゆうとです。今回はですね、身体における部分と全体のバランスをどう考えるかというテーマで話してみようかなと思うんですけども
これはですね、多分自分の中ではずっと考えているテーマで、多分まあここが本質というか、まあ人と関わったりとか
なんか情報発信したりとか、まあどれにあっても当てはまるようなところなんですけど、まあ多分大事なところではないかなと思ってるんで、喋ってみようかなというところなんですけど
例えばですね、身体における部分の話で言うと、まあ自分は高齢学療法師とかアスリティックトレーナーとかそういう仕事をしているわけなんで、腰が痛いですとかですね
肩こりがありますとか、まあスポーツをやっている時に膝が痛いですとか、まあこういう部分における何か問題があった時にどう対処するかみたいなところっていうのは
まあ体系的に理論とかもあったりして、まあそれによって改善するようなことももちろんあるんですけど、だからまあ西洋医学的な考え方はどっちかというと
こう部分に最適な状況を考えるみたいなところがありますが、ただですねやっぱり一人の人として見た時に、例えばですねその腰が痛い原因というのが、まあその腰だけじゃなくて他のところにあったりとか
これによって生活全体にどういう影響があるのかとかですね、そもそもまた痛いみたいなところっていうのはその部分だけじゃなくて、やっぱりメンタルとか
インドというかですね、その人の考え方とか全てが繋がりあって、一旦そこに症状が出てるみたいな感じもあったりするんで、やっぱり全体のことも考える必要があるよねっていうようなところもあって
こういうのがどっちかというと、なんですかね、東洋医学的な考え方で、まあこの部分と全体をどう考えていくかっていうのは常に試行錯誤しているところではあるんですよね
自分は理学療法士という資格を取ってから、整形医科とか病院で非常勤勤務してた時もあるんですけど、やっぱりこう西洋医学的なこういうところだと、例えば画像でレントゲンとかマーライとかを取って
診断がついて、どこか痛いって言ったらそこに対する治療を施すみたいなことが行われていて、ここはやっぱり西洋医学的な考え方
別の言い方をすると、科学的な考え方というところですかね、何か評価をして、それに対する推論をして実際に実行して、実行するにあたっても
科学的に検証された、比較的正しいであろうというものを取り上げつつ、その個人の個性みたいなところも反映して意思決定するわけですけど、これはかなり科学的で
西洋医学的な考え方、また時間に限定も限界もある中で最適な効果を出そうと思うと、自ずとこうするしかないというかですかね
だからセラピストとしては、できれば本当にその人の生い立ちから、今どういう生活をしていて、どういう人間関係があってとか
可能な限り周りの状況も理解した上で、じゃあこれがいいかなっていうのを決めたいのはあるんですけど
そういう病院とか西洋医学的な限界として、そういうやり方になっているので、そこはやっぱり科学的な考え方が合うかなというところなんですけど
今現在で言えばですね、結構その地域の中で必要な時に必要な分だけ関わるみたいなところを取ってたり
前回の話でもあったんですけどね、コミュニティ的な感じで普段から気軽な会話をするとか
地域社会への影響
雑談をするとか、その中で自然とですね、その人の人となりというか、だから全体像を理解しておいて、必要な時っていうのは何か部分に問題が出た時に
その全体もある程度理解できているから、その部分に対する対処も、今これが痛いって言ってるけど本当はこれなんじゃないみたいなことも見極めやすかったりとかですね
本当にそこが問題だったらそこに対処するみたいなこともできたりするんで、自分はどっちかというと普段から全体感を理解した上で、何か部分に問題が起こった時に対処してみたいな方がいいかなというところですね
もしその全体感を理解できていない状態で、その部分的な悩みを聞いた時も、できれば本当にじっくり時間をかけて全体を理解できるような話をしたりとか
関わり方をしてですね、アプローチしたいところではあるんですけど、限界もあるんで、結局そもそもですね、話をしたとしてもその人の全体ってなかなか理解できないんで、その情報の限界はある中で意思決定しないといけないんですけど
こういうですね、部分と全体についてバランスを考えているというところですかね
