15歳でプロとしてステージに立ちます。 彼が出演していたジャズクラブがビレッジ・バンガード。
日本では遊べる本屋として有名な、 あのごちゃごちゃした雑貨屋の店名の元ネタになったところです。
そこでジャズ界のスター、マイルス・デイビスと出会って、 なんと彼のバンドに誘われます。
まあね、いろんな理由がありまして、マイルス・バンドの在籍っていうのは、 わずか7ヶ月になります。
しかしですね、この脱退後、 マイルス・デイビスがニューアルバムを作るときに、
再びビル・エヴァンスは呼び戻されて、 レコーディングに参加します。
そのアルバムが現在まで世界で一番売れているアルバム、 カインド・オブ・ブルーです。
ちなみにこの時のビル・エヴァンスのギャラが、 64ドル45セントだったそうです。
当時のレートはわかりませんけれども、 世界一売れたアルバムのギャラとしては、 めちゃめちゃ安く感じます。
その後、名前が売れ始めたビル・エヴァンスは、 自分のバンドを組むことになります。
ドラムのポール・モチアン、 ベースのスコット・ラファロン、
エヴァンスのザ・ファースト・トリオと呼ばれるバンドです。 このバンドは自分の音楽に対して、
とてもストイックなエヴァンスが、 長らく追い求めた理想のバンドであり、
2人のメンバーに対しても、 思い入れがとても深いものだったと考えられます。
このトリオの3枚目と4枚目のアルバムは、 ビレッジ・ヴァンガードでのライブ音源を収録したアルバムです。
その演奏内容は、エヴァンスにとって、 とても音楽的に満足のいくものだったようで、
この日のライブで演奏した、 I LOVE YOU POGGYというナンバー。
この曲のテープを聴き直している時に、 おい、聞いたかい?今のスコットのベースを。
まるでオルガンみたいだ。 ものすごく大きな音で、しかも幻想的じゃないか。
こんなスコットを今まで聞いたことがないよ。 とエヴァンスが語っていたと、
後にドラムのポール・モチアンが話しています。 その伝説のライブの収録が、1961年の6月25日。
その11日後の1961年7月6日。
ベーシストのスコット・ラファロが、 交通事故でこの世を去ります。
去年25歳。 エヴァンスにとって予期せぬ突然のお別れでした。
ここで切ないのが、 ラファロが最後にプレイしたのが、
ビル・エヴァンストリオではなくて、 別のバンド、スタンゲッツ・カルテッドだったということ。
当時のエヴァンストリオは、まだまだ無名で、 それに比べて有名だったスタンゲッツ・カルテッドは、
当然ギャラの払いも良くて、 ラファロは生活のためもあって、2つのバンドに在籍していました。
ビレッジ・ヴァンガードでのライブの後、 スタンゲッツ・カルテッドとして、ニューポートジャズフェスティバルという、
今でも続く有名なジャズフェスに、 7月4日まで出演します。
つまり彼の最後のステージに、 エヴァンスはいなかったのです。
スコット・ラファロの死後、エヴァンスはあまりの悲しみに、 しばらくピアノを弾くことができず、悲しみに暮れる日々を送ります。
その様子をメモまで知られる、 ドラムのポール・モチアンはこのように記録しています。
ビルが受けたショックは大変なものだった。 私のメモを見ればわかる。
Nothing. Nothing. Nothing. 毎日何もなかった。
そしてそれが、その年の12月まで続いた。 ビルはまるで幽霊だった。
その後、ビル・エヴァンスは、 スコット・ラファロと共に演奏した、
あの、I Love You, Porgyをソロで演奏するようになったと、 ポール・モチアンは証言しています。
ビルにしか聞こえない、ラファロのベースと 共演していたのかもしれない。
ビル・エヴァンスのスコット・ラファロに対する喪失感は、 計り知れないほど深く、その後何年にもわたり、
埋まることはなかったのです。 そんな失意の真っ最中のビル・エヴァンスが、
ギタリストのジム・ホールと共演し、 1962年4月と5月に収録したアルバムが、
Undercurrentです。 さて、ここまでお話ししたことをもとにして、
豊田先生がどのようにアルバム、Undercurrentから着想を得たのか、 これについて考えてみましょう。