これはですね、一対一の関わりだけじゃなくて、一対多数、例えばどこかの地域のとか会社のとか、広く言えばまた国のみたいな方針を考える時でも、科学的な考え方が合うところとか、その先の東洋医学的な全体感
これもまた科学と哲学みたいなところも結構近いところがあるかなと思っていて、科学っていうのは結構部分寄りで、哲学っていうのは全体寄りなところなんで、最近広い地域とか国とか社会とか考えるときは、やっぱり科学的な考え方だけじゃなくて、そういう哲学とか人文系のところも理解しておくとより良いなという感じですね
例えばですね、部分の科学的なとか西洋医学的な考え方で、その一対多数の地域とかそういうところに関わろうと思うと、これも公衆衛生みたいな学問があったりして、予防するためにはとかワクチンに関することとかもありますし
生活習慣病の予防をするとか、認知症の予防をするとか、いっぱいですね、カテゴリーはあるんですけど、その地域における特定の課題があったときに、こういう施策を取ればいいんじゃないかみたいなところは、世界各国で検証されていたりとか、研究されている部分もあるので、地域にそういう取り組みをするときも
科学的な知見を生かしてですね、施策を講じるみたいなのは一定意味があるかなとは思うんですけど、さっき言ったようにその一つの課題、例えばこの地域では高齢化が進んでいて転倒する人が多いんですみたいなことをしたときに、転倒という課題に関してはこういう施策が一番いいんじゃないかみたいなことは部分的に科学的な知見に基づいて取り組むというのは一定意義があるかもしれないですけど
そこから派生してまた別の人とかですね、別の問題につながるみたいなこともやっぱなくはないですし、その全体感、地域で住んでいる人の人口のバランスとか過去の歴史とか文化価値観みたいなところにその施策が本当に合うかどうかっていうと、やっぱり日本で言っても関西とか関東とか九州東北とかそういう地域性もちろんあるでしょうし、
同じ地域の中でも生まれが様々だったりとか、そもそも個人個人がみんな違う存在なんで、一定みんなこれをすればいいみたいなものはなかなか見つかりづらいんですけど、とはいえ人間というかホモサピエンスとして体の基本構造は似てるから、こういう形がいいんじゃないかみたいなことは見つけることはできなくはないんですけど、
結局一体多数のそういう集団に関わるような取り組みするにしても、その部分的なところと全体感のバランス見ながら、西洋医学、東洋医学とか科学、哲学とかですね、こういう対比的に用いられる言葉もありますけど、そこからうまくバランスを取ってやることが必要なんだろうなみたいな感じですね。
なので結局、健康とか考えてもバランス良い食事がいいよねとか、適度な運動がいいよねみたいな感じで、何でもかんでもバランスバランスって言っちゃうと、じゃあどうしたらいいのって結構難しくなるんで、そこではですね、何かビシッと結論的なことを言おうと思うと、科学的なこととか西洋医学的なことは言いやすいんですけど、
何か一番適切な意思決定するときはバランスになっちゃうよねみたいな感じなので、そういうのも考えながらですね、自分の中ではどう人と関わるかとか、情報発信するとかは意識している感じですかね。
そこでですね、何でしょう、そういう中でも、だから科学的なことを考えていくと、それでも100%正解みたいなことはないんで、どんどん情報発信しづらくなっていた時期もあるんですけど、減少学的な考え方というか、主観的なところを重視するような考え方とか、解釈学とかそういうのもあるんですけど、
何でしょう、どんな事実とか状況があったとしても、自分の主観みたいなものは揺るぎないものではあったりすると思うんで、それを発信するのも別に悪くないよねというか、自分なりの解釈、まさに自分の何か意見とか感想みたいなものかもしれないですけど、別にそういうのを表現するっていうのもアートみたいな文脈になるかもしれないですけど、そういうのも別にいいかなと思ってるんで、
最近はですね、結構自分のそういう感性に従ってというか、自分の完全な主観だけども、みたいなことを思いながら発信することもあるんですけど、何をともあれ結構自分自身のこととか、そのセラピスト的な活動とか、それぞれにおいて結構部分と全体のバランスみたいなのが常に考えているところではあるんで、なんとなくの気づきというか、これまで考えてきたことをちょっとまとめて喋ってみました。
以上です。ありがとうございます。